人はシマ人と化す

N・オ-エンなる人物から複数の男女にあてて招待状が届く。イギリスのある孤島の主からの招待状で、島に集まった見知らぬ人々は、マザー=グースの歌に乗って1人1人殺害されていく。
アガサ=クリスティの傑作「そして誰もいなくなった」のあらすじだが、今でも忘れもしない読後の余韻。
この島は孤島であり、殺人ゲ-ムが始まっても船はまったくこなくなり、逃げ場は途絶される。
いまだ登場しない何者かが島に潜んでいて、いつか出現するに違いないという思いとは裏腹に、本当に誰もいなくなる。
密閉と化した島が殺人事件の舞台という異常事態での人々の「疑心暗鬼」がよく描かれているが、よくよく考えてみれば、島で生きること自体に潜む「恐れ」を伝えているような気もする。
、日本も列島だが、例えば小さな島で巨大な「基地」を飼うことの「危険/恐怖」はいかほどのものであろう。
穏やかさと優しさに満ち、悠久の時を刻んでいるような、空と海の青が接する沖縄。
そこに、これから戦場に向かわんとする殺気だった兵士と、破壊的な武器が集中・集積されているという「背反性」はとても強靭で、本土の人々の意識と島民の意識の開きが生じるのは当然かもしれない。
日本の歴史の中で、島は様々な使われ方をしてきた。島は、様々な問題をくるみ込んで逃がさないようにと閉じ込めてしまう処でもあるからだ。
豊臣時代にさかのぼると、朝鮮出兵で黒田や加藤が先陣に立ったが、江戸時代に黒田藩は朝鮮通信使を本土にはいれず、相ノ島にて接待した。
今まで行った旅先で、「島」は歴史的に「負」の部分や「忌避される」部分を担ったという面が多いことに気がつく。
まず思いつくのは「獄門島」で、「島流し」刑の場所となったところである。いわゆる獄門島は全国各地に点在し、我が福岡では糸島半島沖にある野村望東尼が流された姫島がよく知られている。
病床にあった高杉晋作は人をやって姫島から野村望東尼救出に成功している。
「島」に流されるのは、罪人の逃亡を防ぐというだけではなくて、ある種「ケガレ意識」もあった。
また各地の島々が、ライ病の隔離にも使われたという歴史の暗部も忘れてはならない。
また、東京のゴミの集積が結果的に島になったのが夢の島であるが、この夢の島に戦後の被爆による初めての死亡者を出した「第五福龍丸」が展示されている。
「島」にみる歴史の暗部といえば、地図から消された島がある。広島の日本海軍の本拠地である江田島近くの大久野島である。
瀬戸内海に浮かぶ周囲4kmの小さな大久野島は無人島であり現在は島全体が国民休暇村となっているが、この静かな島が60年あまり前までは毒ガス製造にかかわっていたとは信じがたいほどの長閑さである。
大久野島で毒ガスが製造されたのは1929年から1944年までの15年間である。
東京の新宿で始められた陸軍毒ガス製造所は関東大震災での教訓や規模の拡大のために移転先を探していたところ、秘密が保持しやく、交通も便利ということでこの島が選ばれた。
すでに毒ガス兵器は1919年のベルサイユ条約、1925年のジュネーブ協定で使用禁止が定められており、秘密保持のためにその島は地図から抹消された。
製造された毒ガスは竹原市忠海港から鉄道で福岡県小倉の曽根に運ばれ兵器に充填されて戦場へ送られたという。
同じ、瀬戸内海に浮かぶ香川県豊島は、日本最大の産業廃棄物不法投棄事件の舞台となっていたが、中坊公平弁護士を仲立ちとした住民の戦いにより、汚染土壌を処理して隣の直島に運び、リサイクルして資源化する「エコタウン事業」が、2003年9月から始まっている。
一方、島は使いようによっては、情報の秘守や治安保持にとっては格好の場所となる。国際的なサミットが島で行われことが多いゆえんである。
ところで、日本の憲法作りが島で行われたことは、入試問題の印刷が刑務所で行われているのと同じくらいに知られていないようだ。
ただ、憲法といっても「大日本帝国憲法」つまり明治憲法の方である。
神奈川県沖の夏島というところで行われ、大日本帝国憲法のことを「夏島憲法」という言い方をするくらいなのである。
当時、伊藤の政敵やマスコミは、憲法の内容に異常な神経をとがらせ、その案文を事前に入手しようと躍起になっていた。
このため、伊藤としては憲法が発布されるまで、絶対に機密を守らねばならなかった。起草地に孤島の夏島が選ばれた理由はここにあった。
その草案は伊藤博文が中心となり、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らの協力を得て起草した。
夏島で草案起草の審議をしたのは、1887年 6月頃から9月初旬までの 3ケ月余の間である。この間、伊藤博文は一週間ほど滞在することもあったが、普通は 2~3日で帰京していたという。
ただ、夏島の別荘は部屋数も少なく全員が宿泊するには狭かったこともあって、料理旅館が事務所のように使われていた。別荘には伊藤だけが寝起きし、伊東・金子は東屋から、井上は野島館から小舟で通っていたという。
しかし同年8月6日夜、東屋に泊まっていた伊東の部屋に泥棒が入り、草案原稿を入れた鞄が盗まれるという事件が起きた。
幸に、鞄はすぐ近くの畑で見つかり、百円ほどの現金が抜きとられただけで書類の紛失はなかったっという。
この事件以来、金子と伊東は東屋を引き払い、夏島の伊藤の別荘で合宿することになった。
歴史的な憲法草案審議が東屋から始まったことを記念して、1935年に「憲法草創の処」(金子堅太郎書)の石碑が東屋の裏庭に建てられた。

現代社会には、海に囲まれた島以外にも、いろんなシマがある。それは、「心理的・精神的シマ」といってもよい。
清水一行が描いた経済小説「兜町」は、「兜町」をシマと読ませ、株式取引が日々行われるアノ町のことを「シマ」とよぶ。
また、様々のナワバリのことを「シマ」とよぶことがある。
明治初期と昭和の時代に九州の二つの村で起きた「出来事」は、「海のないシマの悲劇」といってよい。
広漠たる田園風景の中、福岡県の大刀洗町近くを通ると唐突な建造物が飛び込んでくる。大刀洗の今村カトリック教会である。
この大刀洗には特攻隊の歴史だけではなく、もうひとつの「悲しい歴史」を刻んでいた。
江戸時代にキリスト教は「禁制」になり、ここ大刀洗にもキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れた。
今村カトリック教会自体が殉教者の墓の上にたてられたものであり、周辺の「ジョアンの殉教碑」なども弾圧の歴史を物語っている。
ここ今村の信徒達がどのようにしてこの地に根づいたのか定かではないが、島原の乱(1637年)で弾圧をうけた信徒達がこの村に逃れてきたことが、その始まりであったと伝えられている。
弾圧の中、多くの信徒が幕府に隠れて信仰を守った。
日本が開国すると、キリシタンが弾圧された日本に、キリシタンが今ナオ存在するかは、ローマカトリック教会の最大の「関心事」であった。
明治の新政府になっても依然としてキリシタン弾圧は続き、その多くが山口県津和野の「乙女峠」にある寺にキリシタンは送られ、多くの信者が「殉教」したことが伝えられている。
1867年2月26日、浦上の四名の信徒により今村の「潜伏信徒」が発見され、浦上の信徒とヒソカに交流を保ちながら信仰を守り通した。
そしてロ-マカトリック教会は、調査のために幕末から明治の初期に宣教師を送りこんだ。
しかし大刀洗のキリシタンにとっての「悲劇」は、江戸時代のキリシタン迫害のために幾人かの殉教者を出したことバカリではない。
それ以上に「悲劇的」だったことは、この地を訪れた外国人の宣教師により大刀洗の信者達が「汝らキリシタンに非ず」と宣言されたことであった。
この出来事の詳細は、「汝らキリシタンにあらず」(三原誠著・勁草出版)という本に紹介されてある。
実は大刀洗の信者達は「陸の孤島」のような環境にいたのである。
宣教師も来ず他地域の信者との連絡もない場所で信仰を守り続けたために、その信仰が土着化し本来のキリスト教信仰とは相容れないものに「変容」していたのだ。
明治時代にキリスト教が「解禁」になると、「信仰の建て直し」と誇れる教会堂をという信者の願いから、ドイツ人宣教師らのハカリしれない努力によって建造されたのが今村カトリック教会である。
1908年に本田保神父により計画され、諸外国特にドイツからの寄付や、信徒達の労働奉仕のうえ、1913年にロマネスク様式赤レンガ造りの現教会が完成したのである。
九州にあって、もうひとつの「陸の孤島」の悲劇は、古代神話の古里である高千穂近くで起こった。
高千穂・天岩戸神社からさらに4キロほど山峡を登った山奥深くに土呂久村がある。
この村では「約半世紀」近く原因も分からぬまま多くの人が亡くなるということが続いていた。
日本でようやく公害問題が騒がれ始めた頃、土呂久村の48歳の婦人が公害報道をテレビで見て何か「胸騒ぎ」を覚え日記をつけ始めた。
そのうち不自由な目と弱った足で村人の「健康調査」を始めた。
それまでは「一歩も」村の外へ出たことがなかった彼女が宮崎県人権擁護局へ訴えを起こしたのが、ハジマリといえばハジマリだった。しかし「彼女の訴え」は一顧だにされることはなかった。
そのうち一人の「新任教師」が岩戸小学校に赴任してきた。
彼は土呂久のの娘と恋に落ち結婚を考えるようになった。しかし彼女が病弱なのが気になった。
彼女の小学校時代の記録を知ろうと「指導要録」をみたところ、そこに見たものは彼女ばかりではない生徒達の「異常な欠席数」だった。
教諭は、この村には何か秘密が隠されていると思った。
そして教諭は土呂久からきている生徒を家庭訪問した時のことを思い出した。
生徒は体調不良で欠席が多かったので家庭訪問したのだが、彼が住む集落一帯が古い「廃坑」地帯であったことを思い起こした。
江戸時代にこの地域は銀山が栄えた時期があったと聞いていたが、その後は静かな山里に戻っていた。
さらに土呂久の歴史を紐解くと、この山奥の村でおきたことが、実はアメリカのアラバマで起きた出来事とつながっていることがわかった。
1920年、アメリカ・アラバマの綿花地帯がゾウリムシの被害を受けていた。
そしてゾウリムシ撲滅に「亜砒酸」が欠かせないものとわかり世界的に亜砒酸の値上りした。
そして一人の男が、この村にやってきて廃坑になっていた銀山跡から「硫砒鉄鉱」を採掘し、土呂久川べりに亜砒酸の「焼き窯」を築いたのである。
昭和の30年代ころまで、、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる「亜砒焼き」が行われたいたのだ。
「亜砒酸」は農薬・殺虫剤・防虫剤・印刷インキなどに使用された。
亜砒焼きが始まると、土呂久の谷は毒煙に包まれ、川や用水路に毒水が流れ、蜜蜂や川魚が死滅し、牛が倒れ、椎茸や米がとれなくなった。
実はこの教諭は、土呂久から岩戸小学校に通ってくる生徒達の体格が他にくらべて劣っていることにも気がついた。
そして他の教諭とともに土呂久住民の「健康調査」に取り組んだのである。
そして、各家庭に配布した健康調査表が回収されるにつれて、土呂久地区の「半世紀にわたる被害」の実態が明らかになっていったのである。
そして1971年1月13日、岩戸小学校の教師15人の協力による被害の実態が教研集会で発表された。
1975年にようやく住民による土呂久公害訴訟が起こり、1990年にようやく和解が成立した。
認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月現在)を数えている。
明治になって今村にやってきた宣教師にせよ、土呂久村の新任教諭にせよ、シマにとっての救いの「ニューカマー」ではあった。
村の住人にとっても、あまりに長い村のマドロミは、なんとも「無念」なことであろう。

1973年12月8日、愛知県豊橋市で起きた、女子高生の何気ない会話から始まった1週間の話である。
下校中の電車車内で、豊川信用金庫に就職が決まった女子高校生Aを、友人B・Cが「信用金庫は危ないよ」とからかった。
この発言は同信金の経営状態を指したものではなく「信用金庫は強盗が入ることがあるので危険」の意味で、ソレスラ冗談であった。
しかしAはそれを真に受け、その夜、Aから「信用金庫は危ないのか?」と尋ねられた親戚Dは、信用金庫を豊川信金だと判断して同信金本店の近くに住む親戚Eに「豊川信金は危ないのか」と電話で問い合わせた。
9日 Eは美容院のFに「豊川信金は危ないらしい」と話した。10日Fが親戚Gにこの話をした際、居合わせたクリーニング業Hの耳に入り、彼の妻Iに伝わった。
12日、街の至るところで、豊川信金の噂の話題が持ちきりとなる。そうした噂を聞いたアマチュア無線愛好家が、無線を用いて「噂を広範囲」に広める。
その後、同信金窓口に殺到した預金者59人により約5000万円が引き出される。
同信金の支店に客を運んだタクシー運転手の証言によると、昼頃に乗せた客は「同信金が危ないらしい」、午後の客は「危ない」、夕方の客は「潰れる」、夜の客は「明日はシャッターは上がるまい」と時間が経つにつれて噂は誇張されていったという。
14日には、「職員の使い込みが原因」から「理事長が自殺」という二次デマが発生し事態は「深刻化」していった。
「信金側」の依頼を受け、マスコミ各社は「デマ」あることを報道し騒動の「沈静化」を図る。
15日、自殺したと噂された理事長自らが窓口対応に立ったことも奏功し、事態は沈静化に向かった。
女子高生のナニゲナイ会話から、ワズカ「1週間程度」で地元の信用金庫が「取り付け」の危機に瀕したわけである。
この事件の背景として1973年当時、10月にはトイレットペーパー騒動が発生するなど、オイルショックによる不景気という「社会不安」が存在し、デマが流れやすい下地があった。
口コミで情報が伝わるうちに、ウイルスの変容のように「情報」が変容したのがパニックをもたらした。
この出来事は、狭い範囲で別々の人から「同じ情報」を何度も聞くことで、それに「信憑性」があるものと思い込んでしまい増幅された感がある。
そういうことから、豊橋信用金庫の取り付けさわぎも、「シマ」の危うさを伝えているように思える。
今日のネットワーク社会は、地域の地理的な閉鎖性や外部情報との遮断は「無縁」になったったかと思う反面、ソレデモあらたな「シマ」の存在を浮かび上がらせていることに気がつく。
数年前、浦和レッズのサポーターが、埼玉スタジアムで「Jpanese Only」と掲げた横断幕がたった。
「差別的表現」の裏側に、そういうシマつくりの心理があるのかもと思った。
横断幕を掲げたサポーターの1人は、「ゴールの裏側は我々の聖地なので、外国人によって統制をみだされたくなかった」と語っている。
グローバル化というフラットな社会にあって、人はとりつくシマを求め、シマ人(しまびと)と化す。

歴史的に見ると、島は「秘守」を目的としても多く使用された。
韓国の話であるが、2003年の「シルミド」という衝撃の映画があった。
これは、韓国政府が極秘に進めた、朝鮮民主主義人民共和国の金日成首相暗殺計画と、それにかかわった韓国の「北派工作員」の実話を基にした映画である。
シルミドつまり実尾島とは彼らが訓練のために集められた島の名前で、仁川にあり、現在は仁川国際空港でバスを乗り継いで行き、観光地化している。
韓国で上映されると「長らく社会から封印されてきた歴史の事実が明かされた」として反響を呼び、過去の記録を塗り替える1000万人以上の観客動員数を記録した。
普天間基地移設問題で浮上した徳之島での歴史でまず思い浮かべるのは、奄美大島と並んで行われた薩摩藩による徳之島の黒砂糖収奪である。
薩摩藩が幕末の雄藩の一つとなったのは、財政破綻を立て直しにあたった調所広郷がおこなった改革によるところろが大きいが、その改革には暗部が付きまとっている。
彼の財政改革の主要部分は、琉球を利用した中国との密貿易と並んで奄美群島の黒砂糖産業にある。
奄美群島の人々に黒砂糖の原料となるサトウキビ以外の作物の栽培を禁止し、島民が生活に必要な米ならびに他の物資はすべと薩摩藩から市場価格よりはるかに高い価格で購入する流通ルートを作り上げ、奄美群島の実質奴隷身分であったヤンチュと呼ばれる人々から搾るだけ搾り取ってきたのである。
サトウキビ以外は作れないために、生活必需品はすべて現金で購入しなければならず、それまで少ない耕作地で何とか食いつないで来られた零細農家の人々も、豪農に生活のため、決められた上納ができなくて、借金をする。
借金が積み重なり、挙句は身を豪農に売り、隷属民に身分を落としていくというサイクルが始まる。
結果的に薩摩の改革者調所広郷は、隷属民のヤンチュを大量発生させたことになる。
島々には様々な歴史がある。いくつか思いつく所を列挙すれば、東京湾の石川島は罪人に職業訓練をほどこす人足寄場があり、明治になって世界最大の造船会社がつくられた。石川島播磨重工である。
また徳川家康の目に留まった瀬戸内の佃島の住民は、江戸に移され江戸前を本に佃煮を生み出した。
山口県周防大島は島民の数多くがハワイ移民となり、ハワイ移民記念館が設けられている。
この島は、民俗学者・宮本常一や作詞家・星野哲郎を生んだ。作詞家とえば、阿久悠は淡路島出身である。
長崎には朝鮮人強制連行によって石炭の採掘が行われた軍艦島とよばれた端島もある。
また、東京のゴミの集積が結果的に島になったのが夢の島であるが、この夢の島に戦後の被爆による初めての死亡者を出した「第五福龍丸」が展示されている。
少々地味だがアメリカ映画で「ヴィレッジ」(2004年)は現代社会における「孤島」を描いたものである。
深いい森に囲まれ、外界から孤立し数十人が自給自足で暮らす素朴で小さな村がある。
そこでは皆が家族のように平和に暮らしていた。
ただ村に決して森に入ってはならないという、古くから伝わる「掟」があった。
村人は森の向こうにいると伝えられる「怪物」を恐れ、境界線を守って暮らしている。
実は、この村は、「ウォーカー自然公園」公園の中にある空間で、アイヴィーの祖父の財産で作られた「シマ」だったのだ。
そして、村の長老たちは皆、街で家族を犯罪で殺されるなどの「悲しみ」を負った人たちばかりだったのだ。
ウォーカーさんの私財でもって、争いやお金サエもない「保護区」を周囲に警備員を置いてまで作ろうとしたわけである。
そこで、森の中の「怪物」とか「掟」とかは、次世代までも含めて村に閉じ込める「仕掛け」であった。
この「シマの話」を延長すると、ある種の国家が秩序を維持するためには、国民が恐れる「怪物」も必要だし、「情報の遮断」という統制も必要というわけだ。

事件の7年前の1966年、小坂井町の隣の豊橋市の金融機関が倒産するという事件があり、出資者の手元に出資金がほとんど戻ってこないという大きな被害を与えていた。
デマの伝播経路の中のクリーニング業者がこの7年前の倒産被害者であったため、「善意」で周囲の人間にデマを広めてしまった。
陸でもシマが形成されるのは、九州の二つの村で起きた「悲劇」にみたとうりだが、情報が途絶された理由だけでソレが起きるとはかぎらないと思わせる出来事があった。