知られざる親交

明治初期は、幕末の気風も残しつつ、人々は国作りのジグゾーパズルのどこを埋めるか、各自なかなか定まらなかった。
紆余曲折の中、日本を離れ外国の地で出会うということは自由闊達、思想や立場を超えて「人間的な触れ合い」ができたのではなかろうか。
例えば、不平等条約(領事裁判権)改正において働いた外務大臣・陸奥宗光、若い時にはフラツキの多い人で、その自伝「蹇々録」(けんけんろく)というタイトルにそれが込められている。
さて陸奥宗光や馬場辰猪や中江兆民といった土佐藩出身の人々が、公家出身の西園寺公望を交えて外国の地で取り結んだ親交は、実にスリリングで興味深いものがある。
以下、アメリカのフィラデルフィアで親交を温めた陸奥宗光と馬場辰猪、フランスのパリにて親交を温めた西園寺公望と中江兆民、および陸奥宗光と西園寺公望の親交について敷衍したい。
さて、紀州出身の陸奥宗光は明治政府の役人として元老院の議官として働きながら、西郷隆盛の西南戦争の際には、土佐立志社と呼応して内通して「政府転覆」をはかり逮捕・投獄されている上に、5年間服役した「山形監獄」が火事にあい「死亡説」までが流れたほどであった。
そんな人物が、再び明治政府に拾われ政府の「要職」として働くとは考えにくいのだが、一体どんな力が働いたのだろうか。
陸奥は、1883年「特赦」によって出獄を許され、伊藤博文の勧めによりてヨーロッパに留学している。
帰国後、外務省に出仕し駐米公使となり山縣有朋内閣の下で農商務大臣、伊藤博文内閣に迎えられ外務大臣になっている。
そして、日本史の教科書にあるとおり、1894年イギリスとの間に「日英通商航海条約」を締結し幕末以来の不平等条約である「治外法権」の撤廃に成功している。
ところで陸奥が一度「政府転覆」をはかろうとして内通をはかった「土佐立志社」であるが、土佐出身の民権派のひとり馬場辰猪は1870年7月から1874年12月までイギリスに留学しているため、「土佐立志社」創立には直接には、参加していない。
しかしかつて英学を学んだ福沢諭吉の下で「交詢社」の結成と運営にたずさわり、そのため土佐民権派との交流も深かった。
馬場は自由党員そしてその機関紙「自由新聞」社員となったが、1882年に政府より金がでたという板垣退助の洋行に反対し、板垣と大激論をし自由党を離党している。
その後、1885年「大阪事件」の関係で「爆発物取締罰則違反」の容疑で逮捕され約6ヶ月入獄する。
結局無罪となり釈放されるが、この時、結核にかかったことが馬場の人生に大きな負荷となる。
馬場は、1886年、病身の身を抱えあわただしくアメリカに渡った。「板垣洋行」への失望もあったし、言論の自由を海外の地に求めるという気持ちも働いたと思われる。
この 馬場がアメリカでいかなる生活をしたかが、なかなか面白い。サンフランシスコに到着するや持参した甲冑や刀剣を身に着けて、「日本古代の武器」についての講演を行ったのである。
「川上音二郎」一座を連想させるが、馬場はまずは日本への関心を引き起こし、「自由民権運動」を宣伝し、アメリカの世論を味方につけようとしたのである。
当初の講演会は惨憺たるものではあったが、東部に移りボストン・フィラデルフィア・ニューヨークなどでの講演会にはしだいに多くの聴衆を集めることができるようになったという。
1888年、駐米公使としてアメリカにいた陸奥宗光と馬場辰猪がフィラデルフィア近郊の避暑先アトランテック・シティーで出会っている。
たまたまその地を通過した馬場の方から陸奥へ処へ来訪したのである。
陸奥は自由民権運動からの「転向者」として、馬場は自由民権運動の「亡命者」として出会いである。しかし、そんな立場の違いはどうでもよかったに違いない。
二人は、自由民権運動への思いや共通の故郷「土佐の話」に話が咲いたであろう。
しかし滞米中終始貧苦の中にあった馬場は、まもなく投獄期間にわずらった結核が悪化し、古物商を呼び死後の後始末の費用にあてるようにたのんでいる。
そして1888年、フィラデルフィアで39歳で亡くなっている。
さて、馬場はイギリスへ渡っているが、もう一人の土佐出身の中江兆民は岩倉遣外使節団にもなり、フランスにわたっている。
そして、中江は後に「民権派」の論客として主として文筆をもって藩閥政府を攻撃することになる。
この中江は、パリで五摂家・筆頭の西園寺公望と出会い交流を温めた。
二人は意気投合しモンマルトルの居酒屋で飲みかし西園寺は民衆のために戦ったフランス貴族ミラボーのようになると意気込んでいたという。
実際に、西園寺は日本に帰国後、「東洋自由新聞」を発行し中江兆民を主筆に迎えている。
西園寺と中江の異色コンビの新聞はよく売れたのだが、天皇の側近であるべき公卿の有力者が天皇の批判をするとは何事かという意見が強くなり、政府もついに新聞の廃刊を勧告するにいたったのである。
西園寺は頑なに廃刊を拒否したがついには宮内省にまで呼び出されて、ついに社長を退かざるをえなかった。これが西園寺の限界であった。
実は、西園寺公望は先述の陸奥宗光の「赦免問題」にも関わっている。その後西園寺がオーストリア公使の頃、陸奥も外交官としてヨーロッパにおり「意気投合」する仲にまでなっている。
1905年の三国干渉の時代には陸奥は外相でこの出来事以降心身とも衰弱し、西園寺が「臨時代行」として外交を担当することもあった。
ところで、 西園寺公望は長州の陸軍軍閥・桂太郎と交互に総理となり「桂園時代」を築く。
その過程で社会主義政党を認めるなどリベラルな側面もみせてはいる。
「東洋のルソー」中江兆民は、西園寺が伊藤博文の知遇を得て「立憲政友会」の旗揚げに関わった頃の1901年に55歳で亡くなっている。
中江の死により、政府の代表・西園寺首相と中江兆民との言論における「対決」は避けられたことになる。
とはいえ後に「最後の元老」とも呼ばれるに至る西園寺公望の胸中には、中江とパリで遊び飲み明かした時代は、どのようにおさめられているのだろうか。
間違いなく、最高に自由で幸せの時代だったにちがいない。

「伝記」または「自伝を読む面白さの一つは、人(家)と人(家)との意外な関係の「発見」にある。
上述のように、陸奥の「蹇々録」で陸奥宗光と西園寺公望との関係、「西園寺公望自伝」では西園寺と中江兆民との交流、また 、渋沢栄一の伝記「雨夜譚」を読むと渋沢家と音楽一家で知られる尾高家(NHK交響楽団指揮者)との関係を知ることができる。
、 ここでは、「高橋是清自伝」によって、唐津における教え子との師弟関係を紹介したい。
2・26事件で青年将校の凶弾に倒れた日銀総裁・首相を歴任した高橋是清は、福岡の隣・佐賀県唐津市である英語教師としてある時期を過ごした。
高橋是清のあだ名は「ダルマ宰相」で顔や体型の丸さと何度倒されても起き上がることからそのあだ名がついた。その起伏に富んだ生涯は驚嘆に値する。
高橋是清の生涯は、奴隷と宰相の二つを経験した旧約聖書中の人物であるモーゼやヨセフの生涯を思わせるものがある。
簡単に経歴ををまとめると、横浜での外国人宅へ住み込みサンフランシスコに渡るが、自分が「奴隷契約」で売られていることに驚き帰国する。
帰国後、芸者に養われ芸妓の箱屋となる。そうした自分の生活を一新しようと佐賀県の唐津藩で英語教師をするが、遊びが原因で悪い噂がたち退職する。
東京にもどり東京大学の前身の大学南校の教官となる。その後農商務省の役人となり特許事務所につとめる。
ペルーの銀山の話を聞き、役人をやめて南米に渡るが鉱山経営に失敗し失意のまま日本に帰国する。
帰国後、人に紹介され日銀につとめしだいに財務家として頭角をあらわし総裁に就任する。
日露戦争時には「外債募集」に奔走し日本の勝利に大いに貢献した。
その後、大蔵大臣となり政友会総裁から首相となるが、軍部の独走を批判し226事件で射殺される。
高橋是清の唐津時代を調べようと唐津市役所の文化財課を訪れた。
唐津市役所の一室で文化財課職員の方に唐津時代の高橋是清の話しを聞き、一番印象に残ったことは、唐津に短期間しかいなかった高橋是清が、唐津では「先覚者」の一人に列せられているということであった。
高橋是清は、現在の唐津城すぐ近くの唐津東高校正門あたりにあった「耐恒寮」で英語を教えていた。
高橋が帰京の際には、唐津藩の俊英達が高橋を慕い高橋が次に教えることになった大学南校に入校して、後に国家や郷土の発展に尽くす事になったからである。
この中には建築家・辰野金吾などがいた。高橋はペルー銀山失敗後、日銀建設事務所で働くが、その責任者が辰野で、高橋はかつての教え子の下で働くのである。
この頃、人生を立て直そうとした高橋にはそうした謙虚さがあったからこそ、もう一度桧舞台に立つことができたように思う。
こうした日銀総裁になる高橋と日銀を建設した辰野金吾の因縁に驚かされる。
高橋は政治の世界にはいり政友会に所属するが、かならずしも政治家としては優れていたとはいえない。高橋是清は財務家としてすぐれた手腕を発揮したが、政友会総裁として党をまとめることができなかったからだ。
前任者である原敬が一度会った人物の個人情報を実によく知っていたのに対し、高橋はそうした人間的関心がきわめて薄く無欲恬淡とした人物であった。
ところで、現在日銀の主流派「リフレ派」の理論は、高橋是清蔵相らの政策を現代のマクロ理論で解析したものである。
1929年の世界恐慌後の時、「禁じ手」とされる新発国債の「日銀引受」という今日では財政法で禁じられている非常手段を採用し、それによって世界に先駆けて大恐慌からの「景気回復」を実現させた。
だが今日のように、不良債権問題とグルーバル化の時代に進行するデフレといった問題にそのまま適用できるとも思われない。
高橋是清が2・26事件で殺害された時の自宅は東京の赤坂にあり、現在は「高橋是清公園」となっている。
なお、我が地元・福岡「日銀支店」に道を挟んで向かい合うように立つのが「赤煉瓦会館」(福岡市文学館)で、これを設計したのが高橋の唐津時代の教え子辰野金吾である。

作家の安岡章太郎の「流離譚」(りゅうりたん/1981年)は、自らのルーツを探す歴史小説である。
当時一世を風靡したアレックス・ヘイリーの「ルーツ」は安岡が訳したものであるが、安岡が自身のルーツ探しの原因は、一族の中に親戚に東北ナマリの言葉を話す家があったことだった。
そこに、安岡家と随筆家・寺田寅彦を生んだ寺田家の関係を知ることができる。
安岡家は土佐藩主・山内容堂の「下士(郷士)」であるが、土佐勤皇党(反幕府/反藩政)に加わり、藩参政の「吉田東洋の暗殺者」や、板垣退助の「片腕」となって戊辰戦争を戦い福島で戦死した者たちもいた。
ただ安岡章太郎の「ルーツ探し」は大きな壁にぶつかる。
土佐藩・山内家の藩体制を支持し、の門閥の末端にでも結びつきたいと願っていた安岡家の人々が、どうして幕藩に対抗する「土佐勤王党」の旗上げに、一家コゾッテ加盟したかという点である。
よくよくの事情があってのことだったにちがいない。
安岡嘉助は東洋暗殺後に脱藩し、京都代官所を襲った「天誅組事件」の主要メンバーとなり、捕縛され京都奉行所で斬首されている。
特に安岡嘉助という人物が、藩参政の吉田東洋暗殺の「刺客」を志願したというのには、何か「宿怨」めいたものさえ感じられるからだ。
そこには、土佐藩の内部抗争に絡んで、安岡家と著名な物理学者を出した寺田家の関係など「驚くべき事実」が明かされている。
土佐藩には、「上士」と「下士」との激しい抗争がおきていて、静岡、掛川あたりに祖先をもつ地元民の下士に宇賀喜久馬という人物がいた。
これが安岡章太郎の祖父の母の実弟に当たる人物である。
そして 井口村において起こった上士と下士の抗争の場で宇賀喜久馬がタマタマその場に居合わせという理由だけで、何の罪咎もないのに腹を切らせられるということがおきる。
しかもその切腹の介錯をしたのが、喜久馬の実兄であったのだ。
当時はアタリ前だが、安岡一族は「家名断絶」を防ぎ生活収入と身分保証の基盤たる「土地」を守るため、「親族間結婚」が非常に多く、宇賀喜久馬の切腹でトドメをさす「介錯」したのが実兄である宇賀利正であったのだ。
当時19歳の宇賀喜久馬の非業の死が、その親戚筋にあたる安岡一族間でも「悲憤慷慨」の思いに覆われたことが想像できる。
このことが、安岡家をして「土佐勤皇党」への参加となったという推測が成り立つ。
ところで、宇賀喜久馬の切腹を介錯した宇賀利正の長男こそが、後に夏目漱石の弟子となる物理学者にして随筆家の寺田寅彦なのである。
さて土佐藩の関連で思い起こすのは、福岡出身のシンガーソングライターの「井上陽水」の家と幸徳秋水にまつわる話である。
「井上陽水」は1948年福岡県で生まれたが、井上家はもともと高知県は土佐の出身で、「井上陽水」の祖父が幸徳秋水と親交があったという。
幸徳秋水は1871年、高知県幡多郡中村町で生まれた。彼は中江兆民の門弟で、「秋水」の名は兆民から与えられた。
幸徳秋水は当時の社会主義思想家で、明治20年に同郷の中江兆民の門弟となり、自由新聞の記者となった。後に「萬朝報」の記者となり、ゴシップ誌のさきがけとなった。
後に幸徳秋水は無政府主義に傾き、社会革命党を結成するが、1910年6月に「大逆事件」で逮捕され、翌年1月24日に処刑された。
彼の罪状は「天皇暗殺計画」で、この大逆事件では多くの社会主義思想家が逮捕され、24名が処刑された。
直接に計画に関わったのは4名で、幸徳はまったく関わっていないものの「秘密裁判」で死刑の判決が下った。加えて「共謀罪」の怖さを知ろう。
その幸徳の信奉者に、「井上陽水」の祖父がいた。大逆事件後に井上家は高知県から九州の福岡県へ移住をしている。
井上家の祖父は幸徳秋水の人格に惹かれ、子供の名前に、「秋水」にちなんで水のつく名をつけたといわれている。「井上陽水」の父は「若水」というが、同じようなケースに、世界的指揮者「小沢征爾」の名が、日本陸軍参謀・板垣「征」四郎と、石原完「爾」からつけられている。
土佐において、井上家と幸徳家の両家は親しく、井上家と姻族関係にあった某家に秋水の妹が嫁いでいるから、血の繋がりは薄いとはいえ一応あるようだ。
井上陽水のようなインスピレーションあふれる「表現者」には、ひとりの資質や才能には収まりきれない「何か」がある。
井上陽水の「少年時代」「傘がない」「いっそセレナーデ」などの曲に、「大逆事件」で処刑された人々の「無念」を重ねると、それは違った曲相で心に迫ってくるでしょう。