立花氏「女城主」

福岡市には東区を真っ二つに割るように北西に流れる多々良川という川がある。過去、この多々良川下流で大きな合戦が二度おこった。
一度目は、1336年 足利尊氏と菊池武敏の合戦、「多々良浜合戦」で、足利尊氏はこの一戦に勝利したことで勢力を盛り返し反撃の軍を率いて東上し、湊川合戦で楠木正成を敗死させ、室町幕府を開くことになる。
もう一つの「多々良浜合戦」は戦国時代に起こった。この時、大友氏と毛利氏の争奪戦の場となった立花山は、福岡市東区、糟屋郡新宮町および久山町にまたがる標高367mの山である。
都市部に近く、クスノキの巨木など自然に恵まれ、休日のハイキングコースとして親しまれている。
福岡市東区香椎からは周囲と独立して突き出したような3つの峰(左より白岳、松尾山、井楼山)が並び立つ姿が目立ち、新宮やその先の玄界灘からは二峰の山のように見え、かつては海や陸の交通の目印ともなってきた。
鎌倉時代末の1330年に豊後大友氏の大友貞載によって立花山城が築かれて以来、立花山は南北朝・戦国時代を通じ、交易拠点であった博多を見下ろす軍事的に重要な要塞であった。
当時の筑前は、安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の争奪の場となっており、良港・博多のあたりは大友氏の勢力下にあって、その大友氏の中心的拠点が立花山城であった。
しかし、大友宗麟は肥前の龍造寺隆信を攻めのため筑後・高良山まで出陣した折、立花山城に三人の城代をおくものの、毛利勢が立花山城を包囲し、窮地に陥った。
毛利元就は多々良川東岸に対陣し、ついに大友方・三将は毛利軍へ降伏し、こうして立花山城は毛利勢が占拠することとなった。
こで大友氏は「失地挽回」をはかり、主力・戸次鑑連(へつぎあきつら)を臼杵氏・吉弘氏とともに、筑前へと転戦させ、博多から筥崎あたりに布陣した。
今度は大友勢が毛利氏が占拠する立花山を攻める側になったのである。
毛利・大友の双方ともに決め手に欠いたが、大友宗麟は豊後に亡命していた大内輝弘(大内再興軍)の兵を味方につけてたため、毛利氏は吉川元春・小早川隆景に九州からの撤退を命じた。
毛利勢撤退後、立花山城に残った毛利勢は大友方に降伏し、城を明け渡した。
そして1571年、戸次鑑連が城督として入り、鑑連は姓を立花に変え、出家して道雪と号した。「立花道雪(たちばなどうせつ)」の誕生である。
しかし立花道雪には跡継ぎの男子が生まれず、60歳を超えてしまったので、ついに7歳であった女子の誾千代に家督を譲ることにした。
そして道雪の娘・立花誾千代(たちばなぎんちよ)は、幼き「女城主」となる。
その後、誾千代が13歳の時に、大友氏の家臣であった高橋紹運の子・宗茂を婿に迎えた。
誾千代は宗茂を婿に迎えたことで城主から「正室」となったのだが、6年間は幼き「女城主」であったことになる。
まだ幼い子供なので、後見人はいたではあろうが、当時としては異例のことであったことに違いない。
ところで、誾千代が婿に迎えた宗茂とはどのような人物だったのか。
豊臣秀吉の九州平定では、島津が秀吉の最大の敵となった。豊臣方についた豊後・大友氏は、1586年島津勢力と太宰府に近い岩屋城で歴史に残る死闘を繰り広げた。
その戦いで功績のあった大友方の高橋紹運の子こそが宗茂である。
宗茂は、関ヶ原の戦いでも義理立てして西軍(秀吉方)についたが、徳川家康率いる東軍に破れ、立花家は改易(取り潰し)になるが、宗茂は特例で奥州棚倉藩に1万石の領地を与えられる。
数年後、立花家は13万石を与えられ宗茂が柳川城主として「奇跡の復活」を遂げる。
誾千代は、立花城から柳川に移ることになるが、父の墓があるので行きたくないと拒んだという。
NHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」における直虎と 井伊直親・小野政次との恋愛談とちがい、宗茂と不仲なので拒んだという説もある。
誾千代は後に立花城を出ることになるが、結局は柳川で宗茂と一緒に住むことはなかったという。
というのも、父から受け継いだ当初の立花家「取り潰し」は、かつての「女城主」誾千代にとって大ショックであったに違いなく、若くして病死している。享年34。

近年、福岡の地方ニュースに柳川において「三体の孔子像」が再会したというニュースに目が留まった。
この「三体の孔子像」は、明の儒者朱舜水が故国より持参したもので、水戸光圀に招かれて江戸に赴くまでの間、 福岡柳川にて世話になった柳川の儒者安東省庵に贈ったものだった。
「三体の孔子像」のうち、一つはそのまま安東家に伝えられ、他の二体はそれぞれ波瀾の経過をたどり、一つ は柳川市の伝習館高校、 もう一つは東京の湯島聖堂に現存している。
その孔子像はなかなか、一つに出会うことがなく古物商に売られたり、 行方不明に一時はなったり、あるいは宮中に献上されたりと数奇な運命をたどった。
ところが、「安東省庵顕彰会」の尽力により、三体がほぼ400年ぶりに伝習館高校大会議室にて再会することとなったのである。
ところで明の儒者・朱舜水が柳川に「逗留」していたとは驚きだが、そこには日本史のヒトコマとして語るだけでは足りない「壮大な」ストーリーがあった。
1644年 徳川家光の時代、中国では李自成が反乱を起こして北京を占領したため、明の崇禎帝が自殺し明は滅びた。
その後、満州族(女真族)の世相・順治帝が即位して「清朝」が成立し、中国における漢民族の歴史が終わった。
しかし、「明朝復活」をはかろうという遺臣達がいた。
その一人が明の武将・鄭成功で、海上経営を行っていた父親を引き継ぎ、清に降伏したのちも海上権を守って、大陸に「反攻」を試みようとしていた。
実は、鄭成功の母親は平戸の日本人であったため、日本に数度にわたる援助を求めたが、愛国の気概を秘めた朱舜水も、そうした鄭成功の動きに呼応して両者合意の下に1659年に長崎に来たのだ。
しかし、鄭成功の方はあえなく39歳の若さで台湾で急死し、朱舜水も「明朝復興」を諦めざるをえず、そのまま日本に滞在するところとなった。
さて、柳川の儒者・安東省庵は、聡明で好学心が高く、1634年に藩主・立花宗茂より「分家」の内意書を与えられている。
朱舜水との出会いのきっかけは、安東が京都で朱子学を修めている時、日本に亡命している朱舜水の情報を得てさっそく長崎に赴き、朱と会談して「師弟」の交わりを持った。
この時、安東は朱が日本に居住できるよう長崎奉行に働きかけ、柳川の地にあって6年もの間、自分の俸禄の半分を朱舜水のために送りその生活を支えた。
そのうち、明朝を救おうとした「大義の人」朱舜水の名は江戸にも届いた。
朱舜水ははや60を過ぎ、五代将軍・家綱の時代になっていた。ここで動くのが4代家綱の叔父、水戸光圀(水戸黄門)である。
水戸藩は「江戸定府」の定めにより、藩主の光圀は江戸小石川すなわり現在の東京ドーム近くの水戸藩上屋敷に居る事が多く、朱舜水は駒込に邸宅を与えられ、光圀に儒学を講義している。
ところで朱舜水の教えは朱子学と陽明学をベースにした「実学」で、「経世済民」をモットーとした。
その教えは最初に師事した安東省庵ばかりか、水戸光圀の政治・人格・業績に大きな影響を与えた。
それは、藩内の教育・祭祀・建築・造園・養蚕・医療にも及んだ。
光圀が「大日本史」編纂にあたって楠木正成を日本史上最大の「忠臣」として称えたのも、舜水の「忠義一徹」ぶりの姿と重なったからだ。
ともあれ、朱舜水によって、初めて日本に「本場」朱子学と陽明学が入ることとなったのである。

福岡県の南部筑後地方柳川は、有明の海に面する水郷の街として全国的に知られている。
ゆれる柳を映す水面を船頭の巧みな櫂捌きに揺られながら、赤レンガや白壁を眺めながらの川下りは、今なお優しく人々の心を包んでくれるようだ。
その川くだりの途中で、船頭さんが、「ここがオノ・ヨーコさんのご先祖の家です」という声が聞こえ、ハットとして目をあげると「黒い門構え」が見えた。
ジョン・レノン夫人のルーツは、こんな古くて穏やかな風景の中に隠れてあったのかと驚いた。
オノ・ヨ-コの家系を辿ると柳川生まれの小野英二郎という明治の著名な財界人を見つけた。
彼の先祖は、戦国時代柳川藩・立花宗茂の家老で、小野鎮幸という人物である。
関ヶ原後は加藤清正に仕え、「日本七槍」・立花四天王の一人に数えられる勇猛な武士であった。
小野英二郎の長男である小野俊一は東京帝大中退後ロシアの大学に留学し動物学を学んだ。
そこで知り合った帝政ロシア貴族の血を引くアンナ・ブブノアという女性と結婚する。
そして二人は駆け落ち同然にして日本にやってきたが、後に離婚する。
この小野俊一の三男が小野英輔で、オノ・ヨーコの父にあたる。小野英輔は横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取などした銀行家である。
しかし小野英輔は、アンナとの間にできた子供ではないので、オノ・ヨーコにロシア人貴族の血が流れているわけではない。
オノ・ヨーコの父・小野英輔はいつも海外出張で、母は色々な交際で多忙のため、母の里にある別荘で育ったという。
小さい頃から人がやらない変わったことばかりをやっていて、作文を書くと学校の先生からはこういうものはいけないといわれ、かえって彼女の「常識」というものに対する戦いの様相を呈するようになる。
彼女の感性の「ヤリ」で既成概念をツキくずしてきたわけだが、その感性のトンガリ具合が1966年11月9日ロンドン個展の会場にジョン・レノンという音楽界のヒーローを呼び寄せることになる。
ちなみにジョン・レノンの方も、当時の教師から成績簿に「絶望的」と書かれたぐらいだから、そのトンガリ具合から似たもの同士だったのかもしれない。
翻ってみて、オノ・ヨーコほど世界中からタタカれ日本女性はいないのではないか。
ところでオノヨーコのルーツ柳川は立花家の城下町であるが、こここで長年料亭「御花」を経営されてきた立花花子さんは、幾分オノヨーコを彷彿とさせる人でもある。
立花さんは、柳川立花伯爵家の一人娘として生れ、テニス日本チャンピオンに耀き、最初に「テニスの柳川」を全国にアピールした人といえるかもしれない。
三男三女を育て、料亭「御花」の女将として逞しく時代を生き抜いた最後の「お姫さま」である。
自伝「なんとかなるわよ」を読むと、かつて人々からかしずかれる立場から、人様にサービスをする立場への転換は本人の中でも様々の葛藤をよびおこしたことがわかる。
一方で、「お姫様に何ができるか」といわれて反発したという。オノヨーコに似て、どこか尖がったところのある「お姫様」あったのだろう。
さて、柳川といえば名門・柳川高校が幾多の名選手を輩出しているが、柳川にはテニスに青春をかけたあるカップルの思いがつまった場所でもあった。
柳河城は蒲池鑑盛によって本格的な城として作られ後、立花氏12代の居城として明治まで続いた。
1872年、正月18日火を発し慶長以来の威容を誇った天守閣が一夜にして焼失するという出来事が起こった。そして、この城址にこそテニスの名門・柳川高校のテニスコートが設営されているのである。
柳川高校の創立者である大沢三入氏が立花家15代当主の鑑徳に協力を依頼し、1943年5月柳川高校の前身となった「対月館」が設立された。
その時、立花氏当主は名誉会長となり対月館と米蔵が校舎として使われ、2年後柳川本城町の現在地に移転し柳川高校となった。
対月館は解体され新校舎に使われ、当主が作ったテニスコートの基礎であるグリ石も校舎建設のために使われた。なお対月館の名前は、「御花邸」の中に残っている。
ところで立花藩・4代目鑑虎の時、四方堀を巡らした花畠の地に「集景亭」と言う邸を構えて、遊息の場としたが、その地名から柳川の人々は立花家のことを「御花(おはな)」と呼び親しんできた。
ここを料亭旅館「御花」としたのが16代当主の立花和雄氏の妻・立花文子である。
「御花」は1950年、夫である和雄氏(1994年死去)と二人三脚で始めた料亭で、終戦直後多額の「財産税」を課せられ苦境に陥った立花家の生き残り策でもあった。
立花の「お姫様」から人に仕える女将への転身には、何もそこまでと涙する士族出身の人々が少なからずいたが、文子は苦境にもひるまず料亭をきりもりした。
文子さんの夫で16代当主で「御花」社長も務めた和雄は、海軍元帥・島村速雄の次男である。
島村速雄は、非常な秀才で智謀は底が知れない、軍人には珍しいほど功名主義的な所が無い。その生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物として評されている。
義和団の乱が終結すると、日本とロシアの対立がいよいよ鮮明となった。
1903年、来るべきロシアとの戦争に備えて連合艦隊が再び組織され、東郷平八郎中将が司令長官に任命されたが、島村は幕僚のトップである参謀長となった。
日露戦争には旗艦「三笠」に乗り組み、旅順港封鎖に参加。
秋山真之や有馬良橘ら幕僚たちをまとめ、東郷をよく補佐する島村の働きぶりは目覚しく、海軍外にもその活躍は知れ渡ったが、彼は旅順封鎖作戦終了後に参謀長の座を降り、第二艦隊第二戦隊司令官に転任となっている。
島村は自分の周囲の不始末については自ら責任をとりつつ、業績については他に譲ることを常としていた。
後任の参謀長として、海軍兵学校時代からの旧友である加藤友三郎を指名した。
日本海海戦では、当初作戦会議ではバルチック艦隊が津軽海峡もしくは宗谷海峡を通るものと踏んで、連合艦隊を北上させるべきであるとの意見が大勢を占めていたが、最終的には「島村」が賛同していた対馬海峡での迎撃案が採用され、日本海海戦での大勝への第一歩となった。
日本海海戦においては、自ら常に艦橋に立って戦況を具に眺めていた。
そんな島村速雄の次男・島村和雄が婿になった「お花邸」の女将・立花花子は、今のお姿からは想像しにくい「輝かしい勲章」の持ち主である。
なんと学生時代にテニスの全日本チャンピオンもあったのだ。
文子は立花家15代当主・鑑徳の二女で活動的な父の影響で、女子学習院時代にはスキー、水泳が得意なモダンガールで、学習院高等科のころはテニスのダブルスで「全日本女子の王座」についたのである。
学生時代よりテニスを愛好し、国内のスタープレイヤーとの交流もあったという。
後に夫となる島村和雄は、女子テニスチャンピオンの名前「立花文子」の名前を、まさか将来見合いして結婚する相手になろうとは思いもせず、しっかりと覚えていたという。
立花和雄氏と文子との間に「テニスコートの恋」が芽生えたかどうか定かでないが、お姫様(文子)とその夫・和雄が居した柳川は、柳川高校によって「テニスの柳川」として世に知られていくのも面白い。
そして、立花誾千代に始まる立花家「女城主」の系統は、家老筋のオノヨーコや御花女将・立花文子にも受け継がれた感がありますが。