戦後食糧秘話

ワレサを指導者とするポーランドの「民主化運動」から、ベルリンの壁崩壊に至る大きな流れが起きるが、ポーランド連帯の労働者達の暴動のきっかけは「肉が食べたい」で「出エジプト」際のイスラエル民衆の不満と同じだったのも面白い。
その動きに端を発して「ベルリンの壁」崩壊が起きているのだから、「肉慾」とはすごいものだ。
日本にも大正時代に「米騒動」や戦後「食糧メーデー」が起きている。
今日の日本人にとっても、食糧難で長く食べられなくなることを想定してみて、つらいものといえば、「お寿司」もそのひとつではなかろうか。実際、そんなことが起きた。
つまり、お寿司が日本から消えかかったことがあったのだ。
終戦で日本全体が食糧難であった。連合国軍GHQは様々な政策を行い、ついに米をつかった飲食店の営業を禁止した。
これでは「寿司屋」ができなくなると、お寿司屋さんは悲嘆にくれた。
「寿司食いてぇ~」の思いは日本人共通のもの、そこで、東京の店主が集まりある話し合いをした。
ある寿司やの当時の回想録によれば、米をうまい飯にするのが一番得意なのが寿司屋なのだから、しっかりとGHQに陳情しようということになった。
ところが、GHQに何度お願いしてもOKしてもらえなかった。
それでも、その灯を守りたいと引き下がらなかった。
そして彼らは、ある「秘策」を思いついた。そのことを示すのが、浅草の寿司屋に残されていたひとつ看板。それは、「寿司持参米加工」という看板であった。
つまり、寿司屋を飲食店としてではなく加工業、「寿司を作るだけの店」として許可を得たのである。
火をたく木をもっていけば、安く泊まれる「木賃宿」を思い浮かべるが、配給のわずかな米をもって寿司屋に詰め掛ける人の姿があった。
とはいっても、もっと大きく本質的な問題があった。配給で米や魚がなく、寿司ネタ手に入らなかったのだ。
方々をまわって寿司ネタをかき集めた。ならづけ、かまぼこまでも使った。
マグロの代わりにマスなどの川魚がつかわれた。タイは入手できないので、白身はフナ。フナなど川魚は骨が多くさばくのにも一苦労だったが、寿司屋自ら川に行って捕ってきた。
アサリの身はいくつも重ねて少しでも豪華に見せ、たまごのオボロは、おからを混ぜてボリュームを出した。
また、カンピョウやシイタケなど、少しでも華やかになるように色合いにも工夫を凝らした。
寿司屋は、もっとお客さんの笑顔をみたい一心でひねり出したアイデアだったが、そんな過程で新しい寿司ネタの発見にも繋がった。
その代表が、戦後の苦境の中で、キュウリを使った「かっぱ巻き」が生まれた。
ではなぜ「かっぱ巻き」という名がついたのか。
河童が好物がキュウリらしい。ではなぜマグロをまいた寿司を「鉄火巻き」というのか。
鉄火巻きの「鉄火」は、もともと真っ赤に熱した鉄をさす語である。
マグロの赤い色とワサビの辛さを「鉄火」に喩えたもので、木質の激しいものを「鉄火肌」や「鉄火者」というのと同じであるのだそうだ。
寿司屋の様々な工夫で、食糧難の時代、一度は消えかけたお寿司の灯は守られた。
「飢餓」というものは、革命のウネリをもたらすし、人々に食材の工夫や新たな活路をもたらしたりもすると同時に、様々な文化や芸術の中にも、「飢餓の記憶」は印刻されているといってよい。
19世紀の後半に、グリム兄弟が集めた民話集を元に作られた「グリム童話集」には、中世から近代にかけてのドイツの飢餓、飢饉の厳しさ、食料を失うことへの恐れに溢れているといって過言ではない。
さまざまな場面で「食べる」ことが物語の中心にあって、食へのコダワリをしめしている。
もっとも有名な「赤ずきん物語」は、赤頭巾ちゃんが「狼に食われる」話で、その後狩人が狼の腹を裂いて赤ずきんとおばあさんを助け出す。
「ヘンデルとグレーテル」の物語で、「お菓子の館」が出てくるのも、食べることへの執着が見られる。
日本では、戦争や飢餓という厳しい現実を背景に、愛すべきキャラクター「アンパンマン」が生まれている。
作者のやなせたかしは1941年に野戦重砲兵として徴兵され、日中戦争に出征した。
やなせは陸軍軍曹として主に暗号の解読や宣撫工作にも携わり、紙芝居を作って地元民向けに演じたりもした。
幸いにも 従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったという。
ただ、その間に弟が戦死している。
終戦後、絵への興味が再発してやなせは漫画家を志すようになる。
そして貧乏だけは嫌いで、三越に入社して宣伝部でグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、精力的に漫画を描き始める。
そのうち漫画の仕事が増え、1953年3月に三越を退職し、専業漫画家となった。
1969年には「アンパンマン」が初登場。ヒーロー物へのアンチテーゼとして作られた大人向けの作品であったが、1969年に子供向けに改作した。
ただし、空腹の人たちの元へパン粉を届けるという点では共通している。

終戦直後の食糧難の時代、連合軍の中で日本に食糧を援助物資として提供したのはアメリカであるが、アメリカほど直接的ではないものの、オランダも日本の食糧支援に大きく関与してきたといってよい。
戦後、日本はオランダと「友好関係」を結び、それがオランダ王室と日本皇室の交流にも表れている。
両家の関わりは、雅子妃の父・小和田恆氏が長くハーグの国際司法裁判所に勤め、オランダ王室との交流があったということが直接の原因である。
しかし日蘭関係は、江戸の鎖国時代でもオランダと長崎出島を窓口とした交流の長い歴史もあったということからも特別な関係といってよかったのだが、両国の関係にヒビがいったのは第二次世界大戦であった。
1942年1月、日本軍は石油資源の獲得を主な目的としオランダ領東インド(現在のインドネシア)進攻作戦を決行し、連合軍を全面降伏させ、ほぼ全域を制圧した。
それに対抗して、オランダは日本の中国侵攻に対しては「ABCD包囲網」の一角「D/Dutch」を形成している。
終戦から占領期を経て、1951年9月、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は独立を果たしたが、西欧諸国との講和に際して、日本が最も腐心したのはオランダへの対応であったといってよい。
オランダは日本によってジャワ・スマトラを占領され、戦後はジャワ・スマトラがそのままオランダから独立するなど、日本に対する国民感情は悪く、講和条約に最後まで難しい注文をつけていたからである。
アメリカの国務長官らが何度か説得を試みても受け付けなかったが、ある日賠償の代わりに「技術援助」(したがって相応の技術料の支払い)に応じるなら、講和会議に参加するという旨が当時の吉田茂首相に伝えられた。
吉田首相は、建設大臣を呼んで「技術援助」を受けるプロジェクトを考えるように指示したが、なかなか妙案が出てこない。
この時、戦後の焼け跡で「都市区画整理事業」を担当していた係長(後の国土事務次官)が「農林省の八郎潟干拓はどうか」と進言したのである。
干拓技術先進国オランダに対して、当時の食糧増産への期待を寄せられながら、様々な難問を抱えた秋田県の八郎潟干拓の技術支援要請は、これ以上のマッチしたものは見出せないといってよいものだった。
そして1953年8月、政府は農林省の担当者をオランダに派遣し、翌年4月にはヤンセン教授とフォルカー技師が来日し、秋田を訪れた。
一行は「八郎潟」を視察した上で、地形や気象、様々な干拓計画など、膨大な資料を調査研究し、同年7月に「日本の干拓に関する所見」通称ヤンセンレポートを日本政府に提出した。
オランダのヤンセン教授によって戦後の「八郎潟干拓事業」の原型が示され、「生めよ増えよ」の食糧増産にハズミがついたのである。
さらに戦後の食糧問題で、日本人にとって思い入れ深い牛乳も、オランダ人との関わりによって生まれたものである。
九州の門司港は、地理的に中国大陸に近いことから国際貿易港として発展してきた。
日清戦争以来、前進基地としての役割を果たし、多くの将兵や弾薬、食料、軍馬などを数多く運んできた。門司港のすぐ近くには「出征軍馬の水飲場」の遺跡が残っている。
また、この門司港対岸の下関の彦島に牛馬の牧場があり、そこに検疫所がもうけられていた。この牧場をもうけたのは、日本の牛乳屋では先駆的な「和田牛乳」である。
そして、この和田牛乳と和田一族には、日本の近代史と共に歩いた家族史があり、一人の「女優誕生」もその小史の一コマとして存在している。
和田牛乳は、徳川慶喜に仕えた幕臣であった和田半次郎よって創業されたもので、いわゆる「士族授産」の一環として誕生したものであった。
当時、50歳を過ぎていた和田半次郎がたまたま住んだ所に、オランダ人に乳牛を学び日本で始めて牛乳製造販売を行っていた前田留吉という男に出会い、その感化を受けた。
さらに半次郎は西洋医学者で初代「陸軍軍医総監」の松本良順らによる牛乳が健康に良いという奨励がなされており、「牛乳の需要」が伸びると見込み乳牛業をはじめた。
ちなみにこの松本良順が、日本で最初の海水浴場を大磯につくった人物である。この大磯には、吉田茂首相の自宅があった。
和田家は日本における牛乳業の草分け的存在で日本で最初の低温殺菌牛乳をつくった一族として歴史に名を刻んでいる。
秋葉原駅近くの旧二長町に牛乳本店とミルクプラントをもうけ、後に北千住などに牧場をもっていた。 二代目和田該輔(かねすけ)の長男の輔(たすく)が後を継ぐべく期待されたのだが、あまりに風来坊気質が強すぎて、とうてい乳牛業にはむかず、輔の弟である重夫が和田牛乳・三代目となるが、この重夫が日本初の低温殺菌牛乳を生んだのである。
ところで、東京神楽坂に「和可菜」という料亭がある。和可菜はいわゆるカン詰用の料亭でここで多くの小説やシナリオが書かれた。
この料亭のかつてのオーナーは、和田つま、つまり「木暮実千代」として知られた女優である。とはいっても、実質的な経営は、つまの妹が行っていた。
木暮は、和田牛乳の三代目と期待された和田輔(たすく)の子供で、四人姉妹の三女として生まれた。
親の期待を裏切り、三代目に成り損ねた輔ではあったが、中国や朝鮮から運ばれてきた牛馬を検疫するために下関の彦島に牧場をつくった。
これが「下関彦島検疫所」となり、戦時下にあって和田家が「官」と繋がることにより、その牧場も政治的な関わりをもつことになったのである。
そのため和田輔の娘・木暮実千代は下関生まれで山口の梅光学院を卒業した。
木暮が日大芸術学部の学生時代に、その美貌が目にとまり松竹にスカウトされ女優の道を志すことになったが、木暮の同期の学生には三木のり平や女優・栗原小巻の父・栗原一登などがいた。
木暮は、女優として成功し、後にいとこで20歳も年上の気鋭のジャーナリスト和田日出吉と結婚する。
和田日出吉は牧場経営には全く関心を示すことはなかったが、新聞記者として当時の政財界を揺るがした帝人事件を題材にした小説「人絹」を書き、一躍「時の人」となっている。
しかし、「和田牛乳」も戦争という事態に抗うことは出来ずに、ついには「明治乳業」に合併されている。

近年、牛乳などの「乳製品」は西洋人の腸には分解する能力が十分備わっているが、日本人の腸にはそれが備わっておらず、牛乳は必ずしも健康にいいとはいいきれないという研究結果が出されたが、この報道に戦後日本の学校給食のことに思い浮かんだ。
見過ごされがちだが、1954年「学校給食法」が制定され、パン食を導入し、アメリカの小麦や粉ミルクを消費するようになった。
我々の世代が、鼻をつまんで一気飲みした脱脂粉乳や、皮が嫌いで中身だけくりぬいて食べたコッペパンなど学校給食の思い出は、実はアメリカの占領政策の転換と結びついていたのである。
1950年、朝鮮戦争勃発によって大量の農産品が兵食として消費されたが53年、朝鮮戦争終結によりだぶつく農産物の行き先探しが急務となった。
アメリカ政府が抱える小麦在庫は三千万tもの膨大な量に膨れ上がり、アイゼンハワーは日本吉田内閣に小麦の輸入上積を要請。
日本は食糧は欲しいが金がない。復興資金も欲しい。そこでアメリカは、代金はドルでなく後払いでよい、 復興資金は20~30年の長期低利の借款にする等々きわめて好条件。
日本政府はこの提案(相互安全保障法=MSA協定)をそっくり受けいれ、農作物購入の返還金で自前の防衛力を整備し、1954年7月に陸・海・空の三軍による「自衛隊」が発足することになる。
結局、「MSA協定」をもって日本は食糧と軍備の悩みから解放されたといってもよい。
その一方で、アメリカは長期にわたる小麦売り捌き先を確保した。そのアメリカの小麦を売りさばいたのが 「日清製粉」という会社である。
ところで、平成天皇の妃・美智子妃殿下には、「粉屋の娘」というのがほぼ固有名詞ともなっていて、現皇后陛下をいう言葉である。
その美智子妃殿下の実家こそが、その父・正田英三郎の「日清製粉」である。
実は、正田家は筋金入りのカトリックなのだという。
「日清製粉」は、群馬県(上州)館林で創業されるが、館林で布教活動をしていた、カトリック神父のフロジャックこそが、正田家に信仰の種を蒔いた人物である。
財団法人慈生会(前身がベタニアの家)の設立者として知られるフランス生まれの神父のフロジャック神父は、1909年に来日、戦前から乳児院、結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。
館林で伝道していたフロジャック神父に感化され、その事業を支援し続けたのは美智子妃殿下の祖母・正田きぬであった。
そのうちフロジャック神父は、皇居にも出入りするようになる。
ところでアメリカの「小麦戦略」は、「米食」民族の胃袋を「粉食」に変えること、もひとつつは学校給食にパンと脱脂粉乳を持ち込み、子どもという「未来の市場」を確保することであった。
1958年、慶應大学医学部教授が『頭脳』という本を出版し、「米食をすると頭脳が悪くなる」と主張し、さらに、小麦食品業界は科学者としての彼を活用し「米を食べると馬鹿になる」というパンフレットを作って、評判になったりもした。
「日清製粉」は国内産ではなく、アメリカ産の小麦粉を扱い、現在日本に入っている小麦粉の80%はアメリカ産であるので、敗戦時のアメリカの目論見は正田美智子妃入内とともに見事に達成されていったようにも見える。
美智子妃は、民間からの初めての皇太子妃誕生となったが、フロジャック神父は、「美智子さん入内が私の最大の作品であった」とその著書に記している。
この言葉、果たして何を意味するのか。
「日本の軍事的無力化」を狙ってきたアメリカが、1950年以降日本に「再軍備」をすすめる一方、学校給食を通じて日本人の「胃腸の再編」を行い、日本の稲作伝統のシンボルたる「天皇制」の弱体化までも謀ったとしたのならば、アメリカの戦略や恐るべし。

米をたんすの中にいれていたため、米からは防虫剤のにおいもあった。それでも、寿司が公然と食べられる。ありがたい。