安倍家の「福岡」コネクション

山口県長門市には、日本海に面した絶景ポイントがいくつもある。
なかでも、アメリカのCNNが選んだ「日本の最も美しい場所31選」のひとつが「元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)」。
総数123もの鳥居が、折り返しつつ昇りながら連なる光景は圧巻で、鳥居群の赤、日本海の青、周囲の草木の緑のコントラストが美しく、その絶景を一目見ようと国内外から多くの人が訪れる。
アクセスがなく、「油谷(ゆや)」を地名とするこの辺りに行くのは、車を利用する他はないが、JR山陰本線で日本海側に現れる「油谷湾温泉ホテル」あたりを目印とすればよい。
この油谷から東に数キロの地に「日置(へき)」という変わった地名がある。
ここ長門市日置に集住した古代の日置氏は、油谷から深川までの広い地域を「日置荘」として治めていた。
その基盤となったのは、たたら製鉄・鉄冶業を本来の職掌としながも、日読み(暦作成)をも司ったことによる。中世に畿内で官人などに見られる「日置氏」はこの地名に由来するらしい。
山口県北西部に位置する「大津郡日置町」であったが、2005年長門市と合併したため、今は町名としては消滅している。
実は、この油谷・日置こそは、安倍元首相ゆかりの地(ホームランド)なのである。
ところで2022年7月9日、安倍晋三前々首相が凶弾に倒れ、日本中に衝撃が走った。享年67だが、安倍晋三の父・晋太郎も67歳で急死したので、奇妙に一致している。
晋太郎は当時「政界のプリンス」とよばれ、次期総裁候補の一人とみなされていた。
というのも晋太郎の父(晋三の祖父)は、「反骨の政治家」といわれた安倍寛(かん)、夫人は岸信介(のぶすけ)元首相の長女である。
そしてご先祖は、平安時代11世紀の安倍宗任(あべむねとう)の末裔であるという。
晋太郎は元毎日新聞の政治記者であったが、安倍一族のゆかりの地を家人に調べさせ、地域の市町村役場などを丹念に回りながら、各地に古くから伝わる「家系図」を調べ歩いていた。
その結果、山口県長門市油谷(ゆや)町に住み着いた一族が宗任の流れをくむ者たちであること、青森県五所川原の石搭山・荒覇吐(あらはがき)神社に始祖である宗任が眠っていることなどを調べ上げた。
そして1987年に晋太郎と夫人、息子の晋三夫妻の五人で荒覇吐神社を訪れている。
なお案内役を兼ねて晋太郎たちに同行したのが画家の岡本太郎であり、岡本もまた安倍一族の流れをくむ一人として、自らのルーツに関心を持って調べていたらしい。
安倍家と岡本家のルーツで結びついていたのである。
安倍宗任をさらに遡れば、「奥州征伐」などで名高い阿倍比羅夫(ひらふ)に辿り着くという。
安倍首相の御先祖である安倍宗任は奥州(陸奥国)の豪族で、1051年の前九年の役にて源頼義、源義家率いる源氏に破れ、大宰府に配流された。
おそらく古代の防人(さきもり)同様に、九州山口の沿岸防備の任についていたことが推測される。
ところで「防人(さきもり)」とは、古代九州北部防備のために置かれた兵士で、大宰府に防人司が置かれた。
紀元663年の白村江の敗戦以降に整備された制度で、東国出身のものが大半を占めている。
山口県では、長門城築城とともに、防人の軍団である「豊浦団」が置かれていたことにも注目したい。
安倍家は配流先の太宰府から山口県大津郡日置村に移り、江戸時代には「大庄屋」をつとめ、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての「名家」と知られるようになった。
安倍元首相の祖父の安倍寛(かん)は、東京帝国大学法学部政治学科を卒業するが、卒業後は東京で自転車製造会社 三平商会を経営していた。
しかし、関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産してしまう。
東京に移ったのちに結婚し長男晋太郎をもうけるが、その直後に離婚し以降は独身暮らしだった。
そして山口県に戻り、「金権腐敗打破」を叫んで衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で山口県一区から立候補するも落選。
さらに悪いことに、総選挙後は学生時代に罹患していた結核が再発し、それにより脊椎カリエスを併発し療養していたが、1933年に地元住民に請われる形で「日置村長」に就任した。
その後県議会議員を兼任したが、1937年総選挙にて「厳正中立」を唱えて山口県一区から無所属で立候補し、衆議院議員に初当選した。
安倍寛が「反骨の政治家」といわれる所以は、次のような政治姿勢による。
中国との十五年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場を貫き、第一次近衛声明に反対の立場を示した。
また1942の選挙に際しても東條英機らの「軍閥主義」を鋭く批判、大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。
すると、東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張するなどしつつ、帝国議会では商工省委員や外務省委員などを務めた。
戦後は日本進歩党に加入し1946年4月の総選挙に向けて準備していたが、選挙の直前に心臓麻痺で急死している。享年67であった。
安倍寛の息子・晋太郎は新聞記者を経て1958年に衆議院に当選して「総裁候補」の一人と目されるようになった。
選挙の演説会では「岸総理の女婿」と紹介されることが多かったが、しばしば「安倍寛の息子」と小声でつぶやいていたらしい。

安倍晋三の母方の祖父はかつての総理大臣・岸信介、その岸信介の5歳年下の弟が佐藤栄作である。
岸と佐藤は苗字が違うが、これは岸が父の実家の養子となったためで、安倍晋三・総理大臣からみて佐藤栄作は大叔父にあたる。
実は佐藤栄作もまた福岡に足跡を残している。それも古代の安倍一族が配流となった「大宰府」近辺においてである。
佐藤栄作は旧制第五高等学校(現熊本大学)から東大法学部を卒業し鉄道省に入省したエリート。そしてエリートがゆえに1926年、大卒まもなく25歳で着いたのが「国鉄・二日市駅長」である。
駅長になったといっても、その期間は約5ヶ月間だけで、いかにもキャリア官僚の現場見習いというような人事だった。
国鉄二日市駅は在、九州鉄道(初代)開業時より現存する九州最古の駅の一つで、太宰府天満宮の最寄駅であるため、駅前にはここを訪れた有名人の記念碑がたっている。
また、二日市駅のバス停の近くに忘れ去られたように「和」と刻まれた石碑がある。
佐藤栄作は二日市駅長時代に「和」と色紙に書きそれに署名し、その色紙が二日市駅の駅長室に残っているということだが、石碑はその関連で作られたものだろう。
この「和」の石碑は、佐藤栄作の「ノーベル平和賞受賞」を記念してたてられたものである。
佐藤は二日市駅の駅長を終えたあとは、佐賀県の鳥栖運輸事務所長なども勤め、鳥栖駅近くの官舎に住んでいた。足かけ11年九州で勤務したことになる。
鹿児島本線「鳥栖駅」から長崎本線に分岐しており、約1時間もあればJR佐賀駅に到着する。
佐賀駅から降り、県庁まで繋がる道(中央通り)があり、佐賀の偉人の銅像が並んでいる。
「肥前さが幕末維新博覧会」に合わせ、佐賀市内に設置されていた佐賀県伊万里市出身で森永製菓の創業者、森永太一郎(1865~1937)らの偉人像25体が、博覧会終了後も同じ場所に置かれ続け。
いずれの像もアルミ製の青銅色で、等身大が原則だという。
当時のミルクキャラメルを手に持つ森永太一郎と、江崎グリコの創業者・江崎利一に当時のグリコを持たせ、ペアで並んでいる。
実は、この森永太一郎こそは安倍首相の妻・昭恵(あきえ)夫人の曽祖父にあたる。
森永太一郎手の像はミルクキャラメルを発売した49歳頃の姿なのだという。太一郎は身長が180cmあったらく等身大の像なので自然と目だってしまう。
森永太一郎は1865年佐賀県伊万里の陶磁器問屋に生まれた。幼くして父を失い母とも離別した。
親類の間を孤児として転々としたが、漢学者の家に丁稚奉公し、傍ら漢学を学んだ。しかし謝礼の米が納められず、三度の食事にも苦労したという。
13歳の春、伯父の家に引き取られ、50銭の資本で八百屋の行商をやり、次に陶磁器の番頭となり横浜にいった。
ところが借金地獄に苦しみ1888年、23歳で単身アメリカに渡った。人種差別に遭ったりしながらも苦節10年以上。
その間に製菓技術を学び、帰国後 1899年に東京で「森永西洋菓子製造所」を開いた。自らリヤカーを引いて菓子を売り歩くこともあったという。
安倍昭恵夫人の父・昭雄は、関連会社の役員などを歴任した後、1983年から1997年まで森永製菓の第5代社長を務めた。
父の任期中に、あの「グリコ・森永事件」(1984~85年)が起きている。そのため昭恵夫人には当時、護衛がついたのだという。
ちなみにライバルであるグリコの顔として知られる「ゴールインマーク」は、佐賀市の八坂神社の境内でかけっこしている子供たちの姿からヒントを経て考案されたという。
それにしても佐賀県に日本を代表する菓子会社である森永とグリコの創業者が佐賀から出ていることは、偶然ではない。
それは、長崎街道が「シュガーロード」と呼ばれること関係している。
江戸時代、日本で貿易の拠点となっていた長崎に陸揚げされた砂糖は、「長崎街道」を経て京、大坂、江戸(現在の京都、大阪、東京)へと運ばれていった。
このため、比較的砂糖が手に入りやすかった街道筋で、古くから甘い菓子が盛んに作られるようになったという。
長崎街道は、長崎から諫早を経て彼杵、肥前・大村、嬉野、佐賀、神埼ときて、福岡にはいる。
福岡に入ると、「原田(はるだ)宿」→「山家(やまえ)宿」→「内野宿」→「飯塚宿」→「木屋瀬」(こやのせ)宿→「黒崎宿」→「小倉常盤橋」というように福岡県内の内陸部を通る。
そして長崎街道沿いの「飯塚」で生まれたのが「千鳥饅頭」。福岡筑豊地区は炭鉱労働者が多かったために、甘さを求める文化が生まれたことも関係している。
飯塚で「千鳥屋」「ひよこ」「さかえ屋」が生まれたことを鑑みれば、シュガーロードは、福岡までもちゃんと伸びているのである。

筑豊の中心都市といえば、飯塚市。飯塚市といえば「麻生王国」。セメントから専門学校、病院など「麻生」の名を冠した施設がいたるところに見られる。
2022年7月12日の安倍元首相の葬儀では自民党の麻生太郎副総裁が弔辞を読んだ。
二人は政治的な盟友という枠を超えて心が通い合っている本当の友人という印象さえある。「お友達内閣」もそんな雰囲気が生んだ言葉なのだろう。
というのも、安倍晋三と麻生太郎、生まれ育ちが似ている。麻生太郎の父親は衆議院議員の麻生多賀吉で、その妻が吉田茂の娘という関係にある。
つまり、麻生太郎の祖父は吉田茂、安倍信三の祖父は岸信介なので、二人は誰よ心が通じ合う関係なのだったのかもしれない。
同時に安倍家と麻生家は「遠い親戚」でもある。安倍元首相側からその関係を見ると、「岸信介のいとこ吉田寛の夫人の甥が麻生太郎」という、なんだかよくわからないような遠い親戚なのである。
さてもう一人、飯塚生まれの財界人の一人が、佐藤栄作と関わることになる。
第五次吉田内閣の時代、1954年 「造船疑獄」により海運関係のトップと保守系代議士があいついで逮捕された。
このとき検察側は、造船工業会から賄賂を受け取った疑いで佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を急いだ。
しかし、犬養健法相は指揮権を発動し、逮捕を阻止したうえで辞職する。
この時、捜査の対象になった政治家・官僚・会社員は千人をこえ、会社役員・運輸省役人の二人が自殺している。
ところで、民主的基盤をもつ法務大臣が検事総長を指揮する権限をもたせたのが指揮権発動である。
これは検察に対するシビリアンコントロールとみてもよいが、「指揮権発動」が国民を守るより、政権保持のために使われたため、国民には”暴挙”に映った。
その混乱の責任をとって犬養健法相は辞任したということなのだろう。
検察の取り調べにあたったのは検事総長・伊藤栄樹(当時28歳)。取調べをうけたのは後の首相になる池田勇人や佐藤栄作だった。
犬養法相は、指揮権発動の理由を「事件の法律的性格と重要法案の審議に鑑みて」という抽象的な説明に終始している。
ここで「事件の法律的性格」というのは、海運会社や造船関係団体からのお金が佐藤栄作個人の私腹をこやすためではなく、党の資金となっており、幹事長の立場から資金集めの役割を果たすのは慣例でもあり、佐藤自身の収賄を立件をするのは困難ということである。
また、「重要法案の審議に鑑みて」というのは、アメリカの”再軍備"要請で生まれた「自衛隊設置法」と「防衛庁設置法」を指すもので、これらはその後成立し、自衛隊が設置されることになる。
実はこの時の内閣は、吉田茂内閣(第五次)は、防衛二法ばかりではなく、教育ニ法、MSA協定、新警察法などの強行採決、警官隊導入による会期延長など強行採決の連続で、「強権内閣」を絵に描いたような内閣であった。
それは、戦後日本の「逆コ-ス」を示す分岐点であり、「吉田内閣崩壊」をなんとかくい止めんとするための「指揮権発動」があったといえる。
アメリカの影が当然チラつくが、いままで一度も行使されたことのない「指揮権発動」などといった知恵を授けたのは何者なのだろう。
ともあれ、法務大臣の一声で汚職捜査をストップしてしまった権力の横暴に対する不信が渦巻いていった。
結果として、それが吉田首相退任の大きな原因となったのである。
この事件をきっかけにして経団連は財界の「政治献金」を一本化しようとする。その政治献金一本化を実現し、「財界政治部長」という異名でよばれたのが、飯塚生まれの花村仁八郎(にはちろう)であった。
花村は企業・団体から出してもらう政治資金は自由経済体制を堅持する「保険料」と位置づけ、「花村リスト」といわれる献金の割り当て表を作り、これが以後「財界献金の原典」となった。
長年政界と財界の資金のパイプ役を務めた花村は1975年経団連の事務総長、1976年事務総長兼務で副会長に就任し、この間、日本航空の会長も務めた。
花村は嘉穂高校から東京大学経済学部を卒業するも、卒業後すぐに結核となり、知人の紹介によりしばらくの間、福岡市南区老司にある「国立少年院」で教官をした異色の経歴の持ち主である。
花村は、少年院で涙ながらに少年達の身の上話を聞いたことが、後の財界の世話人と呼ばれるようになる下地をつくったと自ら語っている。
いわゆる「吉田学校」で学んだ官僚出身の二人、池田勇人と佐藤栄作は「造船疑獄」で検察の取り調べをうけている。その後、二人は相次いで高度経済成長時代の首相ポストにあった。
花村仁八郎によって自民党の政治献金ルールが明確になったことは、経済成長の基盤たる政権の安定をもたらした点でも大きな意義があった。