「時代」の置き忘れ

福岡県大刀洗町は文字通り「いくさ」と関わりの深い町である。その町名は、南北朝の戦いで南朝の菊池武光が川で血刀を洗ったことからつけられた。
太平洋戦争の末期には神風特攻隊の基地として知られるようになった。
現在はほとんど利用客のいない甘木線西太刀洗駅のプラットホームが異常に長いのは、かつての繁栄の名残りを留めている。
15年ほど前に、戦争中に大刀洗ですごした人々の「生の声」が聞けたらと思い、JR大刀洗駅を降りると、戦闘機が屋根上に置かれた平和記念館がすぐに目にはいってきた。
とりあえずこの記念館に入ってみると特攻隊員の遺書や戦争中に使用された日用品の数々が展示してあった。その展示品の中できわだっていたのは、博多湾から引き揚げられ復元された「97式戦闘機」である。
この平和記念館を建てられた建設業者の渕上宗重氏は、神風特攻隊の出撃基地であった鹿児島県・知覧に行ったときに、そこに「太刀洗基地分校」と書いてあるのに気づいた。
分校である知覧にこれだけの平和記念館があるのに、本校の福岡県大洗町には記念館もないことを遺憾に思い、自費で記念館をJR大刀洗駅に建設することにしたのである。
この記念館で、漫画家の松本零士氏の父親から寄贈された戦闘機の車輪のホイールが展示してあるのを見つけた。松本氏の父親は、太刀洗飛行場のパイロット育成のための教官だったそうで、松本氏の漫画「宇宙戦艦大和」などの中には、そうした父親像がきっと反映されているのだろう。
ちなみにアクション俳優の父親・千葉真一の父親も特攻隊の教官で、千葉は福岡市南郊の雑餉隈で生まれている。
また、渕上氏が個人で立てられた太刀洗平和記念館は今、筑前町の運営に移行し「筑前町立大刀洗平和記念館」として整備されている。
さてこの平和記念館をでて、太刀洗飛行場の旧営門にむかい、道を尋ねようと営門前にある佐藤美容室(仮名)に立ち寄った。
そこで出会った人が佐藤月路(仮名)さんである。佐藤さんは、お客が手が空いていたせいもあり、近くにあるいくつかの飛行場遺跡に連れていってくださった。
旧飛行場で使っていた井戸、飛行機の射撃訓練を監督する監的壕跡、そしてくずれかかったレンガが残る憲兵隊跡などであった。
佐藤さんの両親は、戦争時よりこの場所で理髪店を開いておられ、佐藤さんの母親は故里をはなれた特攻隊員に「お母さん」と慕われていたそうである。
そして出撃間近い特攻隊員に料理をしたりお菓子をだしたりしてつかの間の交歓の時を過ごした。
知覧で「特攻の母」と呼ばれた鳥浜トメことを思い出した。佐藤さんの母親もやはり、鳥浜トメと同じように隊員達の母として隊員達に接しておられたのではないかと思う。
佐藤さんの話の中で印象的だったのは、今なお旧飛行場関係の方がこの地を訪れ、営門にすがりついて泣きくずれる姿を見かけるそうである。この場所にはあまりにも重い思いが詰まったところなのだ。
数ヵ月後の夏の日、特攻隊員自身の「生の声」が聞きたいと再び大刀洗を訪れた。
JR大刀洗駅の待合室に佇んで我が願いが空しく過ぎ去ろうとしていたその時、コンビニエンスストアの袋をもって自分の向かいの席に座った老人が、思わぬ道を開いてくれた。
 誰か特攻隊員の知り合いはいませんかと尋ねたところ、自分は太刀洗飛行場で特攻機の整備をしていたといわれた。
名刺を渡すと、自分の名前を「木田」(仮名)と名乗られ、木田氏の印がなければ、最終的に特攻機は飛び立つことができなかったと言われた。
そうした立場で一番つらかったことは、まだ少年のあどけなさが残る航空兵を送り出すときだったそうである。隊員達がどんなに手をふって出撃しても、下をむいて何もいわずに手をあげて送り出すことしかできなかったと言われた。
そういえば映画「永遠のゼロ」でも航空訓練生になぜかなかなか「可」を出さなかった「宮部久蔵」の姿と重なった。
木田氏によると大刀洗飛行場周辺では、いまだに航空機を整備した際のボルトやナットが埋まっているそうである。
木田氏はそうした物を見つけると宝物のように持っているのだと、自分にそうして拾ったものをポケットから出してみせてくださった。それらは、「時代の置き忘れ」というべきものだった。
ホームページで紹介したいので写真をとらせてくだいというと、「私の人生は終わりました。どうぞご遠慮なく」といわれた。そして写真をとる時に、温和な表情が見事に軍人(軍属)の顔になった瞬間がとても印象的であった。

最近、NHK番組で「デニムハンター」の世界を知った。その人の名前は、ブリット・イートン、1970年ニュージャージー生まれ。
経歴はといえば、1992年、22歳のとき、中古のハーレーダビットソンをオランダのロッテルダムに輸送、ノルウエーでツーリング開始した。
アメリカに戻り複数の仕事を転々とし、1997年、27歳トレッキング探検会社に入社し、プエルトリコのメカジキ延縄(はえなわ)漁船に乗船し、フロリダの倉庫に大量の中古のリーバイスを持っているという噂を聞き、ブリットはあることを思い出す。
ノルウェーのハーレー・ダビッドソンの顧客たちが「今度来るときには、バイクと一緒にヴィンテージのリーバイスも一緒に持って来て欲しい」といっていたこと。
「ヴィンテージ(年代モノ)市場」に注目した彼は、フロリダに戻り750ドルでその梱包を購入する。
彼がその梱包のストラップを切ったとき、山のような量のデニムがあふれ出た。
だが、そのジーンズの山は、穴がいっぱい空いているうえに、裂け目だらけで相当ひどい状態だった。
まだ、「デニム・ヴィンテージ」の知識を持っていない彼は、夜通しジーンズを修復することに時間を費やす。
そして、つぎはぎして修復したデニムを、3着10ドルのセット販売でフリーマーケットに展示する。ところが、思うようには売れず利益はわずかなものであった。
しかし、ある日このフリーマーケットでブリット・イートンは「あること」に気がついた。
一部の客たちは、ぼろぼろのジーンズの状態に関係なく、興奮しながらそのぼろ布を積み上げているのである。
彼らこそが、その後の顧客となる、ヴィンテージのデニム・マニアたちであった。
このとき、ブリットは初めて、デニム・ヴィンテージの価値に気が付く。
それ以来、彼は独学でリベットや縫い目、デニム・タイプ、ラベル、サスペンダー・ボタンの位置等を学んでいく。
例えば、誰でもおおよその年代が分かる簡単な方法は、リーバイスのバックの赤タブに大文字の「E」があるか。リーバイスは1971年に小文字の “e”に切り替えている 大文字だったら1971年以前のデニムとなる。
その他、バックルバックはあるか、サスペンダーボタンはありるか、バックポケットはいくつあるかなどで年代が判別できる。
歴史家によると、「ジーンズ」が初めて誕生したのは1873年、リーバイ・ストラウスがデニム・パンツの縫い目に、リベットを入れたときだそうだ。
リーバイ・ストラウスは、第二次世界大戦後までは、米国東部でジーンズを販売していなかったため、東部でヴィンテージを見つけることは困難であった。
そこで、 ブリットは1997年8月にコロラドに移住し、ロッキー山脈沿いに旅を始める。
西部開拓時代、19世紀の鉱山ブームでは多くの人々が一攫千金を夢見てコロラドに集まってきた。
その旅において彼は、数ある中古品店は「ヴィンテージ」を収集するのに最適な場所ではないことを体感する。
ヴィンテージとは、「要らないから売ったモノ」ではなく、「何代にもわたって着古されて忘れ去られたモノ」であるということ。
曽祖父たちが着ていた歴史ある服を収集する際に、一番重要なことはその情報源であった。
彼は、街のバーやカフェ、ガソリンスタンド、アンティークショップなどで話しを聞き、情報収集を行って、特に価値のある情報は忘れ去られた情報だという。
19世紀のアメリカにあったはずの何世代も続く牧場の家族の電話番号や地図上にも存在しないゴーストタウンとなった町の住所など。
鉱夫たちの旧サロンなどにも、宝は埋まっていると彼は言う。
そして、運良く宝のありそうな地に辿り着いた後、彼が最も大切にしているルールがある。
それは、「そんなとろこには何もないよ」と人が言ったことを信じないこと。
ぼろ切れの宝物は、誰も寄り付かないような農家のゴミ堆積場、捨てられた車、燻製場の中などの、誰も寄り付かないような場所に隠されているからである。
このような、宝を探す旅を彼は「デニムサファリ」と呼んでいる。
いまや、彼の顧客は世界中のヴィンテージファンばかりではなく、リーバイス、ラルフ・ローレン、ディッキーズなどの主要メーカーと直接取引を行い、ボロボロの切れ端やデニムを探し、年間数千万円は稼いでいる。
それらは、開拓者精神という「アメリカン・スピリット」の置き忘れだけに、人々をひきつけるのだろう。

近年、山形県米沢市で、戦時中に海外に出征している夫に宛てた軍事郵便約340点を発見された。戦地に送られた手紙類がこれだけまとまって残っているのは珍しいという。
「昨晩もあなたの夢のみ見て居りました」など、夫を恋い慕う言葉や、子供がクラスの副級長に選ばれ大喜びしていたことなど、子供の成長を綴ったものが多い。
最近、軍事郵便が多方面から関心が寄せられているが、それは「軍事郵便」が、高度に知的で「かけがえのない」対象である価値を持っているからにちがいない。
「元気でいます」と戦地から届いた1通の葉書にも、多くの人たちの万感の思いがこもっている。
軍事郵便の一般への注目のきっかけは、2006年12月に、クリント・イーストウッド監督のアメリカ映画「父親たちの星条旗」に続く「硫黄島からの手紙」で、映画の人気と相乗して一般的な関心が高まった。
この映画は、1944年、日本軍にとって戦況悪化のなか、陸軍中将・栗林忠道が硫黄島に最高司令官として赴任し、アメリカとの9ヶ月余りの死闘を繰り広げた結果、日米双方ともに二万人余りの犠牲者を出して終わった硫黄島の闘いが舞台となっているが、物語は、硫黄島の地中から数百通もの手紙が発見されるところからはじまる。
その手紙こそ、硫黄島で戦い、激闘の末、そこで死んでいった男達が、愛する家族に宛てて書き残していたものだったが、軍事郵便として海を越えて運ばれ、それぞれの家族に配達されることはついになかった手紙だったのである。
実は、戦没学徒兵の手記や手紙について、大いに関心をよんだ時代があった。1949年に「きけわだつみのこえ」が発刊され、全国の戦没学徒の遺書などのほかに、父母や兄弟に宛てた手紙や葉書を中心にまとめられた。
全国から309人もの手紙類が集まり、その中から75人のものを採録した。
この本は20数万部ものベストセラーとなった。
ちなみに、また、学徒兵ではない兵士の手紙については、岩手県農村文化懇談会が1961年に刊行した「戦没農民兵士の手紙」がある。
ところで東北大震災を機に日本に帰化し日本に骨を埋めることを決意したドナルド・キーンは、東北の震災による瓦礫の跡に終戦直後に東京に見た「焼け跡」とを重ねたに違いない。
キーンは太平洋戦争の終結後「翻訳将校」として日本という敵対国に、「源氏物語」の国として憧れを抱いてやってきた。
当初、キーンはヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされたジャンク本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
キーンによると、ナチスや日本のファシズムの興隆という世界の「暗雲」と比べて、「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかったという点。
そしてキーンは、なによりも「光源氏」の人物像にひかれたという。
それは彼がこの世の権勢を握ることに失敗したからというわけではなく、人間としてこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだということを知っていたからといっている。
「源氏物語」で開眼したキーンは日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。
角田教授は、アメリカで「日本学」の草分け的存在であった。キーンの述懐によれば、日本学の受講者がキ-ン「一人」であったにもかかわらず、たくさんの書物を抱え込んで授業に臨んだ。
ただ、この時点でキーンにとって日本語を勉強することが将来どんな意味があるかは全く不透明であったが、1941年キーンはハイキング先で「真珠湾攻撃」のニュースを知り、これが彼の人生を大きく変えることになる。
アメリカ海軍に「日本語学校」が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意した。
海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。
そしてハワイの真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳することになった。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も交じっていた。
「海軍語学将校」ドナルド・キーンが乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で「神風特攻隊」の攻撃をうけ九死に一生を得るが、キーンにとってそんな底知れない恐ろしさをもって迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の「平和主義」とはナカナカ結びつきにくいものがあった。
日本軍は兵士達に「日記」を書かせることにしていたのであるが、ガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した「日記」を読むうちに、涙がとまらなくなった。
キーンはグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。
キーンは中国の青島に派遣されるが、ハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで神奈川県の厚木に降りたち一週間ほど東京をジープで回ったという。
キーンの「憧れの日本」は壊滅状態にあり、失望を禁じ得なかっものの、船から見た「富士山」の美しさに涙が出そうになり、「再来日」を心に誓ったという。
1953年、研究奨学金をもらって、ついに日本に留学生として再来日した。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーンは1962年より10年間、作家・司場遼太郎や友人の永井道雄の推薦で、朝日新聞に「客員編集委員」というポストに迎えられた。
そして初めて新聞に連載したのが、「百代の過客」で、それは9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた「日記」の研究だった。
キーンが格闘した戦場で収集された日記こそが、その原動力ではなかったろうか。