シラク大統領と元寇

福岡市内には、博多湾に沿っていくつかの元寇防塁が点在するが、特に西区の今津と「生の松原」にある元寇防塁はよく整備・保存がなされている。
その点、少々意外な事実を言うと、前者は、第一次世界大戦中に日本が中国・青島で捕えたドイツ人捕虜たちの労役により修築が行われ、後者の「生の松原」防塁の整備にはフランス元大統領が遠巻きながら関わっている。
最近、1996年、福岡の名店「鳥善」にシラク元仏国大統領が来店したという記事に出会った。
シラク元大統領が「親日家」であり公私あわせて40回以上も来日したとは驚きだが、福岡に来ることにつき、一般には知られざるエピソードが残っている。
ジャック・シラクは親日家(知日派)として知られており、日本文化に対する造詣も深い。
幼少期にパリの東洋美術館、リヨンのギメ美術館を観覧し東洋美術に目覚め日本文化へのも興味をもった。
学生時代には『万葉集』を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。
来日時に首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめ、以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれるほどだ。
自身の「回想録」の中で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べており、温泉も好きで、来日時にはしばしば入浴するという。
拙稿が当時住んでいた姪浜から国道202号線を20分も歩けば「生きの松原」海水浴場につく。
国道から50mも入ればいいのだが、どこが入口かわからないほど不親切なのに、実際に海岸に出てみると巨大な石の護岸が作られているのに目を見張る。
白砂青松の浜辺から防塁を砂を掘り出し、当時の姿に復元したばかりか、さらに海岸に巨大な石の護岸を作ったらしい。
実をいうと、この防塁の復元と立派な護岸壁は、サミット世界首脳会議の「副産物」だった。
2000年、日本ではじめて開かれたサミットの会場候補地に福岡が名乗りを上げた。
会議場は福岡市立博物館、ホテルは○○で、立派な国際会議が出来ますよとアピールした。
その出席予定者にフランスのシラク大統領の名があったのだが、シラク大統領は「福岡へ行ったら“元寇防塁”を見たい」と発言したために、福岡市は大騒ぎになった。
急ぎ、シラク大統領を満足させるべく「防塁」を整備しようと選ばれたのが、「生の松原」であった。
ここなら、会議場から近いし、景色もいい。砂の中から石垣を掘り出し、散らばっていた石を積み直した。
しかし、これではお金は少ししかかからない。せっかく国からもらった予算を何とか使わなくてはならないと、砂浜に巨大な護岸を作ろうという話に展開していったのかもしれない。
ところが、防塁復元工事は完成したものの、サミット会場は沖縄に変更されてしまった。その上、外相会議は福岡と宮崎で行われたのだが、元寇防塁を見たいという外相はいなかった。
そこで結局、駐車場を作る必要はないし、案内板も観光客のための道も不要になった。
こうして、周囲の人気のなさと不釣り合いなくらい立派に復元された防塁は、松林の中で静かに眠ることとなったのである。
実は、シラク大統領がそれ以前に来日の際、元寇防塁見学を望んだのだが、日本側が警備の問題で断ってしまったという。
ただし、好奇心あふれるシラク大統領のことだから、大統領退任後にプライベートに見に行かれたのではなかろうか。

シラク大統領は、なぜそれほどまでに元寇防塁見学にこだわったのだろうか。
1996年のサミット前に、シラク大統領は元寇防塁視察希望のの理由を次のように語っている。
「世界を制覇したあの蒙古軍を防ぎとめたという“日本の防塁”を是非、この目で見たい」。
この言葉の裏には、ユダヤ系フランス人のシラク氏の、ヨーロッパの共通体験としての「モンゴル襲来」に対する意識の高さがあるのではなかろうか。
なにしろシラク大統領は、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させたくらいなのだから、日本を襲撃した元寇に無関心であろうはずはない。
ところで、鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきた元寇の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物がある。
教科書にも必ず出てくる、誰でも知っている有名な絵である。実は、教科書に出てくるのは、そのほんの一部で、とても長い絵巻物である。
実は、この長い絵巻物「蒙古襲来絵巻」が「生きの松原」海岸の元寇防塁に沿った石碑にレリーフとして埋め込まれているのである。
そして、この絵がここに埋め込まれたのには、深い理由がある。
この絵巻物を書かせたのは、子孫に己の奮戦を伝えようとした肥後の御家人・竹崎季長である。
絵巻物の展開は、戦果をあげたにも関わらず、竹崎のもとには幕府からの褒美の知らせが来ず、恩賞奉行の安達泰盛に直訴しに行く。
朝廷に至っては、武士の奮戦どころか神のご加護力と認識していたくらいだ。
安達泰盛という幕府の大物相手に直訴に行くこと自体が大変な勇気だが、それよりも、命をかけて戦果をあげたのに褒美という形で報われない、この理不尽さに対する怒りがあったと推測する。
竹崎の熱心さに折れた安達は、竹崎に対して褒美として竹崎の地元の地頭の地位、それから名馬一頭を与えている。
このニュースはたちまちのうちに広がり、鎌倉武士の志気を高めた。それが再度の蒙古襲来、弘安の役でも勝利につながる要素の一つとまで言われている。
つまり竹崎の戦果とは、戦場での戦果というよりも、戦果にふさわしい報酬をしっかりと求めたことである。
しかし、なんといっても竹崎の最大の貢献は絵巻物によって当時の戦いをリアルに後世に残したという文化的貢献であろう。
実際、福岡市民にとってありがたいことに現在でも残っている場所や神社が数多く描かれている。
1回目の襲来の「文永の役」に関して現在地と比較すると、元軍はまず、百道原(ももぢばる)から上陸してきたと言われている。
現在の「よかとぴあ通り」周辺がその場所で、その後、内陸部まで侵略を進め、赤坂山、現在の福岡城の場所に陣営を築いた。
「蒙古襲来絵詞」それ自体は、元軍の侵略を聞きつけた武士たちが博多に集結したところから始まっている。絵詞に描かれている鳥居は筥崎宮の鳥居である。
武士たちは息の浜(現在の奈良屋町付近)に作られていた日本軍の陣営に向かっていった。その陣営には日本軍の総大将・少弐景資が待機していた。
陣営までの道中を描いた様子には松が生い茂った場所を通っている姿がみられるが、現在の東公園あたりを描いたものではないかと推測される。
このあたりは秀吉が「茶会」を開いた場所としても有名であるから、近世までたくさん松が生い茂った「千代の松原」と呼ばれる場所であった。
さらに、少し離れた場所には住吉神社も描かれてあるので、もしかしたら合戦の成功を祈願しているかもしれない。
息の浜に陣営を築いていた総大将・少弐景資は足場の悪い赤坂付近での戦いは日本軍に不利であると考えていたので、元軍が博多に攻めてくるのを待っていた。
ところが、肥後の菊池武房が赤坂の元軍に攻撃を仕掛け、見事これを追い払い、元軍は赤坂から祖原に向けて逃げて行く。
現在の別府で三井資長が元軍に追い打ちをかける様子も描かれている。祖原まで逃げていった元軍は小高くて見晴らしの良い「祖原山」に陣営を作った。
元軍がドラや太鼓を打ち鳴らして士気を高める様子が描かれている。
祖原山は祖原公園として整備されていて、とても見晴らしが良く、確かに陣営を作るには最適な場所である。
その後、再び攻めてきた元軍と日本軍は「鳥飼」あたりで合戦となる。中村学園すぐ前にかかる「塩屋橋」を目印にしたらよい。
その時の様子が、教科書に載っているアノ有名な絵で、たくさんの弓矢や「てつはう」が飛び交う激しい戦いがリアルに伝わってくる。
さて、「蒙古襲来絵詞」の数々の絵が、レリーフとして「生きの松原」の元寇防塁の石垣に埋め込まれてある理由は、この絵の主人公・竹崎季長がマサにこの場所を歩く絵が残っているからだ。
第1回目の蒙古軍襲来(文永の役)において、日本軍は蒙古軍に易々と上陸を許し、内陸を蹂躙された。
この苦い経験から幕府は九州各国の御家人らに対して石を積み上げて造る防壁の築造を命じた。
当時これを石築地と称した。高さ約1m~3mで、幅約1m~2mに石を積んだ防塁は蒙古軍上陸が予想される博多湾に沿い、総延長約20キロにまで及んだ。
鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じたが、築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。
「今津 3km 日向大隅/今宿 2.2km 豊前/生の松原 1.7km 肥後/姪浜 2km 肥前/西新(百道)2.3km 不明/博多 3km 筑前・筑後/箱崎3km 薩摩/香椎 2km 豊後」という分担であった。
各国の分担地区によって石材が異なったが、注目したいのは、生の松原が「肥後国」担当となっていることである。
つまり、竹崎季長は肥後の御家人であり、防塁の前を馬上で進む場面は、実はこの「生の松原の情景」そのものなのである。
かくして「生きの松原」の元寇防塁に「蒙古襲来絵詞」のレリーフが設置されることになったのである。

西欧文明崩壊の危機といえば、15Cオスマントルコの「ウィーン包囲」が思い浮かぶが、もうひとつヨーロッパを危機に陥れたのがそれから2世紀前のモンゴルとの戦い「ワールシュタットの戦い」がある。
実は、モンゴル軍による侵略は、その恐るべき残忍さと機動性で西方世界の奥深くヨーロッパにまで達していた。
1240年、モンゴル帝国が現在のロシア・ウクライナに攻め込んでいた「キエフの戦い」があった。
国内を統一し、南下して中国を支配下に収めたモンゴルは、その次に中央アジア方面を狙ねった。アフガニスタンあたりである。
そのままシルクロードを西方へ向かうような形で、後にロシアに発展する「キエフ大公国」に向かった。
各公国の首都は焼き払われ、ある国では大公一家が惨殺され、ついに大公国全体の首都・キエフ(現在はウクライナ領)を包囲し、この地域の仕上げの戦いが起こりました。9月5日に包囲を始めて12月6日に陥落させている。
チンギス・ハンは1227年に没したが、恐怖と殺戮の嵐は彼の子供たちに受け継がれることになった。
巨大な帝国は遺言によって5分割にされたが、一番西方に位置するキプチャクハン国のバツーは、類いまれな大殺戮者であった。
キエフ陥落後はモンゴル帝国の中のキプチャク・ハン国によって支配される時代が続き、支配された側から「タタールのくびき」とよばれることになる。
モンゴルの勢いはこれにとどまらず、さらに西へ向かい東欧地域へと侵入する。
現在のブルガリアあたりで地元の人々により頑強に抵抗され一度撤退を余儀なくされるが、チンギス・ハンの死後再び西方遠征を始めた。
再度キエフをはじめとしたルーシ諸国は蹂躙され、生き残りはポーランドやハンガリーなどの東欧諸国へ逃げ込んだ。
これを追ってモンゴル軍も西方へ向かったのである。
そして1241年春、ついにバツーの先遣隊はポーランドの一角に姿を見せた。
恐ろしい殺戮の嵐を巻き起こしながら、怒濤のごとく向かってくるモンゴル軍に辺境の国の住民は大恐慌に落ち入った。
そしてモンゴル軍が現在のポーランド領内に入ると、さすがのヨーロッパ諸国も団結して対抗し、現地のポーランド王国と神聖ローマ帝国、カトリック各騎士団などが連合して戦ったが、モンゴル軍により徹底的に粉砕されてしまう。
これを「ワールシュタットの戦い」と呼んでいたが、最近では「リーグニッツの戦い」と呼ぶほうが多い。ドイツ語でワールシュタットとは「死体の山」を意味するからである。
ヨーロッパでは、主力は甲冑をつけた騎兵で、馬、人間ともに30キロにもおよぶ重い鋼鉄製の甲冑で武装されていた。
一方、モンゴル軍は、馬と一体化した生活をし、馬上で眠り、食事さえした。機動力で上回り、一騎打ちなどのスタイルなどおかまいなく縦横無尽に攻撃してくる「集団戦法」は、非常に機能的で鈍重な甲冑姿の騎士では対抗できなかった。
ワールシュタットでポーランドのヘンリクの軍団の殺戮を終えたモンゴル軍は、その翌年、ドナウ河を渡ってハンガリーに侵攻。シャヨー河畔でハンガリー王の率いる軍団を全滅させた。
こうしてあわやヨーロッパ全土がモンゴルの支配に落ちるかと思われたその年の12月、大ハーン・オゴタイが死去するという知らせがもたらされ、バツーは本国に引き返すことにした。
ユーラシア大陸の約3/4を占めようとしていたこの帝国、次は一体誰のものになるのか。一刻も早く本国に戻って自身の正当化を計ると同時に、他の候補者を追い落とさなくてはならない。
そしてその勝利者、フビライが首都をカラコルムから中国・大都(北京)に移し、元の初代皇帝に即位する。
そしてモンゴルの矛先は、やがて極東の国日本に向けられるのである。

1913年、元寇防塁が博多湾に600年ぶりにその姿を現し、福岡市荒戸の郷土史家・木下讃太郎を会長に「元寇記念碑建設計画」がスタートした。
木下は建設資金もさることながら、海岸の柔弱な砂丘のために「記念碑」の重みに耐えられるか不安だった。その木下に名案が浮かんだ。
当時、久留米の捕虜となったドイツ兵は、久留米から博多湾に面した福岡市の柳橋や須崎の収容所などにも270名ほど送られていた。
彼らドイツ兵は中国青島の海岸に「砲台」を築いた人々であった。つまり木下はこのドイツ兵に防塁修築をさせようというものだった。
1915年4月にドイツ兵も「防塁修築」を受け入れ、福岡連隊司令部に出頭し元寇記念碑建設が許可され、我が国初の「捕虜使役」が実現した。
当時日本でもジュネーブ協定が遵守されており、「捕虜使役」といっても奴隷的酷使が行われたわけではない。「元寇記念碑」の設計は築城学の権威・東大工学部の伊東忠太博士に依頼された。
建設地の地ならしは連日、地元の青年団・婦人会が当たったが、やがてドイツ捕虜の本隊も加わった。
兵卒80人が電車を乗り継ぎ「ラインの守り」を合唱しながら乗り込んだ。
そして1916年7月、福岡市西区・今津海岸に元寇記念碑が見事に完成したのである。
果たして、フランスのシラク大統領は、「生きの松原」から西へ10キロほどの今津の元寇防塁が第一世界大戦中にドイツ人が修復した事実をご存知であろうか。ちなみに第一次大戦・西部戦線において、フランスとドイツは「塹壕戦」を戦った経験がある。
ところでシラク元大統領は、愛犬の名前に「スモウ」とつけるほどの大相撲の大ファンでもある。
駐日大使館の重要な任務の一つは、エリゼ宮に大相撲の結果を場所中毎日報告することだったといわれる。
大統領は2000年に沖縄サミットで来日した際、大相撲の優勝力士を顕彰する「フランス共和国大統領杯」を創設し「日仏友好杯」と名称を変えていまも続いている。
シラク大統領は、相撲界上位をモンゴル力士が占め、「日仏友好杯」を彼らが独占する事態につき、「防塁」はないのかと思ったかどうかは知りません。