嘘と真の狭間(Ⅱ)

ナチス・ドイツのNO2ゲーリングを騙した天才贋作絵師・メーヘレンは、フェルメールの作品をナチスに売ったことから、一旦「国家反逆罪」に問われる。
ところが、それは「偽フェルメール」だったため、一転、ナチスを手玉にとったと「英雄視」される。
メーヘレン同様に、「命がけの嘘」で地獄をみた日本人女優がいる。それは、中国で「国家反逆罪」に問われた李香蘭(りこうらん)。
日本が支配する満州鉄道の社員の娘として育った山口淑子(よしこ)は学校に通うため、父の親友・李将軍を養父として中国名で学校に通った。
戦争中満州・中国に進出した日本は「五族協和」をとなえ、日満華合作の映画が数多く制作されていた。
山口淑子は、中国語が自由に話せ、いつしか日本人男性と中国人女性の恋愛を描いた映画に、「李香蘭」の名で数多く出演した。
「萬世流芳」の大ヒットにより、中華民國の民衆から人気を得た李香蘭は、北京飯店で記者会見を開いたことがある。
当初この記者会見で彼女は、自分が「日本人」であることを告白しようとしていた。
しかし父の知人(養父)に相談したところ、「今あなたが日本人であることを告白したら、一般民衆が落胆してしまう」と諭され、告白をとりやめた。
この会見が終わりかけた時、一人の中国人記者が、「あなたが”支那の夜”など一連の日本映画に出演した真意を伺いたい」と立ち上がった。
続けて記者は、「あの映画は中国を侮辱している。なぜあのような日本映画に出演したのか、中国人としての誇りを捨てたのか」と詰問した。
これに対し彼女は、「二十歳前後の分別のない自分の過ちでした。あの映画に出たことを後悔しています。どうか許してください」と答えた。
すると彼女が予想だにしなかったことが起こった。
会場内から大拍手が沸き起こったのである。
また終戦後、中国では日本に協力した中国人を「祖国反逆罪」として裁く軍事裁判が行われた。
次々と中国人が終身刑や死刑を命ぜられていくなか、「李香蘭」も群集の中に引きずり出された。
しかしその時、彼女は中国人ではなく「日本人」であることを告白する。
もしそれが真実ならば、日本人の彼女には「祖国反逆罪」は適用されない。
騒然とする法廷の中、それをどのように証明するかのか方法がなかった。
さて、「李香蘭」が中国人ではなく日本人であることを「間一髪」証明してくれたのは、幼き日の奉天時代の親友でロシア人のリューバという女性であった。
リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の「戸籍謄本」が届けられ、「日本国籍」であるということが証明された。結局、李香蘭には「漢奸罪」は適用されず、国外追放となった。
無罪の判決を下す際、裁判官は李香蘭に問うた。
「日本国籍を完全に立証したあなたは無罪だ。しかし、一つだけ倫理上、道義上の問題が残っている。
それは、中国人の名前で "支那の夜" など一連の映画に出演したことだ。法律上、漢奸裁判には関係ないが、遺憾なことだと本法廷は考える」と苦言を加えた。
李香蘭は「若かったとはいえ、考えが愚かだったことを認めます」と頭を下げて謝罪している。
1945年日本の敗戦と共に、「李香蘭」つまり山口淑子は博多港に着き再び祖国の土を踏んだ。
そして自ら出演した映画で、知らず知らずのうちに自分が国策のなかで利用されたこと、また映画で描かれた世界と格差に満ちた現実の世界との違いに苦しんだことをインタビューで答えている。
山口淑子が再び祖国の土を踏んだ福岡の博多港には赤い帆を象った「引き揚げの塔」がたっている。
この博多港に引き揚げた人々の中に、甘粕正彦満映社長の自決を見届けて帰国した満州映画会社の社員・赤川孝一もいた。
この赤川孝一の子が、「三毛猫シリーズ」で知られる作家の赤川次郎で、引き揚げてきた両親のもと博多で生まれている。
同様に、赤川次郎と同期の流行作家の五木寛之も博多に引き揚げているが、五木は福岡県の教員の両親のもと八女に生まれた。
1932年、生後まもなく朝鮮半島に渡り、父の勤務に付いて全羅道、京城など朝鮮各地に移る。終戦時は平壌にいたが、ソ連軍進駐の混乱の中で母親が死去、このことが生涯のトラウマになっている。
父と共に幼い弟、妹を連れて38度線を越えて北朝鮮の開城に脱出し、1947年に博多港に引き揚げる。
その後、父方の祖父のいる三潴郡、八女郡などを転々とし、行商などのアルバイトで生活を支えた。
福岡県立福島高等学校に入学、ロシア文学に傾倒、早稲田大学第一文学部露文科に入学するも、学費未納で早稲田大学を抹籍された。
その後、クラウンレコード創立に際して専属作詞家として迎えられ、学校・教育セクションに所属し、童謡や主題歌など約80曲を作詞した。
1966年、モスクワで出会ったジャズ好きの少年を題材にした「さらばモスクワ愚連隊」により、小説現代新人賞を受賞、続いて同作で直木賞候補となった。
1967年にソ連作家の小説出版を巡る陰謀劇「蒼ざめた馬を見よ」で、直木賞を受賞している。
さて、五木寛之の小説「戒厳令の夜」は、福岡市の繁華街・中洲のバーで一人の老人が「一枚」の絵画と出会ったところから始まる。
老人は、この絵がスペインの大画家パブロ・ロペスのものであるという。
主人公の青年が、その絵の謎をおっていくうちに、ヒットラーが収集していた絵画を、当時ドイツと同盟していた日本の筑豊炭鉱に隠したということを知る。
この小説「戒厳令の夜」はあくまでもフィクションなのだが、「事実」に基づいたか、何らかの「噂」みたいなものがありそうな気がした。
1943年8月、連合軍がノルマンディーに上陸。ナチス・ドイツの首都ベルリンを目指す。
次第に戦況が悪化し、美術館の建設どころではなくなってくると、ヒトラーはひとまず大事なコレクションを安全な場所へ移すことに決めた。
そして、オーストリアのアルトアウスゼーにある「岩塩坑」に隠された。
ベルリンの地下壕にこもって指揮をとるようになって、そして、彼の死がコレクションの運命を危うくすることとなる。
ヒトラー自殺の知らせを受けたアルトアウスゼーでは、すぐさま坑道を爆破する準備に取りかかった。
撤退の際は軍事施設や文書などを全て処分し、敵に何も渡さないよう命じられていたからだ。
ヒトラーは「美術品を適切に遺贈してほしい」旨を、遺書に残しおり、コレクションは破壊の対象外だった。
ただ、その指示が正しく伝わっておらず、坑道内に爆弾を仕掛けるところまでいった。
しかし美術品の破壊に胸を痛める者たちが、懸命に爆弾を取り除いたため、フェルメールの「天文学者」も命拾いした。
こんなエピソードが、五木寛之のイマジネーションを刺激し「戒厳令の夜」という作品に繋がったのかもしれない。

ナチス・ドイツのNO2を騙したメーヘレンの「偽フェルメール」事件は、日本の「旧石器偽装事件」とかなり似通っている。
ポイントは、専門家が求めていたもの、探していたものが、ちょうどそこに現われたという点において。
存在しない「フェルメール作品」を美術史家が本物と思い込んだように、従来とは考えられないほど時代を遡る石器の存在が本物とされた。
その石器の存在が偽物であることを証明したのは、考古学者ではなく、素人の新聞記者達だった。
ことの発端は 毎日新聞北海道支社に入った一通のメールだった。
「近頃Fと呼ばれる考古学者の手によって日本最古の発見が相次いでいるが これが まゆつばらしい」。
当時は考古学ブームの真っただ中。その中でひときわ注目を集めていたのが民間の考古学者「F」。
戦後 長い間 日本に人が暮らし始めたのは3万年前からとされてきた。
しかし「F」は 約4万年前の地層から石器を発掘。
その後も「F」は新発見を繰り返し日本最古を次々と更新し、北京原人よりも古い「 日本原人」がいた可能性まで言われるようになる。
60万年前の地層から「F」が見つけた円の形に並べられた石器は、原人の精神性を表す世界的にも貴重な発見とされた。
「F」が来れば必ず何かが見つかる。いつしか 「神の手」と呼ばれるようになっていた。
20年以上にわたる彼の発見で日本人の歴史は70万年前にまで遡っていた。
「原人」が住んでいたとされた遺跡には観光客が殺到する。
毎日新聞でも「取材班」が結成され、記者たちは当時、宮城県で「F」を直接取材したが、大発見が続く熱狂の中で疑問を持つことはなかったという。
そんな時ひとりの記者の目に留まったが、「F」の見つけた石器について「オーパーツ」と書かれていた論文。
「オーパーツ」とは、あってはならない場違いな遺跡・遺物の意味する。
論文の主は前期旧石器についてフランスで学んだ竹岡俊樹という研究者だった。
記者が「F」の発見に感じた違和感を素直に伝えたところ、ようやく竹岡が重い口を開いた。
原人は脳が未発達で手先が器用ではない。これは縄文時代にならないと出てこないような石器でありこと。
原人の石器は 石を打ちつけて作った簡単なものがほとんどだが、「F」の石器には動物の骨で加工していたし、矢じりさえも混じっていた。
こんな技術を持つ原人は、世界でも確認されていないし、「何十万年も前の地層から出るのはおかしい。
すでに、そのことをマスコミや考古学者達にも手紙に伝えていたという。
その上で、竹岡は「F」は石器を埋めているのかもしれないと意見を述べた。
記者は、もし石器を埋めているとしたらその瞬間を捉えられないかと調べると、北海道の総進不動坂遺跡での発掘に「F」が参加することがわかった。
発掘作業の4日目の朝6時すぎ、「F」の背中で隠れているが、何かを埋めている所作がみられた。
ビデオカメラを手に 物陰に張り込んだが、当時、新聞記者は動画撮影には不慣れで失敗。
次のチャンスを待った。1カ月半後、 舞台は宮城県 上高森遺跡。「F」が以前 日本最古とされる 石器を見つけた遺跡だ。
取材班は ビデオカメラの使い方を事前に練習。三脚も準備して臨んだ。
張り込みを始めて3日目の早朝、「F」が記者が隠れてる方に向かってズンズン歩いてきた。
その距離は、呼吸さえも聞こえそうな15メートル。
「F」は突然しゃがみ込み周囲を警戒するように見回すと、右手のスコップで穴を掘り石器数点を掘った穴の中に入れた。
その一部始終がビデオに収められた。
発掘に最終日に発掘成果の発表と記者会見が行われ「F」が埋めたあの石器も含まれていた。
「F」は初め気持ちよさそうに応じていたが、タイミングをみて記者がついに撮影した動画をみせた。
「F」はその動画をじっと見つめたあと 自分が石器を埋めたことを認めた。動機は「子供たちに誇りたかった」というあきれたものだった。
周囲をすごく喜ばせて そしてよく見つけてくれたって称賛されて、その気持ちのよさに感覚が麻痺していったようだ。
毎日新聞のスクープは数々の賞を受け、それまで彼を持ち上げてきたメディアは一転して、「F」支持に回った学者達を痛烈に批判した。
この問題の深刻さは、なぜ考古学者たちは見抜くことができなかったのか、ということだ。
「F」の石器をさまざまな場所で紹介し、結果的にお墨付きを与えてきたのが、文化庁主任文化財調査官の岡村道雄。
事件発覚後は激しい非難を浴びることになる。
彼の恩師が、およそ3万年前に日本に人類がいたことを証明した岩宿遺跡の検証にも参加した芹澤長介。
東北大学名誉教授で、日本の旧石器研究の第一人者。岡村は芹沢を慕って 東北大学へ入学。その下で考古学を学んでいる。
芹沢は大分県早水台遺跡の出土品を10万年以上前の石器として 学会に発表。芹沢は なかなか主張を認められず無念の思いを抱いていた。
その様子を見ていた岡村はどうにか3万年以上前の石器を見つけ芹沢の主張を証明したいと考えるようになる。
岡村は 海外の事例を研究し、当時 東アジアからシベリアにかけて4万年以上前の地層から先のとがった 「斜軸尖頭器」という石器が出土していた。
そこで日本にも その時代に人がいたならば同じような「斜軸尖頭器」が見つかるはずという論文を発表。
この辺りが「フェルメールの空白期間」に作られた作品があるはずと探していた美術史家と共通する。
岡村が「F」と知り合ったのはその頃で 「F」は会社に勤めながら発掘を手伝う民間の考古学者。
「F」もまた 芹沢長介の書いた「石器時代の日本」を愛読していたという。
宮城県座散乱木遺跡の発掘で、「F」は芹沢長介や岡村道雄やの主張を「裏付ける」古い石器を発見。
岡村は座散乱木遺跡の発掘報告書の中で「前期旧石器論争」の終結を高らかに宣言した。
このあと 「F」は毎年のように日本最古」の石器を発見し、ついには 北京原人より古い 「日本原人」の可能性まで喧伝されるようになった。
岡村は相次ぐ考古学上の発見を国民に紹介したいという思いで展覧会などを企画し、結果的に「F」の功績を広く知らしめる役割を果たした。
岡村の恩師芹沢もまたメディアに頼まれる度に「F」の発見を評価するコメントを寄せていた。 なにしろその分野の権威者は「F」を評価したため、異論を口にすることはますます難しくなる。
また 当時の考古学会には国際的な場で検証される仕組みもなかった。
後に「F」が関わった186か所3000点を超える石器について一つ一つ点検を行った。その結果 多くの石器に鉄分が付着している 傷があるなど不自然な点が見つかった。
中には、農機具などによっていたものと考えられ地面深く埋まっていた石器とは考えにくいものもあった。
座散乱木遺跡で見つかった49点のうち32点に ねつ造の可能性が指摘された。
ねつ造事件から程なくして岡村は文化庁を離れたが、10年以上の時を経て岡村は大学の教壇に立った。
講義のテーマは 「旧石器ねつ造事件」。どんな手口だったのかなぜ見破れなかったのか。自らの反省と再発防止に向けての心構えを学生に伝えていた。
ねつ造事件の発覚後、3万年前より古い日本の歴史は全て疑わしいとされ「白紙」に戻されたが、その影響は学会だけに留まらなかった。
遺跡のあった地元商店街では商品開発やイベントなど「世紀の発見」にちなんで さまざまな地域おこしが行われていた。
そんなひとつが、人々が太古のロマンに夢をはせた上高森遺跡。
90年代旧築館町は 高齢化と人口減少に悩み活性化の切り札を探していた。
そこで 突如発見された「日本最古」の石器。人々は そのニュースに飛びついた。
町おこしのため考え出されたャッチフレーズは「原人が見上げた空のある町」。
最古の発見にちなんだ「高森原人マラソン」大会。そして 地元の人が作詞作曲し、「原人」と名のつく商品が次々と開発された。
1997年 ねつ造発覚後は、「国の遺跡」の指定が解除された。一度受けた指定が外されるのは前代のことだった。
「日本史」教科書の再訂正がなされ、多くの受験生にも影響を与えた。

1920年、ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアが発見されたというニュースに衝撃が広がった。そのニコライ2世は、皇太子時代に滋賀県大津で巡査に傷つけられたことがある。
ニコライ2世と妻アレクサンドラとの間に四人の娘が生まれ、その末娘こそがアナスタシア・ニコラエブナであった。
父母は、娘達に深い愛情を注ぐのだが、夫婦そろって社交嫌い。特に母のアレクサンドラは、ロシア宮廷の堅苦しいしきたりに馴染めず、世継ぎも生めないことから肩身も狭く、公式行事の参加を嫌がった。
ただ夫妻はアレクサンドル宮殿に行くのが楽しみで、宮殿の裏の湖の「子どもたちの島」で、姉妹達はそれぞれ自分の家を持って遊んでいた。
末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一番性格が明るく、よく人の真似をして笑わせるのが好きな子だった。
しかし、アナスタシアが3歳になろうとする1904年2月に日露戦争が始まるが、ロシアは日本に破れ、ロシア全土で敗北への抗議が広がっていった。
その一方、同じ年8月に皇室にとって「男子誕生」の喜ばしいニュースがあった。
男の子アレクセイ・ニコラエヴィッチの誕生は、ロマノフ家に幸せを運んできてくれるはずだったが、アレクセイは「難病」を抱えていた。
そしてこの難病は、ロマノフ王朝に予想以上の暗い影をなげかけることになる。
父ニコライ2世はよき家庭人ではあったが君主としての資質に欠けていた。
そうした王室の心の隙間に入り込んだのが、怪僧ラスプーチンである。
皇后アレクサンドリアは、皇太子アレクセイの病をきっかけにラスプーチンに傾倒し、宮廷に入り込む。
ラスプーチンは最初に宮廷に呼ばれた時、ベッドのアレクセイに何事かを話しかけるや、アレクセイはたちまち元気になった。
この怪人物は、いつしか「超能力者」として見られることになり、皇后や皇女たちや、お付きの女医、さらには多くの女性の心を魅了してく。
しかし、皇后のラスプーチンへの偏愛ぶりは、ラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになる。そしてラスプーチンは、1916年についに暗殺された。
こうした王室の乱れは、ロマノフ王朝から知識人や国民を離反させ、「反体制グループ」が台頭する一因を成した。
さらに第一次世界大戦への参加により国民生活はますます困窮し、ロマノフ王朝はまさに風前の灯火となった。
そして1917年早春、ついにその日はやって来た。手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。
人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。 「ロシア革命」勃発である。
かくして2月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。
臨時政府によって監禁された皇帝一家は、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。
この頃、ニコライ2世の家族は長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。
そして1918年7月、エカテリンブルクの館にて裁判手続きを踏まぬまま、銃殺隊によって家族・従者とともに銃殺された。
だが、ロマノフ王家は滅びたものの、なぜか末娘アナスタシアだけは生きているという噂が広がった。
彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかに匿われたというのだ。
アナスタシアという名前には「復活」の意味が含まれていて、皇女アナスタシアの生存に関する書物が数多く出版された。
そしてハリウッドは、アナスタシア生存を題材にした映画を制作して反響をよんだが、そのリメイク版がイングリッド・バーグマン主演の「追想」(1956年)で、さらに有名となった。
ロシア帝国の元将軍(ユル・ブリンナー)がニコライ2世が4人の娘のためにイングランド銀行に預金つまり、ロマノフ家の遺産に目をつける。
元将軍はセーヌ川に身を投げて救助された「記憶喪失」の女性(イングリッド・バーグマン)を生存が噂されるアナスタシア皇女に「仕立て」て遺産を手に入れようする。
しかし、これはあくまでもフィクションで、人々は「アナスタシア伝説」をある種の「都市伝説」に過ぎないと思っていた。
ところ、映画の展開に合わせたかのように、一つの「衝撃的事件」が起こった。
氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。
その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。
やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、にわかには「信じられない」ことを口にし始めた。
自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女アナスタシアで、革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たと言うのである。
そして病院を抜け出した彼女は、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺をはかった。
しかし、彼女は運よく助けられることになった。
しばらくして回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのである。
事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。
足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという「身体的特徴」もアナスタシアと一致した。
それに加えて、彼女は、アナスタシア本人しか知り得ないと思われることを知っており、巷間では「アナスタ・ブーム」が巻き起こった。
その後、彼女はアンナ・アンダースンと名乗り、ドイツで「ロシア王室遺産」をめぐる訴訟を起こす。
裁判は長期化の様相をみせるが、その間彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、手厚い施し物を受けて生活することができた。
彼女は1984年に84才で亡くなるまで、自分は正真正銘のアナスタシアだと主張し続けた。
果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのか。
1991年になって、エカテリンブルク近郊で、ロマノフ家の遺骨が発掘され、 皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。
それらの遺骨は、その後の「DNA鑑定」で皇帝一家のものと判定された。
一方、アナタスシアを名乗ったアンナ・アンダーソンも、その死後10年の1994年、「DNA鑑定」でアナスタシアの一家との血のつながりは否定された。
こうして、「DNA鑑定」によって、数十年の長きに渡って論争された「アナスタシア伝説」も、ようやく幕を閉じた。
以上みたように現代の法医学は、リチャード3世の人物像の虚実を明らかにし、二人のイタリア人宣教師の生き様を露(アラワ)にし、「アナスタシア伝説」に終止符をうった。