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哀愁の「イクメン」

人生、思い返せば返すほどに、「どうして?」というような「偶然」に出会うことがある。最近、そんな「出会い」を経験した。
我が職場(高等学校)で、各界で活躍する社会人を招いて仕事の話を聞き、生徒の「進路選択」に生かそうという 学校行事があった。
それには40人ほどの社会人を招いたのだが、自分は図書館の司書の方の 担当となり、30人ほどの生徒と共に話を聞く機会をえた。
話のなかで、司書の方が図書館の「郷土室」担当と判明したが、講演後、その司書の女性と「控え室」で話をする時間があった。
実は、その司書が働いておられる「郷土室」に、自分が3年前に出版した本が置かれている。
そのことを伝えたくて、「本のタイトル」をメモして渡すと、司書の方はハットしたように、「この本を図書館に入れたのは私です」とおっしゃる。
博多駅に近いビルの中にある書店で、たまたま見つけて図書館に置こうと思ったのだという。
お互い「ここで会えるなんて!」と感嘆する他はなかった。
さすがにこれほどの偶然は滅多にないが、自分が原稿を書くきっかけは、大概はちょっとした「偶然」からである。
ある資料と出会うと、過去に見聞きした「よく似た」資料との関連づけが生じて、ついまとめてみたくなるからだ。この稿「哀愁のイクメン」を書こうと思ったのも、TVで藤沢周平の「子育て記」を見た翌日に、職場でチャップリン映画「キッド」を見たという小さな「偶然」からである。

チャップリンの初期の作品「キッド」は、サイレント映画なので、台詞は当然なく、2~3行の字幕が少々つく程度のもの。
その分ちょっとした仕草やシーンが実に見事にできていて、充分に登場人物の心が伝わってくる。つまりチャップリン映画の「原点」そのものだ。
冒頭、慈善病院みたいなところから子供を抱いて出てきた女性、彼女に向けられた看護婦さんの嘲笑、そのたった一瞬の表情で女性の境遇が一発でわかる。
場面が切り替わって、絵描きが一枚の写真を燃やしている。その写真に写っているのが例の女性で、このたった2つのシーンで、男女関係の破綻が観客に伝わる。
女性は、赤ん坊を泣く泣く置き去りにするが、色々ごたごたがあって、そこへチャップリン登場。
捨てられた赤ん坊を拾い上げたものの、拾っても自分が困ると思いもう一度捨てようとしたところにおまわりさんが出現し、慌てて拾うチャップリン。
なんとかして赤ん坊を置いて帰ろうとしたものの、結局うらぶれたアパートの自室に連れて帰ってきてしまう。
自分のシャツを切っておしめを作ったり、吊るした布の上に赤ん坊を乗せ、天井からポットみたいなものを吊るしてミルクを飲ませなどチャップリンの奮闘振りは観ていて、微笑ましくも哀しい。
「5年後」の字幕の後、いよいよ映画史上ベスト・ワンの子役かもしれない「ジャッキー・クーガン」君が登場する。
帽子のかぶり方、大きめセーター、ポケットの手の突っ込み方まで、どこからどうみても可愛いすぎる。
この子役が成人して「アダムズ・ファミリー」のフレディ役を演じるなど、知らない人なら誰が信じようか。
とにもかくにも奇妙な「疑似親子」(?)が、二人で「ある商売」をはじめる。
キッドが石をぶつけてガラスを割り、ガラス屋に扮したチャップリンがひょっこり現れて修繕やりまというもの。ところが「キッドが石を窓に投げようとしたところをおまわりさんに見つかってしまう。
チャップリンを見かけて、キッドは喜んでチャップリンにしがみつく。「仲間」だと思われたら終わりなので、チャップリンはキッドを足で払いのける。
またキッドが近所の体の大きな子供と喧嘩をするが、動きが早いキッドは何度も相手をうちまかす。チャップリンもまんざらではない様子。
そこにやられた子供の“兄貴”登場するが、チャップリンもたじろぐほどの強面(こわもて)。子供の格闘が始まると兄貴に「お前の子供がもし勝ったらお前を殺す」と脅されてしまう。
何も知らないキッドはコテンパンに相手をやっつけてしまう。
チャップリンは自分がやられてはたまらないと、キッドを足で地面に押さえつけて、泣いている相手の子供の手を挙げて、相手が勝ったように見せかける。
そうこうするうちに、チャップリンとキッドが通常の親子か、それ以上の「絆」で結ばれていくことが伝わってくる。
ところで、赤ん坊(キッド)を捨てた女性は、今やオペラ歌手として大成功しているが、片時も子供のことを忘れたことはなかった。
その代償なのか、たくさんの玩具を持っては貧しい家の子供達にプレゼントを届けていた。
街角でキッドと出会い話はするものの、女性も、キッドもお互いが実の親子だなどとわかりようもない。
ある時、キッドが病気にかかると、チャップリンの下では適切な養育が無理ということで、役所の人がキッドを引き取りにくる。それに激しく抵抗するチャップリンであったが、抵抗空しくキッドは車に乗せられていく。
しかしその結果はキチと出る。キッドはあのオペラ歌手(実の母親)のもとへと引きとられ、ハッピー・エンド。
表情や動作だけの映画で、これだけのものを伝えるチャップリンそして子役のクーガン君。ともに「天才」というべき存在なのだろう。

チャップリンの映画「キッド」を見ながら、前日にNHK/BSで放映された「藤沢周平のイクメン時代」を思い出した。藤沢父娘の姿が、この映画の二人と重なってしまったからだ。
藤沢周平(1927~97)は、「蟬(せみ)しぐれ」「たそがれ清兵衛」など哀歓響く作風で知られ、「駄作がない」とも評される作家である。
ドラマは、娘の遠藤展子さんのエッセーを元に構成されたもので、没後20年の節目に、藤沢修平の作家デビュー前後の13年間にわたって胸の内をつづった手帳とノートの内容を公開した。
1冊の黒い手帳で始まり、ノートが3冊。遠藤さんが生まれた63年から76年にかけて藤沢が記した。娘の遠藤さんは、若き日の父親と手記を通じて出会った感じなのだろう。
藤沢にとって何よりの悲痛は、業界紙の記者をしながら作家の夢を共に追いかけていた妻悦子さんが、遠藤さんが生まれて8カ月後28歳の若さで他界してしまったことである。
藤沢は、妻を亡くして20日余りの日に、「波のように淋(さび)しさが押し寄せる。狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならぬ」と綴っている。
娘も、「書き続けていたから、あの苦しいときを父は乗り越えられたのだとて思う」と語る。
藤沢は1973年に「暗殺の年輪」で悲願の直木賞を受けるが、その頃「徹底して美文を削り落とす作業にかかろう」と書き、自己抑制によって虚飾を排していこうという真摯な姿が見えてくる。
藤沢は、山形県東田川郡黄金村(現在の鶴岡市高坂)生まれであるが、藤沢が生まれ育った庄内地方の情景が作品の中で欠かせない。
実家は農家で、藤沢自身も幼少期から家の手伝いを通して農作業に関わり、この経験から後年農村を舞台にした小説や農業をめぐる随筆を多く発表する。
小学校時代からあらゆる小説、雑誌の類を濫読し、登下校の最中にも書物を手放さず、6年生の頃には時代物の小説を書いたりしていたという。
山形県立鶴岡中学校(現在の鶴岡南高校)夜間部入学。昼間は印刷会社や村役場書記補として働いた。
18歳の時に終戦を迎えるが、翌年には山形師範学校(現在の山形大学)にすすみ、入学後はもっぱら文芸に親しみ、校内の同人雑誌に参加したりもしている。
この時期の思いでは自伝「半生の記」に詳しく記されており、また小説作品にしばしば登場する剣術道場同門の友情などにも形を変えて描かれている。
1949年、山形師範学校を卒業後、湯田川中学校へ赴任し、国語と社会を担当した。
教え子たちからも「体格がよく、スポーツマンで、色白で二枚目の素敵な先生」と慕われたものの、集団検診で当時不治の病とされた肺結核が発見され、休職を余儀なくされる。
1952年2月、現在の東京都東村山市の篠田病院に入院し、右肺上葉切除の大手術を受けた。
予後は順調で、篠田病院内の句会に参加し、静岡県の俳誌『海坂』に投稿をおこなうようになる。
この時期に大いに読書に励み、ことに海外小説に親しみ、作家生活の素地が完成されたといえる。
1959年、8歳年下の同郷者であった悦子さんと結婚し、「日本食品加工新聞」の記者となるも、そのかたわら文学への情熱やみがたく、勤務のかたわらこつこつと小説を書きつづけていた。
1963年、長女・展子が生まれるがごとく、前述の同年10月に妻・悦子が急性の癌により急死する悲劇に見舞われる。
このことに強い衝撃を受け、同市内で引っ越しをしつつ、やり場のない虚無感をなだめるために時代小説の筆を執るようになる。
妻の没後は、郷里から呼び寄せた母、長女との三人暮らしとなり、目の悪い母を看病しつつ「育児」を行い、編集長の激務の傍ら5年独身で過ごす。
藤沢は妻を病いで失い、乳呑み児を抱えて、さぞや途方に暮れたことであったろう。それが個人的には、チャップリンの「キッド」の悪戦苦闘ぶりと重なったのだが、藤沢にはそうした状態からの「救済」を願うような作品がある。
1975年作品の「意気地なし」における、主人公の伊作は、「イクメン時代」の藤沢自身の自画像なのではあるまいか。
同じ長屋に住む伊作は年の頃は二十七、八で、十日ほど前女房を亡くし、乳呑児を抱えて途方に暮れている。
そうでなくとも伊作の優しく、もの哀しげな眼が今にも泣き出しそうに見える。腕の良い蒔絵師だというが、おてつには若いのに何となくじじくさいだけの男に見える。
だが子供が可哀そうだった。まだ乳離れしていない女の子は、ひがな一日泣きわめいている。乳は同じ長屋の子を産んだばかりの女房から、貰い乳をしてしのいでいるが、伊作は満足におしめを取り替えることも出来ない。
おてつには大工の兄の兄弟子だった、作次という婚約者がいる。作次は姿がいなせで男らしく引き緊った顔をしている。
おてつは、赤ん坊の泣き声が少しでもすると、気になって飛んでいくようになり、時折赤ん坊が見せる笑顔と機嫌の良い笑い声にたまらなく愛おしさを感じていく。
作次との休日の出会いの最中にも、赤ん坊のことが気になって落ち着かない。そして作次のそのことの反応に、微かな違和感がよぎる。
結局、おてつは男らしく見栄えの良い作次よりも、赤ん坊の「おけい」と、その塩たれた父との生活を選ぶことを決意する。
さて藤沢は実生活において、再婚話は中々まとまらなかったが、1969年、高澤和子と再婚する。
長女とあわせて三人家族となり、疲労困憊していた家事から解放され、週末は小説執筆に専念できるようになった。
1970年に東久留米市に引っ越しをし、1972年『暗殺の年輪』で直木賞を受賞、新進の時代小説作家として認められるようになる。
1974年には日本食品経済社を退社して、本格的な作家生活に入る。
しかし、1995年頃より、若いころの結核手術の際の輸血に際し罹患した肝炎により、入退院をくりかえし、1997年1月26日、肝不全のため国立国際医療センターで逝去(69歳没)。

藤沢周平の「イクメン時代」を見て、NHK「プロジェクトX」でみた、瀬戸大橋を架けた伝説の技術者・杉田秀夫の「子育て」奮闘の姿を想いうかべた。
1955年、国鉄の連絡船「紫雲丸」が海に沈み、修学旅行の小中学生100人の命が消えた。
「橋さえあれば」、多くの人々が悲しみに打ちひしがれ、四国と本州を結ぶ「夢の架け橋」は、四国400万人の悲願となった。
1988年、本州と四国を結ぶこの大動脈が完成した。その33年前の全長9・4キロメートルの瀬戸大橋。大小五つの島を六つの橋で結ぶ、瀬戸内海に最初に架かった大橋である。
橋を作るための公団である「本州四国連絡橋公団」ができ、そのリーダーとなったが香川県丸亀市出身の杉田秀夫という人物である。
本四公団への出向という中途半端な状態ではこの難工事は完遂出来ないとし、本四公団に転籍し、通常3年間で転勤になる現場所長に10年勤務し、「瀬戸大橋」を完成させた。
杉田の指揮下に入る工事関係者は5000人いた。その所長となれば、社用車が用意され、スーツ姿での出勤が当たり前であったが、杉田は仕事をやり遂げるには体力がいると自転車通勤を始めた。
服装は作業服の上下に、ごつい工事靴、ネクタイもせず、髪は角刈り、飾り気などまるでない男だった。
杉田は、海底の地理地形を調べるため、自らウエットスーツに着替えて、所長自ら海に飛び込んだ。その日のために、潜水士の資格を取り、訓練を重ねてきたのである。
杉田は一切強制しなかったが、その姿に若手社員たちは強く魅せられ、同じように潜水士の資格を取り、自転車で通勤した。
海中工事のためには、海底を爆破し、地均しをしなければならなかった。爆破調査の結果、魚場に及ぼす影響が分かった。
杉田は都合のいいデータを作り上げるどころか、そのデータを漁師たちにすべて公開した。「隠す」などという思考は一片もなかった。
怒った漁師たちから、罵声を浴びせられ、むなぐらを掴まれた。杉田は穏やかに説明し、工事への協力を呼びかけた。やがて漁師たちは杉田の人柄に惚れ込み、酒席の輪が出来た。
工事の最中、杉田は思いがけない窮地に立たされた。13歳年下の妻・和美が末期の胃がんと宣告されたのである。まだ幼い三人の娘がいた。
そのことを杉田は部下たちに一言も語らなかった。毎晩仕事を終えると妻の病室に泊まり込み、身の回りから下の世話までし、自分は床にマットを敷いて身体を横たえた。
しかし、いつもと変わらず黙々と働く杉田がいた。娘たち3人の弁当をつくり、洗濯をして3人を起こして朝ご飯を食べさせて8時半に出勤していた。
仕事が終わるとスーパーに買い物によっておかずを買って、自宅に帰ってアイロンをかけたり娘たちの勉強を教えたりと、月曜日から土曜日までの1日の睡眠時間は3時間程度だったという。
瀬戸大橋は様々な難関を超え1988年4月、延べ900万人が10年の歳月をかけた夢の懸け橋が誕生した。だがそこに杉田の姿はなかった。
その年の12月24日のクリスマスイブの日に妻の和美が34歳の若さで亡くなった。
杉田にはその後、再婚の話も何度かあったがすべて断っている。
瀬戸大橋の建設後、杉田が選んだ人生は三人の娘を育てることだった。長女は中学二年、下二人の娘はまだ小学生だった。1993年娘達に囲まれ62年の生涯を終えた。
母校県立丸亀高校での講演に際し、「橋を作る経験が人より余計にあったからといって、これは人生の価値とは全く別のことなんです。人生の価値とは何か、瀬戸大橋を作るより遥かに難しい問題です」と語っている。武骨な男にはあまりに不似合な「乳飲み子」との格闘、その払い難い「哀感」こそが、創作や行動力の原動力になるのかもしれない。

杉田秀夫は、片道40分の道のりを自転車で通勤した。工事再開に備えてのトレーニングだったという。
瀬戸大橋の必要性を500回もの説明会の中で、現地の漁師達に語るうち「人々の輪」が出来始めた。
しかしソノ矢先、妻が突然末期癌に侵された。妻にも会社にも家族にも病名は伏せていた。
毎晩、仕事が終えると妻の病室に泊まり込み、点滴から下の世話までし床にマットを敷いて寝た。
朝は妻の洗濯ものを家に持ち帰って洗い、子供達の食事の準備をし、新しい着替えを病院に届けてから出勤した。
例えば、最近NHK・BSで「藤沢周平のイクメン時代」を見た。その翌日に、職場の「芸術鑑賞」の時間に、チャップリン映画「キッド」(1921年)を見る機会をえた。
すると藤沢周平の娘への気持ちとチャップリンの「キッド」に対する心情に「似たもの」を見出したりする。
さらには、NHK「プロジェクトX」で、瀬戸大橋を架けた伝説の技術者・杉田秀夫の「子育て」奮闘の姿を想起させられた。