「忖度」の両方向性

7月17日、Jリーグ通算379試合の出場歴を誇る浦和レッズ一筋のMF鈴木啓太の引退試合が、埼玉スタジアムで行われた。
現役時代は泥臭く守備をし、チームのために走る献身的なプレーが持ち味だった。しかし、この日はボランチとしての本来の仕事以上に、主役として2アシスト2ゴールという見せ場があった。
そんな鈴木の試合後の会見で、「僕に点を取らせてくれるために多くの忖度があったようにも感じました」と語り、笑いを誘った。
今はやりの「忖度(そんたく)」という言葉は、流行語になった感がある。
自分の中でも、「忖度」は日本人が持つ協調的な文化の「重要因子」として浮き上っている。
それは、長い歴史を通じて日本人に刷り込まれた、「他人の意をはかって物事を進めていく」行きかたの因子といえる。
ただ「忖度」という言葉には、「相互協調」よりも「上意下達」の特異な在り様として表れるようだ。
組織の中の下位者が、上位者の指示・命令を受けることもなく、その意思さえも確認することもせず、それを推察することにより、上位者の意向に沿うように行動することである。
「先走りの服従」ともいえるが、忖度が「特異」なのは、する側にとってそれほど意識されることもなく、される側にもわからないことさえありうるということだ。
したがって、その「空気」の伝達のごとき実体を誰も証明(具象化)できないという「特異性」がある。
最近の出来事の文脈では、「総理の御意向」などと相まって、「忖度」はマイナスイメージがつきまとうが、1980年代の日米構造協議の時代に、「談合」は伝統的知恵か「悪弊」ととらえるかが、議論になったことを思い浮かべる。
だが、相手の気持ちを推し量る「忖度」が本来悪習であるはずがない。それは、聖書にある「あなたがして欲しいと思うことを、人にしなさい」というイエスの語った黄金律にも通じる言葉である。
最近新聞に、武者小路千家家元後嗣にあたる千宗屋氏が、「茶の世界」から忖度の「価値」を解き明かしていた。
千氏によれば、相手のことを推し量る忖度は、本来、日本人の美徳で、ひだのある深い心遣いである。
門外漢の自分にとって意外だったのは、茶の湯は、「忖度の連続」なのだという。
言葉をことさら使わずとも、互いに心を推し量り合う世界である。
江戸後期の松江藩主で松平不昧(ふまい)という茶人に、「客の心になりて亭主せよ、亭主の心になりて客いたせ」という言葉がある。
お互いに相手の立場に立ち、自分がされてうれしいことをしよう、と。それがお茶の極意だという。
千氏は、それについて千利休にまつわる逸話を紹介している。
高名な茶人、津田宗及が雪の夜、急に訪ねてきたときのこと。談笑していると、裏口で物音がして利休が席を立った。
亭主として家の者にわざわざ名水をくみに行かせていたのだ。
そこで宗及は、棚から炭斗(すみとり)を出して炉の火を直した。そこに利休が水の入った釜を持って戻ってくる。
本当は自分が整えるはずの火が整っている。利休は釜をかけるだけでよい。
ここで、宗及が「では火を直しておきましょう」などと、「好意の押しつけ」になりかねないような野暮な言葉を発しない。
ただおもむろに、「あなたほどの茶人を迎えてこそ湯を沸かし茶をたてるかいがあります」と述べた。
あえて言葉に出さず、気を働かすこのやりとりで、互いの心が「ぴたっ」と合うところに茶の極意があるという。
「お茶」には型があるといっても、型どおりがよいとも限らず、マニュアル化できない、高度な頭脳戦、駆け引きがある のだという。
こうして気配を察するとか行間を読むとか、表れたことの間に潜んでいるものに本当の価値を見いだす、日本人な根源的な価値観が育まれていく。
日つまり、「忖度」ということは、日本人の文化観、自然観、宗教観を貫いている感覚を下地に生まれた言葉なのである。
また、お茶の世界に上下関係はなく、亭主と客、そして客の間でも、お茶の前では平等。年齢差や社会的な立場にこだわると、推し量り合いはなくなる。
それは忖度ではなく、一方的な「おもねり」となり果てるからだ。

日本人的な美徳である「忖度」が、森友問題や加計問題といった政治的ヤリトリで負のイメージを漂わせているのは、その「両方向性」を示すものである。
そもそも、行政において「忖度」があったかどうかを調査することには自己矛盾がある。
文書が出たにせよ、忖度があったかどうかは「推測」の域を出ることは出来ないからだ。
「森友学園」の件では、財務省理財局、近畿財務局、大阪府等の職員の「忖度」が問題にされているが、彼らは、まず直接的には、それぞれの組織のトップないし幹部の意向を「忖度」する。さらに、そのトップないし幹部の意向が、「『安倍首相の意向』に沿う意向」であろうと「忖度」しているのではないかというのである。
つまり、「忖度」が何重にも積み重がなっているので、それが「行政」を歪めた部分があったとしても、その意思の出所さえ把握できない事態が生じている。
また、加計学園の獣医学部新設を巡り、文部科学省の職員の告発で、政府は「総理のご意向」を記した文書の存在を認めざるを得なくなった。
しかし、文書が見つかって「行政の歪み」が明らかになったにせよ、誰がどう法的な責任を負うかまで明らかにすることは、ほぼ不可能に近い。
こうした事件の背景には、ピラミッド型「官僚組織」の中で、役人が生き残り、昇進していくためにワキマエておかなければならない「必須の能力」として「忖度」が存在しているということがある。
「忖度」は、官僚が、その「裁量の範囲」で、上位者の意向に最も沿う対応をするものである。裁量を逸脱する違法・不当な行為は、後々、それが指摘されれば、処分等のリスクにつながるため、意図的には行わない。
「忖度」は、上位者に報告や指示・命令を仰ぐことなく行うのであるから、違法・不当な行為のリスクは、すべて「下位者」が負うことになるからだ。
「忖度」で行う範囲は、裁量権の及ぶ範囲内で、最も上位者の意向に近いもの、ということになる。
官僚の世界で、高い評価を得るのは、違法・不当ではない「裁量」の範囲での方針決定について、上位者に方針を確認したり、判断を仰いだりせず、その意向を「忖度」して動ける人間である。
上位者にとっては、そういう人物こそ、上位者の意向・方針を、上位者の手を煩わせることなく実行してくれるので、大変好都合なのである。
上位者にとって、リスクを最小化できるという面でもメリットがある。
そういう人物が「能力の高い官僚」と評価され、いちいち上位者の意向を確認しなければ対応できない人間は「使えない」と評価されるのである。
昔から「忖度」はあるにせよ、ことさらにこの言葉が注目される背景には、官僚の世界が、内閣人事局に各省庁の幹部人事権が握られ、それを動かす国会は与党が圧倒的多数、その与党の党内も、小選挙区制のために、公認候補の決定権を持つ「党幹部」に権力が集中しているという状況がある「安倍一強」ということにある。

歴史上において、「忖度」を思いつくいくつかの場面がある。
1702年(元禄15年)12月14日は、大石内蔵助以下47人の赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君浅野内匠頭の遺恨をはらし見事本懐を遂げた日である。
実は、アメリカ遊学中のこと、カリフォルニア・バークレーの映画館で「赤穂浪士」の映画を見たことがあるが、映画をみているアメリカ人の反応が面白かった。
討ち入りに先立ち浪士の一人が、吉良家の隣家を訪れて語った。
「ただいまより討ち入りを果たす。しばらく御迷惑をおかけする」と言った場面に笑いがおこったのである。
討ち入りなどというものは、ふつう極秘にやるもので、官憲(この場合幕府)に知られてはまずい、そんなことを申し出ることの奇妙さと、わざわざ隣家にことわりをいれるといった律儀さが笑いをさそったのであろう。
しかし、実はこの討ち入りは江戸市民がひそかに今か今かと期待していたものであった。
当時つまり江戸元禄の時代、徳川綱吉下の柳沢吉保による幕府政治に不満をもつ人々が多く、幕府の御法度を破ることにもなる赤穂浪士の討ち入りは、霧がはれたような爽快感を人々に与えたのである。
つまり江戸市民の密かなる支持のもとに打ち入りがおこなわれたのであり、討ち入りに際して隣家にわざわざことわりをいれるというのも、そうした時代背景があったためである。
さて、この出来事における「忖度」因子を探してみよう。
浅野内匠頭が城中で吉良上野介(こうずけのすけ)に抜刀したことが始まりである。殿中での抜刀がご法度であることは誰もが知っている常識で、もちろん浅野も知らなかったわけはない。
では、なぜ抜刀したのかというと、じつは誰もわからない。取り調べを受けた吉良も身に覚えがないというくらいだった。
討入の際に、浪士たちが吉良邸の門に突き立てた『浅野内匠頭家来口上(けらいこうじょう)書』も、「何かとても我慢できないようなことがあったのでしょう」と書かれているだけなのだ。
つまり、かたき討ちする浪士たちも浅野がなぜ斬りつけたのか、わかっていなかったのである。
浅野内匠頭の「無念・恨み」を赤穂浪士たちは「忖度」したからこそ、吉良邸に討ち入りしたのである。
赤穂浪士は、浅野内匠頭から依頼されたわけではなく、直接、吉良への恨みを聞いたわけでもないのに、殿様は悔しかったのだろうと解釈したのであろう。
また、討入り決行の日、ドラマでは、どこからともなく赤穂浪士が集結するのだが、じつはこの日に吉良邸へ討入りがあることは、近所中が知っていた。
浅野が切腹してから、1年半以上に渡り偵察や聞き込みをしていればバレるのも当たり前で、なんと当日は、吉良邸の隣の家に見物人まで集まったという。
つまり、討ち入りはもはや「ひとつの劇場」と化しており、赤穂浪士は大衆の意向を「忖度」して、吉良邸「討ち入り」を行ったということだ。
関東大震災の時、大杉栄一家などの無政府主義者を殺害に及んで軍法会議で裁かれた憲兵隊長・甘粕正彦は、上の者から見れば「信義に厚い」「役に立つ」男だったという。
当時、特高警察より、「大杉は警察の方でやるわけにはいきませんから、憲兵隊の方でやっつけてくれませんか」と持ちかけた。
「やっつける」とはいかようにも解釈できる言葉である。単に「懲らしめる」という意味から、「殺す」ことまで幅が広い。
便利で使い易いだけに、後々「解釈の違い」が問題になりかねない言葉である。
案の定、大杉事件が表沙汰になって裁判になると、警察は「殺してくれとは頼んでいない」と言い逃れることが出来た。
しかし、あの震災の混乱が渦巻く東京では、「やっつける」は、「殺す」という意味と捉えるのが普通のことであった。
1960年代にスターリンの娘「スベトラーナ」が書いた「回想録」が評判になったことがある。
その中で娘は、父スターリンの人間味あふれる「実像」を伝えたが、スターリン体制下の大粛清などは「忖度」が超大規模で行われた結果起きた大惨事だったようだ。
そもそも発端となるキーロフ暗殺からして、スターリンの命令では無く、スターリンの感情を「忖度」した治安機関などが勝手に実行した可能性が高い。
そして、その後起きた大量粛清も、一々スターリンが具体的に指示したわけではなく、スターリンの恐怖、願望、妄想を忖度した治安当局(エジョフあるいはベリヤ)が粛清リストをつくり、実行していったのである。
現代ロシアで起こっている反体制派などに対する暗殺も、プーチン大統領らの意向を忖度して行われている可能性が高い。
スターリンにしても、プーチンにしても、容易に自らの意思を明らかにしない人物なのだ。
但し、チトー暗殺を始め、明確に指示を出した例があることはある。
例えば、スターリンが「フルシチョフ同志の御母堂は確かポーランド人だったな」と言っただけで粛清対象になりかねなかったので、フルシチョフは顔を真っ赤にして全身汗だらけになって全力で否定しなければならなかった。
「忖度」というものは、かくも悪しき方向に「暴走」しかねないのだ。
これを現代日本に引き寄せて言うと、「共謀罪」のアヤウサが思い当たる。
「共謀罪」は、権力者の意向を忖度した警察が、明確な犯罪容疑や捜査目的も無く、あらゆる市民を監視下、捜査対象にすることを可能にするシステムであることにある。
すでに、大手メディアを見れば、官邸が具体的な情報統制を行わずとも、メディア側が勝手に「忖度」して政権に不利な情報は隠蔽する態勢になっていることを思えば、そんな危険な状況をいつでも生み出しかねない。

鉄腕アトムやドラえもんなど、日本ではロボットの人気アニメキャラクターが数多く生まれている。
今まで、機械とソフトウェアで作られるロボットがココロを持っているのは、マンガの世界の中でのことだったが、今では現実でも「ココロを持つロボット」が身近なものになりつつある。
ソフトバンクが2015年に発売したペッパーはその一つで、人工知能(AI)を搭載し、感情を持つロボットとして売り込まれている。
まず、人の感情のメカニズムを少し解説すると、脳内で生じる思考や感情といった心の動きは、ニューロン(神経細胞)がネットワークを形成して、他にニューロンとの間で電気信号をやり取りすることで生じる。
また「見る」「聞く」「知る」という外部から入ってくる情報への反応と、セロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンのホルモンの相互作用によって、感情が起きるメカニズムになっているのだ。
このようなニューロンの電子信号のオン・オフや、ホルモンの影響による感情を引き起こすメカニズムをコンピュータ上で表現できれば、ロボットにも感情を持たせられるということだ。
実際に、ペッパーの感情メカニズムはそのアイデアをもとに作られているという。
つまり、人間と同じように外部の環境からのインプットによる神経反応やホルモンのバランスの変化をコンピュータで「疑似的」に表現することで、ロボットに感情を持たせているというワケだ。
例えば、ペッパーは照明によって、「不安」「安心」といった外部からのインプットで、抱く感情が変わってしまうのだ。
またペッパーには、外部環境の動きから感情を生み出すメカニズム自体が進化し、「新たな心の動き」を生み出すという。
つまり、現実の周辺環境からリアルな感情を学んでいるというのだ。いわば「空気を読む」能力まで獲得しているともいえる。
そうすると、主人の意向を「忖度する」ロボットの登場は、それほど遠くはないのかもしれない。