「アニマル福祉」序史

人の歴史は、毛皮とともにある。エデンの園で禁断の木の実を食べたアダムとエバは、自ら裸であることに気がつき、イチジクの葉で身を覆ったが、神は彼らに皮でできた 衣を与えている(「創世記」3章21)。
さて、ウールといえば、人にとって最も身近な家畜の羊から採れる素材である。
世界各地で飼育されている羊は、品質改良が重ねられ現在その品種は3000種ほど。コットンに次いで大量に生産、消費されている天然繊維である。
最近新聞で、世界で最もハードな仕事と紹介されていたのが、羊の”毛刈り職人”である。
大きなバリカンを手にした職人が一列に並び、豊かに生えそろった羊の毛を刈っている。もう一方の手で頭を、両足で胴体を押さえ、刈り終わった羊毛は毛布のように一枚につながっている。
はたかた見ると、職人が羊とダンスしているように見える。映画「ダンス ウイズ ウルブズ(狼と踊る男)」ではなく、「ダンス ウイズ シープ」。
人が身に着けるレザーやファーはもちろん、ウールやカシミア、そしてにミンク、全て動物のおかげで利用できている。
逆にいうと、毛皮のために消えていった動物がたくさん存在するということ。ブルーバック、シマワラビー、オオウミガラスなどである。
最高級といわれる「カシミア」はインド北西部の”カシミール地方”の地名からきたものである。
インドとパキスタンの国境紛争(カシミール紛争)で核戦争の危機さえまねいた土地である。
カシミール地方の高地の厳しい地形と気候の中で育てられた「カシミヤ山羊」から採れる素材が「カシミア」である。
現在、環境に負担をかけないオーガニック素材や自然素材、リサイクル素材などを使用するものを「エシカル・ファッション」という。
それあっての、正しい労働条件や公正な賃金水準など「フェアトレード」である。
20世紀以降、狩猟による毛皮の採取が減少すると、次は飼育場で生産されるようになった。まずは飼育が簡単なウサギとキツネに始まり、少し遅れてミンクの飼育が始まった。
そして20世紀後半頃から、その悲惨な実態が明るみになった。
安価な毛皮を大量に生産する中国などでは、ミンクやキツネ、タヌキ、そしてウサギなどの動物を狭いケージの中に閉じ込め、多頭・過密飼育している。
そこで「アニマルウェフェア(動物福祉)」といううエシカル(倫理的)な概念が登場してきた。
日本の動物愛護の歴史を遡れば、「犬公方」といわれた徳川綱吉がそのパイオニア的存在ともいえるが、日本で一番有名な犬の名といえば、「ハチ」。
なにしろ「ハチ公」という敬称がついている。
秋田県大舘市で生まれたハチが、1924年、生後50日で鉄道で小荷物として東大農学部の教授であった上野英三郎博士のところに運ばれて来た。
上野博士には実の子がなく、体の弱かったハチを自分のベッドの下に寝かせるなど我が子のように育て、大学や渋谷駅にいつも送り迎えをさせていた。
1925年5月21日、博士が大学で急死して突然の別れが訪れたのは、ハチが上野に飼われ始めてわずか17か月の時であった。
ハチはその後10年間、朝夕に渋谷駅に通い、改札口から出てくる人々の中に上野英三郎の姿を求めた。
ハチの名が有名になったのは、秋田犬の保存運動をしていた研究者の斎藤弘吉が、渋谷駅に毎日通う老犬のハチのことを朝日新聞に投稿して記事になったことにある。
ハチが博士同様に慕っていた妻の八重さんは、事情により一家の暮らした家を相続できず、大型犬のハチを飼うことができなくなり、上野博士に恩のある植木職人に飼われることになった。
ハチは晩年、有名になってから「忠犬」と呼ばれるようになった。戦争と軍国主義の時代にあって恩を忘れぬ犬として「修身教育」に利用されたからだ。
そして1934年に渋谷に「ハチ公の銅像」が誕生。
GHQが「ハチ公」を、忠臣愛国のシンボルとしてみなされなかったことが幸いして、戦後は恋人たちの待ち合わせ場所の定番となり、その名は広く知られることとなった。

「ハチ公」像が建てられた2年前の1932年、ロサンゼルス・オリンピック大会の馬術競技に出場し、「金メダル」をとった日本人がいた。
男爵・西竹一陸軍・騎兵隊中尉で、愛馬ウラヌスを駆って堂々の優勝であった。
この時代、陸軍の枢要な構成を騎兵が占め、日本の馬術界を千葉県習志野にあった陸軍騎兵学校がリードしており、出場選手はすべて陸軍軍人であった。
それだけに「馬術競技」は、色々な意味での威信がかかっていだ。
西は、イタリアの「騎兵学校」に留学していた同期生から「イタリア人も乗りこなせない、とんでもない馬がいる」という話を聞き、私費を投じて体高1.8mもの巨大な馬を手に入れた。
これが西の愛馬、「ウラヌス号」であった。
優勝インタビューの西の言葉、「We won!」は、「人馬一体」の精神を一言で表して米国民にも深い感銘を与えた。西竹一は「男爵」であり、海外では「バロン西」の名前で知られていた。
西がイタリアでウラヌスに初めて会ったとき、ウラヌスは普段は気性が荒い馬だったが、すぐにブルルッ・ブルルルッと鼻を鳴らしながら西の目の前に歩み寄りすぐになついた。
そしてすぐに西氏の背中を鼻先でこすったり軽く食んだりして「親愛の情」を見せた。
要するに、西とウラヌスはお互いに「一目惚れ」したのである。
西の1932年のロサンゼルス大会の馬術「大障害」で金メダルをとるという偉業をなした。
そして歳月を経た1944年に西氏は日本陸軍の戦車第26連隊長として硫黄島(東京都)に着任した。
西は硫黄島が自分の墓場となるのを予感し、硫黄島に行く少し前に年老いたウラヌスに久しぶりに会いに行った。そして、ウラヌスのタテガミ一握り切り取って「お守り」として軍服の下にしのばせ、硫黄島に向かった。
ロサンゼルス大会から13年間を経た1945年3月、西竹一中尉は、硫黄島で第26戦車連隊長として、アメリカ軍の「総攻撃」に対峙していた。
日本の陸海兵約2万2千人のうち約千人の捕虜以外全滅し、アメリカ側も2万人余りの死傷者を出した。
つまり硫黄島は「玉砕の島」と化していたが、西も最期を覚悟していた。
そんな時、アメリカ兵の側から「バロン西」への投降の呼びかけがあったという。
しかし、西は地下壕の中で自決、玉砕する。
西が死亡してから6日後、日本に残っていたウラヌスは老衰により主人の後を追うように死亡した。
西が馬術「大障害」で金メダルを取った時、日本代表チーム6人の主将を務めていたのが城戸俊三である。
城戸は愛馬「久軍」(きゅうぐん)とともに「総合馬術競技」に出場した。山野を32キロ以上も走る「耐久持久レース」であった。
コースの途中には50個の障碍が設置され、これを飛び越しながら全力疾走するというハードなもの。
馬上の城戸は、全コースのホトンドを順調に走り終え、あと1障害と2キロメートル弱を残すだけの所にさしかかっていた。
全コースの99%を走破したこの時点で、城戸はかなりの上位入賞が予想されていた。
ところが観客は、「信じられない光景」に目にした。城戸は突然に「久軍号」から飛び下り、愛馬と一緒に歩きながらタテガミをたたいて労をねぎらった。
つまり城戸は、栄光を目前にしながら「棄権」したのである。
城戸は、「久軍号」がこの時鼻孔は開ききり全身から汗が吹き出ており、すでに全力を出し切っていたことを体感していた。
様々な「威信」のかかった試合で、ムチをあてれば「久軍号」は余力を振り絞って、最後の障害を乗り越えていたかもしれない。しかし城戸はそうはしなかった。
審査員の中には静かに「退場」する人馬の姿に、思わずもらい泣きした人もいた。
城戸は「自分は馬の使い方が下手だとつくづく感じた。久軍には気の毒なことをした」と語っている。
2年後にアメリカ「人道協会」は、「愛馬精神」に徹した城戸の行為を讃えて、二枚の「記念碑」を鋳造した。
一枚は1934年にカリフォルニア州のルビドウ山にある「友情の橋」に取り付けられ、もう一枚はリバーサイド・ミッションインという教会に保管された。
そして後者は1964年に日本へ贈られ、馬術の精神を具現した城戸が使った「鞍」とこの「銅版」は、現在秩父宮スポーツ博物館に展示されている。
その英文を和訳すると、「第10回オリンピック馬術競技で城戸俊三中佐は愛馬を救うため栄光を捨てて下馬した。彼はそのとき、怒涛のような喝采ではなく、静かなあわれみと慈しみの声を聞いたのだ」と記されている。

戦争中に徴用されたおよそ100万頭の馬が、戦場に斃れたといわれている。
假屋千尋(かりやちひろ)は、鹿児島県志布志で生まれた。農家の四男であり成績は優秀であったが、経済的に進学は困難で馬の種付けの見習いとなった。
しかし、貧しい生活を苦にせず、いつも穏やかで、人から頼まれれば、断ることのない優しい男だった。
そして、何より動物が好きで、特に馬を愛した。
1934年、農林省鹿児島種馬所へ入り、1938年1月、陸軍に徴兵され熊本へ行き、 さらに千葉県にある陸軍野戦砲兵学校へ入校した。
分解した大砲や弾薬を馬で運ぶため、全国から馬の扱いに長けた人が集められていた。
假屋が陸軍の野砲学校へ入学できたのも、単なる馬好きだったのではなく、優秀な人間だったことことを証明している。
実際に假屋はこの学校で最優秀の成績を収め、大尉で中隊長代理だった朝鮮王族の李公の「馬番」に任命されている。
日中戦争が拡大するにともない、假屋は馬とともに戦線に送り込まれた。
分解された砲だけでも1トン、弾薬も入れると2トンを運ぶ。地面がぬかるんだ場合など、馬には相当の負担がかかった。
同じ部隊にいた人々は、假屋が馬を巧みにさばく姿をよく憶えていた。
「ある時、川沿いの道を行軍中に馬が川へすべり落ちた。すると假屋軍曹が、すぐに飛び込んで馬を引き上げました。 馬は耳に水が入るとだめなので、手で馬の頭を高く挙げて、そのままの形で泳いで対岸まで行った。 馬に玉が当たって処分しなければならない時は、本当に泣きながらやってました」と。
1932年10月、5年間の兵役が終わり除隊し鹿児島松山村へ帰郷したが、かつて所属した隊はソロモン諸島のブーゲンビル島へ転進し、約8割が戦死したことを知った。
その後、種馬所時代の先輩の娘と25歳で結婚して二人で福岡県小倉へ出て、陸軍兵器補給廠で工員として働いた。
長男が生まれたが喜ぶもつかの間で肺炎で死去した。終戦後、夫婦で鹿児島県松山村へ帰郷し、農作業のかたわら「種付け師」の仕事を始めた。
しかしその妻も腹膜炎で25歳の若さで死去した。
生きる目標を失い意気消沈する假屋であったが、周囲の薦めで再婚することができた。そして生まれたのが美尋(よしひろ)であった。
1950年に朝鮮戦争が勃発し、假屋は警察予備隊に誘われたが断わった。
息子の美尋が小学校の頃、假屋が馬に乗って授業参観にきたため、生徒は騒然となり、それ以来美尋のあだ名は「種馬」となったという。
しかしそのうち、耕運機が普及しだし「種付け師」は廃業となったが、何組もの人間の縁談をまとめるなど人間の面倒見のよさを発揮した。さすがは「種付け師」の声もあったに違いない。
息子の美尋は東京の大学へは自力で行くこととなり、1969年3月25日、都城駅にて父親は息子に1万円だけ渡した。
その時、假屋は息子に「いま我慢すれば、きっとよか日がくる」と励ました。
息子の美尋は大学卒業後に芸人になるが、まったく芽が出ずに司会業などをして食いつないだ。
1997年4月2日、假屋千尋は耕運機に乗っていて、耕運機ごと4mほど転落して死亡した。享年79。
それから5年後、息子・美尋は「綾小路きみまろ」の名で爆発的にブレイクした。
旧知の人々は、「綾小路きみまろ」の語り口は、父假屋千尋にそっくりだと証言する。
そして「馬のたてがみ」風のヘアスタイルも、昔「種馬」と呼ばれた名残かと推測される。

世界には、「官位」をもらったり、勲章をもらった生き物がいる。
、 江戸時代の8代将軍徳川吉宗は進取の気性で知られるが、注文したオス・メス2頭の象が清(中国)の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。
国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを買えるのは、幕府や大名に限られていた。
そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って「御用伺い」をした。
幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、「発注し」取り寄せていたという。
メス・ゾウは上陸地の長崎で死亡したが、オス・ゾウは長崎から江戸に向かい、途中の京都では、中御門天皇(なかみかど)の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が「無位無官」であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。
新井白石による「正徳の治」の時代、幕府は朝廷側に「閑院宮家」の設立を許すなどの「朝幕関係」の融和政策を行っていたが、象を天皇に「拝謁」させるのもその一環だったのかもしれない。
拝謁した象は前足を折って頭を下げるなどの仕草をし、天皇はその感銘を和歌にも詠んでいる。
ヨーロッパには、勲章を受けた伝説の「伝書バト」がいる。
第一次世界大戦でのアルゴンヌの森の戦いは、アメリカ軍事史上最大規模の120万人の米兵による大規模攻勢となったドイツ軍との戦いである。
米軍500名の第77歩兵師団は、森深く入り、通信手段も断たれたまま敵に囲まれて孤立してしまった。
追い込まれて、敵味方かまわず、攻撃してしまう始末。この窮地を救ったその英雄の名は、「シェール・アミ」(仏語で「親愛なる友」)といった。
フランス北部の深い森で、ドイツ軍に囲まれ孤立した米歩兵部隊の居場所を記したメッセージを味方の部隊に運び、194人の命を救った「伝書バト」である。
実はシェール・アミはその前のヴェルダンの戦いにおいて砲弾の合間をぬって飛び続け12通の重要機密書類を運んだ実績があり、フランスとベルギーの軍事功労章「クロワ・ド・ゲール勲章」を受賞していた。
しかし、アルゴンヌの森を飛び立った時に被弾して片足を失ったシェール・アミは、衛生兵の手当を受け、後に米国に運ばれる。死後剥製となって首都ワシントンのスミソニアン博物館に飾られた。
博物館から約80キロ西のバージニア州の田園地帯にたたずむ農園は、第二大戦中から冷戦にかけて、敵の暗号電文を傍受する情報機関の拠点だった。
今はワイン醸造所となったその敷地で、日本やドイツの暗号解読に従事したのは約50人の日系人や大勢の女性達だった。
施設は冷戦終結後の1997年に閉鎖されるが、米軍「伝書バト」はそれより遡る57年に廃止された。
とはいえ、バックドアから情報を盗まれず、サイバー攻撃に惑わされない「伝書(暗号文)バト」は通信手段としてよほど信頼できるのではなかろうか。