悔いなきように

2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロは、長崎県出身の日系イギリス人小説家である。1989年に長編小説『日の名残り』でイギリス最高のブッカー賞を受賞して、本国では知られた作家。
イシグロは、長崎市新中川町で海洋学者の父・石黒鎮雄と母・静子の間に生まれた。
祖父の石黒昌明は滋賀県大津市出身の実業家で、東亜同文書院で学び、卒業後は伊藤忠商事の天津支社に籍を置き、後に上海に設立された豊田紡織廠の取締役になっている。
父の石黒鎮雄は1920年4月上海で生まれ、明治専門学校で電気工学を学び1958年のエレクトロニクスを用いた波の変動の解析に関する論文で東京大学より理学博士号を授与された海洋学者である。
父は、東京高円寺の気象研究所勤務の後、1948年長崎海洋気象台に転勤となり、イシグロは幼少期に長崎の幼稚園に通っていた。
1960年に父が国立海洋研究所所長ジョージ・ディーコンの招きで渡英した。同研究所の主任研究員となり、北海で油田調査をすることになり、一家でサリー州・ギルドフォードに移住、現地の小学校・グラマースクールに通った。
イシグロは音楽の才にも恵まれ、デモテープを制作しレコード会社に送ったりしていた。
1978年にケント大学英文学科、1980年にはイースト・アングリア大学大学院創作学科に進み、批評家で作家マルカム・ブラッドベリの指導を受けている。
以上、イシグロの経歴をみながら、仕事と文学が結びついているケースを思い浮かべた。
気象台勤務で厳しい自然を文学的に描いた新田次郎や海洋学者で海洋環境を文学的に描写したレイチェル・カーソンなどがいる。
1962年にレイチェル・カーソンが発表した「沈黙の春」は、農薬の無制限な使用について世界で始めて警告を発した書として世界をも揺り動かした。
しかし彼女が「沈黙の春」を書くにあたって戦わなければならなかった戦いの大きさは想像を絶するものがあった。
彼女自身の病と身内の不幸にとどまらず、そして州政府、中央政府、製薬会社などを敵にまわしての執筆だった。「沈黙の春」に対する反撃は、彼女自身の人格に対する誹謗・中傷にまで及んだ。
彼女の写真から見るイメージは、穏やかさこそが生来のもので、戦いとは縁遠い存在に見える。
レイチェル・カーソンはペンシルヴァニア女子大学に進み、そこで作家になるため英文学を専攻するが、むしろ生物学の授業に魅せられる。
彼女は悩み抜いた末に方向を転換、生物学者になる道を歩み始める。
彼女は海洋生物学者としていくつかの本を出し、そのひとつが「全米図書賞」の候補にもなり彼女の名は知れ渡っていた。
彼女の人生の大きな転機は1958年1月に彼女が受けた「一通の手紙」。その手紙には身近なところで毎年巣をつくっていた鳥が薬剤のシャワーによりむごい死に方をしていたことが綴られていた。
彼女の元には同じような内容の何通が手紙がきていたのだが、それをもはや無視できない段階に来ていることを感じた。
1939年に発見されたDDTが害虫を駆逐し大きな収穫の向上が見られたためその経済的な利益ばかりが注目された。
州当局が積極的に散布していたDDTの蓄積が環境悪化を招くことはまだ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが彼女の警告はほとんど取り上げられることはなかった。
彼女は心を痛め雑誌の編集者にこうした問題の本を書き上げる人物はいないかと打診したが適当な人物は見当たらず、結局彼女自らペンをとる決心をする。
彼女の専門は生物学でありこうした問題を取り扱うだけの化学的知識は充分ではなかった。
しかも彼女が本を書くことによって連邦政府・州政府・製薬会社を敵にまわすことはメに見えていた。
かつてその内務省魚類野性生物局で働き働き安定した収入を得ていた「アメリカ政府」を相手に戦うことになるのだ。
彼女は専門家に数百通の手紙を出し、論文やデータを集めた。わずかな間違いも訴訟問題を引き起こし、出版できなくなる心配があった。こうした専門家達が敵となる政府や会社に対していつか味方になってくれるという彼女なりの「戦略」でもあった。
しかし波の塔のように次々と襲いかかる苦難が待ち構えていた。まず彼女に生命に対する目を開かせてくれた最愛の母親を失うという不幸、両親を失った親戚の子供を養子にむかえて育てる負担、そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ-ン、のみならず彼女の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
「ヒステリィー女」「なぜか遺伝を心配する独身女」「共産主義のまわし者」などなど。
しかしケネディ大統領が記者会見でこの問題にふれ、レイチェルが農業の問題を明らかにしたと肯定的な発言をしたことで 流れが変わった。
そしてとてつもない「生みの苦しみ」を経て、1962年「沈黙の春」は完成する。

1952年1月15日、韓国の李承晩大統領が国際法を無視するかたちで一方的に設定した水域境界線が「李承晩ライン」。
それまでのマッカーサーラインよりも日本に近かったため日本側は抗議したが、韓国側は受けつけず域内に入る日本漁船を次々と捕え漁民を何年間も抑留した。
日韓基本条約(1965年)によって日韓関係が正常化されるまで、こういう状況が続いていたのである。
田尻宗昭は、1928年福岡生まれ、1940年に清水高等商船学校を卒業し、海員養成所の教官になった。
その後、海上保安庁に入り、その後佐世保で勤務し合わせて10年間、巡視船で「李承晩」ラインの監視をする仕事を務めた。
李ラインでの韓国側の日本船・拿捕(だほ)を防止するため、煙幕を炊いて、韓国の警備艇に体当たりなどして悪戦苦闘した。
しかし、命を縮めるような苦労をしながらも、結局のところ勇気のなさと認識不足とから、その苦労を少しも実らせることができなかったことに、悔恨の気持ちが残った。
その後、釜石で巡視船「ふじ」の船長を務め、運命を変える出来事に遭遇する。
1965年のある日、陸沖で、猛烈な暴風雨にまきこまれた。船体は山のような大波のなかに突っ込んで、まるで潜水艦のように水中に入って浮上しない。
そうするうちに船が、傾いたまま動かなくなり、「もう沈没だ。あの世に行くんだな」と直感した一瞬、胸をつきあげるような思いがヨギッた。
「いままでは何と中途半端な人生だったことか。体をはって自分をかけたことが一度もなかった。こんな人生のままでは絶対に死にたくない」という未練だった。
ハッと我にかえると、船がグーッと海面に浮上しているのがわかった。
奇跡的に助かり、数時間後、母港に帰港すると、見慣れたはずの港の景色が目に沁みるように飛び込んできた。
そして今度人生を終わるとき、二度とアノ思いをしないよう、鮮烈に生きたい。これからの人生はオマケ、一日一日を大切にかみしめ、味わいながら生きていこうと決意した。
そして1968年7月に、田尻は、三重県四日市海上保安部の警備救難課長に就任する。
釜石のきれいな海を見て来た田尻は「ここは海ではなくドブ溜め」というのが、四日市港の第一印象であった。
戦後、石油化学大手が共同出資した会社「昭和四日市石油」が政府の払い下げ土地(旧海軍燃料廠)で、1958年操業開始したことで、本格的開発が始まった。
その後、次々と企業を誘致し年々拡大していった四日市コンビナートだが、公害への世論の高まりのとともに、四日市市民の公害に対する感情は、潜在的には極めて強いものの、町内会有力者が企業に手なづけられ、反対運動が公然化することに対して強力なブレーキになっていた。
このような状況の中、四日市には四つの漁業組合があり、豊かな漁獲高を誇っていた。
しかし1955年ごろから工場の排水口近くでとれる魚が臭くなりはじめ、1960年に東京築地の中央卸市場で取引を停止すると通達される。
1963年には、漁民たちが実力行使に出る動きもあったが、地元の有力者の働きかけで収束し、以後漁民の運動は振るわずじまいだった。
そうして漁場の35%が埋め立てなどで失われ、漁業従事者が31%減少し、水揚げ量が全盛期の1/4以下になった。
そうして、漁民たちは、他の漁場に「密猟」を行う他に生活の糧を得るスベを失っていた。
1968年7月、四日市に赴任した田尻宗昭が初期に任された仕事の一つがこの「密猟」の取り締まりだった。
しかし田尻は、取り調べた漁民から、水産資源を守る法律を破って魚を殺したのは企業の側ではないか。
それを取り締まらないでおいて、追い詰められた漁民だけを捕らえるのはどういうことか。
海保は企業の手先になって取り締まりをやっておるのか。
これらの漁民達の言葉を聞いて、田尻は深くショックを受けた。自分達は大きなものを「見落とし」ていることに気がついた。
弱い漁民たちがやっとの思いで魚をとってきて、かろうじて家族を養っている。それを自分達は一生懸命に追いかけて捕まえている。
つまり、摘発すべきは密漁する漁民達ではなく、海を汚している企業の側なのだ。
そして田尻に、李相晩ラインでも佐世保でも、多くの漁民の犠牲を食い止められなかったこととともに、北海の海で命を失いかけた体験が蘇った。
田尻は、海を汚す企業を摘発することを思い立ち、それによって海保に居られるなくなる覚悟を妻に告げた。
子供はおらず、どんなに反対しても夫はやる人だからと、妻はそれを承諾した。
1969年の10月ごろに、田尻の元に石原産業の労働者とおぼしき「匿名」の告発電話がかかってきた。
電話は「石原産業は毎日20万トンというケタはずれた量の硫酸水を流している、しかも何年も前からだ」という内容であった。
石原産業は1936年の設立以来、化学肥料を製造してきた企業だが、1954年ごろから「酸化チタン」の需要が伸びてきたため、その製造もはじめた。
当時、国内の酸化チタンのシェアの6割を独占し、わが国最大のチタン・メーカーであった。
石原産業はいちはやく四日市に進出した会社で、地元では絶大な権力を握っていて、四日市の支配者的位置にあり、「四日市天皇」と称されていた。
田尻は、工場20万坪、従業員3千人の石原の摘発なんて相手が悪すぎる、もうこの電話のことは忘れようと思った。
しかし、海上保安部の窓を開けると目の前が石原産業。その煙突がズラリとたちならんで、モクモクと煤煙をふきだしていて、毎日忘れようとしても、どうしても忘れられない。
果たして、あの厖大な生産工程のすべてを、われわれの手で解明できるだろうか。
そして、あの沈没の危機で味わった後悔を二度と味わいたくない。結果は問題じゃない。とにかく一歩ふみだそうと決意した。
そこへ部下の一人がやってきて、「課長、石原をやりましょう」といってきた。この言葉に、胸が一杯になるとともに気持がシッカリ固まった。
企業を裁判で訴えるためには、まず被害の科学的なデータを集めなければならない。
漁民に変装したり、釣り人に変装したりして「排水口」にちかづき、水をすくうなどして、水のPHを調べたりするなど「内偵」を進めた。
また、桟橋だけで荷役をする船が非常に短期間で冷却水系統のパイプに穴が空くといった物証を集めた。
そして1969年 2月1 7日、石原産業へ立ち入る1週間前というのは、「忠臣蔵」の討ち入り前夜のような心境だったという。
黒塗りの工場長の車が入って来ると同時にピタッとその車をつけて、石原産業に立ち入った。
工場に入ると、長大なタンクやパイプの存在に圧倒され、しかもほとんどがカタカナで書いてあった。
これを果たして解明できるのかと、絶望的な気分になった。
もはや行き詰まったと思えた時、1人の労働者がそっと彼らに情報を伝えた。その貴重な情報と、部下や巡視艇の10人の乗組員の血の出るような協力のもとに、「汚染水」の排出路とその量を割り出すことが出来た。
最後の難関は、それを企業が意図的に行っているかという「故意性」の立証が必要となる。
押収資料の中に、それを裏付けるメモがあったことから、ついに起訴に持ち込めると思ったが、検察庁の上層部から待ったがかかった。
証拠はそろい、審査会は「起訴相当」との結論を出したが、それでも地検は起訴しなかった。背後に、石原側から圧力がかかったと思われる。
田尻は、この問題を世論に訴える他はないと思った。
実は、田尻が佐世保時代に、地元出身の若き社会党議員石橋政嗣と面識があり、当時石橋が社会党書記長となっていた。
そしてこの「メモ」を石橋書記長に持っていった。その際に、公務員の「守秘義務」違反で処罰されることを免れないことも覚悟した。
石橋書記長は、1971 年2 月、衆議院予算委員会で、石原産業と通産局とのなれあい、ツマリ談合の事実と、廃硫酸たれ流しについて、事実を挙げての爆弾発言をやり、佐藤栄作内閣の宮沢喜一通産大臣も談合の事実を認めざるをえなくなった。
そして1971 年2 月19 日、港則法違反、水質資源保護法違反、工場排水規制法無届操業で津地方裁判所に起訴手続きがなされ、日本の歴史上初めての「公害刑事裁判」が始められることになった。
田尻の方は、公務員の「守秘義務」違反で処罰されることはなかったものの、3年という短い勤務期間で四日市海保勤務を外され、コンビナートのない、木材積出し港の和歌山県田辺海上保安部へ転勤の辞令を渡された。
四日市を去る時、田尻の元には多くの漁民達が訪れ、涙ながらに感謝の思いを伝えた。
しかし、「捨てる神あれば、拾う神あり」。
その後、社会党選出の美濃部亮吉東京都知事に招かれて、東京都の公害局主幹を務め、日本化学工業による六角クロム鉱滓の大量投棄事件の陣頭指揮に立つなどした。
そして大学の講師などに招かれ、日本の環境行政の充実に大きな足跡を残している。
田尻の人生に、黒澤明監督作品「生きる」の主人公・志村喬演じた「渡邊勘治」と重なるものを感じた。
役所の中で、問題をすべて回避した1人の男が癌を宣告される。その時以来、テコでも動こうとしない役所にあって、嘆願を繰り返し、やくざの脅しにもひるむことなく、小さな公園の設立を実現する。
ところで、レイチエル・カールソンを支えた力はどこから来たのか。
まず生物学者としての命に対する高い感性、そして逆説的だが彼女自身の「死の予感」が彼女に勇気を貸したような気もする。
彼女は友人に次のような手紙を書いている。
「事態を知っているのに沈黙をつづけることは、私にとって将来もずっと心の平穏はないということだと思います」。
そして1964年「春」、彼女はメリ-ランド州シルバ-スプリングで56歳の生涯を終えた。
彼女の人生そのものが沈黙の時を迎えたが、その著書「沈黙の春」は語り続けた。