聖書の言葉より(呪いを祝福に変える)

最近、世界の行方につき国際政治学者や軍事評論家が、引っ張りだこのように出演されている。
軍事面など専門的なことはわからないので参考になることが多いが、将来予測についてはあまりあたらないのではなかろうか。
その一つの理由は、人間は合理的に判断するという前提からぬけきれない。つまり、それを主張する論者の思考枠でしか語られないからだ。
もしも論者たちが、聖書という書物から何か教訓を得る人達であったならば、もっと違った見方をするのではないだろうか。
新約聖書にはイエスの十字架の前夜のことが描かれている。いわゆる「最後の晩餐」の場面である。
「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、”よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている”。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。
弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者(ヨハネ)が、み胸に近く席についていた。
そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、”だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ”。
その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、”主よ、だれのことですか”と尋ねると、イエスは答えられた、”わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである”。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
この一きれの食物を受けるやいなや、"サタンがユダにはいった"。そこでイエスは彼に言われた、”しようとしていることを、今すぐするがよい”」(ヨハネの福音書13章)。
ユダはイエスを売ったことで悪名高いが、この箇所で、”サタンがユダにはいった”という点に注目したい。人間には、ある"企て"がこういうカタチで生じることもあるということである。
また旧約聖書には、現在のプーチン大統領のように”頑なになってしまったエジプト王”が登場する。
紀元前13世紀頃、飢饉がおきてエジプトに寄留していたイスラエルの民が、いつしか奴隷の待遇を受けて苦しむに至り、神がイスラエルの指導者モーセをエジプトの王パロの元に送り、「イスラエルの民を去らせよ」と迫るように命じる。
しかしパロは幾度もそれを"拒絶"して、そのたびごとにエジプトで、イナゴが大発生したり、ナイル川が血の色に染まるなど、神のワザが現われる。
そしてパロは、エジプトを襲った疫病で息子を失うことにより、ついに「イスラエル人解放」の決断を下す。
この出来事の中で、聖書は、パロの度重なる”拒絶”の理由について意外なことを語っている。
「神がパロの心を頑なにした」(出エジプト記7章)というのである。つまり、パロがモーセの言葉に耳を貸さなかったのは、神がそのように仕向けたということに他ならない。
神はモーセを通じてパロに、「イスラエルを去らせよ」といわせながらも、当のパロの心をも頑なにさせ、その結果、神の力が次々に表われていき、”ヤハウェ”の名が諸民族に広まったということになる。

聖書が教えるメッセージのひとつは、この世界の出来事と霊界における「はたらき」が無関係ではないということである。
その「はたらき」が具体的にはわからないとしても、少なくとも聖書では、神の許しの下で”悪しき霊”が働いているということがわかる。
それは前述の、イエスとのユダの関係でもわかるとおり、神にとっては悪しき霊の働きこそが、ご自身の計画を実現のためにも、むしろ必要なことだからだ。
新約聖書には、ドストエフスキーの小説「悪霊」ににインスピレーションを与えた場面がある。
「さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
悪霊どもはイエスに願って言った、もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい。
そこで、イエスが行けと言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体がガケから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった」(マタイの福音書8章)。
ちなみに、ドストエフスキーは、これらの豚を当時の「無政府主義者達」の群れに見立てている。
実はこの豚の群れの湖への突進事件は、イエスがガリラヤの地に着いた時に起きたことで、それは悪霊につかれた二人の者と出会う場面からはじまっている。
この二人は手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることができない程であった。
彼らがイエスに出会った直後に、イエスに「叫んだ」内容が興味深い。
「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきてわたしどもを苦しめるのですか」。
この言葉の中にある「まだその時ではないのに」の「その時」とはいつを意味するのだろう。
悪霊達は自分たちが決定的に滅ぼされる「その時」が来るのを知っているようだ。
また別の福音書に、「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」(「ルカの福音書」8章)ともある。
悪霊達がイエスに「豚につかわせてください」と願ったのも、決定的な「その時」からなんとか逃れよう、あるいは「その時」まで働くことは認めてあるはずだというニュアンスだ。
また、新約聖書の他の福音書には、カペナウムでイエスが「権威ある者のように」会堂で教えられた場面がある。
ちょうどその時、「けがれた霊」につかれた者が会堂にいて、叫んで次のように言った。
「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」。
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った(「マルコによる福音書」1章)とある。
この箇所でわかることは、世の人々がいまだ「イエスの正体」をヨミきれていない時、悪霊はハヤバヤと、「イエスの正体」を知っていたということだ。
ちなみに当時の人々は、豚が湖に突進するなどイエスの不思議なワザについて「悪霊のカシラ」だから悪霊を追い出せるなどと語っている始末である。
そして「イエスの正体」を正しく見抜いた悪霊達は、ここでも「滅ぼされる運命」にあることを知って、イエスをいたく恐れている。
悪霊はいつしか「底なしの淵へ行く」自分達の運命を知っている。つまり、悪しき霊は神の許容の下で働いているということである。
ちなみに、悪しき霊が滅ぼされる「底なしの淵」については「ヨハネ黙示録20章」に描かれている。

十字架や茨(いばら)の冠の意味するところは「のろい」である。つまりイエスは「呪われた」存在として刑死したということである。
しかしパウロは「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かであるが、私たち救われる者にとっては神の力である」(「コリント人への手紙」1章)と語っている。
またパウロは、神の計画にとって「尊くもちいられる器」と「卑しく用いられる器」とがあるということを書いている。
それは、イスカリオテのユダの裏切りも、エジプトのパロの頑なさも、神の計画にとっては必要なことであり、彼らは「卑しく用いられた」ということになる。
ところで旧約聖書は新約聖書の「ひな型」という関係にある。具体的には「出エジプト」において、旧約のエジプトは新約における「この世」、旧約の蜜の流れるカナーンの地は、「神の国」の「ひな形」ということである。
新旧の契約の大きな違いは、旧い契約が「イスラエルの民」と結ばれたのに対して、新しい契約の方は広く「人類」と結ばれたということである。
いいかえると、神との契約の対象が選民たる「イスラエル(ユダヤ人)」から「異邦人」に広がったということだ。
ちょうど「パロの頑なさ」がヤハウェの神の名を広げたように、イスラエル人の「心の頑なさ」さが、「福音」を異邦人へと広げていくのである。
もっといえば、エジプト王パロの「かたくなさ」がユダヤ教成立の契機となったように、今度はイスラエルの民の「かたくなさ」が、キリスト教成立の契機となるのである。
イスラエル人は、イエスを「十字架につけた」人々であるから、在世していた当時のイエスの「本質」を全く見誤っていた。
しかしイエスの死後50日め(ペンテコステの日)に聖霊が降り、人々は「あのイエス」が旧約の預言者たちが指示した「メシア」であることを、使徒達の復活の目撃証言などを通じて知り始める。
イエスは、「十字架」に向かう前に、この点について次のように語っていた。
「聖霊はあながたにすべてを教え、また私が話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。
私は 平安をあなたがたに残していく。私の平安をあなたがたに与える。私が与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」(「ヨハネの福音書」14章)。
彼らは、イエスの一つ一つの行動を振り返ってみて、イエスの出来事が旧約聖書でなされた「預言」の成就であることをベールが剥がれるように理解しはじめたのである。
しかしイスラエル人にとって「イエスが預言に応じて顕われたメシア」であることを受け入れることは、自分達の犯した過ちや誤りを認めることである。
一般に自分の「過誤」を認めることは、人間が一番出来にくいことであり、イスラエル人の多くは「イエスがメシア」であることを受け入れなかった。
しかし聖書には、神がイエスを十字架につけたというイスラエルの「過ち」を、けして「過ち」のままで終らせはしないことを預言している。
聖書では、「血を流すことなくば罪が赦されることはない」とある(「ヘブル人への手紙」9章)。
そのため旧約聖書において、イスラエルの祭司は「燔祭の子羊」を神殿に捧げていた。
人類の救済という神の計画においては、「イエスの十字架の死」はどうしても必要なことであり、ユダヤ人は「過ち」を犯したというよりも、むしろな歴史的な「大役」を果たしたともいえるのである。
ヨーロッパに広がったキリスト教社会では、ユダヤ人は「イエスを十字架に架けた」民族として差別されるが、実はこの「十字架の死」で血を流すという「罪の贖い」がなければ、イエスの教えが「福音」となる「キリスト教」が成立することもなかったのである。
ローマ総督ピラトの民衆への念を押すような問い「バラバを許すか、イエスを許すか」に対するユダヤ人の答えは、「イエスを十字架につけよ」であった。
この答えこそ、人類の「罪の贖い」を実現し、人類と神との「新しい契約」の根拠となったのである。
民衆がバラバを十字架をつける方を選んでいたならば、単なるローマへの反乱分子が一人死んだだけのことである。イスラエルは「正しく」誤った。
つまり、ユダヤ人が「イエスを十字架」にかけたという「過ち」こそが、実は人類に「富」をもたらしたのである。
パウロは「ああ深いかな、神の智恵と知識の富とは。そのさばきは究めがたく、その道は測りがたい」(「ローマ人への手紙」11章)と語り、イエスを十字架につけた彼ら(イスラエル人)について次のようなことを語っている。
「彼らがつまづいたのは、倒れるためであったのか。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
しかしもし、彼らの罪過が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことろう」と語っている。
そしてパウロは、イスラエル人が実際に「顔覆い」がとられ、回心し救うわれる時がくることをも預言している(「コリント人への第二の手紙」3章)。
もともと熱心な律法学者であったパウロは、キリスト教の迫害者であり、「クリスチャン」の名乗る人々を捕縛するためにダマスコの街に乗り込もうとした。
その時、目が見えなくなるほどの強烈な光を浴び、「あなたの迫害しているのは私である」という神の言葉を聞いて、劇的な回心を果たす。
パウロはそれまでの自分を「その当時はキリスト無く、またイスラエルの民籍に縁無く、(従ってアブラハムとその子孫に対する神の大なる)約束に基づく種々な契約にも与らず、この世において希望なく、また神無き人であった」(「エペソ人への手紙」2章)と語っている。
こうして回心したパウロは、その後も「救いはユダヤ人のもの」であると思い込んでいた。
ところが、異邦人が聖霊をうけて祈る異言の言葉を聞いて、「異邦人」がイスラエル人と同じく「神の救い」にあづかることを目撃した(「使徒行伝」10章)。
パウロはこの時以降、神の救いを拒絶するイスラエル人よりも、「異邦人伝道」に方向を変えて力をそそいでいく。
それは一見、イスラエル人を忘れたかのようであったが、パウロの「本心」は決してそうではなかった。
パウロは「かえって、彼ら(イスラエル人)の罪過によって救いが異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためであり、神は、イスラエルの不信仰の罪を、むしろその恵みの福音(救い)が異邦人の世界すなわち、全世界に伝達される驚くべき機会とされたのである」(「ローマ人へ手紙」11章)と語っている。
そしてパウロは、「キリストこそ約束のメシア、万民の主であることを悟り、彼ら(イスラエル人)もまた悔い改めて、熱心に神を求め、キリストに立ち返る時が来る」ことを預言している。
神は、決してイスラエルを見捨ててはおられず、神は彼らの過誤や罪でさえも、神の栄光の顕われる機会としたのである。
ところで「ユダヤ人の歴史」と「人類の未来」が、深くかかわっているということは、聖書全般の歴史観である。
そういう意味でユダヤ人は「神に選ばれた民」であるということに変わりはない。
この点につき、パウロは自ら「奥義」と断ったうえで、次のように語っている。
「兄弟たちよ、あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに到る時のまでのことであって、こうしてイスラエル人はすべてすくわれるだろう」(「ローマ人への手紙」11章)。
異邦人が全部救われるというのは、より厳密な翻訳では「異邦人の数が満ちた」時、すなわち異邦人の中で救われる人々の数が満たされた時に、歴史は次の段階に移行する。
それは「イスラエル人の救い」の時代であり、「ヨハネ黙示録」では、「生みの苦しみ」の時代を経てようやくユダヤ人がイエスを神と認めるに至り、「神の国」が到来すると預言している。
神は人類の罪や過誤でさえも自身の栄光の顕われんとする機会とされたが、そのことを聖書は「呪いを祝福に転じる神」というかたちで表現している。
「あなたの神、主はあなたのために、そののろいを変えて、祝福とされた。あなたの神、主があなたを愛されたからである」(申命記23章)。
この世に働く「悪しき霊」は、イエスを呪のシンボルである十字架に掛けた段階で、その「勝利」に酔いしれたかもしれない。
しかし神は、ユダヤ人が「救世主」を十字架につけてしまったという「罪」でさえも、その血によって贖いを成就させ、さらには「復活」という大逆転によって「福音」に転じさせたのである。