トランプ大統領の登場により、「取引」(ディール)という言葉が、流行語大賞に輝きそうな勢いだが、その格好のサンプルのひとつが北方領土。
日ソというより米ソの熾烈な交渉の「取引対象」となった島々といってよい。
まずは第二次世界大戦末期の「ヤルタ会談」において、アメリカのルーズベルト大統領は、ソ連のスターリン首相に、ソ連による「千島列島と南樺太の領有権」を認めることを条件に、日ソ中立条約を破棄しての対日参戦を促した。
そして、この「秘密協定」だけでは、収まらなかった。
鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相は、1956年モスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。
この際、北方領土をめぐってソ連側は歯舞群島、色丹島の「二島返還」を主張したが、日本側は国後島と択捉島を含む「四島返還」での 継続協議を要求して、結局、交渉の折り合いはつかなかった。
実は日本側は「二島返還」を受け入れる意向だったが、「四島返還」を主張した背景には、 アメリカからの圧力があったといわれている。
いわゆる「ダレスの恫喝」といわれるもので、アメリカのダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力をかけたのである。
米ソ冷戦下、アメリカは日本とソ連との間に「平和条約」が結ばれることを警戒し、それを阻んだというのが真相である。
つまり、冷戦下の米ソの綱引きが北方領土問題をコジラセ、日ソ(日ロ)間の平和条約はいまだ結ばれず、厳密にいうと、いまだに「戦争状態」が続いているのである。
アメリカは、早期の戦争終結を促すためにソ連を引き込んだのに、すくなくとも日ソ(日ロ)間の「戦争状態」を長引かせる結果となってしまった。
さて、北方領土をめぐる「取引」といえば、1980年9月、日本船舶振興会会長の笹川良一氏(故人)が時価1兆円を超える「財宝船」を発見したというニュースから、ひとつの騒動が起こった。
この艦は、1905年の日本海海戦で沈んだロシア帝国バルチック艦隊の巡洋艦ナヒーモフ号で、対馬沖の海底96メートルで発見された。
この艦には、艦隊遠征費用の金やプラチナなどが積み込まれていたといわれ 多くの人が引き揚げに挑戦したが、成功したものは誰もいなかった。
ところが、笹川氏は、艦内からプラチナとみられる十数キロの金属の塊を引き揚げることに成功し、これに対してソ連側も早速、帝政ロシアの継承国家としてその所有権を主張した。
そこで、笹川氏は誰もが驚く「ナヒーモフ号と北方領土の交換」を提案して世論が沸騰するが、見つかった金属塊はプラチナでないことが判明し、この話はたち消えとなった。
さて、笹川氏の北方領土を金塊で買い取ろうといういう提案、ソ連側はどう受け取ったかは知らないが、それを笑って済ますことはできなかったはずだ。
というのも、ソ連はかつてアメリカに「超安値」でアラスカを売却したことがことがあるからだ。
1803年アメリカがフランスからルイジアナを買い取った時の値段は1500万ドルにすぎないが、1867年にアメリカが、帝政ロシアからアラスカを買った時の値段は、その半額以下の720万ドルでしかなかった。
アラスカを発見したのは、1741年ロシア皇帝の命を受けたデンマーク人V.ベーリングで、その後、ロシアが拠点を建設し、1799年にはロシア領アメリカとしてアラスカの領有を宣言し、統治を露米会社(ロシア・アメリカ会社)に任せた。
統治と言っても、あちこちに交易所を建ててイヌイットからのアザラシやセイウチ、ラッコ、キツネ、カワウソなどの毛皮の買い付けを独占するというものだったが、乱獲によるラッコの減少、船の調達をアメリカ人に頼っていたこと、毛皮の輸送経費がかかることなどにより、経営は悪化していった。
また、ソ連のアラスカ売却の背後には国際情勢の大きな変化があった。
1853年、衰退しつつあったオスマントルコへの干渉をめぐり、ロシアがトルコやイギリス、フランス、サルデニャ(イタリア)を相手にクリミア戦争を始まった。
その時、防備が手薄なアラスカを敵国・イギリスに盗られてはたまらない。どうせアラスカを手放すなら当時ヨーロッパでの戦争については「中立政策」を貫いていたアメリカに買い取ってもらおうと売却を打診したのである。
南北戦争の影響もありその時点での進展はなかったものの、1867年3月、ロシア皇帝アレクサンドル2世は在米外交官に命じ、国務長官ウィリアム・スワードと交渉を行わせた。
ロシアの新聞は、「労力と時間を費やして開発した土地、金坑が発見された土地を手放してしまうのか」と書いた。
一方、アメリカでも「なぜアメリカに”氷の箱”と朝食に魚油を飲むエスキモー5万人が必要なのか」と報道し、議会も反対した。
しかし、1867年3月、アメリカがアラスカをロシアから購入する条約が調印されたのである。
この条約は4月にアメリカ合衆国上院で批准されたものの、この買収は巨大な保冷庫を購入したとか、"スワードの愚行"とか"スワードの冷蔵庫"と言われアメリカ国民に非難された。
しかし、1896年にはアラスカで「金鉱」が発見されるなど資源の宝庫であることが判明した上、アラスカの位置がベーリング海峡や北極海を挟んでロシアと直接国境を接することから、ソ連との間で発生した冷戦期には、地政学上、極めて重要な場所であることが認識されるようになった。
以上のような経緯をみると、取引好きの大統領なら、現在の損得勘定で、過去の怨念をはらってカネ(経済協力)の力で解決しようとすることもありうる。
安倍首相のフロリダの大統領別荘への招待をテレビで見ながら、まばゆく光るフロリダの海岸シーンがラストに流れるある映画を思い出した。アメリカン・ニューシネマの代表作「真夜中のカーボーイ」。
主演のダスティン・ホフマンは、この映画の2年前に公開された「卒業」では、お金持ちのおぼっちゃま役だったが、今回は都会の最下層にうごめくドブネズミの様な男でその演技力は驚きという他はない。
もう一人の主演のジョン・ヴォイトの方は無名の俳優だったが、後にホフマン同様にアカデミー賞に輝く俳優となるが、女優アンジェリーナ・ジョリーの父親でもある。
男性的魅力で富と名声を手に入れようと、ジョー(ジョン・ヴォイト)は、テキサスからニューヨークにやってくる。カウボーイスタイルに身を固めた彼は、女を引っ掛けて金を要求するが、逆にお金をふんだくられてしてしまう。
様々な不義と虚偽の世界に翻弄され、テキサスを出た時の日に焼けて意気揚々とした姿はもはやなく、つくづくテキサスに帰ればいいのにと思う。
それでもスラム街に住むラッツォ(ダスティン・ホフマン)という足が不自由な小男に出会い、商売の世話してくれるという約束で10ドルを手渡すが、その男は詐欺を常習とする男だった。
しかしジョーは、その小男と身を寄せ合って生きるほか、自分が結びつくナニモノも見いだせない。
そのうち病気になったラッツォのために金を奪って生活をつづけ、ついには金を作るために殺人まで犯してしまう。
そのうち二人は、ラッツオの夢であるフロリダに行こうと、バスに乗って二人でニューヨークをはなれる。しかし夢に見たフロリダに着いた頃、隣の座席のラッツォの呼吸は止まっていた。
この映画をあらためて振り返ると、白人の中産階級の地域であるテキサスから出てきた男。そして格差社会のシンボルでもあるニューヨークのスラム街でうごめく男、そしてその男が夢見るフロリダと、今日の時代を暗示するような要素が詰まった映画であった。
さて、トランプ大統領が安倍首相を招いたフロリダ州パームビーチの別荘「マール・ア・ラゴ」は、1973年、大富豪が自身の邸宅を冬のホワイトハウスとして使用してもらうため米国政府に寄贈したことに始まるという。
当時の部屋数は128で、ドナルド・トランプ氏が大統領になった今、まさにそれが現実のものとなったわけだ。
おそらく不動産王トランプは、このホームグラウンドの利点を生かして、さまざまな「商談」を有利にまとめたに違いない。
このたびの、トランプ大統領と安倍のゴルフ場でのムズガユクなるほどの親密さを見て、事務方のどんな理詰めに積み上げた交渉でもウマクいかないのに、人間同士の相性と場の雰囲気だけで「交渉の筋道」が出来上がったりするものかと実感した。
実際、外交というものが、いかに「人間臭」漂うものかを示すのが、同じ社会主義圏のソ連フルシチョフ書記長と中国・毛沢東(周恩来)との関係、そして違う経済体制をとるフルシチョフ書記長とアメリカ・ケネディ大統領とのエピソードだ。
1950年代の終わり、モスクワを訪問した周恩来首相の歓迎レセプションで、フルシチョフ第一書記がこうアイサツした。
「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」。
周首相は顔色ひとつ変えず、やおら壇上に立ってこう述べた。
「確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それは二人とも自分の出身階級を裏切ったということであります」と。
さて、人類最大の危機「キューバ危機」を救ったのは、ケネディの勇断というより、フルシチョフとの間でひそかに築かれた「共感」というべきものだった。
この「共感」とは、両者とも好戦的な軍の圧力下で、重大決断を下さねばならないという同じような状況から生じたものだった。
二人は1961年6月3日、オーストリアのウイーンでの米ソ首脳会談で最初に会っている。
核実験停止問題とベルリン問題について、双方の主張を繰り返す事に終始し、結局何の進展も成果も無く終わった。しかしこの会談で、親子ぐらいの年齢差のある二人の間に生じた「奇妙な睦まじさ」に気づいたものは少なかった。
両首脳は再び会うことはなかったものの、「書簡の交換」を通じての接触は、ケネディ暗殺直前まで続けられていたという。
ポイントは、キューバ危機の重大局面で、フルシチョフが出した「アメリカがトルコからミサイルを撤去しない限り、キューバから核施設を撤去することはない」という文書を読んだ時のケネディの反応である。
彼は「この手紙には心がこもっていない」と判じたのである。つまりフルシチョフが本心で書いた文章ではないと感じたということである。
そしてケネディは、同文書から「フルシチョフは、けして戦争を望んでいない。軍の圧力に苦しんでいる」と見抜いたため、「海上封鎖」まではしたものの「キューバ侵攻」を思いとどまった。
それゆえケネディは、軍からみて「弱腰」とみられたが、キューバ侵攻が「人類の終局」に至る道であることを思い描いていたのである。
そして1962年10月27日、フルシチョフは突然、キューバからの「核撤去」を発表し、人類最悪の危機は去った。
安倍首相は訪問先のインドで「原発のセールスマン」とよばれ抗議運動を巻き起こしたが、高度成長の道筋を作った池田勇人首相は、外国の大統領から「トランジスターのセールスマン」と揶揄されたこともあった。
アメリカの大統領と「ロン」「ヤス」と呼び合う親密な関係を築いたのが、日本の中曽根康弘首相であった。
1980年代8年間の任期を務めたレーガン大統領は、その日記の中で中曽根首相を日本歴代最高の首相と評し、「会えば会うほど彼に心を引かれる。65歳とは信じ難い。45歳とにらんでいた」と、恋文のようなことを綴っている。
その一方、アメリカの政府高官(フォード大統領か?)から「歴代最低」との評価を受けたのが、田中角栄首相であった。
それは、航空機選定にアメリカのロッキード社から黒いピーナッツを受け取っていたからではない。
田中首相は1973年の石油ショック以前より、日本の発展には「資源の確保」が不可欠で、石油とその後に来る原子力の時代に備え、早くも「ウラン資源」の入手に手を打つべく動き出していた。
田中角栄の「決断と行動力」の看板に偽りがなかったことを物語っている。
こういう田中の「エネルギー・コンシャス」は、「ロード(道路)・コンシャス」と並んで、雪深い新潟から出てきたという生まれ育った「環境」と無縁ではないだろう。
そして石油ショックに見舞われるにおよび、田中首相が「資源確保」をコソ自らの「政治使命」とするに至ったというのは想像に難くない。
田中首相は在任中、戦時中によく使われた「石油の一滴は血の一滴」という言葉を頻発した。
しかしソコから展開した「資源外交」が田中首相の政治生命を短くしたのは、歴史の皮肉といえる。
石油危機に直面した田中首相が、各国首脳に「会談をしたい」呼びかけると各国が反応した。
モスクワの空港では、コスイギン首相が出迎えし、シベリヤの開発を持ちかけ、フランスのメスメル首相とニジェールのウラン開発を話し合う。
西ドイツのブラント首相と会談し、石油危機にともなう途上国への配慮し、シベリヤ開発に誘い、英国ウィルソン首相には、政権が変わっても「北海油田開発」から外資を締め出さないでほしいと申し入れた。
カナダのトルドー首相とは、ウラン鉱の輸入を積極的に推し進めたいと語り合い、他にもオーストラリアやブラジルでのウラン「資源開発」を打診した。
ただし、こうした「資源外交」に対して唯一冷淡だったのがアメリカであった。
当時のフォード大統領、キッシンジャー国務長官で、1973年に行われたフォード・田中会談は予定時間の半分のわずか1時間で切り上げられた。
田中首相は米国の冷ヤヤカな態度に「圧力」を感じたが、そしてこのことが後の「ロッキード事件」の引きガネになろうとは想像サエもできなかったことだろう。
実は、日本に「モナリザ」という世界の名画がやってきたのも、田中の「資源外交」と無縁ではなく、田中首相の時代に、フランスと濃縮ウランの委託加工を決定したことにも関係する。
だが、日本がフランスに濃縮ウランの委託加工を依存することは、米国の「核支配」をくつがえすフランスの原子力政策を一段と推進することになる。
さらには、米国の核燃料独占供給体制の一角が崩れることを意味する。
田中首相と当時のポンピドー大統領はパリで会談し、ポンピドー大統領は「モナリザ」の日本貸出を申し出、田中首相を喜ばせたという。
その一方で、田中角栄の強いリーダーシップの下で自主資源外交を展開し、世界のエネルギーを牛耳っていたアメリカ政府とオイル・メジャーの逆鱗に触れたのである。
1973年に起きたロッキード事件は、航空機購入をめぐりロッキード社から日本政府高官に多額の賄賂が渡ったという事件だが、この事件の発端は日本側の捜査ではなくアメリカ側にあった。
つまり、日本政府にとって、フッテわいたような事件なのだが、最大の特徴は検察当局からすれば、とてもヤリヤスイ事件だったということである。
最高裁もアメリカ側の調書の証拠能力を法的に認め、コーチャンやクラッターなど贈賄側が何を喋ろうと、日本としては罪に問わないという超法規的措置までして、検察の動きを助けたのだという。