「世界のスズキ」三様

最近、ニューヨーク・タイムズ紙は「日本はクールジャパンと称し自国の文化を世界に売り込もうとしているが、日本自身何が本当のクールジャパンなのか気づいていないのではないか」と指摘している。
この記事は、日本で生まれた「スズキ・メソード」を評したものである。
「スズキ・メソード」とは、鈴木慎一が生み出した音楽(ヴァイオリン演奏)を通じて人間性をはぐくむ教育法である。
鈴木慎一は1898年に愛知県名古屋市に、「ヴァイオリン工場」の創業者の子として生れた。
地元の商業学校に入ってからは夏休みになると工場で働く様に父に命じられ、ヴァイオリン製作についてひと通りのことを覚える。
最初は、ヴァイオリンを「玩具」のようなものだと思っていたが、高校卒業の前年頃、レコードでシューベルトの「アヴェ・マリア」のヴァイオリン演奏を聴いたのがきっかけで、芸術としての音楽に関心をもつようになる。
高校卒業後体調を崩し、興津へ転地療養する。その療養先で親しくなった人物の勧めで徳川義親侯爵の「北千島探検」(1919年)へ同行するという僥倖に恵まれる。
その旅にはヴァイオリンを持参し、旅に使われた船のサロンにピアノがあり、旅に同行していたピアニストの幸田延(幸田露伴の妹)の伴奏で、鈴木はヴァイオリンの演奏を披露したりした。
その旅の終わり頃、徳川、幸田から正式な「音楽の勉強」を薦められ音楽の道を進むこととなった。
そして鈴木は20代を主にベルリンで過ごし30歳で帰国した後、日本で演奏活動とともに長野県松本を拠点に教室をつくり音楽指導を始めた。
鈴木の活動は1955年、東京体育館で開いた第1回全国大会(グランドコンサート)で大きな転機を迎える。1200名の生徒によるヴァイオリンの大合奏を記録した映像は、海を渡りアメリカで上映され、海外の指導者達に衝撃を与えた。
これだけの大人数をこれだけ高い水準に導いたその脅威の「秘訣」を探るべく、多くの指導者達が何度も松本を訪れては研究し、自国へと伝えたという。
1963年、鈴木氏は生徒達を連れた演奏旅行を始め、アメリカツアーを皮切りに30年間世界中をまわった。鈴木は1998年に亡くなったが、スズキ・メソードは今や46ヶ国に普及し、海外ではメジャーな指導法となっていく。
ところで、「カーネギー・ホール」といえば鉄鋼王カーネギーの寄付によって建設された世界の「音楽の殿堂」である。このステージに出演することこそ「一流の証」であり、日本人でも一握りの歌手しかこのステージに立っていない。
このステージに、ひとりの音楽講師の先生の指導を受けた子供たちが、ヴァイオリン演奏を披露することを許された。
1993年、ニューヨークのハーレムの小学校教師ロベルタ先生と50人の子供達による、有名ヴァイオリニストを交えたセッションである。
そこに至る、ロベルタ先生と子供たちの「感動の実話」があった。この実話を記録した「ドキュメンタリー」が作られ、1995年メリル・ストリープの主演の映画「ミュージック・オブ・ハート」が制作された。
アメリカの高校で音楽の助教諭を務めるロベルタ(メリル・ストリープ)は私生活では破綻気味で、意気消沈しつつ赴任先で購入した大量のヴァイオリンとともに実家へ戻ってくる。
同級生ブライアンの口添えで、彼女はヴァイオリンを教える臨時教員の職にありつくことができた。
ところがその職場は、イースト・ハーレムの小学校で、複雑な家庭環境に育った一筋縄にいかない小学生達ばかりであった。
最初は、何でヴァイオリンなんか習うのかという同僚や親達の反発が数々よせられた。
実際、はじめはヴァイオリンを「遊具」にしか思っていない子供達であったが、音楽を奏でる喜びと誇りを抱くにいたってみるみる上達していった。その一方、ロベルタ先生の私生活はパートナーとの別れで荒れ気味ではあった。
しかし、苦難の10年を経てヴァイオリン教室は3校150人に拡大し、抽選が必要なほどの人気クラスとなっていった。そこへ晴天の霹靂。
市の「予算削減」のためクラス閉鎖が通告されたのだ。
そこでロベルタ先生は、なんとかクラスを継続するための資金を得るため、保護者達の協力で「救済コンサート」を開くことになった。
彼女の友人の夫がヴァイオリニストだったことも手伝って、一流のヴァイオリニストがこのコンサートの趣旨に賛同したことが大きかった。
ところがまたもや壁が立ちふさがった。コンサート会場がトラブルのため使用不能になり、コンサートの「開催」さえもが危ぶまれる事態に陥った。
ところが、そこへ新たなサプライズ。事情を知った有名ヴァイオリニストの運動で、会場が世界の音楽の殿堂「カーネギーホール」に決定したのである。
そして1993年10月その音楽の聖地にて、大勢の観客が見守る中、ロベルタと50人の子供たちは、プロのヴァイオリニスト達との「夢の共演」を果たしたのである。
観客達は、子供達のヴァイオリン演奏にスタンデイング・オベーションで応えた。
そしてロベルタ先生の作ったヴァイオリン教室は大きな話題となり、市の支援でその後も継続されることとなったのである。
ちなみにロベルタ先生は1971年にハワイで「スズキ・メソード」の教室を見学して大きな影響を受け、映画全編を通して「スズキ・メソード」の指導曲集が使われている。
その生みの親・鈴木慎一は、「教え方次第で誰でも成長できる」という信念を持っていて「天才」「神童」といった言葉を極度に嫌ったという。
それは、色々なスタイルの演奏法を聴いて自身のスタイルの参考にするという「耳から学ぶ」が基本で、楽器やレコードを買うこともできない経済的に恵まれない人々にとって、ごく自然で受け入れやすい方法であった。

鈴木修は大学卒業後、別の企業に勤めていただが、1958年、2代目社長の鈴木俊三の娘婿となるのと同時に、28歳の時にスズキに入社した。
静岡県の浜松には、地元の浜松工業学校の卒業生が、戦争からの復員後、ホンダに続けとばかり次々に会社設立をしており、スズキもその一つだった。
鈴木は、30歳の若さで新工場を建設するプロジェクトを任され苦労が続いた。
1978年に、社長に就任するものの、低価格の軽自動車は、高度成長が進むにつれて、本格的な乗用車が求められ、軽自動車の市場は低迷した。
ある日、かなり多くの人が「荷台のついた軽トラック」で通勤しているのに気がついた。
話を聞くと、社員の多くは休日に畑で野菜を作り、出荷する時に軽トラックを使うという。
そこで、乗用車として開発されていたアルトを、後部に荷物を置くスペースをもつ「商用車」として売り出すことにした。
「アルト」という名は、「秀でた」という意味のイタリア語。鈴木は発表会で「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、またあるときは買い物に使える、あると便利なクルマ」と語って、会場を沸かせた。
当時、軽自動車は60万円以上だったのが、47万円としてそれで利益がでるよう徹底的にコストダウンをはかって、軽自動車市場を蘇らせた。
スズキの「低コスト化」は、鈴木自ら工場を隅々まで歩くことにより徹底された。
「あの蛍光灯は必要なのか」と聞いて、灯りが必要なら天窓を開けて、日の光を取り入れ、電動のコンベアがあれば、重力式の滑り台が使えないかと考えさせる。太陽光や重力はタダだからである。
また社員に「1部品につき1グラム軽く、1円コストを下げよう」をスローガンに、ムダを少なくして価値ある商品を安く消費者に届けるのをメーカーの使命だと言い聞かせた。
こうした「低コスト」化への真剣な取り組みが、「インド市場」で花開くことになる。
1982年、スズキはインドへの進出を決めるが、それはまさに「瓢箪から駒」から始まった。
パキスタン出張中の社員が、飛行機の中で現地の新聞を読み、「インド政府が国民車構想のパートナーを募集」という記事を見つけた。
その報告を聞いた鈴木は、「すぐにインド政府に申し込んでこい」と指示した。
なにしろ日本では最後尾のメーカーともいえる状況なので、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」という気持ちからだった。
ところが募集は締め切りで断られたが、「セールスは断られたときからだ勝負」と社員を現地に派遣し、3度めにようやく認められた。
しばらくして、インド政府の調査団がやってきた。彼らは、当然、他の日本メーカーとも話し合っていたが 真剣に話を聞いてくれた社長は、ミスター・スズキだけだったという。
「日米自動車摩擦」が深刻化していて、日本の大手メーカーはインドのことまで考える余裕がなかったというのが真相なのだが。
そして「基本合意」で、インド側の責任者は日本的な経営で構わない。全面的に任せると言ったが、実際にできかけの工場に行って見ると、幹部用の個室が作ってある。
「事務所のレイアウトは日本流でやるはずだ。こんな個室で、社員と幹部とのあいだに壁をつくるのは絶対認めない」と、できあがっていた壁をすべて取り払わせ、大部屋にした。
昼食も労働者たちと一緒の食堂でとるという鈴木に、インド人幹部たちは非常な抵抗を示した。
鈴木は率先垂範で、毎月インドに行っては、昼食は社員食堂に行って、従業員と一緒に並んで順番待ちをした。
冷ややかな目で見ていたインド人幹部たちだったが、半年もすると一緒に並ぶようになった。
幹部たちは「掃除などは、カーストの低い人の仕事だ」と言うが、スズキ流では、幹部も作業服を着て、掃除もやる。
言うことを聞かなかない幹部達に鈴木は怒って、「工場運営はスズキの主導でやることになっている。それができないなら、インドにおさらばして日本に引き揚げる」といってはばからなかった。
そのうち、幹部たちの仲裁によって、リーダー格の人々が作業服を着て、現場のラインに出て行くようになった。つまり日本流が浸透し始めたのである。
1983年12月、工場のオープニング・セレモニーには、インディラ・ガンディー首相も駆けつけた。首相は「スズキがインドに日本の労働文化を移植してくれた」と称賛した。
また、この日は首相の亡き次男の誕生日だった。次男は大の車好きで、「国民車構想」をぶちあげ、自ら工場建設を始めたのだが、飛行機事故で不慮の死を遂げていた。この工場を引き継いだのが、スズキのプロジェクトだったのである。
ガンディー首相は「息子の悲願が、ようやく今日、実りました。息子が生きていてくれたら、さぞかし喜んでくれたでしょう」と語った。
インドに行った日本人は、右を見ても左を見ても、日本で見慣れたスズキの「S」のマークのついた車を見て驚かされる。
アルトは、いまや「インドの国民車」と言っても過言ではない。

鈴木三郎助(2代目)は1890年に神奈川県葉山に生まれた。
1908年ごろ東大の池田菊苗が鰹節からうま味の素を取り出す研究を始めた。鰹節を微温湯に浸し、その煮出し汁を低圧で濃縮すれば、結晶が得られ、それが「グルタミン酸」である事、そしてそれが「うま味」の素であることを突き止めた。
鈴木はそれに注目、鰹節では原料として高価すぎるので、小麦からグルタミン酸を取り出すことによって「工業化」の可能性を見た。
この特許は池田と二代目三郎助の共同特許となり、鈴木製薬所が創立され、グルタミン酸つまり「味の素」が製造され始める。
三郎は宣伝と販売を、伯父の忠治が製造を担当したが、売れるはずの「味の素」がなかなか売れない。
なにしろ「味の素」は、味噌や醤油と違い化学工業という新手法を用いてできる新製品である。
「味の素」はその普及過程でよほど不思議がられ、奇妙な用いられ方をされた。栄養剤、睡眠剤、糖尿病治療薬などとしても用いられた。
また、生魚に注入すると味が引き立ち、釣りに際して魚を集める装置として、太公望連中の秘伝ともなった。
ちなみに、「鈴木商店」というと神戸で金子直吉が立ち上げた鈴木商店があるが、二つの商店には直接の関係はない。
三代目・鈴木三郎助の人生は、味の素の宣伝マンに費やされた。チンドンヤの行列の先頭に立ち、自動車の中古を買い、横断幕をつけ、鉄道馬車の中吊り広告は三郎をもって第1号といえる。
有名な料亭が味の素を使ってくれるよう依頼し、料亭の盛名に便乗して宣伝した。
これより先の二代目・三郎助は、「味の素」を鈴木商店の主力製品とする方針を堅持しつつも、第一次世界大戦の影響で世界的に不足する火薬の原料としての塩素酸カリの製造にも進出する。
塩素酸カリの製造過程には電気分解が必要で、そこで大量の電気を作るために、信州の長野電灯と組んで、地元に大規模な発電所を作り、東信電気株式会社を設立した。
鈴木商店は「味の素」といういたって平和的な製品と、軍需品そのものの火薬の原料製造という「二足のわらじ」をはくこととなる。
東信電気は後に昭和肥料をへて「昭和電工」となる。
戦時中、二代目三郎助は昭和電工の会長になり、ただ1度役員会を開いたのを問われ公職追放にあい仕事を失った。
1950年、伯父忠治とともに、追放を解かれ会社に復帰し、1973年死去、享年84であった。
「味の素」は、早くから海外に進出し、現在26の国と地域で事業展開し、スズキ自動車同様に、貧者に寄り添う企業として成長してきた。
例えば、エジプトで「味の素」の社員たちが目指すのは、首都カイロの下町に点在するスーク(市場)であった。
露天に並ぶ小さな商店を一つひとつ回り、1袋25ピアストル(約4円)のうま味調味料を売り込んでいく。
周囲に食料品を扱う雑貨店を見つければ、もれなく足を運び、手売りで現金商売。商品を補充したり、陳列を置き直すなど、根気強い営業を店ごとに繰り返した。
エジプトには革命直後の2011年に進出。以来、味の素が一貫して当地で続けるのは、庶民の台所であるスークを拠点に、低所得層の需要を掘り起こすこと。
そこから知名度を高め、大手スーパーなどへと販路を拡大させる戦略であった。
現在の宇治社長たちが最初に目をつけたのは、カイロ中心から東にあるマンシェイヤ・ナセル地区だった。モカッタムの丘と呼ばれる高台の下に広がる、カイロ最大の“スラム”と称されている。
スークはもちろん、庶民レベルでの飲食店、食品店の充実ぶりは見事で、コメ、マメ、パスタなどを売る食料雑貨店も多く、黒いベール姿のイスラム女性がどこも群がって買い物をしている。
平均的なエジプト人は、彼は毎日の朝食に卵料理を食べているが、最近ここに「味の素」をかけるようになった。
豆のスープにも合い「味の素」を使うと、肉を入れたような感じになる。肉がなくても肉の味。それは的確に「味の素」の食品としての特性を言いあてたものだった。
「世界のスズキ」三様、すなわち「スズキ・メソード」、「スズキ・アルト」、鈴木商店の「味の素」は、貧困層に寄り添う点で共通している。