福岡県人と武術

近年、北九州の折尾警察署が、「ブラジリアン柔術」の実技講習を行った。警察官80名を対象に行なったというからかなり本格的なものだった。
柔剣道では不足があるのかとの思いもあったが、「ブラジリアン柔術」は日本起源と知って、幾分納得した。
「ブラジリアン柔術」は、創始者の名前から「グレイシー柔術」とも呼ばれる。
ブラジルに移民した青森県出身の日本人柔道家・前田光世が、自らのプロレスラーなどとの戦いから修得した技術や柔道の技術をカーロス・グレイシー、ジュルジ・グレイシーなどに伝え、彼らが改変して出来あがったものである。
「ブラジリアン柔術」には、護身術と格闘技という側面があるが、最初に前田光世から手ほどきを受けたエリオ・グレイシーは小柄で喘息持ちであった。
そんなエリオでも自分の身を守り、体格や力の上で劣る相手でも勝てるように考案されたのがグレイシー柔術、すなわち「ブラジリアン柔術」である。
それは、寝技の組み技主体であるが故の安全性の高さや、全くの素人からでも始められるハードルの低さから、競技人口が急速に増加している。
「ブラジリアン柔術」は、ロスアンジェルス市警はじめ海外にて、犯人逮捕の実践に導入されているが、日本で導入されたのは、福岡県が初めてである。
実際、福岡博多駅近くに「ブラジリアン柔術」の看板を掲げた道場が存在するが、他に「香港のカンフー」と深い関わりをもつ福岡出身の人物がいる。
ブルースリー主演の映画「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ「格闘シーン」はブルースリーの映画の中でも圧巻であった。
このシーンを撮ったのが、日本人カメラマン・西本正である。
西本正は1921年、福岡県筑紫野市に生れた。少年時代を満州ですごし、満州映画協会の技術者養成所に入った。
1946年、敗戦とともに日本に帰り、日本映画社の文化映画部を経て、1947年新東宝撮影部に入社した。
新東宝で西本は、中川信夫監督作品などの撮影監督をつとめ1950年代には香港へ渡っている。
西本正が新東宝にいたとき、当時の社長が香港ショウ・ブラザースの社長と知り合いで、カラー映画の製作が始まったばかりの香港で本格的なカラー大作を作るのでカメラマンを貸してくれという話が起こった。
西本が香港に招待され、独立してCMの製作をしていた時、ショウ・ブラザースから独立した会社の社長から電話があり、ブルース・リーの第一回監督作品のカメラマンを依頼されたのがきっかけである。
最初はローマ・ロケだけを頼まれたが、ローマの現像所でラッシュを見たらカラーの出が素晴らしいので、ブルース・リーが西本の技術にすっかり惚れ込んでしまったという。
実は、ブルースリーの遺作となった「死亡遊戯」のクライマックスシーンも西本正の撮影である。
西本正は、日本の高度な映画技術を伝達し、いつしか「香港カラー映画の父」とも呼ばれる。
実は、日本における映画技術は、「戦意高揚」のための映画づくりによって磨かれていた。
アメリカの陸・海軍とは違い、日本の映画づくりでは、実際の飛行機を飛ばしたり、戦車を動かすのに予算がたりず「特撮」という技術を開発せざるを得なかったのである。
また日本軍部は機密保持がきわめて厳しく資料や写真も公開してくれなかったため、ミニチュアの飛行機をワイヤーで吊るして飛ばし、大きなプールに模型の戦艦を浮かべた特撮セットがつくられ、「らしく見せる」ための様々な工夫がなされた。
日本の特撮技術の発達にはそうした「お家の事情」が作用していたのである。
戦争が終わり日本で高度経済成長がはじまった1960年代に日本は世界トップクラスの「特撮技術」をもっていたといってよい。
特に新東宝の特撮技術・設備は世界一を誇っており、円谷英二監督によって怪獣映画「ゴジラ」が制作され一世を風靡した。
こうした怪獣映画はそうした「特撮技術」をもって実現したものである。
「ブルースリーを撮った男」西本正は、香港映画ばかりではなく日本のホラー映画の撮影でも「新境地」を開いている。
新東宝の中川信夫監督の下で撮影したホラー映画の傑作「亡霊怪猫屋敷」(1958年)や「東海道四谷怪談」(1959年)にもそうした技術が遺憾なく発揮されている。
西本正は1997年1月に死去している。

かつて、福岡市舞鶴の少年文化会館近くに「長屋門」という居酒屋があった。
たまたまその店に入ると、店内には、なぜか槍や鎧の置物がたくさんあった。
ある時、福岡在住の外国人の書いた本に、この「長屋門」の店主の紹介文が書いてあり、「長屋門」の店主・母里忠一氏が、黒田節の主人公である母里太兵衛(ぼりたへい)の子孫であることを知ったのである。
ご先祖である母里太兵衛は、黒田長政より使いにだされ、豊臣秀吉配下の実力者・福島正則に面会した。
太兵衛は、あらかじめ酒豪・福島正則の話を聞いており、本来の役割を果たすためにも酒を控えるつもりでいた。
しかし太兵衛は福島正則に「この大杯で酒を飲みほすならば望みのものは何でもあたえよう」という挑戦をうけ、黒田家臣の威信をかけて見事大杯を呑み干したのである。
そして苦る福島正則から名槍「日本号」をうけとった豪傑・母里太兵衛の話は、福岡城内で有名になった。
明治になって作られた謡曲「黒田節」によって名槍「日本号」はあまりにも有名になった。
「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、呑みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」。 この母里太兵衛の子孫・母里忠一氏は、黒田藩に伝わる「柳生新陰流師範」として、子供達に剣道の指導をしておられる。
その剣は、ヤイバではなくミネで撃つ点に表れているように、剣の心は人を殺さず生かすことに使うものだという。
また黒田藩に伝わった名槍「日本号」は、代々家宝として伝わり秘蔵されてきたが、様々な経緯を経た後に、現在は福岡市博物館に保管されている。
なお母里太兵衛の自宅の門「長屋門」が、福岡城址の平和台陸上競技場近くに保存されている。
ただしここは移転したものであり、母里太兵衛の自宅がもともとあった場所ではない。
母里太兵衛のもとの自宅は、現在の天神の明治通りに面する野村證券ビルがたっている辺りである。
また、名槍「日本号」と大杯をかかえた母里太兵衛の像は福岡市西公園にあるが、その像の顔が母里忠一氏にこころなしか似ているようにも見えるのは気のせいだろうか。

福岡には、呑みとり槍「日本号」ほどに派手ではないにせよ、もうひとつ「黒田の杖」と呼ばれるものがある。
実用の面からすると、その果たした役割は、名槍「日本号」を凌いでいるといってよい。
前述の「ブルースリーを撮った男」西本正が生まれた筑紫野市には、宝満山が聳え立っている。この宝満山こそは、「黒田の杖」を生んだ「神道夢想流杖術」の発祥の地である。
ところで、宮本武蔵といえば江戸時代初期に実在した剣豪だが、生涯で60回以上戦い一度も負けなかった。
つまり「生涯無敗」だったということだが、逆にいうと、武蔵に敗れた者達がそれだけ数多くいたということである。
それでは、その敗れたライバル達は、その後どんな人生を歩んだのだろうか。
柳生一家は他流派と戦うことを禁じ徳川家の剣術指南役となり、吉岡一門は剣とは異なる道「染色」で天下に名をあげた。
そして武蔵に負けたことで新たな術に目指した「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という男がいた。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120センチの長い木刀で挑んだのに対して、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。
夢想権之介は数多くの剣客と試合をして一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と試合をして、二天一流の極意「十字留」にかかり押すことも引くこともできず完敗する。
権之介は、この武蔵の剣術に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参拝し、「丸木をもって水月を知れ」との御信託を授かった。
夢想権之助は今から約400年前に宝満山を拠点にして修練を重ね福岡藩に抱えられ、術を広め「神道夢想流杖術」という武術一派を確立した。
その特徴は剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツクものである。
個人的な話だが、あるテレビ番組で、その「杖使い」を見た時、どこかで見た「杖使い」だと思った。
しばらく記憶を呼び起こすと、それはかつてテレビで見たことのある新人警察官の訓練における「棍棒使い」とよく似ていた。
ところで、「神道夢想流杖術」は当初「真道夢想流」と称していたが、5代原田兵蔵が自身の工夫を加え新當夢想流と改称した。
7代永富幸四郎のころよりおおいに隆盛し、「伝書」の整理が行われ、徐々に「神道夢想流」と称されるようになった。
黒田藩の下級武士が学ぶ捕手術「男業(だんぎょう)」のひとつとして伝えられ「黒田の杖」と称されるに至った。
1796年に永富幸四郎の門下の大野久作が「春吉地区」、小森清兵衛が「地行地区」の男業師役に任用され、以降1902年に統一されるまで「二系統」にて伝承されることとなった。
明治維新後の廃藩置県で、保護者を失い衰退した時期もあったが、白石範次郎なる人物が道場を開き流派の継承に尽力した。
1927年、警視庁の弥生祭奉納武術大会において福岡県から参加した白石の弟子である清水隆次の「神道夢想流杖術演武」が好評を博した。
清水はこれをきっかけとして警視庁の「杖術教師」となり、特別警備隊(後の機動隊)の警杖術訓練を指導した。
清水が教えたの警杖術は群衆整理を主目的とするものであったが、場合によっては武器としても活用できるように訓練された。
最近知った話だが、福岡県警では、部署対抗の「逮捕術」の大会が定期的に開かれているという。
「県警察逮捕術大会」は、道着に防具とシューズを身に着けた2人が、9メートル四方の畳の中で戦う。
武具を持たない「徒手」、長さ60センチの「警棒」、約130センチの「警杖」、ナイフを模した「短剣」の4つのスタイルがある。
同じ用具、また徒手同士で戦う「同種試合」だけでなく、異なる用具で戦い、試合の前後半で用具を交代する「異種試合」もある。
同じ条件で対戦する柔剣道とは違い、「容疑者と警察官の相対」という実践を意識しているのが特徴だ。
「逮捕術」の起源は終戦直後、沖縄から鹿児島県に寄港した米軍兵士による警察官暴行事件が相次いだことによる。
そのことを知った鹿児島県警本部長が「柔道や剣道の素養がなくてもすぐに役立つ護身術を」と提案したのがきっかけとなった。
「逮捕術」の基本構想が生まれたのは戦後まもなくの1947年で、当時各県の警察が「逮捕術」を研究していたが、一地方では普遍的な技術の制定は難しく、全国的な規模の下に総合的に研究する必要があった。
警察庁は柔道の永岡秀一、剣道の斎村五郎、杖術の{清水隆次」、神道楊心流柔術・空手の大塚博紀、ボクシングのピストン堀口らを制定委員に任じ、彼らの技術を組み合わせ、「逮捕術」を創案した。
この年、今の警察庁にあたる内務省警保局が「逮捕術範」「逮捕術実施要領」を定め、その後、各都道府県で導入されていった。
この「逮捕術」のひとつと数えられるのが、「神道夢想流杖術」を源流とする「警杖術」だが、「警杖」とは警棒より長く、全長は90cm・120cm・180cmの3種類が存在する。
警備用の装備品であるが、犯罪捜査の際に遺留品を探すために藪を掻き分けたり、応急処置の担架の芯としても利用されるなど、広い用途で使われている。
主に機動隊が装備するが、デモ活動の規制など乱闘が予想される現場には持ち込まない。
これについては、ひとつのエピソードが残っている。
1949年5月30日・31日、 東京都公安条例制定反対デモの取締りに警視庁予備隊が警杖を持って出動し、65名を検束した。
このときGHQの指示で採用されていた新警棒を使用しなかったため、警視庁教養課長がGHQに呼び出され厳重な勧告とともに警杖の使用を一時禁止されたことがある。
そもそも、「杖術の技法」は手の内の打突を主とし、相手を打ち倒し殺す技ではない。攻撃点は当て身において即倒させる部位であり、殺さずに捕える捕手術の特徴が表れている。
道歌に「疵つけず 人をこらして戒むる 敎えは杖のほかにやはある」(平野國臣)とある。
また、その技法の大要は「突けば槍 払えば薙刀 持たば太刀 杖はかくにも 外れざりけり」と伝書に記されている。すなわち杖は突き、払い、打ちの千変万化の技を繰り出すことができるということである。
要するに警杖術の極意は、「安全で効果的な制圧」につきる。

福岡市東公園には、福岡県庁と並んで福岡県警察本部が置かれている。
実は、この東公園にシンボルとなる「亀山上皇像」を作ったのが、湯地丈雄という警察関係者である。
「亀山上天皇」建立のきっかけとなったのが、「長崎事件」である。
日清戦争の10年ほど前に、清国の定遠、鎮遠という大型戦艦が長崎港に入港し、その大きさに長崎市民が圧倒された。
というのも、定遠は7700トンの大型艦で、かたや日本海軍の当時の一番大きな船でも2000トンクラスしかなかったからである。
長崎市民がその大きさに度肝を抜かれていた頃、清国兵が長崎の町で乱暴狼藉をはたらき現地の警官と衝突した事件があった。これを「長崎事件」という。
福岡の警察署長であった湯地はその事件の応援に行き、この事件は日本人の「平和ボケ」からきていると思い始めた。
そして、いつ外国が攻めてきてもおかしくないと危機感を持つべきだと思うようになった。
そして、この福岡の地に元寇の記念館がないことに着目し、一念発起して元寇の記念碑を建てることを決意したのである。
元寇は当時唯一日本本土が外国から攻められて火に焼かれた場所で、現在の東公園こそが元との戦いの舞台となったところで、その時のて朝廷方のトップが「亀山上皇」であった。
亀山上皇の「敵国降伏」の文字のある篇額が筥崎八幡宮の門に掲げてある。
湯地は、警察署長の職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めていったが、なかなか集まらず生活も極貧の中で妻や子供に苦労をかけながらも20年の歳月をかけて福岡市の東区に亀山上皇の立派な銅像を建立したのである。
亀山上皇像の台座には、福岡県が生んだ首相・広田弘毅の父親などを含む数名の制作者(石工)の名が刻んであるが、湯地の名はない。
ただ、妻と子の名前を書いた石を下に埋めたのだという。

 ところで、宮本武蔵は江戸時代初期に実在した剣豪だが、生涯で60回以上戦い、一度も負けなかった。 つまり生涯無敗だったという。逆にいうと、武蔵に敗れた者達がそれだけ数多くいたということである。  それでは、その敗れたライバル達は、その後どんな人生を歩んだのだろうか。 柳生一家は他流派と戦うことを禁じ徳川家の剣術指南役となり、吉岡一門は剣とは異なる道「染色」で天下に名をあげた。 そして、武蔵に負けたことで学び、新たな術に目覚めた「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という男がいた。 この人物こそ、福岡の宝満山で武術を磨いて一門をつくり、その武術は「黒田の杖」ともよばれた。  今から約400年前に夢想権之助は、宝満山を拠点にして修練を重ね「神道夢想流杖術」という流派を築いたが、その特徴は剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツくものである。  テレビでその「杖使い」を見た時に、どこかで見た「杖使い」だと思った。 それはかつてテレビで見たことのある新人警察官の訓練における「棍棒使い」と似ていた。  ところで夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120センチの長い木刀で挑んだのに対して、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。 夢想権之介は数多くの剣客と試合をして一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と試合をして、二天一流の極意「十字留」にかかり押すことも引くこともできず完敗する。 権之介は、この武蔵の剣術に目覚めさせられたのである。 以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参拝し、「丸木をもって水月を知れ」との御信託を授かった。そして福岡藩に抱えられ、術を広め「神道夢想流杖術」という武術一派を確立したのである。  「神道夢想流杖術」は当初「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、廃藩置県で庇護者を失い急速に衰えた。 しかし、白石範次郎なる人物が道場を開き流派の継承に尽力した。そして昭和のはじめ白石の高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節などの玄洋社社員の後援をうけて普及発展をはかった。 その後「大日本杖術会」を発足させ、それをもって柔道の講道館、警察の警杖術を指導したのだという。  つまれ「神道夢想流杖術」の流れは、日本の警察で「警杖術」として採用されたのである。 新人警察官の訓練を見たとき、「神道夢想流杖術」と似ていると思った我が直感は正しかったのだ。
逮捕術(たいほじゅつ)は、日本の警察官、皇宮護衛官、海上保安官、麻薬取締官、麻薬取締員、自衛隊警務官などの司法警察職員、または入国警備官などの法律上は司法警察職員ではないが司法警察職員に準じた職務を行う公務員が、被疑者や現行犯人などを制圧・逮捕・拘束・連行するための術技のことである[注釈 2]。また、職務を行う者の受傷事故を防ぐための護身術としての意義もある[2]。