bookreader.js

「父」とよばれた日本人

今から20年ほど前、韓国釜山の観光コースのひとつ「ロッテ百貨店」を訪れた時に感じたことは、「違和感」のなさ。それは、まさしく「日本」だったから。
同時に、日本の百貨店におけるモノの売り買いは「品物」だけではなく、「店ごと」なのだと感じた。
他の韓国百貨店で感じた所狭しと物品が積み重ねられた「圧迫感」とは無縁のものだった。
それもそのはず、韓国の百貨店の店づくりに一人の日本人の存在があったことを知った。
しかも、福岡の「玉屋」に、ロッテ・ホテルの「原型」があったとは、我ら福岡人にとって驚きである。
さて、長崎県佐世保市でに九州で2番目の百貨店を開業させた田中丸一族は、1925年に、福岡市初となる百貨店「玉屋」を中洲オープンさせた。
第二次世界大戦後、福岡市で初の水着ファッションショーを開催するなど、様々なアイデアを駆使し、天神の岩田屋とともに地域の百貨店として親しまれた。
しかし、1960年代半ば以降、博多駅の移転や天神地区の商業開発などで中洲地区の商業地盤が徐々に低下。売上げの落ち込みは止まらず、1999年7月に閉店し70年の歴史を閉じた。
その後建物の解体までには数年を要したが、2006年新たな商業施設「ゲイツ」がオープンしている。
この福岡玉屋からヘッドハンティングされた秋吉英一こそが、現在の韓国ロッテ財閥伸展の最大の功労者であった。
さて、韓国ロッテ・グループは、在日韓国人の重光武雄(韓国名=辛格浩)が、戦後まもなく東京の荻窪で「ひかり特殊化学研究所」を設立。石鹸、ポマードなどの製造販売に乗り出す。
1947年には、 チューインガムの製造を開始し、翌年 株式会社ロッテ設立。
1970年代から本格的に韓国に進出、今や資産規模でサムスン、現代、SK、LGに次ぐ第5位の大財閥となり、1969年には「ロッテオリオンズ球団」(現在の千葉ロッテマリーンズ)のスポンサーとなっている。
1970年代、ロッテの韓国進出は、当時、経済建設に必死だった朴正煕大統領のたっての要請によるものだった。
ロッテ・ホテルは韓国で最初の高級大型ホテルで、ロッテ百貨店は店員が客に頭を下げ、食堂街やイベント会場を備えた韓国で最初の明るく楽しい(日本風!)百貨店として、韓国の流通界に革命をもたらした。
この韓国流通界に革命をもたらしたのが、前述の秋吉英一である。
秋山英一は、長男として、母の実家である佐賀市多布施に生まれた。
父・英二の当時の勤務地であった門司で幼少期を過ごすが、1931年英二の日本タングステン創業に伴い家族で福岡市に転居し、1938年、福岡県中学修猷館に入学。
慶應義塾大学経済学部に進学するが、半年も経たず自主退学し、1949年、早稲田大学商学部3年に編入。
1951年、早稲田大学を卒業後、三越百貨店に入社し、38歳で大阪三越の部長にまで昇進するが、1966年、知人である百貨店福岡玉屋会長の田中丸善八に誘われ、福岡玉屋に入社した。
その後、小倉玉屋に移籍し、隣に出店したダイエーとの共存共栄戦略や、藤田田と組んだダイヤモンド販売などのアイデア商法で、小倉玉屋の売り上げを大幅に増大させている。
1972年に、小倉玉屋常務営業本部長に就任。ちょうどその頃、ロッテが韓国で本格的な大型百貨店を始めるため、その計画立案から指揮を執る統括責任者を探していた。
そこで百貨店販売において抜群の実績があり、比較的年齢も若い秋山に白羽の矢が立てられ、ロッテから幾度もスカウトが会いに来た。
当初乗り気ではなかった秋山は、依頼を断るつもりで直接ロッテ創業者の重光武雄に会った。
しかし、重光の強い情熱に打たれ、勧められてソウルの街を視察し、街に溢れる活気に驚き、その一方で、流行の先端を行くファッションリーダーが不在であること、日本とは異なる商習慣などを見て、韓国における本格的な百貨店経営に挑戦したいと考え、ロッテに入社することを決意する。
1977年、韓国ロッテホテル常務・百貨店事業本部長として迎えられる。この時、長年自分を大切にしてくれた玉屋に筋を通すため、重光に福岡玉屋社長の田中丸善司、小倉玉屋社長の田中丸善昌へもらい受けの挨拶をさせている。
”ソウルの中心から韓国国民の生活を明るく豊かにするお手伝いをする”という目標のもと、秋山の挑戦は始まった。当時の韓国では、客が声をかけたらようやく振り返るというのが店員の当たり前の態度であった。
韓国では、家族や親戚への礼は尽くさなければならないが、他人に必要以上に親しげに振る舞わないという文化があったからである。
そこで秋山は、韓国の既存の百貨店の接客態度を変えなければならないと思い、日本式の御辞儀、挨拶を導入することにした。
当初は韓国の文化にそぐわないとの批判もあったが、その後のロッテ百貨店の成功により、この日本式接客はソウルの他の百貨店にも次第に広がり、現在は韓国の百貨店業界で完全に定着している。
1979年12月、いよいよロッテ百貨店はオープンした。この開店初日の来店者数は約十万人にまで達し大成功となり、その後釜山店等の韓国各地のロッテ百貨店の開業を指導・担当していく。
日本では1975年あたりからデパートでバレンタインセールが行われるようになっていたが、秋山は韓国でもそれを取り入れようとした。会議で提案しても、バレンタインデーそのものを誰も知らないような状況で、メディアからも「日本の悪しき消費文化が韓国の若者を毒する」などと批判されたが、すぐに一般化し、1997年にはソウル本店だけで5億ウォンを売り上げるまでになった。
秋山が考案した、この「韓国風味付け海苔」と「パック入りキムチ」は、韓国を代表する土産品として定着していくことになる。
その後、全天候型テーマパーク「ロッテワールド」と、デパート、ホテルをあわせた複合施設の建設プロジェクトにも参画し、デパート、ホテルが1988年11月、テーマパークは1989年7月にオープンしている。
1988年、ロッテ百貨店を運営するロッテショッピングの副社長営業総括担当に就任し、同常任顧問を務めた後に1995年にロッテを退任。その後、多くの韓国流通企業の顧問も務めた。
ロッテ百貨店で秋山の薫陶を受けた数多くの人々が、後に韓国全土に広がり、現在の韓国百貨店業界を支えており、「韓国百貨店業界の父」として多くの流通担当者から慕われている。

福岡玉屋があった那珂川沿いを南に1キロ下るとキャナル・シティの開発で発展目覚ましい「春吉」という地域がある。
この春吉は「寺尾四兄弟」の出身地である。
寺尾兄弟といえば、角界に「寺尾三兄弟」というのがいるが、こちらはカナリの「肉体派」である。
角界の「寺尾三兄弟」と対照的な「知性派」といっていい「寺尾四兄弟」は、春吉公民館の有志の努力などでその歴史の「掘り起こし」がなされてはいるが、今ひとつ資料が少ないのは残念である。
特に、熊本県荒尾出身で「孫文」を支援し辛亥革命に関わった「宮崎四兄弟」の発掘史料と比べると、かない見劣りがする。
さて、「寺尾四兄弟」の長男である寺尾寿は、初代国立天文台長で日本天文学会をつくった人物である。
東大ぶ物理学科出身で、フランスで天文力学を修め、29歳で東大星学科教授となった。
1887年、東大が行った日本初の皆既日食観測隊長となった。
次男・享が法学博士で東大教授、三男・徳は医学博士で、四男・隆太郎は弁護士で裁判官という「スーパー・ブラザーズ」である。
さて次男の寺尾亨は、日本史の教科書にでてくる日露戦争の開戦を提言した「東大七博士」の一人である。
(日露開戦については、今の「国際情勢」をモノサシとして批判することは避けなければならない) 。
また、イギリスの植民地支配に反抗するインド人反体制運動家の「潜伏生活」に関わっている。
そして、もうひとり、博多出身の作家・夢野久作の父親である杉山茂丸もこのインド人の逃亡に直接「自動車」を提供し、逃亡の幇助をしたといえる。
そのインド人とは「ラビ・ビハリ・ボーズ」で、最近では「中村屋のボーズ」としてもヨク知られるようになった。
ラス・ビハリ・ボーズは、イギリス政府よりマークされ、有力な庇護者を日本に求めていたが、最初に会ったのが「寺尾四兄弟」の次男である東大教授の寺尾享である。
寺尾享は、孫文が辛亥革命を起こした際には、帝国大学教授の職を捨てて現地に飛んで孫文の補佐にあたり、事敗れて孫文が日本に亡命した後もこれを支援した。
ボーズは孫文と面識があり、孫文の紹介で1915年10月15日赤坂霊南坂の寺尾亨の自宅を訪問している。
そして偶然なのか事情はよく知らないが、同じ福岡出身で玄洋社社主の頭山満の自宅は、寺尾亨の自宅の隣にあったのである。
11月30日の夜、東京・霊南坂の頭山満邸で、頭山は杉山茂丸や内田良平という福岡出身の人々と対座していた。
三人人が話し合っていたのは、「日本国外」へ退去を迫られているインドの革命運動家ラス・ビハリ・ボースの「救出策」についてであった。
ボースは1912年12月に首都デリーで、イギリスのインド植民地政府の首脳であるハーディング総督爆殺未遂事件を起こし、さらに1915年2月にはラホールでインド兵の叛乱を計画するなど、祖国の「独立」をめざす急進的革命運動に従事していた人物である。
そのため植民地政府(イギリス)の官憲に追われ、同年6月に偽名を使って日本に入国し、在日の同志とともに「武器の調達」など、インドに残った革命運動家を支援する活動を行っていたのだ。
しかしイギリス政府はボースが「偽名」を使って入国していることを「探知」し、外交ルートを通じてボースの「逮捕」を要求することになる。
日本政府は「ボース逮捕」に難色を示したものの、「日英同盟」もあってイギリス側の強硬な姿勢に屈し、ついに11月28日、ボースの「国外退去命令」を発した。
退去期限は12月2日であり、そのタイムリミットの真近に迫っていたのである。
ボースは、孫文の紹介で寺尾や頭山とも面識があり、この「絶体絶命」の危機に際会して、彼らを頼ったのである。
そんな時、ボーズの潜伏先として「急浮上」したのが「新宿中村屋」であった。
中村屋は新宿歩行者天国の起点にも位置して、我々にとっても「お中元」「お歳暮」でナジミの店であり、本格インドカリー「発祥の店」としても有名である。
この店が「逃亡先」として浮上したのは、中村屋の主人相馬愛蔵・黒光夫妻はロシアの「反体制詩人」などを保護していたという事情があったからと思われる。
そして頭山らは、杉山に対してはボースらを逃亡させるために「自家用車」の提供を要請した。
何しろ杉山の自家用車は当時東京に何台もない「最新の高速車」であったという。
12月1日夜、警察官に尾行されたボースは暇乞いと称して頭山邸を訪れると、内田良平らに誘導されてそのまま裏口から抜けだし、杉山の自家用車に乗って一路新宿へと逃亡したのである。
このボースらの逃亡事件において杉山の役割は「高速車の運転」だが、杉山に託されたのはその「高速自動車」の故ばかりではなく、政官界の隅々まで根を拡げた人脈をヌキには考えられない。
ボースは新宿中村屋で匿われた後も、頭山や杉山らの人脈のお蔭で、官憲もそれ以上踏み込んで追求することはなかったようだ。
一方、「隠れ家」を提供した中村屋夫妻はボーズと生活を共にするにつれ、その純粋な人柄に惚れ込み、娘俊子と結婚させボーズは日本に「帰化」することとなったのである。
ところで日本にはすでにイギリス経由で渡ってきたカレーライスがあったが、ボースによれば本場インドのカリーとは程遠いものであった。
そして本場「インド・カリー」の作り方が、この新宿中村屋に伝わったのは、ボーズを家族として受け入れ「匿った」ことによるのである。
ちなみに、福岡で調理学校(現・中村学園)を開くことと成った中村ハルは、頭山のツテを通じて、「中村屋のカレー」の調理を伝授されたのだという。
そして、「高速自動車」の持ち主・杉山茂丸の長男が、福岡出身の小説家・夢野久作である。
1913年3月、夢野久作は福岡市の北東、香椎村の唐原の丘陵を買収し、約四万坪といわれる農園を拓いた。
時に久作は二十四歳であり、買収資金は父・杉山茂丸がまかなった。
では、この「杉山農園」は何のために設立されたのであろうか。
夢野久作の長男・杉山龍丸氏は「わが父・夢野久作」の中で、杉山農園とは茂丸の「アジアの独立運動を推進するための構想計画の一つ」であり、「最大の目的は、アジアの開発に役立つ人材の養成」であったと記している。
ナントモ雄大な構想だが、それは杉山龍丸氏によって、祖父の思惑とは少し「カタチ」を変えて実現することになるのである。

2012年という年は、1952年「日印平和条約」が締結締結され、60年の節目となった。
日本は戦争に負けたあと1951年に戦勝国とサンフランシスコ講和条約を締結した。
しかしインドの初代首相ネルーは、インド国会で演説し、戦勝国が多数で敗戦国日本を「裁く場」になることを批判して講和会議への出席をとりやめた。
そしてサンフランシスコ講和条約の翌年の1952年、すなわち60年前の6月に「単独」で平和条約を結んだ。
その際にインドは、日本国に対するすべての「賠償請求権」を放棄した。
ネルーが、後に首相になる娘のインディラに語りかける形で書いた言葉に、次ぎのようなものがある。
「(日露戦争で)日本は勝ちました。そして大国の仲間入りをしました。アジアの国日本の勝利は、すべてのアジア諸国に計りしえない影響を与えたのです。少年の私がこれにいかに興奮したか、以前、あなたに話したことがありますね。 この興奮はアジアの老若男女すべてが分かち合いました」。
これがインドが日本をどのように見ていたかよくわかる言葉である。
東京裁判で、インドのパール判事が勝者が敗者を裁く「裁判の不当性」を訴えたことも、頭をよぎる。
ちなみに、戦後まもなくインドから贈られたゾウは娘と同じ「インディラ」という名前であった。
1962年龍丸はガンジーの弟子たちに招かれてはじめてインドへ行き、「アシュラム」という集団農場をまわり、できる限りの技術指導をしていった。
杉山龍丸氏は父・夢野久作が祖父から譲り受けた福岡市香椎の立花山麓の「杉山農園」を売って、飢饉に飢えるインドの砂漠を緑化し、今でも「グリーンファーザー」と尊称されているという。
また祖父茂丸の関係者に協力してもらい、台湾から「門外不出」であった蓬莱米の種を譲り受け、ガンジー塾で米作りにも成功し、不可能と言われていた稲作を成功させた。
その活動が認められ、オーストラリアで行われた国連の環境会議の議長にも選ばれているが、日本の国内では、杉山龍丸の活動はほとんど知られることはなかった。
杉山龍丸は父や祖父と同じ脳溢血で倒れ、1987年9月20日に亡くなっている。

国と国をつなぐのは、人間同士の誠実な日々のコミュニケーションの積み重ねである。
秋山英一さん(89)は、「ソウル博多会」。会の重鎮、笑顔を絶やさない白髪の老紳士が1970年代後半、韓国初の本格百貨店開業の立役者であり「韓国流通業界の父」と呼ばれる人物。
西日本新聞に「変わるもの 変わらぬもの」というタイトルで連載。『韓国流通を変えた男』という書物となった。
秋山は福岡の旧制中学修猷館を経て早稲田大学に進学。
卒業後、1976年の三越入社以来、百貨店一筋の道を歩む。
大阪店部長時代に故郷の百貨店「玉屋」に移り常務まで務めた。
1977年、「やり手」とのうわさを聞きつけたロッテグループの重光武雄氏から突然のヘッドハンティングを受け、韓国ロッテ百貨店の事業本部長として開業に向けた仕事を一からを任されることになった。
重光氏から「とにかく一度」と言われ見学したソウルの様子に「無限の可能性」を感じて、心変わりした。
「国の威信」を賭け、当時の朴正煕大統領の肝いりでつくられた「ロッテ百貨店」での秋山さんの仕事は、韓国の流通業界を根底から変えた。
具体的には、地下食料品売り場でのノリやキムチの小分け売り、最上階のレストラン街設置、韓国初のバレンタインデー商法の展開など、秋山さんが手がけた小売戦略の数々は、今や韓国の百貨店では当たり前になった。
白眉は、店員による深々とした「日本式おじぎ」の導入だろう。
「見知らぬ人に軽々しく親しい態度を見せない」という儒教的慣習の抵抗に遭いながらも、客への感謝の意義を説き自ら実践して、無愛想だった店員の接客態度を百八十度変えた。
普通だった業者からのリベートも排除した秋山さんが韓国に持ち込んだものは、商売を単なる「売り買い」ではなく、相手へのもてなしと表裏一体としてとらえる、倫理性の高い近代小売りの精神だった。
韓国の流通と消費文化を変え、今や世界的規模を誇るロッテ百貨店を支えるのは、秋山さんの「弟子」たちだという。
「怒らず、叱らず、悲しまず」。秋山さんが韓国の人々と仕事をする際のモットーにしていた言葉だ。
歴史や文化の違いをわきまえた上で、決して感情的にならない。相手をあくまで尊重しながら、粘り強く話し合い共通の目標を設定して、そこに向かい進んでいく。

東アフリカの元独裁国家ウガンダ共和国。面積は日本の本州とほぼ同じで、人口は約3600万人。
40を超える民族が共生することから世界で最も多様な民族が暮らす国と言われている。
そんなウガンダ共和国でシャツメーカーの「フェニックス社」の社長が柏田雄一。柏田は1958年に大阪の衣料会社ヤマトシャツに就職。
ウガンダ人に向けたシャツなどを製造・販売していたら、品質の良いヤマトのワイシャツがウガンダ共和国で大人気に。
現地にシャツ工場を作ることになったが、そこで白羽の矢が立ったのが柏田。
理由は、彼が外語大出身だったからという。
こうして柏田は家族を連れ未知なる秘境ウガンダへ。
そこで雇用したのは現地のウガンダ人125名。
工場が出来たことで従業員の生活は飛躍的に向上した。
なぜなら当時のウガンダは農業がメインで、自分たちだけのぶんを生産していたので生活は貧困そのものであった。
柏田の工場で賃金を得たウガンダ人は家族を貧しさから救う事ができた。
仕事にもやりがいを感じ何不自由ない生活を送っていたが、ウガンダに来てから2年後クーデターが勃発。
それは初代大統領ムテサ2世を打倒すべく起こった反乱であった。
標的となったのはムテサ2世の出身である国内最大部族ガンダ族。
反乱軍は彼らの排斥運動を始めた。
ムテサ2世と同じ部族の出身という理由だけで、何の罪もない人々が次々と命を落としていった。
その被害は柏田の工場にも。柏田はガンダ族の従業員人たちをかくまった。
すると、そこへ反乱軍の兵士がやってきてガンダ族の従業員を差し出さなければ撃つと言われた。
それでも柏田は自分の命よりも従業員の生活を守ることを選択。
ウガンダ人のために自らの命を差し出す外国人の姿を目の当たりにし兵士は「妹をここで雇ってくれないか」と言い出す。
彼の妹は多くのウガンダ人と同じように安定した職に就けず貧困に喘いでいた。
彼は貧しい人々を救う柏田の姿に心打たれ銃を下ろし、そのまま立ち去っ行ったて。
この行動がウガンダ人の心を打ち従業員との間に深い絆が生まれた。
そして柏田は「もっと多くのウガンダの貧しい人々を救いたい」と思うように。
そしてヤマトシャツは政府からウガンダで初となる学校制服の製作を受注し、工場は大きくなり12年に従業員は約8倍の1000人に。
こうして職に就けず貧しい生活を送っていた多くのウガンダ人を救っていった柏田だが、1978年にウガンダ・タンザニア戦争が起こってしまう。
当時、大統領だったイディ・アミンは隣国タンザニアに侵攻を開始。
しかし逆にタンザニア軍に攻め込まれウガンダの首都は壊滅状態に。もはや警察は機能せず市民が暴徒と化し日々激しい略奪が起こる危険な状況。
身の危険を感じた柏田は家族に日本に帰国させ、本人も隣国のケニアに避難させられた。
そして暴動によりヤマトシャツの工場は破壊された。
そんな中、柏田は自力でウガンダへ。工場は略奪の限りをつくされ無残な姿になっていた。
しかし、従業員たちが柏田のもとに駆けつけ土下座をして謝ってきたと言う。
工場を失って悲しいのは自分だけではないと気づいた柏田。
また柏田の自宅は近所の住民たちによって暴徒から守られていた。
住民たちは柏田がウガンダ人のために雇用を生み出し貧しい生活から救ってくれたことに感謝していたのだ。
柏田はウガンダに留まり彼らに恩返ししていくことを決意。そして2年かけて工場を再建。気持ちを新たにウガンダ人と共に仕事を再開することになった。
ところが政府の要人にシャツを届けに行くと「金がないからお前が金を出せ」と理不尽な要求をしてきた。
柏田が断ると後日、国会で「柏田はウガンダ政府に反抗した。奴は殺すべきだ」と糾弾してきた。
この事態を知ったヤマトシャツはウガンダからの撤退を決意。
柏田は1984年、志半ばでやむなく日本へ帰国することになる。
日本に帰国した柏田はウガンダでの功績が認められヤマトシャツの副社長に就任。
それから15年の月日が流れ、もう二度とウガンダに行くことはないと思っていた柏田。
ところが1999年、ウガンダ大統領ムセベニによって再びウガンダに呼び戻されました。それはウガンダのシャツ工場を再建して欲しいという要請であった。
実は柏田がウガンダを去った後、ヤマトの工場は国有化されたのですが怠慢な経営により経営が悪化し、工場は閉鎖されていた。
地下資源の乏しいウガンダにとって繊維業は国の大切な産業である。
ムセベニ大統領はウガンダの経済を立て直すため柏田に直訴。
しかし、今や柏田はヤマトシャツの副社長。
身勝手にウガンダへ行くことなどできない。
いくら大統領の要請とはいえ簡単に応じることは出来ない。
するとムセベニ大統領は「I beg you」と言って頭を下げてきた。
再びウガンダの未来のため働く決意をした。
何と副社長の座を捨てヤマトシャツを退職。そして69歳の時、再びウガンダへと渡り独立して「フェニックス社」を設立。
ウガンダの発展のために人生を捧げ今も働き続ける彼の姿に現地の人々は柏田のことを「ウガンダの父」と呼んでいる。

日本はほとんど中国・朝鮮を通じてアジア文化を受け入れてきたので、インドとの「人の交流」を通じた「直接的交流」の話はホトンド聞かない。
しかし、インドへの貢献において「顔の見える」カタチで支援してきたのが、杉山泰道(夢野久作)の長男である杉山龍丸である。
夢野久作の長男すなわち「高速自動車」の杉山茂丸の孫として、1919年に福岡市に生まれた。
終戦後、プラスチックの仕事を経て1955年インドのネール首相の要請で、アジアの発展途上国のために「国際文化福祉協会」をつくり、ガンジーの弟子たちとの交流を深めた。