シュガーロード

「時の人」安倍昭恵夫人の曽祖父が、アメリカで西洋菓子の製法を習得し、帰国して「森永西洋菓子製造所」を創業した森永太一郎である。
昭恵夫人の父・昭雄氏は、関連会社の役員などを歴任した後、1983年から1997年まで、森永製菓の第5代社長を務めた。
父の任期中に、あの「グリコ・森永事件」(1984~85年)が起きている。そのため昭恵夫人には当時、護衛がついたのだという。
さて、森永製菓の森永太一郎や江崎グリコの江崎利一、いずれの創業者も「佐賀県出身」なのは奇妙な符合のようにも思える。
そこで佐賀人のDNAとして思い浮かぶのが、「シュガーロード」(砂糖の道)である。
江戸時代、天領(幕府領)であった長崎と藩境を接していたのが肥前・鍋島藩であるが、ポルトガルから伝わった製法を下に数々の銘菓を育ち広がったのは、「シュガーロード」ともよばれる長崎街道の存在が大きい。それは何といっても、オランダ商館長が江戸参府をする際の「通り道」だったからだ。
森永太一郎は1865年佐賀県伊万里の陶磁器問屋に生まれた。幼くして父を失い母とも離別した。
親類の間を孤児として転々としたが、漢学者の家に丁稚奉公し、傍ら漢学を学んだ。しかし謝礼の米が納められず、三度の食事にも苦労したという。
13歳の春、伯父の家に引き取られ、50銭の資本で八百屋の行商をやり、次に陶磁器の番頭となり横浜にいった。
ところが借金地獄に苦しみ1888年、23歳で単身アメリカに渡る。
知人もなく英語もできない森永が、そうそう商売で成功するわけはない。
たちまちホームレス状態となり、ある時雑役夫として働いた頃、酒をあおるように公園のベンチに寝ころがったところ、天使(エンゼル)が舞い降りた。
そこに、「キャラメルの包み紙」が落ちていたのだ。
ピーンときて、さっそく菓子工場を探すが日本人を雇ってくれる工場はなく、農園や安宿、邸宅などを転々としているうち、ついにキャンディー工場の仕事に就くことができるようになった。
そして1899年35歳の時、森永は洋菓子の製法を身につけ日本に帰国した。
その年東京赤坂に念願の「森永西洋菓子製造所」を起こしたのである。これが後に、「エンゼルマ-クの森永」として親しまれる森永製菓の創業であった。
森永太一郎は、1937年73歳で波乱の人生を閉じたが、生家に近い佐賀県伊万里神社の境内には、森永の銅像がある。
ところで、日本における菓子の誕生は「薬用」との関係が深いものがある。
日本にはじめて「砂糖」がもたらされたのは奈良時代のことだが、当時の輸入量はごくわずかで、目的も食用としてではなく、ノドの薬として使用されていたという。
さらに鎌倉時代、中国の元の順宗皇帝の時代に、礼部員外郎(れいぶいんがいろう)という役職にあった陳延祐が、元が滅ぼされると、日本へと渡って来た。
1368年に博多に上陸し妙楽寺に滞在し、陳外郎(ちんういろう)と名乗った。医術に詳しかったため、将軍・足利義満から招かれ、その息子が京都へ移り住んだ。
息子は、朝廷の典医や、外交上の顧問を務め、朝命で中国(明)の実家へ戻り、霊宝丹の処方を持ち帰り、 時の天皇より「透頂香」(とんちんこう)の名を賜った。そのうち、外郎家で作られる薬なので「ういろう」と呼ばれた。
1504年に子孫が北条早雲に招かれて、小田原に定住し、甘みを加えてお菓子の「ういろう」として売りにだした。
新幹線開通とともに、名古屋名産「ういろう」として全国に知られていくが、博多駅に近い妙楽寺には「ういろう伝来の碑」が建っている。
またコーヒーも茶と並んで、幾分「薬用」としての色合いがあるものだった。
江戸時代の初めごろにオランダ人がコーヒーを出島に持ち込み、出島に出入りする通詞(通訳)や役人も示しコーヒーを飲んでいたことが記録にある。
このコーヒーに強い興味を示したのが津山藩(岡山)の洋学者・宇田川榕菴である。榕菴はわずか19歳で「哥非乙説」という論文を書いている。
「哥非乙説」をまとめる2年前、榕菴は養父の玄真とともに、将軍に拝謁するために江戸へやって来たオランダ商館長と面談をしている。
こうした江戸参府の時にお土産としてコーヒーを贈ることがあったようで、この時榕菴もコーヒーを口にするチャンスに恵まれたと推測できる。
ちなみに「珈琲」の当て字は、榕菴が考えたものといわれている。
さて、グリコの創業者・江崎家も、もともとは「薬業」を営んでいた。
江崎利一は、佐賀県神埼郡蓮池村(現佐賀市蓮池町)に生まれた。父と母は江崎が生まれる2年前から「薬種業」を始めていた。
ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた。しかし暮らしは貧しく、長男だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた。
そして1901年6月、父が亡くなり弟妹をかかえた6人の家族の全責任を19歳の江崎が一身に背負う立場になって、以前にもまして商売に励んだ。
そのうち、牡蠣(カキ)に含まれるグリコーゲンから「グリコーゲンの事業化」を思いついた。
そのことが江崎の中で生まれ始めた頃、10歳になったばかりの長男がチフスにかかり医師もサジを投げるほどの衰弱であった。
このとき、江崎は医師の許可をえて子供の生命をかけた「牡蠣エキス」の試飲を長男に行なった。
この試飲を境に、誠一の病状は快方に向かい、食欲も出、体力も回復してきた。このことがあってから「グリコーゲンの事業化」は、しだいに江崎の頭の全領域を占めるようになったという。
アメの中に、牡蠣エキスからとったグリコーゲンを入れた試作品を、つぎつぎと作り、意を決して1921年4月、41歳の江崎は一家をあげて大阪に移住し、江崎グリコは関西の会社として発展していく。

ポルトガルとの貿易をきっかけに、砂糖の輸入量は徐々に増えていき、18世紀に入ると、オランダ船や中国船によって盛んに輸入されるようになった。最盛期の頃は、現代の金額にしてざっと約24億円もの、莫大な量の取引が行われていたという。
江戸時代、日本で貿易の拠点となっていた長崎に陸揚げされた砂糖は、「長崎街道」を経て京、大坂、江戸(現在の京都、大阪、東京)へと運ばれていった。このため、比較的砂糖が手に入りやすかった街道筋で、古くから甘い菓子が盛んに作られるようになったという。
そんな歴史をもつ長崎街道沿いに数々の伝統的スイーツが生まれたのは自然な流れといってもよい。
西洋菓子のルーツとしていまも愛され続ける長崎カステラが、その代表といってよい。
日本でカステラが作られるようになったのは、1624年創業の老舗「福砂屋」の初代がポルトガル人から製法を学んだのが始まりだと伝えられている。
当時のカステラは、今よりも固いものであったとか。その後、日本人の口にあうように改良が重ねられ、明治期に材料に水飴が加えられるようになってから、現在のようなしっとりとした口当たりのものとなった。
佐賀県のほぼ中央、佐賀平野の西端に位置する城下町・小城では明治初年から「羊羹作り」が盛んに行われていて、いまでも町には20軒あまりの羊羹店が軒を連ねている。
天然着色料で赤く染められた紅練りの「小城羊羹」は見た目にも美しい。
また、小城羊羹の特徴の一つは表面のシャリシャリ感だが、これは練り上げた羊羹を木箱に移し、一昼夜「寝かせる」昔ながらの製法を守っているからだという。じっくり寝かせることにより、砂糖が表面で糖化するのだ。
さて、ようかんは漢字で「羊羹」と書く。つまり羊(ヒツジ)の羹(あつもの)だが、野菜、山菜や肉を入れて作られた「熱い吸い物」を指す。
中国では元々「ようかんこう」という、羊の肝を使った蒸し餅があり、動物の肉を食べる習慣の無かった日本に伝わり、現在のようなお菓子となったという説がある。
また、羊肝という当て字もあり、文字通りヒツジのキモのことで、羊の肉を用いた中国の汁物(羮=熱物)が冷え固まった後の「煮こごり」が元になって原型ができた。それが日本に伝わり、その後、お茶の点心として用いられるようになり、改良されてお茶菓子となったという説もある。
したがってもともと「ようかん」は蒸しようかんで、今のような「練りようかん」が世に登場したのは江戸時代で、寒天が発見されてからという。
「蒸しようかん」より糖分が多く、日持ちがよいなどの理由から広まっていったようだ。

長崎街道は、福岡にはいると次のようなコースをたどる。「原田(はるだ)宿」(福岡県筑紫野市)→「山家(やまえ)宿」(福岡県筑紫野市)→「内野宿」(福岡県飯塚市)→「飯塚宿」(福岡県飯塚市)→「木屋瀬」(こやのせ)宿(福岡県北九州市八幡西区)→「黒崎宿」(福岡県北九州市八幡西区黒崎)→「小倉常盤橋」(福岡県北九州市小倉北区室町)~終点といった具合に福岡県内の内陸部を通る。
そして長崎街道沿いの飯塚で生まれたのが「千鳥饅頭」。生地のなかに自慢の白あんがギッシリつまっている。
今ではすっかり福岡(飯塚市)を代表する銘菓となった「千鳥饅頭」だが、そのルーツもやはり佐賀にあった。
1630年創業した「松月堂」は、カステラや丸ボーロづくりを専門にする老舗だった。先々代の頃、カステラの材料を使った生地に、白あんを入れることを思いつき、1927年、苦心の末、新しい菓子が誕生した。
ただ、「千鳥饅頭」の名前の由来は、意外にも菅原道真に関わっている。
道真が福岡に流されてきて自分のやつれた顔を川面に映した際に歌った歌、「水鏡せると伝ふる天神の、みあしのあとに千鳥群れ飛ぶ」である。
ちなみに福岡市・天神の水鏡天満宮もこの歌にちなんで創立された。
昭和になり、当時の店主であった原田政雄は、「千鳥饅頭」と名付けたこの菓子の完成とともに、飯塚支店「千鳥屋」を出店した。
飯塚を選んだのは、当時、筑豊炭田でにぎわっていた飯塚にリヤカーで行商に行ったところ、商品が飛ぶように売れたからだという。
当地の景気の良さもあるのだろうが、厳しい労働に明け暮れていた人々の体が、甘いものを求めていたのかも知れない。
以来、佐賀県の菓子王国の伝統は飯塚へと広がっていった。そして「千鳥饅頭」は、ヨーロッパの菓子と繋がりを深めるという展開をみせている。
先々代の社長の原田光博氏飯塚市出身で、1938年の生まれで2008年に亡くなったが、長年福岡商工会議所議員を務め、「福岡オーストリアウィーン倶楽部」の専務理事なども務めた。
なにしろ千鳥屋のお菓子はチロリアンなどドイツやオーストリアの文化と融合する形で開発されたものも多い。
1994年に原田光博は、ドイツ連邦共和国から功労勲章一等功労十字章を授章されている。
ところで原田光博がドイツにて菓子製造修行の際にその夫人ウルズラさんと出会い、1972年ハンブルク市にて結婚した。ちなみにウルズラさんのご実家も菓子店を経営されていたそうである。
原田光博氏が亡くなられた後しばらくは夫人である原田ウルズラさんが社長の地位を引き継がれた。
そして、次男の原田健生はドイツ色の強い上智大学経済学部に学び、現在の千鳥饅頭総本舗の社長である。
ところで福岡市南区の寺塚には、市内で最も人気があるといってもよい菓子とパンの店「サイラー」がある。
この店を開いたアドルフ・サイラー氏は、オーストリアのパン職人の家の出身で、日本に来日した際には「千鳥饅頭本舗」で修行をした人物である。
オーストリアのオーバーエストライヒ州オーバーキルフェンにあるサイラーの店は、1913年から代々パン屋をしている老舗で、オーストリアでは家業を引き継いでいくことはごくあたりまえで、1994年に福岡サイラーの店主である4代目アドルフ・サイラーも15歳からパン職人として働いたという。
アドルフ氏は本国に帰国して家を次ぎ、現在の福岡「サイラー」の店は 弟のルドルフ・サイラーに引き継ついできた。

旧約聖書「出エジプト記」には、イスラエルの民はエジプト脱出後40年もの長きにわたって彷徨うが、そのイスラエルの民を砂漠で養った食べ物が「マナ」という食物である。
イスラエルの人々の全会衆は、シンの荒野にきたが、そこで会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。
「われわれはエジプトの地で、肉のなべのかたわらに座し、飽きるほどパンを食べていた時に、主の手にかかって死んでいたら良かった。あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出して、全会衆を餓死させようとしている」。
モーセとアロンは、イスラエルのすべての人々に言った、「夕暮には、あなたがたは、エジプトの地からあなたがたを導き出されたのが、主であることを知るであろう。 また、朝には、あなたがたは主の栄光を見るであろう。主はあなたがたが主にむかってつぶやくのを聞かれたからである」。
モーセはまた言った、「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。主はあなたがたが、主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである」。
そして、朝ごとにコエンドロの実のようで白く、その味は蜜を入れた「せんべい」のようなものが下ってきた。
主は、「あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい」と命じた。
イスラエルの人々はそのようにして、ある者は多く、ある者は少なく集めた。
モーセは彼らに言った、「だれも朝までそれを残しておいてはならない」。
しかし彼らはモーセに聞き従わないで、ある者は朝までそれを残しておいたが、虫がついて臭くなった。
彼らは、おのおのその食べるところに従って、朝ごとにそれを集めたが、日が熱くなるとそれは溶けた。
イスラエルの家はその物の名を「マナ」と呼んだ。イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。
この「マナ」というものがどんなものか、それほど分かっていないが、仏教でも天から下る「甘露」というものある。
インドにも「アムリタ」という天から下る食べものがあるので、「パレスティナ→インド→中国」という文化の伝搬が推測できる。
中国で「甘露」は、天から与えられる甘い不老不死の霊薬。天子が仁政を行うめでたい前兆として天から降るという。
「瑞兆」があると、高級官僚はそれを確認に向かうのが当時の慣例であった。
唐の831年に「金吾庁事の後庭のざくろに甘露が降りました、瑞兆です」との奏上を利用して、政治を乱す宦官の暗殺をはかる「甘露の変」という出来事があった。
ただ、宦官たち10数人を 死傷させたが 狙いの大物、仇士良らは殺せず失敗に終わっている。
その行く手「甘露の道」にも思えた安倍首相も、森永一族の夫人と園児に「安倍首相がんばれ」といわせる奇怪な学園との関係で、行く手に暗雲が広がる気配である。