「英雄の墜落」と展開

インドは19世紀より英国の植民地となっており、国民は圧政と搾取に苦しんでいたが、「非暴力・無抵抗主義」を掲げるマハトマ・ガンジーとたもとを分かち「武力闘争」を掲げた人々がいた。
その代表者が、チャンドラ・ボースで、若くして独立運動に身を投じ国民会議派に属したものの、「敵の敵は味方」「対英武装闘争をも辞さず」との固い信念から、「反ファシズム/非暴力」に固執するガンジー、ネールら「主流派」との対立を次第に深め、やがて会議派を追われた。
そんな折、チャンドラ・ボースが結成したインド国民軍と協力して「独立運動」を支援しようとした一群の日本人がいた。
ちょうど、孫文の中華革命を支援した志士達とおなじように、彼らもまた西欧の列強の圧迫からアジアひいては日本の独立を守ろうとしたのだ。
またインドから、日本に身を寄せ独立運動の拠点をつくろうとする人もいた。「中村屋のボース」ことラス・ビハリ・ボースがその代表である。
また、彼の側近で「行動」をともにしたアナンド・サハイもそのひとりで、1923年から日本にやってきて神戸に身を寄せていた。
戦時下のサハイの家は日本の家庭そのものだった。日本人と同じ配給を受け隣組にも参加した。
娘姉妹はモンペをはいて登校し、千人針を縫い、家族で戦勝祈願の神社参りもした。
妻はカレー用の豆や小麦粉を防空壕に隠し、多忙な夫がたまに家にいると、祖国の料理をふるまった。
娘のアシャは日本名「朝子」を名乗り、神戸の小学校を卒業後、東京の昭和高等女学校(現昭和女子大)に進学する。そして2年の時に「インド独立運動」に身を投じる。
そして、サハイは、日本でインド独立の機運を盛り上げようと、カリスマ的存在であるチャンドラ・ボースの招請を画策した。
そのために妻と「偽装離婚」し、当時インド中部のコルカタにいたボースの元に「秘密裏」に送り、訪日を促した。
ボースはそれに応え、大時化のインド洋上で潜水艦を乗り継ぐという「離れ技」を演じるなどして、念願の来日を果たした。
そして、チャンドラ・ボースは集まった日本人に語った。「いまこそインド国民にとって、自由の暁のときである。日本こそは、19世紀にアジアを襲った侵略の潮流を止めようとした、アジアで最初の強国であった。ロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点である。アジアの復興にとって、強力な日本が必要だ」。
チャンドラ・ボースの来日は、日本でインド独立を志す人々に新しい生命を与えた。
チャンドラ・ボースはインド国民軍の最高司令官となり、シンガポールで「自由インド仮政府」を樹立して独立を宣言した。
さらに1944年3月より日本軍と「インパール作戦」を行い、デリーの英軍攻略をめざした。
実は、サハイの娘アシャは居ても立ってもいられず、妹とともに出征を志願。
するとボースが「花のような娘たちが戦えるのか」とからわれて、ムッとしたアシャは「私たちが国のために死ねるのを閣下は知らない」と言い返した。
結局、アシャだけ入隊を認められ、1945年3月、軍服姿のアシャは日の丸と万歳三唱で見送られた。
母の顔を見れば涙が溢れそうで目をそらし続けた。
バンコクで念願のインド国民軍女性部隊へ入隊するものの、インパールから飢餓や感染症で壊滅状態となった日本とインドの兵士が次々に戻ってくる。
アシャは、訓練を終え「少尉」になった矢先、マラリアにかかってしまい、病み上がりで終戦を迎え、日本は戦争に負ける。
その後、サハイ一家は1946年に娘達がインドに入国し再会を果たした。翌年インドは独立したものの、パキスタンを失っての独立は、チャンドラ・ボースらが目指した独立とは違っていた。
そこで、チャンドラ・ボースはソビエト軍に投降して「祖国独立」の新たな活路を模索しようと大連へと向かおうとする。
ところが、チャンドラボーズを「悲劇」が襲う。台北・松山飛行場で、離陸直後の飛行機墜落事故によって、帰らぬ人となったのだ。
チャンドラ・ボース48歳の死は、独立革命の志半ばの突然の死であった。
チャンドラ・ボーズは、インドではガンジーら現与党・国民会議派と対立し、ボースの立場は微妙だっただけに、いまだに事故死の「信憑性」を疑う人も多い。
日本の敗戦で台湾も極度に混乱するなか、遺体は荼毘に付され、台北市内の「西本願寺」に運ばれた。
その時、参謀本部から、事故から生還した者達には「遺骨を捧持して大本営に引き継ぐべし」との任務を与えられ、日本本土に飛ぶ最後の軍用機に乗り込み、福岡・雁の巣飛行場に向かった。
そして福岡で列車に乗り換え、食事もせず、一睡もしないまま、東京の市ヶ谷の参謀本部に到着した。
そして参謀本部にて、遺骨と遺品とが提出され、それらは翌朝、インド独立連盟日本支部長で自由インド仮政府駐日公使を兼務するラマムルティとサイゴンから飛んできたS・A・アイヤーとに渡された。

背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
福岡市方面から見ると緩やかなピラミッド状のカタチをしていて、現在は山頂にある航空自衛隊のレーダードームがシンボルとなっている。
この山頂から見ると、福岡市の全景が開け、博多湾に浮かぶ玄界島・能古島・志賀島等の島々が霞んで見える。
古い歴史をいうと、背振山麓には霊仙寺があり、「日本茶栽培発祥の地」の石碑が立つ。
日本に禅宗を伝えた栄西は、宋からの帰国時に持ち帰った茶の苗を植え、博多の聖福寺にも茶の苗を移植したのである。
近年この背振山が東北の北上山地とともに、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となった。
結局背振山は東北北上に敗れたかたちとなって 「背振」が世界に名を知られる機会を失う結果となったものの、実は「背振」の名はすでに世界的に知られる出来事が起きていた。
1936年11月19日の夕方、佐賀県との背振の山麓で、耳をつんざくような爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、ふいに音が途絶えたかと思いきや地を切り刻むような音がした。
山懐の住民は、何事が起ったのか訝しがったが、大音響がおきた現地へと向かったところ、機体に挟まれて呻くひとりの外国人の若者を見出した。
実は、この事故の5年前の1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったアメリカのリンドバーグが、博多湾の名島にも着水して颯爽と舞い降りて、福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあった。
今度はフランスの飛行機野郎・アンドレー・ジャピーが日本に来ようとしていたのだが、そのことを知る人はほとんどいなかったし、まして背振の山中にそんな「有名人」が墜落するなど想像することさえできなかったに違いない。
一方、フランスの人々にとって「ジャピーの命運」は大きな関心事であった。というのもジャピーは、これまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」であったからだ。
そんなジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」であったのだ。
当時ハノイのあったベトナムは「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であり、ハノイ経由の懸賞旅ジャピーが香港経由で日本の長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に一旦不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすると、しばらくすると突然眼の前に山の形が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの「下降気流」にたたき落されたのである。
そして、ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、約2週間後には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山山頂近くにあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。

チャンドラ・ボーズとアンドレ・ジャッピーの「飛行機墜落」後にはそれぞれの「展開」がある。
東京・杉並区の地下鉄新高円寺駅に高い場所に日蓮宗・蓮光寺がある。
何も知らないでこの寺に足を踏み入れたら、境内にある「胸像」と出会って驚くにちがいない。
その「胸像の主」こそ、台北で墜落死したチャンドラ・ボーズに他ならないからだ。
実は、ボーズの遺体を引き取ったラマムルティらは「進駐軍(連合軍)」への敵対行動ととられないよう、「控えめ」な葬儀を計画した。
そのため、偽装離婚したサハイ夫人の自宅がある荻窪周辺の寺を探しだが、イギリス官憲がマークする戦犯容疑者との関わり合いを恐れて、首をタテにふるところがない。
そこで、ようやくたずね当てたのが杉並区 当時の蓮光寺の住職は「霊魂に国境はない。死者を回向するのは御仏につかえる僧侶の使命である」とその場で快諾したのである。
9月18日の夜、サハイ宅から蓮光寺まで葬列が組まれ、百人を超えるインドと日本の関係者が参列して、「密葬」がいとなまれた。
その時、かつてラス・ビハリ・ボースを匿った新宿中村屋のお菓子や白米、酒など、リンゴなどの供物が運び込まれた。
葬儀のあと、ラマムルティが住職に「遺骨をあずかっていただきたい」と申し出る。
住職はあくまで「一時的」なものと思い、それをすんなりと受け入れた。
しかしその後、インド独立連盟に関係した在日インド人たちは「国家反逆罪」の容疑で本国に送還され、ボースの「遺骨」だけが日本に取り残されることになる。
というわけで、チャンドラ・ボースの遺骨はこの蓮光寺に安置されてきたのである。
ただ、この半世紀、寺の住職や旧日本軍関係者によって、ボースの遺骨を祖国インドに返還しようという運動が熱心に展開されてきたが、いまなお実現されていない。
ガンジーの「栄誉」とは裏腹に、ボースの遺骨はなぜ祖国に帰ることがいまだ許されないのか。
ひとつ考えられる理由は、独立後、政権を長らく担当してきた国民会議派、とくにネールにとってボースは「政敵」であり、積極的にはなり得なかったこと。
またもうひとつの理由は、親族も含めて、インド国内に「英雄ボース」の死を認めたがらない人たちがいることである。

2016年夏公開の映画「ハドソン川の奇跡」は、バード・ストライクで制御不能となった飛行機をハドソン川に不時着させ、150名余りの人々を救ったパイロットの実話に基づくストーリーである。
「英雄」と称されたパイロットだが、航空機事故調査委員会で、一転して空港に「帰還可能」な段階での不時着は誤った判断であり、逆に大勢の乗客の命を危険にさらしたと、追求されることになる。
コンピュータのシュミレーションによれば、確かに別の空港に安全に飛行機を誘導できたはずなのだ。
しかし、そこにはコンピュータには表れない「ヒューマン・ファクター」が存在していた。
この事故後の展開をみるにつれ、人命が守られても、それが「ベストの選択」だったのか「検証」に耐えねばならないとは、パイロットにとってなかなか厳しい世界だ。
この「ハドソン川の奇跡」が起きた2009年から遡ること34年の1975年、ニューヨーク国際空港において航空機事故が起き多数の死傷者がでた。
当初パイロットの「操縦ミス」と考えられていたが、ひとりの観測者の研究がその真相を明らかにした。
大リーグで、その独特の投球フォームから「トルネード投法」(竜巻投法)と呼ばれた野茂英雄が近鉄バッツファローズに入団した1990年、アメリカ・シカゴ大学では、もう一人の「ミスター・トルネード」が定年の日を迎えていた。
「竜巻研究」の権威として世界にその名を残した藤田哲也である。藤田は、1920年、福岡県企救郡(現・北九州市小倉南区)生まれた。
旧制小倉中学(現小倉高等学校)に学び、旧制明治専門学校(現九州工業大学)機械科に進んだ。
卒業後は、明治専門学校で助手を務め、1カ月後には助教授に「昇進」した。
そして1945年、藤田は広島・長崎の原爆投下による「被害調査」に派遣され、現場の状況を観察し、原爆が爆発した「高度」を特定したこともある。
ところで、藤田の真骨頂はその徹底した「実証主義」にある。
1947年、脊振山の「測候所」で気象観測を続けていた藤田は、解析したデータから雷雲の下に「下降気流」が発生していることを発見した。
ジャッピーを脊振山中にたたき落としたアノ「下降気流」である。
実は、藤田がアメリカに向かい竜巻の研究にむかう契機となったのが、背振山における研究を「論文」にまとめたもので、アメリカ・シカゴ大学のバイヤース博士に送ったところ、藤田をアメリカに招待したいという返事がきたのである。
1953年、藤田はアメリカに渡り、以後、竜巻の研究に没頭していく。
アメリカでは1年間に数百個のトルネードが発生するが、 藤田は、竜巻が発生したと聞くや、何をおいても「現地」に飛んでいく。
風と気圧の変化を「実地調査」をし、被害状況を詳細に分析し、竜巻の「メカニズム」を次々と明らかにしていった。
そして、親雲から発生した渦が地形と気象との関連により地上に達成した時、トルネードとして発生することを推論し、この「発生メカニズム」を実験室で再現して見せた。
こうした藤田の研究は、「竜巻の現場」に限らず、思わぬところで生かされることになった。
1975年、ニューヨーク・ケネディ空港で、イースタン・エアライン66便が着陸直前に地面に激突するという「大惨事」が起こった。
政府関係者が割り出した事故原因は、「パイロットのミス」であったが、これを「不服」とした航空会社が「再調査」に白羽の矢をあてたのが、藤田哲也であった。
調査の結果、墜落の原因は上空にあった雷雲から激しい「下降気流」が発生し、それが地面にぶつかって「放射状」に広がったためであるとした。
従来、空気のような粘性のない流体は、流れが弱いため、仮に「下向きの気流」が発生したとしても「地面に到達すること」などあり得ないとされてきたのだが、それが間違っていることを明らかにしていった。
この強烈な下向きの風は、藤田によって「ダウンバースト」(下降噴流)と名付けられた。
さらに藤田は、ダウンバーストの動きを探知するために「ドップラー・レーダー」を活用するよう提言した。
ドップラー・レーダーとは、ドップラー効果による「周波数の変移」を観測することで、位置だけではなく観測対象の移動速度を観測する事の出来るレーダーである。
藤田の提言を受けて、世界中の空港に「ドップラーレーダー」が設置され、墜落事故は「激減」していった。
藤田のこうした「功績」が讃えられ、藤田には「世界的な賞」がいくつも与えられ、人々は藤田のことを「ミスター・トルネード」と呼ぶようになる。
それは、ちょうどアメリカ大リーグ界に野茂が「トルネード旋風」を巻き起こした時期と重なった。
1998年11月、藤田は、シカゴでの78歳で亡くなり、故郷・小倉の曽根の地に眠っている。