アジアの柔らかな風

池袋西口といえば石田衣良の書いた「池袋ウエストゲートパーク」の舞台。その場所に不思議な「オブジェ」がたっている。
この幾何学的オブジェは「国際母国語の日」を記念した「ショヒド・ミナール」という碑だが、一体どんな経緯があるのか。
まず、1980年代から90年代にかけて日本経済はバブルをむかえ、池袋のある豊島区のほか、まわりの北区や板橋区、練馬区の、小さな町工場や中小企業で働くバングラデシュ人たちが増えてきた。
そして、この石碑は彼らが母国で背負った歴史と関係が深い。
1947年、イギリス領インド帝国が崩壊し、イスラム教徒の多い地域が「パキスタン」として独立した。 ただ、インドを挟んで東西パキスタンに分離したカタチで、同じイスラム教徒とはいえ、文化や言語が違う。さらに東パキスタンはイギリス支配以前は別の国であったのに、西パキスタンの政治的支配下に置かれることになる。
パキスタン人は、自分たちの言語である「ウルドゥー語」の公用化を進め、東パキスタンの人々が一番憤慨したのは、土地の母語である「ベンガル語」を否定されたことであった。
1952年2月21日には、抗議する人々に対して警官隊が発砲、多くの命が奪われ、この運動が、東パキスタンのパキスタンからの独立戦争に繋がっていく。
そして誕生したのが「バングラデシュ」で、首都ダッカには、ベンガル語を守るシンボルとして、ベンガル言語運動の犠牲者を追悼する国定記念碑である「ショヒド・ミナール」が立っている。
バングラデシュの人々にとって「ショヒド・ミナール」は、民族独立と国際平和の証である。
よって世界各地の、バングラデシュ人が多く住む場所には、そのミニチュアやレプリカが建てられる。
池袋西口に建てられた小さなモニュメントこそ、日本の「ショヒド・ミナール」なのだ。
実は「生物絶滅」ほどには、注目されないのが「言語の絶滅」である。
世界の約6000の言語のうち、半数近くが21世紀中に消失する。もっとも悲観的に見ると、95%の言語が消失してしまうという。
1952年2月21日ベンガル語を護る人々が警官隊に発砲され犠牲となった日は、ユネスコも動いて1999年11月参加188カ国の下、2月21日を「国際母語の日」と制定することを、全会一致で宣言した。

東京・杉並区の地下鉄新高円寺駅に高い場所に日蓮宗「蓮光寺」がある。
何も知らないでこの寺に足を踏み入れたら、境内にある「胸像」と出会って驚くにちがいない。
その「胸像」の主(あるじ)こそ、「インド独立の英雄」チャンドラ・ボースに他ならないからだ。
インドは19世紀より英国の植民地となっており、国民は圧政と搾取に苦しんでいたが、「非暴力・無抵抗主義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち「武力闘争」を掲げた人々がいた。
その代表者が、チャンドラ・ボースで、若くして独立運動に身を投じ国民会議派に属したものの、「敵の敵は味方」「対英武装闘争をも辞さず」との固い信念から、「反ファシズム/非暴力」に固執するガンジー、ネールら「主流派」との対立を次第に深め、やがて会議派を追われた。
そんな折、チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍と協力して「独立運動」を支援しようとした一群の日本人がいた。
ちょうど、孫文の中華革命を支援した志士達とおなじように、彼らもまた西欧の列強の圧迫からアジアひいては日本の独立を守ろうとしたのだった。
ボースはそれに応え、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという「離れ技」を演じるなどして、念願の来日を果たした。
そして、チャンドラ・ボースは集まった日本人に語った。「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。日本こそは、19世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」。
チャンドラ・ボースの来日は、日本でインド独立を志す人々に新しい生命を与えた。
チャンドラ・ボースはインド国民軍の最高司令官となり、シンガポールで「自由インド仮政府」を樹立して独立を宣言した。
さらに1944年3月より日本軍と「インパール作戦」を行い、デリーの英軍攻略をめざした。
翌年インドは独立したものの、パキスタンを失っての独立は、チャンドラ・ボースらが目指した独立とは違っていた。
そこで、チャンドラ・ボースはソビエト軍に投降して「祖国独立」の新たな活路を模索しようと大連へと向かおうとする。
ところが、チャンドラボースを「悲劇」が襲う。台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故によって、帰らぬ人となったのだ。
チャンドラ・ボース48歳の死は、独立革命の志半ばの突然の死であった。
日本の敗戦で台湾も極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の「西本願寺」に運ばれた。
その時、参謀本部から、事故から生還した者達には「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、東京の市ヶ谷の参謀本部に到着した。
そして参謀本部にて、遺骨と遺品とが提出され、インド独立連盟日本支部長で「自由インド仮政府」駐日公使らに渡された。
実は、ボースの遺体を引き取った駐日公使らは「進駐軍(連合軍)」への敵対行動ととられないよう、「控えめ」な葬儀を計画した。
しかし、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところがない。
そこで、ようやくたずね当てたのが杉並区蓮光寺で、当時の住職は「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」とその場で快諾したのである。
葬儀のあと、駐日公使がが住職に「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。住職はあくまで「一時的」なものと思い、それをすんなりと受け入れた。
しかしその後、インド独立連盟に関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、ボースの「遺骨」だけが日本に取り残されることになる。
かくして、チャンドラ・ボースの遺骨はこの蓮光寺の地に安置されてきたのである。

約100年前の日本の静岡の海岸にひとりのアジア系外国人が漂着した。
脚を撃たれて、漁師たちが騒いでいたところ、当地の医師である浅羽佐喜太郎は診療所に連れて行き、漢字による筆談によって会話を交わすうちに、青年も次第にこころを開き始める。
そして、ベトナムからきたというこの青年を患者として秘かに匿った。
1883年以来、ベトナムはフランス領インドシナとしてフランスの統治下に置かれていた。
そんな中、日露戦争が勃発し、大国ロシアに日本が勝利したという事実を知り、矢も盾もたまらず日本に向かおうと、この青年は1905年日本へと密出国し静岡の海岸へ漂着したのである。
実は、この青年はホーチミンの陰のもうひとりの独立運動の志士で、ベトナムの政治団体・維新会のリーダーであったファン・ボイ・チャウであった。
ファンの渡日の目的は、フランスに対して「独立戦争」を仕掛けるための武器の調達であった。
浅羽医師は、大隈重信を通じて犬養毅にファンを紹介するが、犬養はいまベトナム人に武器を渡せば、フランスとの関係が悪化すると拒否した。
そこで日本とベトナムの差を感じたファン・ボイ・チャウはベトナムに向けて「啓発本」を書いて、ベトナムから留学生を日本を呼びたいと浅羽に申し出た。
1905年、ファンは一度ベトナムに戻り、街頭で独立の志士を募り、犬養、大隈の提案により、「ベトナム独立運動」を目覚めさせるために多くの若いベトナム学生を日本に留学を促したのである。
これが、いわゆる「ドンズー(東遊)運動」のはじまりである。
そしてベトナムからの出入国が禁止されていた困難な状況下、200人ものベトナム人が日本に来た。
そして日本の教育や政治体制を学んだファン・チュー・チンという青年はハノイに帰り、1907年、福沢諭吉の慶應義塾に倣って「東京義塾」を設立した。
ちなみに名称の東京はドンキンというベトナム語の漢字表記であり、当時のハノイ周辺を表す地名であり日本の東京とは無関係である。
しかしこうした動きに、フランス軍が黙っているはずがなく、留学生の親族を投獄し、送金を妨害するなどの措置をとった。
さらに1907年、「日仏協約締結」により、日本政府は正式にフランスのベトナム領有を認めることになり、翌年には、フランス政府の要請により、ベトナム人留学生の退去が命じられる。
そして日本に対しても留学生の引き渡しを要求してきたため、翌年にはついに日本政府が留学生の解散を命じた。
多くの留学生は日本を離れたが、ファン・ボイ・チャウは日本に残り、残った留学生の支援を続けたが、資金は底をついてしまった。
その資金援助をしてくれたのが、またしてもあの浅羽医師であった。浅羽からもらった金でファンが行ったのは、ベトナム人への啓発図書の印刷であった。
日本で印刷し、本国に持ち込もうという計画であったが、日本の官憲によって押収される。
そして間もなく、日本へ留学していたベトナム人留学生は全て国外追放となり、「ドンズー運動」は終わりを迎えた。
ファンは絶望し、浅羽の家を訪れ謝罪するが、浅羽からは予期しない激励の言葉がかかった。
「まだ終わっていない。あなたの本は、ベトナムの地でいつか芽を出す」と。
ファンは再会を約束して別れるが、その時浅羽は結核を発症していた。
その後、ファンは中国に逃れて「越南(ベトナム)光復会」を設立し、武力によるベトナムの解放を目指した。しかし、ファンはフランス総督府に逮捕され、死刑は免れたものの終身刑を言い渡され、コンダオ島に流刑される。
1911年に恩赦で釈放された後にフランスへ追放されるが、パリでホー・チ・ミンと活動を行い、1917年に再び日本を訪れた。
しかし浅羽佐喜太郎はファン・ボイ・チャウが日本を発った翌年の1910年9月に結核により亡くなっていた。そして、浅羽の死を知ったファンは浅羽佐喜太郎家の墓所である「常林寺」境内に自らの思いを刻んだ「石碑」を建てた。
高さ3mあまりの石碑には以下の意味の文言が刻まれている。
「われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む」。
ファンは1925年にサイゴンに帰国後、しばらくして病気で生涯を終えた。
静岡県袋井市には、現在でも「浅羽ベトナム会」という組織があり、ベトナムとの交流が続いている。

大正から昭和初期にかけて、松坂屋の初代社長である15代伊藤次郎左衛門祐民の別荘「揚輝荘」は、名古屋市覚王山の丘陵地に建設された。
伊藤は、実業家としては、江戸時代から続く「いとう呉服店」を1910年に株式会社化し、名古屋では初となるデパートメントストア形式の店舗を栄に開店した人物である。
開店に先立ち、 日本実業家渡米団に名古屋の代表の一人、最年少で渡米団に参加し、団長を務めた渋沢栄一をはじめ、経済人としての視野の拡大と全国的な人脈づくりを行った。
そうした「社交の場」として建築された「揚輝荘」は園遊会、観月会、 茶会などが催されるが、「アジア交流」の場所としても名を残すことになる。
というのも1910年、「いとう呉服店」栄店の開店当日、店に偶然立ち寄ったビルマ僧ウ・オッタマとの交流はその後の伊藤に大きな影響を与えた。
ビルマの僧侶であり、独立運動家でもあったオッタマは浄土真宗本願寺派第22世法主・大谷光瑞の招きで来日、日本の実状を見聞すべく東京まで歩いて旅をする途中であったという。
来日したオッタマは伊藤家に宿泊すること度々で、ビルマからの留学生受け入れを口約束した伊藤の元に6人の留学生を送り、伊藤は自宅で同居しながら日本語や作法などを教え、これが後に揚輝荘に多くの海外留学生を受け入れるきっかけともなった。
オッタマの来日がイギリス政府によって禁止された後、伊藤は1934年のビルマ・インド歴訪の際にオッタマと再会、共に仏跡を巡っている。
この時の感謝の思いから、1989年「ビルマ奨学会」を立ち上げ、ミャンマー人留学生を支援している。

横浜「山下公園」には、フリピンの独立運動の志士「リカルテの胸像」がある。一体、どんな経緯があるのか。
フィリピンはスペインの植民地であったが、1898年、スペインとアメリカとの間で米西戦争が勃発し、この機に乗じて革命指導者の 一人 エミリオ・アギナルドが「フィリピン独立」を宣言し、自ら初代大統領に就任する。
しかしスペインを打ち破ったアメリカは、新たな宗主国として居座る。フィリピン革命政府はこんどは米国との戦いを始め、日本にも駐日外交代表を日本に送って支援を求めてきたが、明治政府はロシアの南下が迫る中、アメリカとことを構える余裕はなかった。
この時、革命軍総司令官として独立戦争を開始したのが33歳のアミルテオ・リカルテであった。
スペインを破った後に豹変したアメリカに対して、リカルテは再び革命軍総司令官として2度目の「独立戦争」を開始した。
日本国内有志が300トンもの武器弾薬を送るが、台風に襲われ「布引丸」は武器弾薬とともに東シナ海に沈没してしまう。
その後も5人の陸軍予備役将校やフィリピン在住日本人約300人が「義勇軍」として独立戦争に参加している。
1900年6月、リカルテは捕らえられ、続いて翌年3月、アギナルド大統領が逮捕され、2人の指導者を失った革命軍は米軍に屈服したため、1899年2月から3年5ヶ月におよぶ独立戦争は失敗に終わった。
1902年よりアメリカが本格的にフィリピンを統治し始め、リカルテ将軍はアメリカに鎮圧されて一時、囚われの身になるが、日本の志士らの援助で脱獄して日本に亡命する。
しばらく名古屋に潜伏した後、後藤新平などのはからいで、1923年に横浜に移住している。
さらに大東亜戦争が始まると「フィリピン独立」の約束を取りつけ、日本軍とともに75歳の老躯を駆って、祖国フィリピンへの再上陸を果たす。
1943年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、「フィリピン共和国」として独立の日を迎えるが、その後日本軍が敗退、リカルテ将軍の副官太田謙四郎らと逃避行軍を続け、その後80歳で亡くなる。
1971年には、将軍が亡命中に住んだ横浜市の山下公園に「リカルテ将軍」記念碑が建立された。
ところで、中島みゆきに「EAST ASIA」(1992年)という曲がある。
♪山より高い壁が築かれても、"柔らかな風"は笑って越えていく。力だけで心まで縛れはしない♪といった詩が光る。
この分断の時代、「アジア人のアジア」という大義以外何の栄達心もない市井の人々の「柔らかな風」が、その遺跡とともに霞んでいるのは、残念なことだ。