永遠のとなり

たまたま同じ教室で席を隣り合わせた二人が友でとなり終生のライバルとなる。
互いの技能を高めあいそれぞれが世に認められつつも、終生、互いを意識しあうような関係。
そうした関係を「永遠のとなり」とよぼう。
俳句の世界では、高浜虚子と河東碧梧桐とは伊予尋常中学で同級であり、高浜虚子は河東碧梧桐を介して正岡子規を知った。
二人は以来子規門下の「双璧」とされたが、子規没後、2人の行き方には著しい相違が生じた。
河東は時代の使命に促がされたように自由律俳句を唱え、高濱は新傾向に異をとなえる道を頑なに守って、ホトトギス派の重鎮となっていく。
こうして二人は、相親しみ、相弾きつつまわり続ける「喧嘩独楽」のような関係にあった。
ところで正岡子規には、二人の親友がいる。一人は、明治の文豪 ・夏目漱石、そしてもう一人は、『坂の上の雲』の主人公の一人である秋山真之 (さねゆき) である。
司馬遼太郎作『坂の上の雲』の舞台は、伊予の松山、ここに生まれた三人の人物が主人公である。
一人は俳人となった正岡子規で、残る二人は秋山好古と秋山真之の兄弟で、それぞれが日本の近代戦史において「奇蹟」を演じた存在といってよい。
兄の秋山好古は、日本の騎兵を育成し、日露戦争時に世界で最も弱いかもしれなかった日本の騎兵集団をひきいて、史上最強の騎兵と呼ばれたコサック師団を破るという奇蹟を遂げている。
また、好古の弟の秋山真之は、日露戦争時に連合艦隊司令長官 ・ 東郷平八郎のもとで参謀を務め、世界の海軍史に燦然と輝く日本海海戦の作戦を担った。
、 松山の貧困な下級武士の家に生まれた秋山好古は、学費が無料である大阪の師範学校に入学する。
その後、やはり無料で学べるというだけの理由で陸軍士官学校騎兵科に転じた。しかし、当時の日本には騎兵どころか馬すら十分に存在していない。彼は一から「日本騎兵」を育てていくことになる。
弟の秋山真之は、文学を志した親友の正岡子規に刺激されて上京するも、兄に学費を頼る生活に引け目を感じ、大学予備門を中退し自らも無料で学べる海軍兵学校へ入学した。
そして兵学校を首席で卒業し、渡米して海軍戦術の研究に没頭する。
日露戦争における日本海軍の戦術はこの時に生まれたと言っても過言ではない。
正岡子規は立身出世の道を棄て、文学の道へ進むことを決意するものの、肺結核に冒されて病床での生活を余儀なくされてしまう。
しかし、彼は死と向かい合いながらも筆を執り続け、旧弊と戦い続けて俳句・短歌の革新を成し遂げていく。
さて、日露開戦に先立つこと7年前、1897年のこと。米国留学を命じられた真之は、暇乞いをするために、親友である子規のもとを訪れる。
子規はその前年から脊椎カリエスを発症し、ほとんど床に伏したまま毎日を過ごしていた。
この時、二人は、何を語り合ったのか。真之がアメリカに渡ってから、子規は、送別の句を新聞に掲載した。
「君を送りて 思ふことあり 蚊帳に泣く」。
親友への想い、病床にあるわが身の不運。それからおよそ2年半の歳月が流れた。
米国滞在中の真之から届いた年賀状には、「遠くとて 五十歩百歩 小世界」という句がしたためられていた。
好奇心旺盛な子規は、米国に留学した親友の自分を羨ましく思うと同時に、病に倒れたわが身を嘆いているだろう。そんな愛すべき子規に宛てた真之からのエールがこの句であった。
はるか遠くに感じる海外の国々も、手を伸ばせば届く小さな世界にすぎないとう意味だが、太平洋を隔てていても、友情も愛情も、大切なのは、お互いの心に寄り添うことであると伝えようとしたのだろう。
その思いも虚しく、日露の戦いが始まる2年前の1902年、子規は志半ばで息を引きとっている。
東京 根岸にある 「子規庵」 には、病床の子規が毎日眺めていたと言われる小さな地球儀が保管されている。その地球儀の北米大陸には、青い鉛筆で縁取りがされている。

福岡県久留米出身の画家の二人、青木茂と坂本繁二郎は、久留米藩(有馬家)の士族の家に生まれ、高等小学校で同級で、久留米在住の同じ小山正太郎の画塾不同舎の同門でもあった。
早熟の天才といわれる青木だが、絵の手ほどきを青木にしたのは、坂本の方からであった。
坂本は小学校時代から画塾に通う「絵の虫」で、早くから教師級友の注目を集め「神童」ともよばれていたが、青木はその頃文学にふけっていた。
ただ、本格的な画家としての歩みは青木が先んじており、親の反対をうけながらも東京にでて本格的な画家としての歩みをはじめたのである。
坂本が小学校の代用教員として図画を教えていた20才の時に、東京の美術学校に進学していた青木繁が一時帰京してやってきた。
青木の絵に驚いた繁二郎は、絵を本格的に勉強するために青木と共に上京し洋画家の小山正太郎の画塾に入門し、画家への道を歩み始める。
そして30歳の時に描いた「うすれ日」が注目となり、39歳にして絵画修業のためフランスヘ向かった。
二人は作品の芸術的傾向でも生き方でも「対照的」であった。
馬を題材とした作品で知られる坂本に対して、青木は旧約聖書や古事記などに題材を求めた。
青木の鮮烈な色彩に対して坂本の朦朧とした色彩の画風、青木の早熟で奔放不羈な生き方に対して坂本の律儀固陋とした晩成の生き方であった。
青木が早くからその絢爛たる才を発揮していたころ、坂本は民間の会社で漫画を描いていた。
青木の存在が重く坂本にのしかかったのか、坂本は青木の死んだ年より創作をはじめている。
ただ青木は東京勧業博覧会に出した「わだつみのいろこの宮」が、「三等末席」となりその屈辱と憤怒から北九州各地を貧窮のなかに漂泊する。
そして1911年結核のため28歳の若さで福岡市の病院でなくなった。その骨は遺言どおりケシケシ山に埋められ、その作品は「死後」に注目を集めた。
この青木繁といつも比べられてきた坂本繁二郎は、天才や早熟の青木とは対照的に、朴訥、晩成の印象が強い。
フランス留学から戻ると、50歳にして福岡県の八女を「終(つい)の住処」と決めて、そこで坂本の生涯のモチーフとなる馬と出会う。
のびのびと、自由に生きる馬たちの姿が、繁二郎を魅了し、坂本は馬を求めて阿蘇や島原半島にも足を運んでいた。
しかし坂本は八女にアトリエを構えて以降、中央の美術団体に属さず黙々と創作を続けていた。
戦後もその姿勢は変わらず、1946年に新設された帝国芸術院会員に推挙されても辞退している。
坂本の内向的な性格に加え、戦時色を濃くしていく時代の空気も影響したかもしれない。
あるいは坂本は、亡くなった青木をいまだに意識していて比べられるのを恐れていたのかもしれない。
その坂本の絵は、若き画商・久我五千男(いちお)の「審美眼」との出会うことによって、ようやく世に出ることになる。
北九州市若松区生まれの久我五千男氏は、1939年頃はじめて坂本繁二郎を福岡県八女のアトリエに訪ねている。久我はそのアトリエで目を見はった。
四角いキャンバスの中で淡い色彩で描かれた放牧馬が命をもつかのように息づいていたのだ。
若き久我は震えるほど感動し、こんな巨匠の作品がアトリエに眠っているなど日本文化の恥と自らの力でこれらの作品を世に出す決意をする。
坂本の作品は、久我によって次第に社会的な評価を高め1954年に毎日美術賞受賞を受賞し、ヴェネツィア・ビエンナーレに作品を出品、1956年には「文化勲章」を受章している。
ちなみに、画商・久我五千男記念館は、福岡県糟屋郡の須恵町にある。
我が福岡の「永遠のとなり」のもう一組は、政治の世界での中野正剛と緒方竹虎である。
二人は小学校から高校まで同期で、大学は早稲田と一橋と異なるものの緒方は中野と同じ早稲田に転校し同じ朝日新聞に入社する。
ここまでの二人は、ほぼ規を一にして歩むものの、政治の世界にはいってからは、全く異なる政治的志向をもって袂を分かった。
だが中野と緒方の友情は絶えたわけではなく、会うことがあっても政治の話をすることは避けたという。
天才的な中野の感性は一時も休まることなく、常に新しいものを求め続け、あらゆるものにキバをむき、そして果てる。
人の意を受け入れ、時を知り立場をはかった緒方の一生は、中野とは逆に平穏で大往生をとげた。
政治の世界の中野正剛と緒方竹虎、全く異なる芸術の世界における青木繁、坂本繁次郎の「関係」が奇妙に重なっているのも驚きである。
福岡市早良区の鳥飼神社近くには、太平洋戦争期に東方会を結成して東条英機内閣と対決し謎の自刃をとげた中野正剛の銅像がある。
この銅像横の「中野正剛先生碑」の文字は、中野正剛の幼き頃からの親友・緒方竹虎の書によるものである。
緒方は、中野の葬儀委員長を務めるが東条内閣に睨まれていた中野の葬儀委員長を務めることは勇気のいることであった。
政治に対する考え方は異なったが、二人の友情が失われていなかったことを示す「証(あかし)」である。
緒方は戦後、1955年の保守合同の立役者となるが、次期首相と目されながら翌年に亡くなった。
緒方竹虎の義理の娘が元・国連難民高等弁務官の緒方貞子である。

最澄も空海も博多の地にあって、「となり」どうしの博多と吉塚の地に足跡を残している。
804年、最澄38歳、空海31歳の時、7月6日九州肥前田浦の港を発った遣唐使の船は4隻の船団で出発した。
第一船の空海が唐に長期間とどまる「留学」だったのに対して、第二船の最澄はすでに学業なった短期の視察旅行「還学生」であった。
最澄が東大寺戒壇院での「受戒」し、晴れて「国家公認」の僧になったものの、その栄達を捨てて、比叡山に入ってしまう。
最澄が比叡山で学問研究に没頭していた頃、長岡の都では桓武帝が絶望的な状況の中で苦しんでいた。
側近であった藤原種継が暗殺され、早良親王は、淡路への流罪の途中、兄への恨みを込めて絶食し、無念の死を遂げた。
そんな折、最澄の書いた「願文」に心動かされた僧が、叡山に「法華経」による新しい仏教の立宗を目指して、教典研究に励む無名の青年僧がいることを桓武帝に報告した。
桓武帝は、和気清麻呂らが最澄に帰依する姿を見て最澄に救いを見いだし、登用を決意した。
そし794年9月、桓武帝の行幸を迎え、以後、比叡山は王城守護の「根本道場」と見なされるようになる。
803年、遣唐使の派遣が決定した際、最澄は天台の教えをさらに深く知るために「入唐求法」の旅に出ることを桓武帝に願い出る。
そして翌年7月、最澄は弟子の義真を通訳に連れ、空海らも乗船した遣唐使の一行とともに唐に向けて旅立った。
最澄は天台宗の奥義を学んだばかりか、帰途の慌しさの中で真言密教の大家順暁阿闍梨を訪ね、「密教」までも学んでいる。
805年の夏、最澄が帰国すると、彼のよき理解者であり庇護者であった桓武帝が、重い病の床についていた。
最澄は血を吐くような思いで密教の秘法を修し、天皇の病気平癒の祈祷を行うものの、最澄の祈祷の力は、すでに死期の近づいていた天皇には及ばなかった。
こうして最澄の後ろ盾となり、惜しみない援助を送ってきた桓武帝は、ついに70歳の生涯を閉じた。
最澄の名声が少なからず傷ついたところに、密教の「正統」を受け継いだ空海が帰国する。
空海は、18歳で当時の国立大学に入学を許可され、将来を嘱望されたものの大学の勉強に疑問をもち、周囲の反対を押し切り大学を中退した。
山岳修行を続けながら仏教を究めようとしていた時、密教の根本経典「大日教」と出会う。
空海は正統な密教を学ぶために唐にわたる他はないと考え、804年遣唐使一団に混じり、一路唐の長安をめざした。
空海が学ぼうとした長安の高僧青龍寺の恵果(けいか)は、密教の奥義を伝えるべき弟子に恵まれていなかったが、恵果は一目で空海にその資格ありとみたばかりか、師匠である三蔵の「生まれ変わり」とみたのである。
そして自分の持つものすべてを空海に惜しげもなく開陳し、恵果は空海に会ってからわずか33ヶ月で最高位である「亜闍梨」の位を授け、空海を密教の正統なる継承者としたのである。
恵果は空海に早く帰国して日本に密教の奥義を伝えることを願い、空海は、師・恵果のすすめで2年あまりの滞在で帰国を決意し、806年10月帰国したのである。
20年は中国で学問の研鑽を積まねばならなかった留学僧の早期帰国は、「国法を犯す」ことだった。
博多にと留まった空海は、いつか許されるにせよ「反動勢力」と戦うためにも密教の理論化・体系化が必要であると、観世音寺などに納められた仏典などから学んだ。
そして空海はその間、唐より持ち帰ったものの目録を朝廷に送ってアピールしていく。
空海は、先に密教を「断片的」に持ち帰って日本の密教の国師と崇められる最澄に対して、自分の方が密教を体系的に受け継いでおり、「こちらが本道」という絶対的確信もあったからだ。
そして807年、博多に滞在していた空海のもとに朝廷より勅令が来た。まずは和泉国槙尾山寺に仮に住めというものであったが、とにかく空海の幽閉はとかれたのである。
空海はとりあえず槇尾山に居を移し、現在の槙尾山施福寺でさらに2年間すごす。
嵯峨天皇は空海の書や詩を愛しており、空海に「京にのぼりて住め」として与えたのが高雄山寺(現在の神護寺)であった。
一方最澄は、空海が正規の密教を学び、その経典を法具とともに大量に持ち帰ったことを知ると、相手が都ではまだ無名で、しかも自分より7歳も若い僧であったにもかかわらず、彼を密教の師として仰ぐ。
そのことが、「空海」の名を一躍高めることになったことはいうまでもない。
空海は最澄に真言密教の入門灌頂を授け、持ち帰った密教経典も求めに応じて快く貸した。
しかし、最澄が密教の根本経典のひとつである『理趣経』の解釈書の借用を申し込むに至って、空海は手厳しく拒絶する。
空海は最澄を、“宇宙の生命である大日如来との一体化を経験せずに、字面だけで密教を知ろうとしている”と批判したのだった。
空海の伝えた密教は「全人的な没入」が必要でもあったにもかかわらず、最澄には天台法華宗という一門の教主という立場から「顕教」に軸足を乗せていた。
こうして二人の巨人の出会いは最後には悲劇に終わる。
ところで、空海は806年留学先の唐から帰国して1年間は博多にいた。その証が博多駅近く祇園に空海が設立した東長寺である。
東長寺の門には「密教東漸第一の寺」とあり、東長寺の名は空海が東に長く密教が伝わることを願ってつけた名前である。
一方、最澄が遣唐使の安全を祈って創建し仏像を納めたのが東光院で、福岡空港近くに「東光」という地名として残る。
最澄と空海は、博多にあって「となり」なのだが、今日我々が目のあたりにするのは、東長寺の繁栄と東光院の停滞という著しいコントラストである。

日米の戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ-カス団など様々な人々が滞在していた。
戦争が始まると、国交が断絶するので交通も断絶する。
その場合、交戦国にいる人は自分の故郷に帰れないので、考え出されたのが"(捕虜)交換船"である。
1942年6月に、「第一次日米交換船」がスタートし、そこには色々な人間ドラマがあった。
そこには「人生をかけた選択」が行われたといってよい。
ある者は交換船に乗らずアメリカに残り、ある者は交換船で日本に帰ってきている。 交換船に乗らないということは、「敵性外国人」として収容所に入れられる可能性もあったし、日本に帰るということは日本で「敗戦」をむかえることになる。
当時、アメリカに住む多くの日本人は口には出さずとも日本が「戦争」に負けると思っていた。
「第一次日米交換船」で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオンリーダーになる人もいれば、竹久千恵子などモダンガ-ルとよばれた女優、さらには後に「ジャニーズ事務所」を設立するジャニー喜多川など異色の人々もいた。
交換船は、「6つの階層」にわかれ最上階の「A」には野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)、学者の都留夫妻は「D」、学生の鶴見兄妹は最下層の「F」だったという。
同じ船の中でこれだけ多彩な人材が押し込まれるとは圧巻である。
歴史を見るに、「人生を賭けた航海」というのなら、遣唐使船に乗り組んだ人々もそうではなかろうか。
奈良の都には、東大寺ばかりではなく西大寺という寺もあった。東大寺は繁栄し、西大寺は没落する。
しかしながら、近鉄の駅名として名を残したのは「西大寺」の方である。そして最澄の師は西大寺である。
少しそれに似た関係が博多にもある。東長寺は繁栄し、東光院は没落している。
ただし、「東光」は小中学校の名前にもなっているので、人々が馴染んでいるのは「東光」の方。
とはいえ、多くの人々は、博多駅と吉塚駅の間の閑静な住宅街の中に在る「東光院」の存在にすら気づいていないようだ。
実際、1日に数人しか訪れていないようなコノお寺は、まごうことなく、あの最澄、つまり「伝教大師」が806年に建立したお寺なのである。
最澄は、804年遣唐使として中国に渡る折、航海の安全を願い、7躯の薬師如来を彫刻した。そして806年博多に帰った際に、その1躯を本尊とし薬師院を創立し、この薬師像を守る僧達が住む「東光院」も創ったのである。
常時30躯の仏像が並び、その名は広まり多くの僧侶が育ったが、その後博多の承天寺の末寺となり、戦国時代の博多焦土化にて衰退する。
都では華厳宗の東大寺を頂点として、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗の諸大寺が連なっていた。
西大寺は師の行表が籍を置く大寺で、最澄が生涯をかけて求めた天台学との本格的な出合いは、この時であったに違いない。
その最澄は受戒に備えて勉学にいそしみながら、政治の乱れ、社会の乱れ、そして何よりも仏教界の乱れを目の当たりにしたことであろう。
最澄は比叡山に登って、山間の窪地に小さな草庵を営み、比叡山寺と名付け、「一乗止観院」と号した。
そして最澄は、ひたすら「一乗思想」を伝える天台学の研究にのめり込んだ。