八女出身の開拓者

「4月18日/極秘文書「八女遷都論」発見」。
「4月27日/ホノルル国際空港、ダニエル・K・イノウエ国際空港へと改名」。
「5月12日/「2016年度の沖縄県・尖閣諸島と島根県・竹島に関する資料調査報告書」の公表」。
上記3つのニュース、何の関係もないように見えるが、ある「共通項」がある。
それは、いずれも福岡県八女市やそれに関わる人々のニュースで、この1カ月内に飛び込んできたこと。
ところで福岡県八女市黒木町、その南域を占める「黒木平」に接した三山(雌岳、雄岳、姫御前岳)がある。
奥矢部から日向神、黒木からの神露淵の奥にそびえる姫御前岳あたりの「神秘性」はただごとではない。
「姫御前岳」といえば南北朝の動乱期に逃れてきた良成親王(よしなが)の妃が山麓で亡くなったという伝説があり、以来この山は「姫御前岳」といわれている。
ところが、地元では姫御前岳のことを「ヒメコヤマ」と呼んでいることから、姫御前岳には「卑弥呼」の陵墓が存在していたと推測する歴史家もいる。
邪馬台国は、当時30国連合の中心ということだが、こんな奥地に当時の古代の「中枢」があったとは信じ難いが、先日(4月18日)の「八女」について嘘のような冗談のようなニュースに、我が認識を改めざるをえなかった。
それは、八女が「日本の首都」になっていたかもしれないというのだ。
1943年10月付の極秘文書「中央計画素案」で、戦時下の国家総動員体制の諸計画を立案した「企画院」が作成した資料に、政府が「八女遷都」を検討していたことが発見されたのだ。
この文書は「大東亜共栄圏」建設を見据え、国のあり方についての方向性を示したもので、首都の候補地として岡山県行幸村(現・瀬戸内市)、朝鮮京畿道京城府(同・ソウル)と並び福岡県福島町(同・八女市)が挙げられていた。
その条件として、「全国土の中心・地震、風水害など天災地変が少ない・寒さや暑さが厳しくない・用水、電力、食料など物資が豊富・既成の都市とは適当に離れている」など計6項目を明示され、八女はそれらの条件をクリアしたことになる。
首都を構成する機能を、皇居のほか、政府各機関や生活必需物資配給機関、外国公館などとして、最も完全なる「計画都市」を造ろうとしていたことがうかがえる。
この資料は1967年、県の企画室企画主査であった人物が県総合開発計画の策定に当たり、戦前、戦中の膨大な公文書に触れる機会があり、その中から見つけたのだという。

日本書紀に「この地方に女神あり、その名を八女津姫といい、常に山中にあり」との記述がある。
これが、「八女」という地名の語源となった。
太古の昔、九州平定の為に八女地方に巡幸してきた景行天皇が、「山の峰が幾重にも重なり非常に美しい。神様がこの山にいるのだろうか」と尋ねた。
それに対し、水沼県主・猿大海が「女神様がいらっしゃいます。その名を八女津姫と申します。いつも山の中にいます」と答えたという。
「いつも山の中にいます」という言葉には「朝廷に刃向かう意思は全くない」という意味が込められているともいわれる。
つまり、八女が位置する有明海沿岸、矢部川流域は太古の昔から多くの人が住み、日本最古の書物に記述されるようなたいへん文化的で平和な町であったことがうかがえる。
そして現在も、いわゆる奥八女の地・星野村に「原爆の火」というものであり、全国的な「平和のシンボル」になりつつある。
「日本で一番美しい星が見られる町」銘うった星野村にどうして「原爆の火」が燃えているのだろうか。
1945年8月6日午前8時15分、人類史上はじめて広島市に原爆が投下され、灼熱の閃光は10万近くの人名を一瞬のうちに焼き尽くした。
その時、兵役の任務のために汽車に乗って広島近郊を移動していた一人の男性がいた。星野村出身の山本達男氏という人物である。
山本氏は今まで体験したこともない大地を震わす爆弾音に衝撃をうけ、広島市で書店を営んでいる叔父の安否を気遣かった。
現場に近づくがその惨状に先に進むことができなくなり、ひと月の間をおいてようやく叔父の営む書店の場所へ足を運ぶ。
だが、あたり一面焼け野原となった書店の跡地に叔父の姿があるはずもなく、遺品になるものさえ見つけることができなかった。
しかし山本氏は、そこでなおもくすぶり続けている火を叔父の「魂の残り火」として故郷・星野村に持ち帰ることにしたのである。
その「原爆の火」は山本氏宅でそれ以後11年あまり絶やさず灯し続けられたが、その火のことを知った星野村全村民は1968年8月平和を願う供養の火として永遠に灯し続けようという要望をだし、役場でその火を引継ぐことになった。
さらに、被爆五十周年を迎えた1995年3月には、「星のふるさと公園」の一角に、新しい平和の塔が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに「平和の広場」の一角が整備された。
ここの「原爆の火」は、日本各地に「転火」されている。

2000年代に「時代の寵児」ともてはやされた掘江貴文は、八女市の生まれである。
「自伝」によれば、まわりは茶畑しかない田舎。父は自動車販売会社の営業マン、母は中小企業の社員。共働きの家庭で、ひとりっ子として育ったという。
「開拓者」という観点から堀江をみると、免許事業で護送船団方式の典型である放送業界に切り込んで、ニッポン放送を買収し、フジテレビの経営に介入しようとしたこと、もうひとつは日本で最も閉鎖的集団であるプロ野球界に「風穴」を開けようとしたことである。
結局、「ライブドア事件」により逮捕されるが、その裏には、旧い体制を担った人々から「反発」を受けたという側面を否定できない。
さて、八女出身者のなかには、「既成権益」ではなく、「未開の地」に足を踏み入れた文字通りの「開拓者」がいる。
そのことを知ったのは、「2016年度の沖縄県・尖閣諸島と島根県・竹島に関する資料調査報告書」を公表したという5月12日付けニュースによる。
尖閣諸島に1819年に琉球王族が上陸したとされる資料を盛り込んだ。1845年の英国人による最古の上陸記録を26年さかのぼるものだとしている。
明治政府が尖閣諸島を日本に編入した1895年から70年以上さかのぼる上陸記録で、政府(内閣官房)は、「編入前から日本人が尖閣諸島に継続的に関わりを持っていたことを示す資料だ」と説明している。
この尖閣列島の開拓者として、名を刻むのが古賀辰四郎である。
古賀は、1856年に福岡県八女郡山内村に生まれ、実家は代々茶の栽培と製造をしていた農家だった。
古賀は、1879年に24歳で那覇に渡り、寄留商人として茶と海産物業の「古賀商店」を開いた。
1879年といえば、明治政府が王制復古、廃藩置県の大号礼をだしても尚泰琉球王はどうしても従わず、従来 どおり中国との関係を断たなかったので、政府は400人の兵と160人の警察官を差し向けて、全く軍備をもって いなかった首里城を接取し、武力を背景にいわゆる「琉球処分」を行った年である。
その直後に那覇に渡ったということは、古賀は「冒険好き」だったといえるだろう。
ところで、古賀が沖縄で見出したのは、八女茶とは関係のない新商売であった。それは沖縄特産の夜光貝の採集と加工業である。
夜光貝はサザエに似た貝で、大きさは拳ぐらい、殻は厚く内面は真珠のような光沢がある。
当時沖縄の人たちは肉だけを食べ殻は捨てていたが、古賀は殻に目をつけ、高級ボタンの材料として外国へ輸出することにした。
毎年の輸出量は240トンで、古賀は莫大な財力を得て、沖縄近海の無人島の開発資金に回した。
1884年ごろから東シナ海の無人島、尖閣諸島、大東島、沖の神島などの探検を行い、政府へ開拓の申請をした。
その頃、古賀は「アホウドリが人が近づいても逃げず、簡単に捕まえられる」という人々の噂を聞く。
1895年には本籍を沖縄県那覇区に移し、政府は翌年に古賀に尖閣諸島の「30年間無償貸与」を認可した。
古賀は約4平方キロメートルの魚釣島を中心にして、カツオ節製造工場、アホウドリの羽根加工場、鳥フン石採掘場などを設け最盛期には284人の島民が定住し一時は「古賀村」とも称されていた。
大正期には御木本幸吉と組み、沖縄県内で真珠養殖事業を起こしたりもした。
また郷土への恩返しとして大正初期には兄と共同で「川崎村立図書館」を寄贈され、それは現在、彼の母校である川崎小学校・体育格納庫として使われている。
古賀は1909年、沖縄県では2番目に当たる藍綬褒章が下賜され「産業の父」と尊敬されていたが 1918年、63歳で亡くなった。
ところで、尖閣諸島付近の海底(大陸棚)には豊富な石油資源と天然ガス層が埋蔵されていることが 判明し、中国政府では十数年前から「諸島は自領なり」として、この海域で大掛かりな発掘調査を続けている。
日本政府では「領海侵犯」の恐れありとして中国に抗議しているが、その際、古賀辰四郎の尖閣諸島の開発が、国際法上の「先占(せんせん)権」にあたり、尖閣諸島が日本の領土であることを主張する根拠となっている。
その意味で古賀は、国家のための功労者である。
尖閣諸島は1932年日本政府が古賀の長男善次に1万5千円で払い下げた。
終戦後は米軍が射爆演習場としたため米軍から善次に年間1万ドルの借地料が払われていた。
1978年善次死亡。後継者がなかったので諸島の所有権を友人のさいたま市、栗原国起氏に譲られた。
2002年10月、当初は石原都知事の東京都が購入計画を打ち出していたが、日本政府は栗原家から年間3千万円で島の借り上げを行い現在に至っている。

ハワイのホノルル国際空港が現地時間の4月27日、改名され、ダニエル・K・イノウエ国際空港となったニュースが飛び込んだ。
ハワイ出身の上院議員ダニエル・イノウエのルーツは、八女市上陽町である。
オバマ大統領は、D・イノウエと同じハワイ州出身で、政治を志したのはダニエル・イノウエがウォーターゲートの事件の調査特別委員長を務めた時の姿に感銘を受けたからだという。
ノウエの祖父母は、一家の失火による借金を返済する為に、1889年9月福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)からハワイに移民し、祖父母とともに渡米した父母のもと、1924年当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれた。
その後ホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。
イノウエは、ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、イノウエを含む日系人の運命は暗転する。
真珠湾攻撃当時、イノウエは医学の道を志し、ハワイ大学で医学部準備コースに登録、勉強していた。
アメリカ政府の官憲からスパイ容疑者として財産を奪われ監視されるようになった。
こうした日系人はアメリカ星条旗への「忠誠」を表そうと志願してイタリア戦線に参加し、多くの戦功をあげたのである。
イノウエもアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦った。
イノウエはイタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、右腕を負傷して切断し、1年8ヶ月に亘って陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から「英雄」として称えられた。
1947年に陸軍大尉として名誉除隊したが、右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学を専攻し同大学を卒業している。
イノウエは、その後上院議員に選出され、1963年から50年近くにわたって在任して、2010年6月に、上院で最も古参の議員となり、慣例に沿うかたちで「上院仮議長」に選出された。
上院仮議長は実質名誉職ではあるものの、大統領継承順位第三位の高位であり、アメリカの歴史上アジア系アメリカ人が得た地位としては最上位のものとなる。
2012年12月、イノウエは88歳で死去したが、アメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に遺体が安置されるのは、リンカーン、ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、アジア系の人物としては初めてとなった。
ところで、2016年4月27日新たにしたDイノウエ国際空港には、もう一人の「日系人の英雄」の名を刻んだ記念碑が立っている。
それは、スペースシャトルの搭乗員となったエリソン・オニズカの名前である。
実は、スペース・シャトル「チャレンジャー」の宇宙飛行士・エリソン・オニズカは福岡県南部筑後地方の浮羽町をルーツとしている。
久留米市浮羽町は、イノウエのルーツ八女市上陽町と同じ筑後地方にあり、近い場所に位置している。
オニズカの祖父は、移民としてハワイにわたりコーヒー栽培などを行っていた。
ところが1941年に真珠湾攻撃が行われると彼らの運命は暗転するのは、Dイノウエと同じである。
ところで、オニズカがスペースシャトルの搭乗員として選ばれた時のメンバーは、男5人女2人白人・黒人・日系人と多様な顔ぶれであった。
エリソン・オニズカとともにクリタ・マコーリフという名の教師がミッションに参加していた。
彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であった。アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。
これは世界ではじめてのスペースシャトルからアメリカにむけてさらには世界中にむけての授業となる予定であった。
当初打ち上げ予定であった1986年1月26日はとても風が強くミッションは1月28日まで延期された。 そして11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。
最初の1分30秒間は正常な飛行がなされたが、次には悲劇的な悪夢がチャレンジャーを襲った。
チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は全員死亡したのである。
彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走り「ハワイの英雄」の死を悼んだ。
なお、エリソン・オニズカのルーツである浮羽町の家近くに小さな川があるが、その川に架かる橋には宇宙飛行士姿のオニズカの写真が埋めこまれており、「エリソン・オニズカ・ブリッジ」と名づけられている。
エリソン・オニズカは、第二次世界大戦中イタリア戦線でのハワイ出身の日系人の働きがなければ、チャレンジャーの搭乗員になることはなかっただろうと自ら回顧している。
そのイタリア戦線で戦い右腕を失ったのがDイノウエだったのである。
同じハワイ出身で福岡県筑後をルーツとする日系人DイノウエとEオニズカはこうした奇縁で結ばれていたのである。しかし、これを奇縁とよぶだけでは十分とは思えない。
あくまで個人的な推測だが、Eオニズカが日系人初の宇宙飛行士に選ばれた背景に、上院議員Dイノウエの直接的「後押し」があったのではなかろうか。