世界的バベル崩れ

新聞によれば、この世界は、「上位8人の金持ちが下位36億人分の富」をもっているのだそうだ。
この世界に、目に見えぬ何かとてつもなく高い塔が立ち上がっている感じがする。
これだけの「塔」が立ち上がるためには、自由自在に行き来するヒト、モノ、カネを十二分に活用しなければ不可能であろう。
かつてマルクスは、国家は資本家階級が労働者階級を搾取する手段だとし、もしも労働者の政府ができて階級闘争がなくなれば国家は消滅すると予言し、「万国の労働者よ団結せよ」とよびかけた。
しかし、今日わかってきたことは、むしろ資本家にとって邪魔なものが国家の枠で、それを取り払った方がさらに富を吸い上げるのに都合がよさそうだということだ。
そうして出来上がる塔とは、ヒト、カネ、モノがより自由に動き、たくさんの労働者を安い賃金で働かせ、それを「中間」で吸収するものさえなく、一握りの人々が莫大な富を高く高く吸い上げるシステムのことだ。
ヒト、モノ、カネが自由に動くとは、グローバリゼーションが行き着いた世界に他ならない。
さて、このシステム、どこか旧約聖書の「バベルの塔」の物語を思わせる。
人間が自分達の名をあげようと天にまで届かんとする搭を建てようとしたところ、神様が人間が互いに思い図ることはヨロシクナイことだと、人々の言葉を相互に理解不能にしたという話である。
神の目からみて、世界中で言葉が「通じない」ことは、諸々のトラブルや諍いの元になるにせよ、人間が寄り集まって企る「悪だくみ」よりも、よほどマシだということである。
つまり人間は、言葉の相違によって繋がらない状態こそ、神の智恵にかなっていることを教えている。
ところで、現在進行中の「グローバリゼーション」とは、「広い意味」での言葉を「共通化」しようという試みであり、それは様々な形で現れている。
企業は「世界規格」に合うようにモノを作り、「国債の格付け」から「レストランの格付」まで、世界の統一基準で表現しようとする。
さらには、賃金水準も、人口が圧倒的に多い発展途上国の低賃金に吸い寄せられ、言葉の違いソノモノも「翻訳ソフト/翻訳音声」で克服されつつある。
こうした、グローバリゼ-ション的発想の歴史的萌芽を探すと、古代中国にあった「中華思想」にそれを感じさせるものがある。
中国の周辺の国々は、中国の「官制」などを多く取り入れて国作りを行ったが、それが日本では「律令制国家」にあたる。
アジア周辺諸国が定期的に貢モノをもって中国に挨拶にいくわけで、古代博多にあった奴国はその挨拶の代りに「漢委奴国王」の金印をもらっている。
つまり中国皇帝から、それぞれの地域をおさめる「王」たるオスミツキをもらったということだ。
こうした中国はグロ-バリゼ-ション(チャイナイゼーション)における先輩国家というだけではなく、秦の始皇帝は、「規格マニア」といっていい人物であった。
始皇帝は、郡県制の採用、車幅(轍(ワダチ)を統一、度量衡(度=長さ、量=体積、衡=重さ)の統一、貨幣の統一、文字体の統一(篆書)などを行った。
つまり「広い中国」で広義の言葉の統一を行ったのである。
また北方民族の侵入を防ぐために、「万里の長城」を築き始めたのも、始皇帝である。
ただし、始皇帝がやったような世界の時間や単位・規格を同一の基準に乗せるぐらいではグローバリゼーションとはいい難い。
グローバリゼーションとは、今日のように共通の企業経営理念、共通の会計原則、金融ビッグバン、そして(地域的)「共通通貨」などを造るところまでいった状態だ。つまり「同一言語」にまでは至らずとも、言語的作用の裏側にある「思考様式」さえも、ある程度「共通化」しようということなのだ。
今や、ヒマラヤの秘境でu世界一幸福な国といわれたブータンでさえもその波に呑まれつつあるが、その頑強な抵抗勢力が「イスラム原理主義」に他ならない。

最近、「国民経済」という言葉とそれにまつわる経済社会が、懐かしくシカモ健全に思えてくる。
実は、一国の経済規模を「GNP」(国民総生産)ではなく「GDP」(国内総生産)で表すようになった頃がグローバリゼーションへの画期かもしれない。
なぜなら、海外で所得を稼ぐ国民が多くなると、国の経済水準を測るのに、国民より「国内」とした方が適切だからだ。
国民経済の時代が懐かしいと思えるのは、様々な理由がある。例えば経済政策は、「国民経済」を前提としたもので、そのマトマリが失われると、財政政策も金融政策もキキが悪くなっている。
サプライチェーンが世界中に広がることで、政府が行う公共投資の効果は、国内から外に出てしまうし、金利の操作も国際的な反作用を受けて、その効果が国内で効きにくくなるという面もある。
1990年代に入って独自性が強かった金融が「ビッグバン」し世界経済と連結された結果、津波の如く襲う「金融危機」の影響をモロにかぶることになり、その衝撃からいまだに立ち直れないでいる。
世界中の投資家の便宜をはかって出来た「格付会社」だが、サブプライム・ローンの実体を「読み損なって」世界中を混乱させ、ひいてはリーマンショクまで引き起こしたことは、記憶に新しい。
また、途上国経済はハゲタカと呼ばれるファンドで食い尽くされ、「デフォルト」状態に陥った国家は少なくない。
さらには、経済的不安定を背景にして、ツイッターによって広がる「民衆革命」など、世界に大混乱をマキ起こす「撹乱因子」が撒き散らされている。
ヨーロッパ経済統合のなかで、これまで財・サービス・労働力の域内での自由な移動に加えて通貨統合がなされ、2002年から「ユーロ通貨」という共通通貨が域内で流通し始めた。
こうした共通通貨のメリットは、為替リスクがナイということである。為替リスクがなければ、リスクを「ヘッジ」する必要もなく、雇用、ビジネスチャンス、資本調達などの面で一機に可能性が広がることを意味する。
しかし、メリットはそのままデメリットとなるのだ。
「共通市場で」は、物価にせよ金利にせよ賃金にせよ、経済規模の大きな水準の国に「収斂」していく傾向がある。
例えば、労働市場などは「一物一価」が成立する同質的な完全競争市場などではなく、産業ごと、地域ごと、職種ごと、そして究極的には「企業ごと」に分断された、多種多様な市場の寄せ集めなのである。
「生産性」が違う地域には、その生産性に見合った賃金しか支払われないのが普通なのに、人々の移動性ゆえに生産性が低い地域にも、同じ賃金を払ったりしたら、企業経営を圧迫することは目に見えている。
通貨が異なれば、為替の変動がそれら「生産性」の格差を吸収する役割を果たすのだが、全体を「ヒトツ通貨の下」にすると、そういう機能が期待できなくなるのである。
また、各国経済の底力は、国民の歴史体験をベースにした「国民意識」に支えられている面が大きい。
つまり経済活動も国民の歴史的体験を担って営まれており、ある程度「閉じている」ことが、歴史と伝統が育んだ智恵や創意も生かされる面があるのではなかろうか。
例えば、ドイツのワォルクス・ワーゲンのように、ナショナル・アイデンティティに支えられた「製品」というものは、国民の誇りでもあるのだ。
ところが経済規模のスケールが大きく国家の枠を超え、まったく国籍の違う住民が生産拠点を移して活動したり、さらに「世界規格」やら「世界標準」というコンセプトが前面にでてくると、各々の国民経済の持つ「歴史性」が消去されてしまう。
イギリスの「EU離脱」でわかることは、国民には効率や経済性だけでは超えられない文化の違いやプライドなどがあるということだ。
イギリス人はフランス人と違い、ドイツ人に従う習慣を持っていない。それだけでなく彼らは、ドイツ的ヨーロッパよりはるかにチャレンジ精神に富んだ、より権威主義的ではないもう一つの別の世界である「英語圏」(米国・カナダ・旧英国植民地)に自らを位置づけ結びつこうとする。
各国経済には国民の夢や怨念が煮詰まってって独自に生み出されたものである。
そういう意味では「国民経済」には言語にも似た要素があり、生物の多様性が自然システムの安定をもたらすように、各国の国民経済の「多様さ」こそが世界経済システムの安定に繋がるということである。

トランプ大統領は詩人とは程遠いにせよ、人の心に入り込む言葉の魔力を知っているし、きっと攻撃と反撃の距離をきわいどいところで測るボクサーのような素養もあるに違いない。
とにもかくにも、トランプ流のスタイルと言葉が、没落するアメリカ白人中間層に届いたのは確かだ。
例えば、トランプの言葉「メキシコ国境に壁を!」なんていうのは、差別的・排他的言葉に聞こえるが、ゆるい国境警備で得をしているのは、安い労働力をむさぼる大企業である。
それによりアメリカの労働者も低賃金に抑えられ、会社の都合で不要になれば「不法移民」として排除される。
その構造がバレているので、人々はトランプの言葉に一面の真実を感じとっているに違いない。
トランプ大統領は、1月に行われた就任演説で、アメリカの利益を第一に考える「アメリカ第一主義」を打ち出した。
アメリカが世界のリーダーとしての役割を果たすことよりも、トランプ大統領が「自国の安全」や「自国の雇用」を優先しようとする姿勢は一貫している。
それは、TPPからの離脱や、NAFTAの見直しなど支持者に約束した政策を、着実に実行に移していることでもわかる。
また、メキシコなど、海外に工場を移転し、そこからアメリカに輸出しようとした場合には、そうした製品に「高い関税をかける」とまでもいっている。
歴史的な反省もあって、最近ではこうした「保護主義」的傾向は圧倒的に分が悪いハズだった。
また、経済学の教科書にはリカードの「比較生産費説」(比較優位理論)があり、自由貿易を支持する正統理論として信奉されている。
例えば、二国間で貿易をするときには、両国が有利な分野の生産物に「特化」して生産を行い、それぞれの国の需要に応じて消費した方が、全体としての「取り分」が大きくなるという理論である。
そんなのアタリマエと思うかもしれないが、この理論のミソは、絶対優位ではなく比較優位なのだ。
つまりA国とB国が貿易するとして、A国とB国の生産性の優劣に関係なく、貿易の利益は相互に及ぶというものだ。
ここで「比較優位」とは、A国とB国のそれぞれの国の中で「相対的に」得意分野に特化するという意味である。
これを図ではなく言葉で説明するのは難しいが、例えば「2/3>1/2>1/3」という三つの比率を使って考えよう。
2/3はA国の工業品と農業品の生産性の比率で、1/3はB国の工業品と農業品の生産性の比率である。そして1/2は、為替レートで調整された農業品と工業品との交換比率とする。
仮にA国がB国より、農業も工業も両方とも生産性において優れていても、両国それぞれの生産性の比率を比較すると、A国が農業に比較優位があり、農作物を輸出し工業品を輸入するとする。一方、B国は工業に比較優位があり、工業品を輸出し農業品を輸入するものとする。
すると、A国は貿易しなければ工業品1を作るのに農業品2/3を犠牲しなければならないのに、貿易をB国とすれば農業品の1/2の輸出で工業品1を輸入できるので貿易した方が得である。
またB国の方も、貿易をしなければ農業品1を作るのに工業品を3も犠牲にしなければならないのに、貿易をすれば農業品1を手に入れる(輸入)するために、工業品2を作って輸出すればよく得なのだ。つまり貿易は、相互に得なのである。
そして「比較生産費説」が教える興味深いことは、もし両国が自由貿易をおこなえば、それだけで両国は自動的にそれぞれが比較優位をもつ財の生産に特化するということで、上記の例では両国の交換比率を1/2としたが、それは1/3と2/3の間のどこかの比率に落ち着き相互に貿易の利益をもたらすというものである。
つまり、貿易は人々を「豊か」にするのだが、アメリカの多くの人々が、グローバリズムに抗して「保護主義」を求め、トランプ大統領を支持したのはどうしてだろうか。
アメリカ製造業の衰退によって白人労働者の仕事が奪われた大きな理由は、「労働節約的」に作用する技術革新である。
グローバル化のなかで、先進国の製造業は新興国との激しい競争にさらされる。その結果、企業は労働コストを下げようとする。そのために先進国の賃金は下方圧力を受け、雇用は不安定化するだろう。
ましてや先進国の企業が生産拠点を海外に移せば、国内では産業空洞化がすすむ。
つまり、グローバル化は、競争力を失いつつある先進国の産業や労働者に大きな打撃を与える。
この状況のもとで自由貿易をやればどうなるか。安価な製品が、新興国や競争相手国から流れ込んでくる。こうなると、ある種の産業は衰退を余儀なくされる。
それが自動車のようにアメリカの誇る製造業の中核産業であれば、アメリカは確かに大きな打撃を受けるだろう。
自由貿易が、アメリカ製造業の白人労働者層に打撃をあたえ、皮肉にも、冷戦以降のグローバリズムを推進したのもまたアメリカであった。
だが、自由貿易とは、各国がそれぞれの得意分野に「特化」して貿易するという国際分業体制であるので、アメリカが自動車のような競争力の低い産業に固執する方がおかしいということになる。
しかし、自動車産業はアメリカの誇りでもあり、 そこに働く労働者もその気持ちをいくらかでもシェアしているであろう。
仮にアメリカの土壌がジャガイモに適しており、日本の労働者が半導体の生産に適していたとしても、アメリカはもっぱらポテトチップを生産し、日本はシリコンチップを生産し、両国が貿易すればよいということにはならない。
国民的威信という観点からいうと、アメリカは世界に冠たる「ポテトチップ大国」では満足できない。そこで、政府が半導体産業を支援したり、あるいはIT等に投資して先端産業を育成する。
つまり、自国の優位な産業を政府が作り出すのだ。
何を自国の「売り物」にするかを各国の政府が戦略的に作り出すということにほかならない。
となると、「自由貿易」は決しておだやかな国際分業体制などには落ち着くものでないといえる。
また「比較生産費説」の理論と現実の違いも考慮すべきところだ。グーバル競争によって衰退する産業がでてきたとしても、長く自動車産業でいた労働者に、金融業界で働けといっても無理であろう。
欧州でもアメリカでも民主主義の〈最終目標〉は国家繁栄ではなく、自分が住む地域の繁栄である。その一例が地元の食材や食文化を見直す「スローフード」運動である。
あらためて気がついたことは、「比較生産費説」は、「国単位」で作られたゲーム盤のようなものである。インターネットの普及は、「国家」よりも「地域」、さらには「個人」を浮かび上がらせている。
そろそろ「ゲーム盤」自体を取り替えるべき時期が来ているのかもしれない。
また世界中で「バベル崩れ」が起きてグローバル化に歯止めがかかるのはヨシとしても、懸念材料はトランプ大統領のように塔(タワー)を建てることが大好きな指導者の存在である。