東京「花散る」場所

東京の羽田空港から都心(品川方面)に向かう京浜急行の「大森町駅」から出発すると、線路沿いに建つ「大森貝塚跡」の石碑が目につく。
そこで大森町駅を降りて線路にそって「大森貝塚縄文庭園」に向かうと、盛土が壁のように囲む廃墟のような場所があり、その中に発見者モースの胸像が建っていた。実際モースは、日本考古学の先駆けとなるこの場所を列車の窓から見つけたのだという。
また「大森海岸駅」に停車した際、列車の窓から「大経寺」という寺がみえるが、ソコにどうにも気になることが書いてある。「鈴が森刑場跡大経寺」。
その場所は、駅で降りてすぐ第一京浜道路を渡ったところにあった。
ところで、江戸時代に刑場といえば、北の浅草・南の芝、二か所にもうけられていた。
しかし、幕府成立から半世紀がたち人口も増え、刑場付近まで人家が建ち並ぶようになり、ヨリ人目のつかないところに移されることになった。この時、浅草から千住に移されたのが北の「小塚原」で、芝から移されたのが南の「鈴が森」だった。
そして、大森という地名から見て「鈴が森」もそれに含まれているのだろう。
1683年3月29日、江戸・鈴ヶ森刑場にて「お七」という女性が火あぶりの刑に処せられた。
江戸の駒込の八百屋の娘お七は、天和の大火(1682年12月の)で焼け出され、一家で菩提寺の円乗寺へ避難したが、そこでイケメンの小姓と出会う。
その小姓の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁になり、相思相愛の仲になってゆく。
翌年正月新しい自宅にお七一家は戻るが、お七はその小姓のことが忘れられずに悶々とし、火事になればまた会えると思い込み、自宅に放火をする。
ただし、火をつけたものの怖くなり、自ら火の見櫓に登って半鐘を叩きその結果、実害のないボヤで消し止められた。
しかし、お七の生まれる10年前には明暦の大火(振袖火事)がおきたため、放火は「大罪」であった。
そんな時、お七は放火の罪で捕らえられ、取り調べの奉行がその若さを憐れんで、年少者は罪一等を減じるという気持ちで、お七に「その方は十五であろう」と何度も念をおすが、よほどのオバカか正直者か、お七は「十六」と正直に答えるばかりで、ついには鈴が森の刑場で火あぶりの刑にされた。
この物語をモトに、つくられた曲が坂本冬実の「夜桜お七」(1994年)である。
作詞家の林あまりさんは、人生をつき歩む夜桜お七のちょっとしたツマヅキを「赤い鼻緒がぷつりと切れた」と表現した。
誰も彼も去っていく究極の孤独にあっても、夜桜のように潔く散ろうという一人の女性の姿を描いたのだという。
また、自分の行く道を自己の意志で歩もうとする現代女性の姿をお七に仮託したと語っている。
ところで、この「八百屋お七」の物語は、恋のための一途な行動に走ったために、わずか十六歳の少女でありながら火あぶりという極刑に処せられたことから江戸庶民の同情をかい、井原西鶴の「好色五人女」や浄瑠璃「八百屋お七」・歌舞伎「お七歌祭文」などで広く知られるようになった。
鈴が森の刑場跡スグ近くに小学校があるが、この学校の校歌はどんなものだろうかと少々気になった。
鈴が森で特筆すべきは、江戸幕府は士農工商の身分制度を維持していくためには、絶対であるお上の役人が事件を解決できないということは許されないということだった。
まず犯人に仕立て上げられたのは、決まった家をもたない「無宿人」たちだった。
彼らは、すべての犯罪に対して罪人をあげなければならいという事情だけで、無実の罪で殺されていった。事実、そういう受刑者が全体の4割ほどもいたといわれている。
なお「鈴が森刑場跡地」には、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されている。

京浜急行空港線で「大森町駅」から三駅で「大鳥居駅」につく。大鳥居駅は、4人組みバンド「SEKAINO OWARI」のゆかりの地である。
彼らの「原点」となるクラブハウス「クラブ アース」があり、今も存在している。
Fukaseが音楽活動を始めたころ、仲間の集まることのできる拠点を作るために土地を探し、見つけた地下空間に自分達で作業をして作ったのが始まり。
4人は東京大田区蒲田出身で、幼稚園から高校まで友人だった。唯一の女性で、ピアノをひく藤瀬彩織は1年後輩で音楽大学出身である。
ボーカルのFukaseは本名深瀬慧(ふかせ さとし)。高校中退後アメリカに2年留学する予定で、アメリカン・スクールに通ったが、言語や生活習慣などの違いから2週間でパニック障害になり、帰国後しばらく精神科の治療を受けていた時期があった。
その薬の副作用で絶望的な状況にあった時に音楽を始めたという。
バンド名「SEKAINO OWARI」 は、「自分にとって世界が終わったような生活を送っていた頃に、残されていたのが音楽と今の仲間だったので、終わりから始めてみよう」という想いを込めてつけたという。
彼らの大ヒット曲「ドランゴンナイト」の歌詞が気になったのは、2014年「NHK紅白歌合戦]に初出場しさいに見せた、ボーカルのFukaseが背負う大きな旗とトランシーバーマイク。
まず旗は、デザインは赤のラインが上下にあり、真ん中の白いラインの上に「ドラゴン」が書いており、その周りに円でてっぺんが炎、その下が星、そして葉っぱのリーフがある。
Fukaseは、2013年のアリーナツアーの後の打ち上げで骨折をした。
その時、曲「RPG」のPVの収録中だったので松葉杖の代わりに杖を持ったのがきっかけで、そのうち、旗をもつようになった。
トランシーバー型のマイクも奇妙だが、結構サマになっていて、声をこもらせる効果を生んでいる。
こういうイデタチで歌う「ドラゴンナイト」は、見るものにとって衝撃を与え「ドラゲナイ現象」までおこしている。
さてその「ドラゴンナイト」の歌詞は、「今宵僕たちは友達のように踊るんだ」という歌詞からすれば、ファンタジーのようにも聞こえる一方、「正義」とか「手段が目的になる」といった歌詞からして、何がいいたのかよくわからない。
歌詞の中の「ムーンライト」「スターリースカイ」「ファイヤーバード」の意味を調べると、意外な内容を示すものだった。
「ムーンライト」→ムッソリーニ、「スターリースカイ」→スターリン、「ファイヤーバード」(火の鳥からヒトラーを連想)というように世界史上の「独裁者」に置き換えられた歌詞なのだという。
この曲を作ったきっかけを、深瀬は「クリスマス休戦」であったといっている。
「クリスマス休戦」は第一次世界大戦中の1914年12月24日に、ドイツ軍とイギリス軍が一時停戦したといわれている出来事で、Fukaseは、いったんニュートラルに戻ってみればそんなに争うものでもないのかもしれないという意味も込めてと曲に込めた思いを語っている。
クリスマスで休戦できるくらいの戦いなら止めることだってできるはずなのにという思いは共感できる。
さて彼らが活動の拠点とした「大鳥居」の地名の由来は 駅近くの羽田の「穴守稲荷」の鳥居に由来する。
終戦後、アメリカ側は羽田付近の住民を強制退去させ、重機を使って街を更地にした。しかし穴守稲荷の一の鳥居だけは残っていた。
鳥居の移転が何度も取り沙汰されたが、羽田沖日航機墜落事故などの事故がおきたため沙汰やみとなった。
1999年、滑走路拡張に伴い鳥居が一度は多摩川河口に移されたものの、住民の願いからかヤハリこの地(弁天橋交番前)に戻ってきている。
鳥居の「平和」の額縁は命の花散らした者達への鎮魂である。
というわけで、セカオワ誕生の地は、東京で有数のパワースポットの地なのである。

NHK大河ドラマ一号の「花の生涯」(1963年)は、舟橋聖一原作で井伊直弼の花のように散った生涯描いたものであるが、その放送は愛宕山から内幸町に移ったNHK放送局から放映されたものである。
面白いのは、桜田門外で井伊直弼の暗殺が行われた際に、志士たちが集結し成功を祈願したのが愛宕山だったからだ。
東京虎ノ門と芝の間辺りにある都心の愛宕山は、海抜26メートルは都内随一の高さを誇り、「桜」と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残している。
今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができたという。
ここにまつられている「愛宕神社」は、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建された。
寛永十一年三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩のが騎馬にて正面男坂(86段)を駆け上り、日本一の馬術の名人として名を馳せ、「出世の石段」の名も全国に広まった。
明治元年には勝海舟が西郷隆盛を誘い山上で江戸市中を見回しながら会談し、江戸城無血開城へと導いた。
1868年3月13・14日、官軍代表西郷隆盛と旧幕府代表勝海舟は官軍による江戸城総攻撃について会談する。その折、この愛宕山に登って江戸の町を見渡し、江戸を火の海にすることの無益さを悟ったと伝えられている。
日本で放送が始まったのは、1925年(大正14年)3月22日。当初は東京・芝浦の仮放送所からラジオ放送が行われていたが、同年7月には愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は“放送のふるさと”と呼ばれるようになった。
現在は、愛宕神社の隣接した地にNHK放送博物館が立っている。 1936年の226事件の際には放送局が襲われるかもしれないということで、騎兵隊に警護されるといった出来事もあった。
決起軍たちは自分たちが起爆剤となり、捨石になることで、日本中の軍隊が後につづき、農民たちが武器をもって立ち上がる一揆を期待してたため、彼らが放送局まで占拠していたら、実際にちがった展開が生まれていたかもしれない。
愛宕山からの放送は、1939年に東京・内幸町の放送会館に移転するまで14年余り続き、内幸町から現在の渋谷区神南のワシントンハイツ跡に移ったのは、1964年である。
ちなみに226事件の決起将校の処刑場は、桜で有名な代々木公園にちかいNHK放送局102スタジオあたりなのだそうだ。
さて1945年8月14日「ポツダム宣言」をうけ、翌日、昭和天皇は詔書を朗読してレコード盤に録音させ、15日正午よりNHKラジオ第一放送放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。
この「玉音放送」は法制上の効力を特に持つものではないが、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていたと言える。
だが、鈴木貫太郎以下による御前会議の後も陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、クーデターを意図し放送用の録音盤を実力で奪取しようとする動きがあったが、失敗に終わっている(宮城事件)。
また、1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾し連合国に降伏することが「玉音放送」によって発表されると、降伏に反対する右翼団体のメンバー12名が愛宕山に篭城するという事件が起こった。
彼らは、抗戦派軍人の決起を期待し、これに呼応するため日本刀や拳銃、手榴弾等で武装していたのである。
これを知った警視庁では約70名の警官隊を動員し、愛宕山を包囲、投降を呼びかけた。
しかし、説得を拒否し立て篭り続けたため、22日午後6時頃、警官隊が発砲し突入、追いつめられた飯島らは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられている。

作家の森村誠一は、ホテルマンとして東京紀尾井町のニューオータニに勤務していたが、そのニューオータニのすぐ近くの清水谷公園は、森村氏の代表作「人間の証明」の犯行現場として設定されている。
しかし、この場所は「実際の」犯行現場でもあるのだ。そこには、「大久保利通殉難碑」が立っている。
大久保利通は、1878年この辺りを馬車で通行中に刺客に襲われて暗殺されている。
実は清水谷公園は、明治の元勲のトップ大久保利通を祀るいわば「聖地」として公園化されたものである。
ところで明治の大事件といえば、岩倉遣外使節団の留守中、西郷隆盛らを中心に「征韓論」を決定したが、大久保利通らはイソギ帰国し「内地優先」を主張して決裂し、西郷隆盛らが下野した事件、つまり「明治六年の政変」である。
それが1877年西南の役に繋がるのだが、その3年前にあった江藤新平の「佐賀の乱」は西南の役に隠れてあまり目立たない。
岩倉使節団が外遊する間、初代の「司法卿」に就任したのが江藤新平である。
江藤は国政の基本方針、教育・司法制度など、明治国家の法体制構築に多大の実績を残した。
学制の基礎固め、四民平等、警察制度の整備など推進し、司法制度に多大の貢献をした。
その実績からすれば、「内務省」を握る大久保利通と「司法省」を握る江藤新平は、「両雄」といってよいくらいの存在であったのだ。
江藤は、三権のうち「司法権の自立」をとりわけ重視したために、「司法権=行政権」と考える政府内保守派から激しく非難された。
そしてこれこそが、これが大久保と江藤の確執のポイントだったのである。
江藤は人権意識や正義意識の高さでは、閣僚の中でも群をぬいており、決して無視できなかったのが長州藩閥の汚職事件(山城屋事件および尾去沢銅山事件)であった。
薩摩の大久保は、長州の伊藤博文らと「薩長藩閥」を形成しており、こうした汚職問題を追及していた江藤をめのかたきにしていたのである。
というわけで実は、明治六年の政変の「核心」の一つはこの「江藤の放逐」にあったのだ。
江藤が下野すると、佐賀藩(肥前)ではすでに旧士族の不満が高まっており、江藤をかついでして反政府の急先鋒となっていく。
しかし蜂起はするものの、佐賀における反政府軍の軍備は不足しており、わずか2週間で鎮圧された。
そして江藤は、自らが整備した警察の「写真手配制度」によって逮捕される。
江藤は法にのとって東京での裁判を求めたが、大久保はそれを無視して佐賀裁判所のみで裁判を強行し、ただちに刑が執行された。
しかもこの裁判では、江戸時代の刑法が適用されて、江藤は刑場から4キロ離れた千人塚にその首がさらされた。それは大久保の江藤に対する個人的憎悪も多分に含まれたような残虐さであった。
そして1878年5月、大久保利通は自宅を出て馬車の乗って太政官に向かう途中、6人の刺客に襲われ、大久保は全身に刀をあびて倒れた。
刺客は、石川県士族らで、政治は天皇陛下の御心によるものではなく、一般人民の公議によるものではないということを「斬姦状」の中で語っている。
大久保利光が暗殺された場所こそが清水谷公園だが、江藤新平が整備しようとした「司法権」の中心的な存在「行政裁判所」が建てられることになる。
行政裁判所は1890年、司法が行政の違法を裁く特別裁判所として設立されたが、戦後の憲法では裁判所が一本化されたためになくなったものの、1948年~71年まで司法研修所が置かれた。
大久保の江藤に対する勝利は、日本における行政権の司法権に対する優位を確定したといってよい。
だが、この大久保暗殺の地が、江藤新平がチカラを尽くした司法権のひとつの拠点となるのは、皮肉なめぐりである。
紀尾井町一帯は、春になると清水谷公園から上智大学のグラウンドのあるお濠の土手まで、桜が満開となる。