「写真」の裏の真実

19世紀、ロシアとフランスとの戦いに端を発したクリミア戦争で「白衣の天使」とよばれたナイチンゲールは、戦争から帰還後、その姿をほとんど人前に晒すことなく「隠者」のように生きたという。
ナイチンゲールが実像とは違う「自分の偶像」がひとり歩きしたことに恐れや不安を抱いたのか。
理由は定かではないが、「ひきこもる」ナイチンゲールの真実などに誰も興味を示さなかった。
1982年、自動車事故で亡くなった、元ハリウッド女優・グレース・ケりーがモナコ妃になった当初、「現代のお伽噺」と喧伝されたが、グレース自身はお伽噺を演じつつも、「私がおとぎ話の主人公だなんて、それこそがおとぎ話だ」と振り返っている。
実際、ものごとには裏と表があって、なかなか虚実はつかみにくい。
そして今や、「フェイク」(虚偽)が世の中を席巻しており、不都合な真実はスルーされ、耳さわりの良い「嘘」の方がまかりとおる。
こうなると、マコトしやかに伝える節度さえも必要なくなったかのようだ。
G20首脳会合の夕食会で、トランプ大統領は隣に座った安倍首相の昭恵夫人が、あまりにも英語を話すことができず居心地が悪くなって席をたったという。
次に向かった先がプーチン大統領のところで、その後、トランプ大統領は昭恵夫人が「Hello!」さえも言えないと語った。
これは明らかに「虚偽」で、多少は「首相夫人に侮辱的だ」とトランプ大統領への抗議があってもよさそうなのに、そんな声はほとんど上がらなかった。
メディアが森友問題で昭惠夫人を批判の矛先を向けている時期だけに、トランプ大統領の失礼な言をスルーしたのかもしれない。
それにしてもトランプ氏は、プーチンとの談話に向かった原因を、昭惠夫人の語学力のせいにするとは!

2006年公開のアメリカ映画「父親達の星条旗」は、「1枚の戦場写真」が人々の運命を翻弄していく悲劇を描いた「実話」に基づく物語であった。
その「戦場写真」とは、太平洋戦争の末期、硫黄島の戦いの最中、アメリカ海兵隊員らが山の頂上に「星条旗」を立てる姿を撮影したもので、史上もっとも有名な報道写真の一つである。
1945年度の「ピューリッツァー賞」の写真部門を受賞している。
写真に写っている6人のうち、3人は硫黄島で戦死したが、他の3人は生き残って一躍有名人となった。
後にこの写真をもとにアーリントン国立墓地近くに海兵隊戦争記念碑が造られている。
さて「父親達の星条旗」の原作は、ジョン・ドク・ブラッドリーの「FLAGS OF OUR FATHERS」で、主人公はこの記念碑に掘られた英雄である父の「沈黙」に秘められた真実を知るために、何年もの歳月を費やし、父が見た硫黄島の「真実」に辿り着く。
そこでわかったことは、アノ歴史に残る写真は、敵方の砦を奪いとって旗を立てた「写真撮影」が失敗し、もう一度撮り直しをすることになった際に写された写真だったということである。
つまり、実際に戦ったのでもない人々を使って写真の「撮り直し」が行われたのだが、ブラッドリーの父を含む3人は帰還後アメリカの「英雄」として盛大な式典をもって迎えられることになる。
彼らはいわば「偽りの英雄」としてふるまうことを余儀なくされるが、それに上手に乗っかって甘い汁を吸って生きていこうとする者もいる一方、その「偽り」の重さに耐え切れず身を持ち崩していく人もいる。
その人は、アメリカの「星条旗」の下に居住地や財産を奪われた歴史をもつインディアンの血をひく男性で、帰還後、酒におぼれて暴力事件をおこしてしまう。
「有名人」だけにそれがマスコミの恰好のネタにもなる。
イラク戦争中に「父親達の星条旗」のような映画が作られるのも、「アメリカの正義」についての疑念と分裂があるからに違いない。
とはいえ、この物語の面白いところは、たった「1枚の写真」に生涯を拘束されながらも、それぞれ異なる生き方をしていく点である。

「1枚の写真」が人の運命を変えるというのは、「撮られた側」ばかりではなく「撮った側」にも起きることである。
アフリカで餓死しそうな子供を狙うハゲタカを撮った写真は「ピューリッツァー賞」をとったが、そのときナゼその子供を助けなかったかという批判をうけ、カメラマンは命を絶ってしまった。
ところで「戦場カメラマン」といえば、まるで「自殺願望」でもあるかのように「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパという人がいる。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目で写した写真はよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そこまでデキルのかということは誰もが抱く疑問だが、キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎は、その疑問を「1枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
さて、ロバート・キャパとえいば、スペイン内戦におけるワンシーンを撮った「崩れ落ちる人」は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
何しろ兵士が撃たれ崩れる瞬間を捉えている写真だからだ。
しかしこの「奇跡の一枚」は、、コレが本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであった。
実際に自分が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
ところで、沢木耕太郎には、「テロルの決算」という作品がある。
社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺したまだ17歳の少年について追跡したものである。
誰に撮られたのか「刺殺シーン」が見事に写真に映し出されている。壇上にあがり浅沼氏を刺さんとする少年と、腰砕けになりながらも、なんとか刃を避けようとする浅沼委員長の表情は、どんな言葉によっても表現できない。
そして少年の動きを阻もうとする人々の姿が「臨場感」いっぱいに捉えられている。
この写真が「正真正明」の本物であることは、その周囲の人々の表情によって疑問のないところだ。
ところがロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、イツ、ドコデ撃たれたのか全くわかっていない。
そして、この写真の「真偽の解明」が始動したのは、この写真が取られる直前の「連続した40枚」近い写真が見つかったことによる。
この写真はスペイン内戦の時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、「山の稜線」からアンダルシア地方と特定することができる。
そして連続した写真の解明から「驚くべき真相」が明らかになっていった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかったのである。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」を撮ったのは、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローであった可能性がきわめて高いことが明かされた。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのである。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され「帰らぬ人」となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」といってよい。
そしてそのことにより「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに「帰す」ことになったのである。
ちなみに、タローという名前はモンパルナスに滞在していた岡本太郎の名を貰ったものだという。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線に躍り出てシャッターを押し続けたのは、あの「1枚の写真」に追いつきたかったからかもしれない。
キャパは、あの「1枚の写真」と彼の命を道連れにするかのように、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。

小椋佳が「シクラメンの香り」を作曲した時、歌の出だしに「嘘」を忍ばせたそうだ。
ありそうもない出会いを書いた照れ隠しに、現実には存在しない「真綿色したシクラメン」を通して、「これは作りごとですよ」というメッセージを込めたという。
しかし、映画や小説や歌が作り出す「嘘」は、心の養分としての「ファンタジー」とよぶのがふさわしい。
そして映画史上、燦然と輝く名作「ローマの休日」が誕生したのは、ヨーロッパ中世をが現代に蘇ったごとき「暗黒の時代」であったことは特質すべきである。
フランスの救国のヒロインであるジャンヌ・ダンルクは、魔女として火刑に処せられているが、自由と民主主義を標榜した現代アメリカで、それが突然に蘇ったような事態が生じていた。
この事態が現代の「魔女狩り」と言われた所以は、思想調査の公聴会に出席した際に、共産主義者ではナイというだけでなく、仲間の名前を言わなければ、「身の潔白」を証明することができなかったからだ。
「共産主義者」の友達がいるだろうといわれ、仲間を裏切り、密告、偽証する者さえ現れた。
こうした暗黒のはじまりは、マッカーシー上院議員による「政府内にソ連のスパイがいる」という発言をきっかけに起きたいわゆる「赤狩り」である。
そしてその最初のターゲットとなったのが、「ハリウッドの映画界」であった。
最近、トランプ大統領の登場に対して、映画人が一斉に反対表明を出したのも、「過去の亡霊」を蘇らせてはならないという思いがあったからにちがいない。 そして、そのトランプ大統領自身が、「ロシア疑惑」で窮地に立たされているのも皮肉な話である。
実際に、「マッカーシー旋風」の時代、あのウォルト・ディズニーでさえも「自由の国アメリカから共産主義をあぶり出すべきだ」と先頭をきったのだ。
共産主義者のブラックリスト「ハリウッド・テン」が作られ、そして300人以上の映画人が追放された。
その中に、後に「ローマの休日」の脚本を書くダルトン・トランボがいた。
トランボは、1940年代初期「反フアシズム」で米・英・ソが「共同戦線」(人民戦線)をハッテいた時期に、アメリカ共産党に入党している。
1947年9月トランボは非米活動委員会に召喚され、翌月に非米活動委員会「公聴会」が開始された。
いわゆる「思想調査」がはじまったのである。
皆、共産主義者でないという「身の証」を立てねばならず、自分が助かりたいばかりに罪のない人の名を告げてしまう。
密告を恐れて、古くからの友人同士が口もきかなくなったりする。そんな風潮の中、トランボたちは「証言しない」ことで「赤狩り」に抵抗した。それは、長い「悪夢」が続いているようなものだった。
1950年6月、アメリカ最高裁はトランボに実刑判決を下し、トランボは10ヶ月間投獄された。
しかし、トランボは投獄が決まってからも、「架空の名前」で脚本を執筆し続けた。
嵐が吹き荒れる中で、トランボが書きあげたのが「ローマの休日」で、この映画もまた「撮られた写真」が物語りの展開のカギとなっている。
ワイラー監督は、トランボの脚本にはなかった「嘘つき」が手を入れると手を失うという伝説がある「真実の口」のシーンをとりいれた。
その名シーンは、意図しない二人のアドリブによって生まれたという。
その一方で、コノ微笑ましいシーンも、「公聴会」の厳しい真偽の追求を幾分反映しているのかもしれない。
しかしこの映画ヨクヨク考えると、王女も新聞記者も、その周辺も皆「ウソ」をつきあっている。
ここでトランボの経歴を紹介すると、1905年コロラド州の靴屋の息子として生れ、南カリフォルニア大学でジャーナリズム作家をめざした。
1935年(30歳)アシスタント・ライターとして映画界に入り、1971年にトランボ唯一の監督作品「ジョニーは戦場へ行った」を制作している。
トランボは1979年9月10日亡くなったが、「ローマの休日」では、親友の脚本家イアン・マクレラン・ハンターの名前を借りている。
このことはハンターにとっても危険な事であったことは間違いない。それがトランボの脚本だとわかれば、二人の関係が疑われハンターも職を失いかねなかったからだ。
1954年の「ローマの休日」公開の翌年マッカーシーは失脚し、「赤狩り」の嵐も収まっていった。
1993年、ダルトン・トランボはスデに他界していたが、「映画公開40周年」を記念して、アカデミー 選考委員会によりトランボにオリジナル・ストーリー賞が授与された。
その授賞式では、トランボ夫人が亡き夫に代わってオスカーを手にした。
なお、2003年、映画公開50周年を記念して、ついに「ローマの休日」にトランボの名前がスクリーン 上に流れたのである。
一方、ウイリアム・ワイラー監督は「ローマの休日」の制作で、映画会社に譲歩して予算の関係でモノクロ映画となったが、「ローマ行き」にはこだわった。
ワイラー自身は共産主義とは距離を置いていたが、当時の有名監督やグレゴリー・ペックなどスターたちと抗議団体を設立して「赤狩り」に反対し、ブラックリストにあがった「ハリウッド・テン」をまっさきに応援した一人であった。
ハリウッドが行き詰まっていた時に、ローマが自由な映画活動ができる所だったからだ。
アメリカではなくローマだから、「赤狩り」で追われた人間とも仕事ができるし、自由に新人俳優も入れて、オールロケーションで映画を撮れる。
そしてワイラー監督・脚本のトランボらが、アメリカで起きている人間抑圧と猜疑の「フェイク」に対抗する戦いとは、最高の「ファンタジー」の制作で応えることではなかったか。
「ローマの休日」のローマを去る最後の日の記者会見での場面で、撮られた数々の「写真」を見せられたアン王女はこの時初めて、ジョー・ブラッドレー(新聞記者)やカメラマンらが「スクープ記事」を狙って、自分に近づいていた事を知る。
しかし、ジョーと王女は信頼を確かめ合う言葉を密かに交わす。
(アン王女)「永遠を信じます。人と人の間の友情を信じるように」。
(ジョー)「王女のご信念が裏切られぬ事を信じます」。
(アン王女)「それで安心しました」。
新聞記者らが苦労して撮った「世紀のスクープ写真」を王女にそのまま返す「場面」こそがハイライトで、出演者・スタッフらが互いを裏切らないようにしようという「固い約束」のようにも見えた。