商談外交

トランプ大統領の登場により、「取引」(ディール)という言葉が、流行語大賞に輝きそうな勢いだが、その格好のサンプルのひとつが北方領土。
日ソというより米ソの熾烈な交渉の「取引対象」となった島々といってよい。
まずは第二次世界大戦末期の「ヤルタ会談」において、アメリカのルーズベルト大統領は、ソ連のスターリン首相に、ソ連による「千島列島と南樺太の領有権」を認めることを条件に、日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。
そして、この「秘密協定」だけでは、収まらなかった。
鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、1956年モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
この際、北方領土をめぐってソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は国後島と択捉島を含む「四島返還」での 継続協議を要求して、結局、交渉の折り合いはつかなかった。
実は日本側は「二島返還」を受け入れる意向だったが、「四島返還」を主張した背景には、 アメリカからの圧力があったといわれている。
いわゆる「ダレスの恫喝」といわれるもので、アメリカのダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力をかけたのである。
米ソ冷戦下、アメリカは日本とソ連との間に「平和条約」が結ばれることを警戒し、それを阻んだというのが真相である。
つまり、冷戦下の米ソの綱引きが北方領土問題をコジラセ、日ソ(日ロ)間の平和条約はいまだ結ばれず、厳密にいうと、いまだに「戦争状態」が続いているのである。
アメリカは、早期の戦争終結を促すためにソ連を引き込んだのに、すくなくとも日ソ(日ロ)間の「戦争状態」を長引かせる結果となってしまった。
さて、北方領土をめぐる「取引」といえば、1980年9月、日本船舶振興会会長の笹川良一氏(故人)が時価1兆円を超える「財宝船」を発見したというニュースから、ひとつの騒動が起こった。
この艦は、1905年の日本海海戦で沈んだロシア帝国バルチック艦隊の巡洋艦ナヒーモフ号で、対馬沖の海底96メートルで発見された。
この艦には、艦隊遠征費用の金やプラチナなどが積み込まれていたといわれ 多くの人が引き揚げに挑戦したが、成功したものは誰もいなかった。
ところが、笹川氏は、艦内からプラチナとみられる十数キロの金属の塊を引き揚げることに成功し、これに対してソ連側も早速、帝政ロシアの継承国家としてその所有権を主張した。
そこで、笹川氏は誰もが驚く「ナヒーモフ号と北方領土の交換」を提案して世論が沸騰するが、見つかった金属塊はプラチナでないことが判明し、この話はたち消えとなった。
さて、笹川氏の北方領土を金塊で買い取ろうといういう提案、ソ連側はどう受け取ったかは知らないが、それを笑って済ますことはできなかったはずだ。
というのも、ソ連はかつてアメリカに「超安値」でアラスカを売却したことがことがあるからだ。
1803年アメリカがフランスからルイジアナを買い取った時の値段は1500万ドルにすぎないが、1867年にアメリカが、帝政ロシアからアラスカを買った時の値段は、その半額以下の720万ドルでしかなかった。
アラスカを発見したのは、1741年ロシア皇帝の命を受けたデンマーク人V.ベーリングで、その後、ロシアが拠点を建設し、1799年にはロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、統治を露米会社(ロシア・アメリカ会社)に任せた。
統治と言っても、あちこちに交易所を建ててイヌイットからのアザラシやセイウチ、ラッコ、キツネ、カワウソなどの毛皮の買い付けを独占するというものだったが、乱獲によるラッコの減少、船の調達をアメリカ人に頼っていたこと、毛皮の輸送経費がかかることなどにより、経営は悪化していった。
また、ソ連のアラスカ売却の背後には国際情勢の大きな変化があった。
1853年、衰退しつつあったオスマントルコへの干渉をめぐり、ロシアがトルコやイギリス、フランス、サルデニャ(イタリア)を相手にクリミア戦争を始まった。
その時、防備が手薄なアラスカを敵国・イギリスに盗られてはたまらない。どうせアラスカを手放すなら当時ヨーロッパでの戦争については「中立政策」を貫いていたアメリカに買い取ってもらおうと売却を打診したのである。
南北戦争の影響もありその時点での進展はなかったものの、1867年3月、ロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官に命じ、国務長官ウィリアム・スワードと交渉を行わせた。
ロシアの新聞は、「労力と時間を費やして開発した土地、金坑が発見された土地を手放してしまうのか」と書いた。
一方、アメリカでも「なぜアメリカに”氷の箱”と朝食に魚油を飲むエスキモー5万人が必要なのか」と報道し、議会も反対した。
しかし、1867年3月、アメリカがアラスカをロシアから購入する条約が調印されたのである。
この条約は4月にアメリカ合衆国上院で批准されたものの、この買収は巨大な保冷庫を購入したとか、"スワードの愚行"とか"スワードの冷蔵庫"と言われアメリカ国民に非難された。
しかし、1896年にはアラスカで「金鉱」が発見されるなど資源の宝庫であることが判明した上、アラスカの位置がベーリング海峡や北極海を挟んでロシアと直接国境を接することから、ソ連との間で発生した冷戦期には、地政学上、極めて重要な場所であることが認識されるようになった。
以上のような経緯をみると、取引好きの大統領なら、現在の損得勘定で、過去の怨念をはらってカネ(経済協力)の力で解決しようとすることもありうる。

安倍首相のフロリダの大統領別荘への招待をテレビで見ながら、まばゆく光るフロリダの海岸シーンがラストに流れるある映画を思い出した。アメリカン・ニューシネマの代表作「真夜中のカーボーイ」。
主演のダスティン・ホフマンは、この映画の2年前に公開された「卒業」では、お金持ちのおぼっちゃま役だったが、今回は都会の最下層にうごめくドブネズミの様な男でその演技力は驚きという他はない。
もう一人の主演のジョン・ヴォイトの方は無名の俳優だったが、後にホフマン同様にアカデミー賞に輝く俳優となるが、女優アンジェリーナ・ジョリーの父親でもある。
男性的魅力で富と名声を手に入れようと、ジョー(ジョン・ヴォイト)は、テキサスからニューヨークにやってくる。カウボーイスタイルに身を固めた彼は、女を引っ掛けて金を要求するが、逆にお金をふんだくられてしてしまう。
様々な不義と虚偽の世界に翻弄され、テキサスを出た時の日に焼けて意気揚々とした姿はもはやなく、つくづくテキサスに帰ればいいのにと思う。
それでもスラム街に住むラッツォ(ダスティン・ホフマン)という足が不自由な小男に出会い、商売の世話してくれるという約束で10ドルを手渡すが、その男は詐欺を常習とする男だった。
しかしジョーは、その小男と身を寄せ合って生きるほか、自分が結びつくナニモノも見いだせない。
そのうち病気になったラッツォのために金を奪って生活をつづけ、ついには金を作るために殺人まで犯してしまう。
そのうち二人は、ラッツオの夢であるフロリダに行こうと、バスに乗って二人でニューヨークをはなれる。しかし夢に見たフロリダに着いた頃、隣の座席のラッツォの呼吸は止まっていた。
この映画をあらためて振り返ると、白人の中産階級の地域であるテキサスから出てきた男。そして格差社会のシンボルでもあるニューヨークのスラム街でうごめく男、そしてその男が夢見るフロリダと、今日の時代を暗示するような要素が詰まった映画であった。
さて、トランプ大統領が安倍首相を招いたフロリダ州パームビーチの別荘「マール・ア・ラゴ」は、1973年、大富豪が自身の邸宅を冬のホワイトハウスとして使用してもらうため米国政府に寄贈したことに始まるという。
当時の部屋数は128で、ドナルド・トランプ氏が大統領になった今、まさにそれが現実のものとなったわけだ。
おそらく不動産王トランプは、このホームグラウンドの利点を生かして、さまざまな「商談」を有利にまとめたに違いない。
このたびの、トランプ大統領と安倍のゴルフ場でのムズガユクなるほどの親密さを見て、事務方のどんな理詰めに積み上げた交渉でもウマクいかないのに、人間同士の相性と場の雰囲気だけで「交渉の筋道」が出来上がったりするものかと実感した。
実際、外交というものが、いかに「人間臭」漂うものかを示すのが、同じ社会主義圏のソ連フルシチョフ書記長と中国・毛沢東(周恩来)との関係、そして違う経済体制をとるフルシチョフ書記長とアメリカ・ケネディ大統領とのエピソードだ。
1950年代の終わり、モスクワを訪問した周恩来首相の歓迎レセプションで、フルシチョフ第一書記がこうアイサツした。
「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」。
周首相は顔色ひとつ変えず、やおら壇上に立ってこう述べた。
「確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それは二人とも自分の出身階級を裏切ったということであります」と。
さて、人類最大の危機「キューバ危機」を救ったのは、ケネディの勇断というより、フルシチョフとの間でひそかに築かれた「共感」というべきものだった。
この「共感」とは、両者とも好戦的な軍の圧力下で、重大決断を下さねばならないという同じような状況から生じたものだった。
二人は1961年6月3日、オーストリアのウイーンでの米ソ首脳会談で最初に会っている。
核実験停止問題とベルリン問題について、双方の主張を繰り返す事に終始し、結局何の進展も成果も無く終わった。しかしこの会談で、親子ぐらいの年齢差のある二人の間に生じた「奇妙な睦まじさ」に気づいたものは少なかった。
両首脳は再び会うことはなかったものの、「書簡の交換」を通じての接触は、ケネディ暗殺直前まで続けられていたという。
ポイントは、キューバ危機の重大局面で、フルシチョフが出した「アメリカがトルコからミサイルを撤去しない限り、キューバから核施設を撤去することはない」という文書を読んだ時のケネディの反応である。
彼は「この手紙には心がこもっていない」と判じたのである。つまりフルシチョフが本心で書いた文章ではないと感じたということである。
そしてケネディは、同文書から「フルシチョフは、けして戦争を望んでいない。軍の圧力に苦しんでいる」と見抜いたため、「海上封鎖」まではしたものの「キューバ侵攻」を思いとどまった。
それゆえケネディは、軍からみて「弱腰」とみられたが、キューバ侵攻が「人類の終局」に至る道であることを思い描いていたのである。
そして1962年10月27日、フルシチョフは突然、キューバからの「核撤去」を発表し、人類最悪の危機は去った。

安倍首相は訪問先のインドで「原発のセールスマン」とよばれ抗議運動を巻き起こしたが、高度成長の道筋を作った池田勇人首相は、外国の大統領から「トランジスターのセールスマン」と揶揄されたこともあった。
アメリカの大統領と「ロン」「ヤス」と呼び合う親密な関係を築いたのが、日本の中曽根康弘首相であった。
1980年代8年間の任期を務めたレーガン大統領は、その日記の中で中曽根首相を日本歴代最高の首相と評し、「会えば会うほど彼に心を引かれる。65歳とは信じ難い。45歳とにらんでいた」と、恋文のようなことを綴っている。
その一方、アメリカの政府高官(フォード大統領か?)から「歴代最低」との評価を受けたのが、田中角栄首相であった。
それは、航空機選定にアメリカのロッキード社から黒いピーナッツを受け取っていたからではない。
田中首相は1973年の石油ショック以前より、日本の発展には「資源の確保」が不可欠で、石油とその後に来る原子力の時代に備え、早くも「ウラン資源」の入手に手を打つべく動き出していた。
田中角栄の「決断と行動力」の看板に偽りがなかったことを物語っている。
こういう田中の「エネルギー・コンシャス」は、「ロード(道路)・コンシャス」と並んで、雪深い新潟から出てきたという生まれ育った「環境」と無縁ではないだろう。
そして石油ショックに見舞われるにおよび、田中首相が「資源確保」をコソ自らの「政治使命」とするに至ったというのは想像に難くない。
田中首相は在任中、戦時中によく使われた「石油の一滴は血の一滴」という言葉を頻発した。
しかしソコから展開した「資源外交」が田中首相の政治生命を短くしたのは、歴史の皮肉といえる。
石油危機に直面した田中首相が、各国首脳に「会談をしたい」呼びかけると各国が反応した。
モスクワの空港では、コスイギン首相が出迎えし、シベリヤの開発を持ちかけ、フランスのメスメル首相とニジェールのウラン開発を話し合う。
西ドイツのブラント首相と会談し、石油危機にともなう途上国への配慮し、シベリヤ開発に誘い、英国ウィルソン首相には、政権が変わっても「北海油田開発」から外資を締め出さないでほしいと申し入れた。
カナダのトルドー首相とは、ウラン鉱の輸入を積極的に推し進めたいと語り合い、他にもオーストラリアやブラジルでのウラン「資源開発」を打診した。
ただし、こうした「資源外交」に対して唯一冷淡だったのがアメリカであった。
当時のフォード大統領、キッシンジャー国務長官で、1973年に行われたフォード・田中会談は予定時間の半分のわずか1時間で切り上げられた。
田中首相は米国の冷ヤヤカな態度に「圧力」を感じたが、そしてこのことが後の「ロッキード事件」の引きガネになろうとは想像サエもできなかったことだろう。
実は、日本に「モナリザ」という世界の名画がやってきたのも、田中の「資源外交」と無縁ではなく、田中首相の時代に、フランスと濃縮ウランの委託加工を決定したことにも関係する。
だが、日本がフランスに濃縮ウランの委託加工を依存することは、米国の「核支配」をくつがえすフランスの原子力政策を一段と推進することになる。
さらには、米国の核燃料独占供給体制の一角が崩れることを意味する。
田中首相と当時のポンピドー大統領はパリで会談し、ポンピドー大統領は「モナリザ」の日本貸出を申し出、田中首相を喜ばせたという。
その一方で、田中角栄の強いリーダーシップの下で自主資源外交を展開し、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイル・メジャーの逆鱗に触れたのである。
1973年に起きたロッキード事件は、航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂が渡ったという事件だが、この事件の発端は日本側の捜査ではなくアメリカ側にあった。
つまり、日本政府にとって、フッテわいたような事件なのだが、最大の特徴は検察当局からすれば、とてもヤリヤスイ事件だったということである。
最高裁もアメリカ側の調書の証拠能力を法的に認め、コーチャンやクラッターなど贈賄側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという超法規的措置までして、検察の動きを助けたのだという。

実は 根本的に「我が国「固有の領土」とは、どいうことなのか。
10年前に亡くなったアイヌ民族で唯一人国会議員を務めた萱野茂氏は、日本とロシアの北方領土交渉をこう評していた。
北方領土はもともとアイヌの国。持ち主であったアイヌの頭越しに、自分の領土だと引っ張り合いをしているようだと語った。
1884年、日本は北千島の住民を色丹に強制移住させ、大半が生きる糧を失い、命を落とす。
日ロ両国は、アイヌ民族の地に国境線を引いて囲い込んでおいて、「固有の領土」などと主張する。
今頃、四島をアイヌに返せなどとはいわないが、あたかも「単一民族国家」かのような意識が残る日本は、自分達の「影」を意識することもなく、「固有の領土」などと声高にいう。
ロシアの憲法にも「少数民族の権利」を重視するとあり、北方領土に「先住民族の人権問題」が横たわっていることをまずは認識させるこが、北方領土問題解決の糸口とみる。

かつて池田首相は「トランジスターのセールスマン」とよばれたが、最近の首相は「原発のセールスマン」とよばれるのではなかろうか。
特に、インドなどへの売り込みに首相でさえその「手先」になっている。
安倍首相は、保護者アメリカから幾分「離れ」る姿勢を見せたし、その点で今ブームの田中角首相と共通点があるように思う。
前者はアメリカが作り上げた国際政治秩序、後者はアメリカが作り上げた経済秩序に、反旗を示した点で共通している。ただし最近の安倍首相は、反旗をおろしてしまった感があるが。
安倍首相は「戦後レジームから離脱」、田中首相は「自主資源外交」とう言葉で表される。
安倍氏が安保体制において、自衛隊を海外に派遣している点では、アメリカの意にそうものであったし、田中角栄のローッキード事件の背景となったトライスター導入についてのリベートにせよアメリカの貿易赤字の解消に「一役買おう」とうことから発したものだった。
さて、安倍氏は安保面においても「片務的」といわれた関係を、できるだけ「対等」なものにしようとしている点では祖父にあたる岸首相と同様である。
これは、日本人ならどこかで意識している問題を突っついたようにも思える。それは、安全保障政策と平和憲法のズレである。
つまり、憲法が指し示している方向と日米安保のそれとは、明白な矛盾があることだ。憲法において戦争の放棄を謡い、軍隊をもつことを禁じていたとしても、他国の軍隊の駐留を許し、代わりに「後方支援」などで戦うことを支援するならば、平和憲法なんていう言葉と矛盾する。
ちなみに、1954年の砂川裁判の伊達判決では、米軍駐留を憲法9条の「戦力」にあたるとして違憲判決をだしている。
自分は喧嘩は好まないといいながら、喧嘩の強い用心棒にしっかり戦ってくれというようなものだから そういう意味で平和憲法は「おぼっちゃま」的であり、国外で戦場に出るなんて国際貢献には無理だったのだが、そこをなんとか踏み越えたのが安倍首相下の外務省条約局の人々であったといえる。

そして、田中角栄の「転機」は、駒込の個人建築事務所に通うようになって訪れた。
その建築事務所は、全国に工場を建設していた「理化学興業」の下請けだったのだ。
田中は、ヨホド理研と縁があるとみえる。
大河内の住み込みを諦めて2年半、「偶然」にも大河内所長の理研との繋がりができた。
大河内は、田中の頭の回転の速さと行動力を見込んだ。
田中は、理研から「水槽鉄塔」の設計を皮切りにガーネット工場、那須のアルミ工場、ロータリーキルンの設計を請け負い、さらには大河内の特命で群馬県沼田のコランダム工場の買収も手がけている。
そして1936年、田中は理研工場の移転工事を請け負い、1600万円の現金をカバンに詰めて朝鮮に渡った。
現在の貨幣価値で70億円弱で、戦況悪化により工事は中断したものの、田中は残金をカバンに詰めて帰国した。
その金は「金権政治」といわれる田中の「原資」となったのである。

1973年10月に第4次中東戦争が勃発した。
アラブ諸国が「親イスラエル国」つまり親アメリカ国には石油を「売らない」という政策に転じたことから、第1次オイルショックが起きたのである。
日本は「親イスラエル」と見なされないために、アメリカの「圧力」にもかかわらずアラブ諸国に必死でアプローチした。
三木武夫特使をサウジアラビアに派遣し、日本をアラブの友好国として認め、原油を供給してほしいというのが目的ですある。
また日本アラビア石油は、インドネシア石油の新しい輸入ルートをつくった最初の「日の丸油田」が、カフジ油田を開発し、北海油田開発にも参加した。
しかし製油所建設には、技術は勿論建設に必要な外貨が必要である。
必要な外貨手当ては欧米からの借款に依存せざるを得ず、欧米は、借款の見返りに色々難しい「条件」をつけてくる。
欧米のシステムに組み込まれることなく、経済発展をとげる方法は、日本の技術と資金でプロジェクトを実現することであった。
原油売却代金を製油所の建設資金に当てる構想であった。
そしてこれが、産油国のオイルを消費国日本がメジャーを介さず直接購入する、DD取引の最初のケースとなった。
実は、日本に「モナリザ」という世界の名画がやってきたのも、田中首相の時代に、フランスと「濃縮ウラン」の委託加工を決定したことが大きい。
田中首相と当時のポンピドー大統領はパリで会談し、ポンピドー大統領は「モナリザ」の日本貸出を申し出、田中首相を喜ばせたという。
しかし日本がフランスに「濃縮ウラン」の委託加工を依存することは、米国の「核支配」をくつがえすフランスの原子力政策を一段と推進することになる。
さらには、米国の「核燃料」独占供給体制の一角が崩れることを意味する。
米国やロスチャイルド、ロックフェラーなどの国際財閥が日本を抑えつけようとしたにもかかわらず、日本は田中角栄の強いリーダーシップで前述のような「資源外交」を展開した。
れが、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイル・メジャーの逆鱗に触れたということである。
1973年に起きたロッキード事件は、航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂が渡ったという事件であるが、この事件の発端は日本側の捜査ではなく、アメリカ側にあった。
つまり、日本政府にとって、フッテわいたような事件なのである。
そして、この事件の特徴は検察当局からすれば大変ヤリヤスかった事件だったということである。
普通、大物政治家に絡む事件では政府より横槍が入るものであるが、ソレサエなく予算もフンダンに与えてくれ、色々と「便宜」をハカッテくれたのである。
最高裁もアメリカ側の調書の「証拠能力」を法的に認め、コーチャンやクラッターなど「贈賄」側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという「超法規的措置」までしてくれて、検察の動きを助けたのだという。
時の総理大臣が反田中派の三木武夫であったということもあるが、国会内部では「三木おろし」の動きが強まっていったにもかかわらず、最高裁もアメリカ側の調書の証拠能力を法的に認め、コーチャンやクラッターなど「贈賄」側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという「超法規的措置」までしてくれて、検察の動きを助けたのだという。
ロッキード事件がアメリカ側の「謀略」とまでいえるかは分からないが、少なくとも田中角栄は或る時点でアメリカ側から「見捨てられた」と言えるのではなかろうか。
そして、それが「国策」を帯びた捜査となって表れたのである。
1974年10月号の文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」が田中金脈問題を告発し、1974年12月に内閣総辞職に追い込まれた。
とはいっても田中角栄もサルモノで、依然として最大派閥の率いる領袖として、無為無策であったわけではない。
以後、田中氏は政界から追放されるどころか自らの派閥の勢力を増して、「闇将軍」として君臨し続けた。
すなわちその後田中角栄は政界のキングメーカーとして隠然たる影響力を持ち続ける。
検察に怨念を抱いた田中氏は、次々と自分の息がカカッタ代議士を法務大臣にして法務省を支配し、検察を「封じ込め」ようとした。
しかし1983年田中氏の第一審での実刑判決がデテからは「反転」した。
つまり刑事被告人が「親分」だと自派から首相が出せないと「田中離れ」が起き、竹下登氏らの「創政会」結成に繋がっていくのである。
首相在任中から高血圧に悩まされており、次第に政治力は衰え、1993年12月に75歳で死去する。
ロッキード事件の収賄罪は結局最高裁まで争ったが、「被告人死亡」のため棄却された。
ところで多くの日本人にとって、田中角栄を憎めずナゼカ「懐かしく」思えるのは、雪国から出てきた「少年像」が、多かれ少なかれパーソナルな「記憶」と結びついているからではなかろうか。
モハメド・アリと言えば、1996年のアトランタ五輪開会式を思い出す。
アリが聖火台の点灯役を受けるなどということに、幾分違和感を覚えていたに違いない。
時代の背景をいうと、90年代のアメリカでは、ロサンゼルス暴動など人種間の緊張が再燃しました。そんな中、公民権運動の指導者、キング牧師ゆかりのアトランタにアリが聖火の点灯役として立ったのは、「人種和解」の象徴と期待されたからだという。
ちなみに、1964年東京オリンピックの聖火の点灯役は、広島原爆投下の日に生まれた早稲田の学生であった。
さて、アリを表す有名な言葉がある。「蝶のように舞い、蜂のように刺す」だが、この言葉は彼のボクシングスタイルを意味するだけではなく、生き方そのものだったように思う。
ムハマドアリという「肉体の詩人」が、世界王者に上り詰めてから、世間のマヤカシに突き刺さる発言をした。
1967年、アリ(当時、カシアス クレイ)は兵役を拒否し、ヘビー級王座のベルトを剥奪されたが、その時はなった言葉は、「ベトコンとは争いはない」という実にストレートな言葉だった。
ベトナム戦争の本質を突いていたので、ベトナム戦争PRキャンペーン実施中の米政府を敵に回す言葉だった。
ところで、転じたからだが、親交を結んだ公民権運動の活動家マルコムXとは、後に距離を置くことになる。
アリの言葉には反差別、反戦が読み込まれ、今も反体制の英雄として語られることが多い。
米国社会において黒人は常に体制に抵抗するか従順になるか、と問われてきたがゆえに、アリには「どちらでもない」生き方が許されなかったということだ。
転じたからだが、親交を結んだ公民権運動の活動家マルコムXとは、後に距離を置くことになる。
アリの言葉には反差別、反戦が読み込まれ、今も反体制の英雄として語られることが多い。
米国社会において黒人は常に体制に抵抗するか従順になるか、と問われてきたがゆえに、アリには「どちらでもない」生き方が許されなかったのだ。
「ベトナムとの間に争いはない」という言葉。「I ain’t got no quarrel with them VietCong」
は、あくまで“I”で始まっており、Weで始まってはいない。
実は、アリは、黒人解放を訴えた「公民権運動」への関与は高くないし、あくあでもボクサーとして生きたいというということを表したといえる。
アリがパーキンソン病の身をさらしてアトランタ五輪の聖火の点灯役をつとめたことにつき、ベトナム戦争への兵役を拒否した反戦の英雄が、アメリカの体制側に使われることの違和感は、マスコミが作ったイメージから来るに過ぎないのかもしれない。
それは、ちょうどボブ・ディランがノーベル賞の授賞式に出なかったことと似た問題なのかもしれない。
代表曲の「風に吹かれて」は、奴隷売買を歌った19世紀の黒人霊歌の旋律を下敷きに、黒人が権利を求めて立ち上がった公民権運動の議論から生まれている。
白人のディランが黒人の心を揺さぶる歌をかいた。
アメリカが闘いの中で築いてきた普遍的な価値観が崩れかけている。しかもディランは、黒人にとって魂の曲とされる歌の源流にいた。
黒人歌手のサム・クックは64年、「A Change Is Gonna Come」を発表します。
「変化はいつかやってくる」とのフレーズは公民権運動の象徴となり、08年大統領選でのオバマのキャンペーン「Change」につながったという。
小学生の頃、KBC洋画劇場で「何がジエーンにおこったか」という映画を見た。
記憶に定かではないが、心理的にトテモ怖い映画だった。(以下、記憶に誤りの可能性あり)
しばしば「アメリカ対イスラム原理主義」といわれてきた。この言い方にアメリカがすべてのイスラム教徒を「敵」とするわけではないということを明らかにしている。
要するにアメリカの敵はあくまでイスラムの一部であ って、それが「原理主義」といわれるものだ。
しかし、そもそもの「原理主義」の本家はイスラム教徒ではなく、アメリカの方なのだ。
アメリカはイギリスにおける宗教改革が「不徹底」であるために、ヨーロッパからアメリカへと移民してきたピュ-リタンよって建国された。
彼らが改革を「不徹底」と感じたことに「原理主義」の根本がある。そして、ピューリタン達は旧きを捨て さって、「新世界」に生きるビジョンを描きうるだけの信仰者であったことを忘れてはならない。
そのビジョンとは回帰すべき「根本の宗教原理」を指しており、これこそが「原理主義」(=「ファンダメンタリズム」)の先駆けである。
ただし、アメリカに移民した人々にとって、先住民の存在はその新世界ビジョンの中から欠落していたし、その延長で世界をアメリカナイズしようとしたところに、強硬に立ちはだかったのが「イスラム国」なのだ。
ただし、イラク戦後に生まれた「イスラム国」は原理主義の範疇を超えて「過激化」もしくは「狂って」いるように思える。
それもアメリカによるイラク戦後のフセイン大統領の公開処刑や、電光石火のオサマディン・ラディン襲撃と殺害もその一因であろう。
何しろ「イスラム国」の源流はアルカイダ・イラク支部といわれているからだ。
田中角栄の首相在任は1972年7月から1974年12月まで、わずか2年半の在任期間だったが、田中は「原子力政策」の基礎をつくったといっても過言ではない。
そして、この点においても田中の若き日の「理研」との接点を見逃せない。
日本は戦前から理化学研究所の仁科研究室で、サイクロトロンをつくって「核融合」を研究していたが、敗戦後進駐軍にサイクロトロンを東京湾に投棄させられ、一旦日本の原子力研究には幕が引かれた。
アイゼンハワー大統領の「アトムズ・フォー・ピース」政策を受け、日本では読売グループの総帥・正力松太郎がこれを推進し、メリカから軽水炉原子炉技術を買うことになった。
福島型原発のBWR(沸騰水型)や、関西電力などのPWR(加圧水型)はいずれもアメリカの技術で開発された軽水炉である。
そして理研は戦後の原子力の「基礎研究」においても先をいっていた。
物理学の仁科(芳雄)研究室には、のちにノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹も朝永振一郎もこの研究室に身を置いている。
ところで、世界の石油市場はメジャー・オイルの寡占状態であった。
産油国の原油売り渡し価格はメジャーの言い値で決められ、ガソリンや潤滑油などの石油製品は、メジャーオイルからの輸入に頼っていた。
そこで自由に自分たちの石油を使いたい、そのために何とか「自前」の製油所を持ちたいというのが、産油国の長年の夢であった。