遠くから来た「声」

ゴーゴリの短編「鼻」は、主人公が分離した自分の鼻と街角で頻々と出会う奇怪な話だが、この世には自分の「声/歌」と数奇な出会いをする話もある。
1968年、ミシガン州デトロイトの場末のバーで、ロドリゲスという男が歌っていた。
その姿が大物プロデューサーの目にとまり、満を持してデビューアルバムをリリースする。
実力的にもルックスも申し分なかったが、商業的には大失敗に終わり、多くのミュージシャン同様に、レコードもお蔵入り、跡形もなく消え去った。
しかしその「音源」は、本人も知らぬ間に反アパルトヘイトの機運が盛り上がる南アフリカに上陸していた。
そしてロドリゲスの歌に秘められたメッセージ性は、アメリカにおけるボブ・ディランをも凌いでいた。
それは、正規のレコードではなく「海賊版」に乗って流布し、彼のはいつしか「シュガーマン」と呼ばれるようになる。
しかし、シュガーマン・ロドリゲスとは一体何者なのか、情報も不確かな中ステージ上で自殺したという「都市伝説」までもが広がった。
そして一部のファンが、歌詞に登場する地名など数少ない情報を頼りにロドリゲスの居場所を調査したところ、ようやく本人にたどり着く。
その時ロドリゲスは3人の娘を肉体労働で養いつつ、どうにか生計をたてていた。
実は、「シュガーマン探し」のためにラジオで流れた「その声」が父親の声であることを通報したのは、ナントその娘達であった。
そして、ロドリゲスは、アメリカで陽の目をみることのなかった自分の「声」が、地球の裏側の南アフリカに飛んで「大ブレイク」いたことをようやく知るに及んだ。
そしてまもなく、シュガーマン・ロドリゲスは南アフリカに招かれ「凱旋ステージ」が実現する。本人の第一声「生きてたぞ!」に、待ちわびていた観衆の中から大喝采が湧き上がった。
各地での公演は「売り切れ」続発したものの、ロドリゲスはそのギャランティのほとんどを寄付にあてる。
そして、何事もなかったようにアメリカに帰国し、元の工事現場に戻った。
それでも、三人の娘は父が本物のロックミュージシャンであったことを知ることとなった。

終戦直後、GHQのひとりの米兵が「バスケットシューズ」を少年にプレゼントした。
その少年・木村利一はボールを大切に保管し、成長して早稲田大学に進学し、アジア比較法を研究する大学院生となった。
クリスチャンであったことから、YMCAの奉仕活動に参加し、フィリピンのタナバオという地域で、フィリピンの若者と共に「街の復興」のために働くことになる。
1954年、25歳の木村は、YMCAのキャンプに滞在したが、現地の人々は木村を温かく迎えるどころか、「死ね!日本へ帰れ!!」と厳しい言葉をなげかけた。
現地の人々の脳裏には、日本兵に村を焼かれ、家族や友人知人、あまたの人が虐殺された第二次世界大戦の傷が生々しく残っていた。
木村は現地の一人の青年ランディと出会う。ただ一人友好的な態度をとってくれていたランディでさえも、実は大切な家族を目の前で日本兵に殺される経験を持っていた。
南太平洋に進出した日本軍は、現地のゲリラ活動を警戒するあまり、一部の兵隊が暴徒化したものだった。ようやく木村はあまりにも無知のままこの地に足を踏み入れたことに気づくと同時に、何も知らぬままでヤスヤスとは帰れないという思いにかられた。
そして、現地の青年たちとトイレ作りなどを行っていくうち、敵意でピリピリしていた若者達ともうち解け合うようになった。
そんな折、戦後初めて日本にやってきた日本人ボランティアという名目で、ラジオ出演の依頼があり、木村はラジオで日本が「平和憲法」の下、戦争を放棄したことを訴えた。
また木村は、幼き日に「バスケットボール」を教えてくれたアメリカ兵のことを思い出した。というのも、米兵がくれたバスケットシューズを持参してきていたのだ。
そして小学校にバスケットボール・コートを作る許可を得て一人黙々と草取りを始めた。そうした木村の働く姿を見て、現地の人たちも次第に心を開き、コート作りに協力していった。
木村には、2年の期限をへてフィリピンから帰国の途につくが、ひとつの「光景」が消し難く残った。
現地の子どもたちが歌うスペイン民謡のメロディーを基に「みんなで楽しく遊ぼう」と、手や足をたたきながら呼びかける歌だった。
帰国の船上、木村はそのメロディーにオリジナルの詞をつけた。
現地の人々が、木村への感情を「態度に示した」ことや、聖書で見つけた「もろもろの民よ、手をうち、喜びの声をあげ、神にむかって叫べ」(旧約聖書・詩編47編)という言葉にインスピレーションを得た。
帰国後、YMCAの集会でこの曲「幸せなら手をたたこう」を披露すると、学生らの間で少しずつ広まっていった。
たまたま歌手の坂本九は、皇居前広場で昼寝をしていたところ、OLがこの歌を歌うのを耳にした。
坂本はちょうど自分の歌手活動に行き詰まりを感じており、この歌のエネルギーに何かをもらった感じた。
さっそく坂本はこの曲を記憶し、いずみたくが楽譜にし、「作曲者不詳」のままレコード化された。
作曲者本人の木村利人の耳に届いたのは大学の研究室の外から聞こえる歌声であった。
それは自分がフリピンから帰国の際に作った曲を幾分アレンジしたものだった。「作曲者が判明した」というニュースは、坂本九にも届いた。
木村は、坂本の楽屋を訪れ、"歌で世の中を平和にしたい、苦しんでいる人々に希望の光を届けたい"という点で、すっかり意気投合した。
その後、坂本九は東京オリンピックの「顔」として、世界的ヒットとなった「上を向いて歩こう」などを外国人を前に披露したが、それとともに「幸せなら手をたたこう」も歌った。
一方、木村利人はその後、スイスのジュネーブの大学教授、 エキュメニカル研究所副所長にもなり、木村によってヨーロッパにも、この歌は広がった。

「吉田学校」といえば、終戦後に吉田茂首相の下で働いた若き官僚達で、後に有力な政治家になる池田勇人、佐藤栄作 前尾繁三郎などである。
しかし、もうひとつの「吉田学校」がある。作曲家・吉田正が育てた歌手(or俳優)として活躍した吉永小百合、橋幸夫、三田明などである。
ところで吉田正作曲のヒット曲には、 三浦洸一「異国の丘」 鶴田浩二「傷だらけの人生」 フランク永井「有楽町で逢いましょう」 松尾和子「誰よりも君を愛す」 橋幸夫「潮来笠」 吉永小百合「いつでも夢を」 三田明「美しい十代」などのほか数多くある。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留されている。
従軍中には部隊の士気を上げるため、またシベリア抑留中には仲間を励ますために曲をつくった。
その抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」として、いつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した抑留兵の一人が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらず」の歌を「俘虜の歌える」と題して歌い評判となった。
吉田は、その直後に復員して半月の静養の後に「俘虜の歌える」が評判になったことも知らず、以前の会社(ボイラー会社)に復帰していた。
ところが9月、ビクターよりこの評判の歌に詞を加えられて「異国の丘」として発売されてヒットするや、作曲者探しが行われ、吉田正の名が知られることとなり、翌年吉田は日本ビクター・専属作曲家として迎えられたのである。
その後、吉田は数多くのヒット曲を世に送り出し、特に「誰よりも君を愛す」「有楽町で逢いましょう」は昭和を代表する曲となった。
その一方、昭和を代表する作曲家として若い歌手を育て、1998年6月肺炎のため77歳で死去したが、その翌月には吉田の長年の功績に対して「国民栄誉賞」が授与された。
さて、吉田の作曲の原点は、なんといっても1945年10月から1948年8月の舞鶴港帰還までの「シベリア抑留体験」である。
吉田は21歳の時に徴集され、ソ連との戦闘で瀕死の重傷を負い、その後シベリアに抑留され過酷な収容所生活を強いられた。
このシベリア抑留とは、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
ところで最近、吉田が軍隊にいたときや、シベリア抑留中に作ったとみられる未発表の歌が、レコード会社などの調査で次々に見つかっている。
吉田の戦後の再出発のきっかけとなったのが「異国の丘」(作詩:増田幸治 佐伯孝夫)だが、 数年前、一人の抑留経験者の情報提供をきっかけに、吉田が所属していたレコード会社とNHKがさらに調査を進めたところ、同じ部隊にいた人達やシベリアの収容所の仲間が、ノートに書き残したり、記憶に留めたりしていた20余りの曲が発見・復元された。
生前、吉田自身は、軍隊・抑留生活の中で作った作品を公にしてこなかったが、戦友や抑留経験者たちが“ヨシダ”という仲間が作ったという記憶とともに密かに歌い継いでいた曲だった。
作曲数2400曲と言われる吉田メロディーに、新たな楽曲が加えられ、レコード会社ではCDとして残していくという。
さて封印を解かれかのように見つかったこれらの曲は、敗戦に打ちひしがれていた日本を照らす「希望の旋律」でもあった。
実際にシベリア抑留兵の中には、あの時あの歌があったからこそ、いつか帰れる日を信じることがでたという人々も多い。
しかし、吉田自身は当時作った曲を忘れたと話していて、それらを残そうという気持ちはなかったようである。
むしろそうした歌を「封印」したフシさえあるのだが、自らが知らぬうちに「異国の丘」としてラジオで流れていたのである。
それがきっかけで、吉田に戦後復興にある日本を励ます歌を作ろうという思いが芽生えたにちがいない。
「シベリア抑留」は、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
シベリアで6万の人々が命を落としたが、栄養失調の為、帰還時にはヤセ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
シベリアから帰還する息子を、京都府舞鶴港で待ちわびる母の心情を歌った歌「岸壁の母」が、1954年に大ヒットしている。

東京・荒川区は「紙芝居発祥」の地といわれ、当時二百人以上の業者がいて、子どもたちがいるところでは必ず「紙芝居」が演じられていた。
その中に1952年の第1回紙芝居コンクールで優勝を果たして森下正雄がいた。
森下は1923年、荒川区日暮里で生まれた。父親も紙芝居の名人で、この世界でただ一人叙勲を受け、それを95歳まで続けた人だという。
1939年、江崎グリコ蒲田工場に入社後、1944年より中国の奉天工場に勤務した。そして現地で兵役に召集されたのち終戦を迎えた。
シベリアでの強制労働も体験し、紙芝居を本格的に始めたのは、終戦の翌年からであった。
「ナゾー! 黄金バットがマサエさんを助けに来たゾ。いでや、黄金丸の切れ味、とくと見るがよい!」
これが、森下正雄氏の拍子木や太鼓の響きと共に始まる「紙芝居」のスタートの合図であった。
子供達は、駄菓子を食べながら、古びた木枠の「舞台」で繰り広げられる「勧善懲悪」の物語にジット見入っていた。
しかし、高度成長とともに街角から空き地や路地が消え、子どもたちが家の中に閉じこもるようになると、紙芝居はしだいに姿を消していった。
テレビを始めラジオや漫画などの娯楽の普及につれて紙芝居は人気を失い、紙芝居師の数は激し、荒川でも次々に紙芝居師が廃業していく中、森下は伝統文化を守るため、現役の「紙芝居」師を貫き続けた。
夫人は森下の意志に理解を示し、困窮する家計を内職で支えた。
森下の家は駄菓子屋だったので、午前中にお菓子の仕入れや仕込みをする。
森下は、子供の夢とロマンを残すため、「紙芝居児童文化保存会」を結成した。
かつてのように街頭で紙芝居を演じるのではなく、公民館、老人ホーム、日本全国の祭りなどのイベントに自ら出向き、一つの「出し物」として紙芝居を披露するスタイルへと移行していった。
悪漢どもに囲まれて絶体絶命の大ピンチ、だがそのとき、高らかな笑い声とともに、必ずやヒーローが駆けつける。
そんなヒーロー「黄金バット」を名口調で子供達に語り続け、50年を経た1990年の春、森下は喉に異常を感じた。
声がカスレて出てこない。病院の診断は「喉頭がん」だった。
一時、声が出るまで回復したものの、医師からは「声帯の摘出」を勧められた。
紙芝居は声がイノチなので、「声帯」を取ったら「紙芝居」生活とも別れなければならない。
結局、森下は、家族の説得もあって手術を受けることにした。
手術を前にした1990年9月10日の夜の病室で、自分の最後の肉声を残すため、テープレコーダーを前に「黄金バット」を独演した。
語りが終わると、同室の患者たち5人から拍手が巻き起こった。
森下と同じように声を失ったこの患者たち五人が、期せずして森下の「肉声」での最後の客となった。
それでも森下が懸命にリハビリに取り組んでいた時、「送り主不明」のカセットテープが森下の元に届けられた。「消印」は四国の丸亀市であった。
森下はかつて巡業で訪れていた丸亀でのことが思い浮かんだ。
そしてテープには、黄金バットなどを含むかつての「名調子」で、六話が録音されていたのである。
また「これを使って子供たちに紙芝居を演じてほしい」との手紙が添えてあった。
森下は、この「自分の声の贈りもの」を受けた時、「感激で涙が止まらなかった」と語っている。
テープの声に合わせて口を動かす訓練をすれば、「現役」を続けられる可能性がある。
森下は音声に合わせて口を動かし「紙芝居」を行う新しいスタイルを考案した。
そして声を失った森下の「紙芝居」は以前より更に朗らかな表情や表現力に磨きがかかり、子ども達はもちろん大人達も引き込んでいったという。
80歳を過ぎてからも月に2度ほど、公演、コンクール、商店街などの各種イベントで紙芝居を演じ、子供たちに夢と思い出を残すため、自分と同じ病気の人々を励ますため、精力的に活動を続けた。
同時に「食道発声法」のリハビリにも励み「第二の声」での実演も目指したが、今度は肺がんを発症した。
そして平成2008年12月、肺がんで亡くなった。享年85。
現在、息子である森下昌毅が父の跡を継ぎ「紙芝居」を演じている。

木村は2013年、かつて奉仕活動を行ったフィリピンのダグパン市のロカオ小学校を訪問した。
木村は、かつて友情を温めたランディを探したが、彼の消息は不明であった。
500人を超す児童が校庭に座り79歳の木村が立った。
「ここを離れて54年。いつか帰りたいとの思いが実現した。今日は人生で最良の日です」。
そして「この歌は戦争の苦しみから生まれました。私たちは武器で戦うのでなく平和をつくるため、未来に向けていっしょに働こうではありませんか」と締めくくった。そして全員が立ち上がった。
児童はフィリピン語、木村は日本語。二カ国語で歌う「幸せなら手をたたこう」が響き合った。