嘘と真の狭間(Ⅰ)

福岡県の朝倉にいくと、ドーム型の建造物に出会う。それは「掩体壕(えんたいごう)」というもので、いわば飛行機の防空壕。
戦時中に特攻基地となった太刀洗飛行場があったため、アメリカの爆撃機B29による空爆から飛行機を隠すためにつくられたものだ。
現在も、民家の倉庫として使われているが、ドラム缶と洗濯物が干されていたのが、印象的だった。
反対に、あえて敵にみせつけるためだけに作られる戦闘機や戦車というものも存在する。
それは、敵の目(特に空からの目)を欺くための、いわば「ダミー戦闘機」「ダミー戦車」で、最初は木製のフレームで組立てられていた。
下部に隠された車輪が付けられ、配置場所へと二頭の馬で牽引された。
しかし森林が減るし、コストも手間もかかる。そこで、ゴムで作られるようになる。
空気をいれて、ゴム風船の戦車や飛行機を本物とそっくりに作った。風で飛ばされない限り、まず本物と区別できそうもないしろもの。
NHKの「映像の世紀」では、兵士達がそのゴム風船のダミー戦車を4、5人でバレボールのように飛ばして遊んでいる姿があった。
そしてノルマンディー上陸作戦に至るまでも、ダミー戦車は敵の目を欺くためにふんだんに作られた。
しかし、この連合軍のノルマンディ上陸を上空からではなく、地べたからの目線で真実を撮り続けた戦場カメラマンがロバート・キャパ。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨あられと受けた先頭部隊員だった。
誰もが、なぜそこまでするのか、そうもできるのかというのが疑問だった。
そのキャパの人生の謎を追い続けた作家・沢木耕太郎は、その疑問を「一枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
ロバート・キャパを一躍有名にしたのがスペイン内戦におけるワンシーン「崩れ落ちる人」で、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、キャパは一躍「時の人」になった。
しかしこの「奇跡の一枚」は、、コレが本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであるらしい。
実際に私が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
ところで、沢木耕太郎には「テロルの決算」という作品がある。
社会党委員長の浅沼稲次郎を刺殺したまだ17歳の少年を追跡したものだ。
週刊誌で、その「刺殺シーン」をみたことがある。
壇上にあがり浅沼を刺さんとする少年と、腰砕けになりながらも、なんとか刃を避けようとする浅沼の表情は、どんな言葉にも表せない迫真性に満ちている。
そして少年の動きを阻もうとする人々の必死の姿が「臨場感」を高めている。
この写真が正真正明の本物であることは、その周囲の人々の表情によって疑問のないところだ。
ところがロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、いつ、どこで撃たれたのか全くわかっていないのだ。
そしてこの写真の謎の解明が始動した理由は、この写真が取られる直前の「連続した」40枚近い写真が見つかったことによる。
NHKの番組は、この写真はスペイン内戦時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、アンダルシア地方の「山の稜線」から特定するところから始まる。
真相はこうだった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかった。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」は、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローによって撮られた可能性がきわめて高いことが明かされてくる。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのであった。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され帰らぬ人となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」となる。
そして「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに帰すことになったのである。
ちなみに、タローという名前はモンパルナスに滞在していた岡本太郎の名を貰ったものだという。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでサエなかったのだ。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線に躍り出てシャッターを押し続けたのは、ある意味「自分との決着」をつけたかったからではないだろうか。
そのキャパも、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。

ナチスのヒットラーは、もともと画家志望であった。
ウィーンにある名門の美術アカデミーを受験した。しかし受験に2度も失敗。政治家になってからも絵を描き続けるなど、美術に情熱を燃やしていた。
画家への道は早々に断たれたとはいえ、権力の座に就いたヒトラーは新たな野望を抱く。
ルーヴル美術館やエルミタージュ美術館にも劣らない壮大な美術館を夢見て、オーストリア北部のリンツに、自分好みの美術館を建設する計画を立てた。
早速、美術館に展示する作品集めが始まる。
収集といっても、作品は買い叩かれ、騙し取られ、押収されるというありさまで、実態はほとんど略奪に近かった。
ちなみに、ルーブル博物館の多くの展示品は、ナポレオンの1822年イタリア戦争の戦利品である。
第二次大戦中、ナチスドイツはヨーロッパを侵略して、各地で美術品の略奪を行った。
ヒットラーと同様に、絵描きとして挫折感を抱いたメーヘーレンという画家がいた。絵は全く売れなかったため、画家として食っていけず、修復の仕事で食いつないでいた。
ある日のこと、知人がフランス・ハルスの作品「笑う士官」をもちこんだ。損傷が激しく、メーヘレンにハルスのようなタッチで修復してくれないかと頼んだ。
メーヘレンは17世紀絵画特有の色使いや描き方を研究していたので修復する自信があり、「笑う士官」を修復するうえでハルスのタッチを見事に再現し、依頼者は大満足した。
依頼者は、ハルス研究の美術史家に「笑う士官」を見せたところ、本物だと認定し4500万円という値段がついた。
しかし「笑う士官」は、改めて美術史家のアブラハム・ブレディウスに再鑑定される。
プレディウスがアルコールを含んだ脱脂綿で「笑う士官」の表面を撫でると絵の具が取れてしまった。50年以上前に使用された絵の具の場合は完全に固まってしまうため、本物であれば絵の具は取れない。
メーヘレンの「笑う士官」は偽物であると認定された。
自分のオリジナル作品は売れず、修復した作品さへもニセモノと言われて、メーヘレンは美術界への復讐を考えるようになる。
メーヘレンは自分を奈落の底に突き落としたブレディウスに復讐するために、彼が決して見破ることのできない贋作を作ることを決意。
それも、ブレディウスが専門とする画家「フェルメール」で勝負した。
「ディアナとニンフたち」「マルタとマリアの家のキリスト」この2つの作品は長い間”作者不明”とされていたのですがブレディウスが鑑定してメーヘレン作品と認定された。
つまり、メーヘレンはブレディウスに本物のフェルメール作品と認めさせれば自分の絵が「オランダの至宝」として歴史に名を刻むことになると考えた。
しかし300年前の絵を完全再現するという不可能にも思えた。
まずはアルコールテストを突破するために絵の具が50年以上経て固まったように見せる必要があったため、メーヘレンは”あるトリック”を開発した。
それは顔料に液体プラスチックを混ぜるというもの。
続いて、プレディウスの目を騙すには300年前のキャンバスが必要で、そこでメーヘレンは17世紀に描かれた絵を購入し、元の絵を剥がして、その上から絵を描いた。
メーヘレンは目に見えない細部にも気を配っており、フェルメールの代表作「真珠の耳飾の少女」を拡大すると表面に無数のひび割れがあるのが確認でき、これは古い絵画特有のものでメーヘレンはここまで再現しようとした。
メーヘレンは硬化する絵の具で描いた絵の表面を少しだけ曲げることでひび割れを人工的に作り、そのひびに黒いインクを刷り込み、長い年月を経てひび割れに汚れが溜まったように見せた。
5年の歳月をかけて1937年、47歳の時についに贋作が完成。それが”復活したキリストがエマオの村人たちと食事をする”という聖書の一場面を描いた作品「エマオの食事」である。
この絵はイタリアに移住した裕福なオランダ人女性から預かったということにして代理人に預けられ、ブレディウスの鑑定を受けることになる。
脱脂綿アルコールでも具は落ちす、なぜかブレディウスはそれ以上の科学鑑定を行わずにすぐに結果を発表。
ナチス・ドイツの美術収集で微妙な影を落すのが、総統のヒトラー、そしてナンバー2のゲーリングも美術品をコレクションしていたことだ。
ドイツはオランダも侵略し、ヒトラーは実際にフェルメールの作品を2作品「絵画芸術」と「天文学者」を所有している。
一方ゲーリングもゴッホやルノワール、ルーベンスといった名だたる巨匠たちの名画を自宅に所有していた。その数はなんと2000点以上。
だがフェルメールの作品は持っておらず、それ故にヒトラーに嫉妬していたといわれる。
そんな中、オランダからフェルメールの新しい作品が見つかったというニュースがゲーリングの耳に入る。
まだ見つかっていないフェルメール作品があるにちがいないと考えたゲーリングは、お抱えの美術鑑定士に未発見のフェルメール作品の捜索を命じる。
丁度その頃、「キリストと姦婦」を描き上げたメーヘレンが知人の画商を訪ねる。
「エマオの食事」の時同様に、他国の富豪から売却を依頼されたと話をでっち上げ、作品を画商に預ける。
その「キリストと姦婦」を見た画商はフェルメールの真作であると確信する。その画商はナチスがフェルメール作品を捜している事を知っていた。
すぐさまナチス関係者に連絡する。「未発見のフェルメールがある」という報せはゲーリングを大喜びさせ、メーヘレンの描いた「キリストと姦婦」はベルリンに届けられることになった。
しかしメーヘレンは売却先を知り、驚愕する。ナチスに自分の贋作が行くことなど想定していなかったから。しかも価格は約15億円という破格の値がついた。
その金額が高ければ高いほど、自分の作ったニセモノだとバレた日には命などあろうはずもない。
しかしゲーリングは特に「キリストと姦婦」のキリストの顔が、「エマオの食事」で描かれているキリストの顔に非常に似ているのに感心し、本物と信じて疑わなかったという。
もちろんど、ちらもメーヘレンが描いた贋作である。
こうしてゲーリングは念願のフェルメール作品を入手したと思い込み、自宅の壁に誇らしげに飾っていたといいう。
ところで、当代随一の美術史家ブレディウスはなぜアルコールテストのみで、それ以外の科学鑑定を行わなかったのか。
それはズバリ「エマオの食事」こそ研究者が探し求めていた絵。求めた絵が見つかったからだった。
ポイントとなるのは、ブレディウスが唱えていたフェルメールの「空白期間」で、フェルメールの総作品数は三十数点と言われる。
キャリア初期に宗教画を2、3点残して以降、そこからは2点の風景画を除いてすべて風俗画を描いている。
つまりこの”宗教画”以降”風俗画”に移行した時期の作品があるはずだとブレディウスは考えていた。
そこで出てきたのがメーヘレンが描いた「エマオの食事」だった。
メンヘーレンは、その「空白期間」のことを熟知していて、後の風俗画への移行を予感させる作品へと仕上げた。
メーヘレンはあえて専門家が欲しいと思っているフェルメールの贋作を作り上げた。
ブレディウスをこの作品を目にした時、「未発見のフェルメールを発見した。やっぱり宗教画から風俗画への移行期の作品が存在した」という自分の説の立証を考えてしまった
ブレディウスから真作のお墨付きを得た「エマオの食事」には、なんと5億円の値が付けられ、オランダの美術館で、レンブラントやゴッホなどの巨匠たちと並んで展示され、 メーヘレンは、「技術はあるがオリジナリティ」にかけると評価してきた美術界の重鎮の目を欺き復讐を果たし、その後もフェルメールの贋作を作り続ける。
しかし、億万長者となった彼の生活は一変する。酒とモルヒネに溺れ、次第に荒んでいき、絵を描く際もモルヒネがなければ描く事すらできない状態になっていった。
そんな状態でもメーヘレンはフェルメールの贋作を制作し続け、そして1942年51の時に酒と薬の影響で雑な仕上げになっていたのが、ゲーリングが気に入った「キリストと姦婦」であった。
1940年代当時、フェルメールの作品はオランダの国宝と呼ばれていたが、残された作品が非常に少なかったため、そこまで研究が進んでおらず、贋作が作りやすい状況だった。
そんな中メ―ヘレンは、完璧な贋作を作りあげ、次々と売りさばいていった。
手に入れた金額はなんと70億円。しかしその完璧すぎる技術によって、メ―ヘレンは地獄を見ることになる。
1945年、ドイツが降伏し、占領下にあったオランダは解放された。
しかしその直後、メ―ヘレンは逮捕されてしまう。
その罪名は「国家反逆罪」。ナチス・ドイツに、オランダの国宝とも呼ばれるフェルメール作品を渡したことを罪に問われた。
メ―ヘレンがナチスに売った作品は、誰もが本物だと信じて疑わなかった。裁判当日、裁判所に運ばれた絵画はフェルメールの作品と思われていたが、全てメ―ヘレンの贋作であった。
つまり、メ―ヘレンは拘留中、「ナチス・ドイツに売却した絵画は、自分が制作した贋作である」ことを告白した。それを聞いた裁判関係者は笑った。
「君にそんな絵がかけるはずがない」と。
そこで、メーヘレンは、法廷で実際に絵を描いてみせ、ほんものの「贋作」であったことを証明してみせた。
一転、メーヘレンは売国奴からナチスドイツを騙した英雄と評されるようになる。
しかし、既に酒と麻薬で体を蝕まれていたメーヘレンはまもなく心臓発作に倒れ、翌月にアムステルダムで死去した。享年58 。

何しろ兵士が撃たれ崩れる瞬間を捉えている写真だからだ。
ムッソリーニの案内で訪れたイタリアのウフィッツィ美術館に影響を受け、野望はさらに膨らんだ。