水爆とゴジラと日本人

2021年3月21日、第五福竜丸の元乗組員で最後の生存者、大石又七さんが亡くなった(87歳)。
1954年に米国により広島型原爆1000個分以上の威力を持つ水爆の実験が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行われた。大石さんは、被曝した静岡のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員で、核廃絶を訴える活動を続けていた。
広島・長崎以降初めての被爆といわれるが、厳密にいうとそれ以前にビキニ環礁の水爆実験の被爆した日本船舶がある。それは「戦艦長門」。
時代がズレテいると思われるかもしれないが、長門は1945年8月30日に、連合国軍のひとつの国のアメリカ軍に接収され、1946年7月のクロスロード作戦の「標的艦」となった。
「クロスロード作戦」とは、要するに「核実験」のことで「第一実験」「第二実験」に使われた。第二実験では爆心地から900~1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも「長門」は海上に浮かんでいた。
しかし、4日後に同艦の姿は海上には海上になく浸水の拡大によって沈没したものと見られる。
「第五福竜丸事件」では乗っていた23人の乗組員全員が被曝。半年後に無線長久保山愛吉さんが死亡し、大石さんも後遺症に苦しんだ。
大石さんの講演回数は700回を超え、米国でも証言した。原動力になったのは、かつての仲間が若くして亡くなっていくことへのやりきれなさだった。
大石さん自身もわが子の死産を経験し、「マグロ塚」という石碑を東京築地に設置する活動にも熱心だった。
福竜丸以外にも延べ約1千隻の漁船から放射能が検知された魚が見つかり、魚は捨てられた。
ビキニ環礁で主婦達にとって政治や外交や思想の問題ではなく、生活そのものであった。
そこに素早く反応したのが、東京杉並の主婦たちの小さな学習会「杉の子会」である。
「杉の子会」は、元・東大教授の安井郁をリーダーに、社会科学書をテキストとした「学習会」で、わずか1年間の間に国内3000万人、全世界で7億の原水禁の署名を集めた。
つまり、世界に広まる原水禁運動の始まりは、日本の主婦たちの運動であった。
ところで、日本人女性で「部分的核実験禁止条約」の制定に貢献した科学者がいる。
日本における女性科学者の草分的存在である猿橋勝子。
猿橋は小学生のときに校舎の窓ガラスを流れ落ちる雨粒を見て、なぜ雨は降るのだろうという疑問を抱いた。彼女はその答えを求めて、探求の旅に出る。
専門分野は海洋化学。海水の炭酸濃度に関する先端的な研究を行い、1957年に東京大学で女性初の理学博士号を取得した。
猿橋の人生を大きく変えたのが生涯の師・三宅泰雄。
猿橋は三宅とともに研究室で核実験からの放射性降下物の研究を開始し、海水中の人工放射性元素の測定を世界に先駆けて行った。
もともと「気象庁気象研究所」に勤務し、専門は地球科学だった。
アメリカにおいて、ビキニ環礁で行われたの水爆実験による海水汚染データ分析に着手するが、当初「大事なサンプルを女性に任せられない」と他の男性研究者から反発された。
最終的には、猿橋の分析技術の高さが証明され、放射性物質汚染データの解析を任されることとなった。
すると、猿橋の分析結果から、海洋汚染濃度はアメリカが発表していた数10倍であることが判明し、核開発を進めていたアメリカは猛反発した。
アメリカのボーリング博士は「水爆はクリーンな爆弾である」と宣伝していた。その後、猿橋はアメリカで現地の研究者との分析競争を行い勝利。
核兵器開発による大気・海洋の放射能汚染がいかに危険であるかを証明した。
猿橋は気象庁気象研究所の一員として、水爆実験による放射性降下物が実験区域から1000キロの海域でも認められることを突き止めた。
さらに、放射性物質が風と波によって海上を運ばれる時間を算出した。
猿橋は1962年この研究結果をアメリカで発表するため、カリフォルニア大学サンディエゴ校のスクリップス海洋学研究所に招かれた。
木造小屋が研究拠点の日本のほうが、放射性降下物の測定技術ではアメリカより正確であることを示した。
猿橋の研究成果は1963年、地下を除く大気圏内、宇宙空間、水中での核爆発を伴う実験を禁止する「部分的核実験禁止条約」の成立につながった。
海洋化学と放射能の影響の研究に多大な業績を残し2007年9月に亡くなった。
海水中の炭素は、いま地球温暖化で問題となっている地球上の炭素サイクルの重要な部分を占めている。昨年のノーベル物理学賞授賞の眞鍋淑郎は、コンピュータを駆使した「気候変動モデル」の構築だった。
猿橋は1955年の論文で、水温、酸性度、塩素量の違いによる炭酸物質量の変化を計算表として示した。
これは後に「サルハシの表」と呼ばれ、コンピューターが普及するまで30年間にわたり海洋学者の助けとなった。
1980年には女性初の日本学術会議会員に選ばれ、優れた女性科学者に贈る「猿橋賞」を創設するなど、後進の育成にも力を尽くした。

1966年、水爆4発を積んだがB52が空中給油機と空中衝突して墜落した。水爆は3発がスペインのパロマレス近郊の農地に落ち、1発は近くの海中に落ちた。
幸い核爆発はしなかったものの、2発は猛烈な放射線を放ちかつ毒性をもつ核物質のプルトニウムが漏出したが、米軍により除染、土壌の入替が行われた。
スペインの観光大臣がビーチで泳いで見せて安全をアピールする事態になった。
この実話を元に作られたのが「魚が出てきた日」(1972年)。知性派女優として名をはせる若き日のキャンデイス・バーゲンが出演している。
ストーリーは1972年ギリシャの小さい島に2人のパイロットが不時着する。飛行機に積んでいた2個の原爆と1個のケースを彼らは落下させておくが、原爆は海中へ、ケースはその島のどこかに落ちた。
当局に連絡を取ろうとするパイロットたちをよそに、山羊飼いの夫婦にケースが拾われた。
しばらくして軍関係者が変装して島に上陸、遺跡を求めて考古学者たちも現れる。
増え始める観光客たち、島民は予期せぬ賑わいに色めき立つが、そんな中、変形した魚の死体が海面に浮かんでいるのが発見される。
日本でも最近、現実とフィクションが交叉するような記事がでていた。
2022年1月14日、海底地形を決める国際会議で、怪獣映画「ゴジラ」の名を冠した海底地形の名前が承認された。
その名も「ゴジラ・メガムリオンン地区」で、「メガムリオン」とは、地殻の下のマントルが海底面にできたドーム状の高まりのこと。
東京都の約3倍の面積があり、ゴジラの形状そのもではないが、地球最大のメガムリオンとされる。
2001年に政府による大陸棚確定会議で発見されて以降、研究グループの研究者らの間で、「ゴジラ・メガムリオン」と呼んでいたが、国際機関が共同で設置する「海洋地形名小委員会」で登録名として承認された。
ゴジラは海からでてきた世界的怪獣であるからだ。
2014年は「ゴジラ生誕60年」にあたるため様々な特集が組まれた。
東宝映画で「ゴジラ」企画は前からあったが、1954年版「ゴジラ」は、この第五福竜丸事件に着想を得ている。それは、機関士長の久保山愛吉の死から2ヵ月後のことであった。
また1954年版「ゴジラ」の制作指揮をとった円谷英二チームの中には、北海道出身でゴジラの音楽担当の伊福部昭や福岡県の古賀市出身で、ゴジラ特撮シーンでデザインを担当した井上泰幸や、という優れたプロフェンショナルがいた。
伊福部昭の名言に「真にグローバルたらんとすれば真にローカルであることだ」や「香水は物凄く臭いものから作られる」などがある。
その音楽は、日本の音楽らしさを追求した「民族主義的」な力強さが特徴で、それは氏が作曲した「ゴジラのテーマ曲」にもよくあらわている。
伊福部は、1914年、北海道釧路町(釧路市の前身)幣舞警察官僚の息子として生まれた。
小学生の時、父親が「河東郡音更村」の村長となっため、音更村に移るが、ここでアイヌの人々と接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。
伊福部に代表作の一つ、「シンフォニア・タプカーラ」(1954年)は、この時のアイヌの人々への共感と、ノスタルジアから書かれたという。
中学入学後、絵や音楽に関心を持ち、バイオリンを独学で始め、本格的に作曲も始めた。
18歳で北海道帝国大学農学部林学実科に入学し、文武会管絃学部のコンサートマスターとなり、さらに、「札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団」を結成し、「国際現代音楽祭」と称して、時代の最先端を行く作品を演奏・紹介した。
大学を卒業後に、北海道庁の厚岸森林事務所に勤務するが、アメリカの指揮者の依頼により作曲した「日本狂詩曲」(1935年)をパリで行われた或るコンクールへと送った。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため、伊福部の楽譜も東京へ届けられた、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、否定的評価を下していた。
西洋音楽の和声の禁則を無視し日本の伝統音楽のような節回しが多いこと、極端な大編成であるオーケストラが要求されること、さらには北海道の厚岸町から応募したなどが背景にあった。
そして、正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だからという理由で、伊福部の曲を応募からはずそうという意見サエも出たという。
しかしフタをあけて見ると、伊福部が第1位に入賞し「世界的評価」を得ることとなる。
また、円谷が福島原発近くで生まれたことと等しく、伊福部が「放射線の研究」に携わっていたのも「奇遇」といってよい。
伊福部は31歳のとき、林野局林業試験場に戦時科学研究員として勤務し、放射線による航空機用木材強化の研究に携わったことがある。
当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続けたという。
終戦となったある日、突然血を吐いて倒れたが、医者には結核や過度の電波実験による毛細管の異状などと言われただけだったと述懐している。
終戦後に自宅で療養しなんとか健康を回復し、その後東京音楽学校(現東京藝術大学)に作曲科講師として招聘された。
また1947年、33歳のとき、東宝プロデューサーから依頼され映画音楽を担当するようになった。
ところで、「伊福部」といえば、古代因幡国の有力な豪族として知られ、因幡国造に任ぜられたとの伝承をもつ家柄である。
現在の鳥取県の宇倍神社の神職は、古来より明治の初めまで伊福部家が務めていた。
その職務や名の由来として、笛を吹く部、天皇の御前の煮炊きをする職などいくつかの説があり、“気を変化させる力”を持ち「気をつむじ風に変化させるが故に気吹部の性を賜った」というのである。
「ゴジラ」のテーマ曲を作るのにいかにも相応しい家柄で、この伊福部家の子孫が北海道で「アイヌ文化」と接して、独自の「音楽」をうみだしたのである。
また映画界における「ミニチュア特撮のパイオニア」といわれる井上泰幸は、1922年福岡県小野村(現古賀市薦野)で生まれた。
中学卒業後、高千穂製紙に1年間勤めた後、徴兵され長崎の海軍軍需工場へ。
そこで兵器の図面をひたすら引く生活を送った後、南方へ出兵。航海中、敵飛行機に狙われた少年兵を助けた際に左足を失ってしまう。
終戦まもなく、小倉の傷痍職業訓練所で、傷痍軍人学校で家具の作成を学んだ後上京する。
たまたま東宝撮影所の近くに下宿していたため、撮影所に入り浸たりしてミニチュア作りのアルバイトをしていたところ、当時の美術課長に軍事工場時代に鍛えた製図の正確さと、家具職人として培った造型の腕を見込まれて東宝に入った。
軍艦の知識があったため、リベット一個一個の位置に到るまで正確に書き込んだ。全部署に共通の精密な一枚の図面を引くことでこれに応じ、その技術力が高く評価され、説得されての東宝入社となった。
『ゴジラ』をはじめとする怪獣映画では、実在のビルディングや街のミニチュアが多数登場するが、図面の提供を断られることも多いが、『空の大怪獣 ラドン』では、井上らは実際に博多の街を歩き、歩幅や敷石の枚数を記録し設計図を引いた。
幼少の頃この映画をみて「土井カメラ」や「ナイルカレー」の店の看板が見えて大喜びした記憶がある。
近年では、貴重な資料とインタビューを集めた「特撮映画美術監督 井上泰幸」が話題を呼び、再評価の動きが出だした。しかし井上は、出版のわずか2か月後亡くなった。
東宝撮影所における、いわゆる「円谷組」が決して一枚岩ではなく、井上泰幸が円谷英二らと衝突を繰り返して初めて東宝特撮映画の名作群が誕生した事をこのノンフィクションは語っている。

「第五福竜丸」の事件に触発されて作られたもうひとつの映画が、黒澤明の「生きものの記録」(1955年)である。
鋳物工場を経営する老人が家族皆でブラジルへ移住しようと突然言い出す。南米なら原水爆の放射能から逃れられるというのだ。
家族は、ワンマン社長の頭がツイニおかしくなったと、猛反対する。
確かに、老人の言っていることは、全く間違ってはいないが、家族にとっては目前の日常生活をいかに過ごすかの方がハルカに大切なことなのだ。
一家の財産を老社長に任せておいては大変な事になると、法律に訴えて老社長の権利を全て剥奪して「準禁治産者」としてしまう。
ところで江戸時代の歌舞伎「白波5人男」が、戦隊物「ゴレンジャー」の元となっているが、ゴジラは「能」の文化と結び付いている。
野村萬斎、狂言師。はじまりは黒澤明だった。まだ野村萬斎ですらなかった17歳のとき、本名の野村武司で『乱』に出演。シェイクスピアの『リア王』を戦国時代に翻案した作品で、主人公を破滅させる少年・鶴丸を演じた。
人気映画にも主演して、羽生結弦以前は、安倍晴明と言えば野村萬斎だった。
実は野村萬斎が、映画『シン・ゴジラ』(2016年)において、主人公を演じている。
新ゴジラの正体は、なんと狂言師だったのだ。とはいっても、ぬいぐるみの中に入っているわけではない。
現実の人物や物体の動きを、デジタル的に記録する「モーションキャプチャー」が使用され、本作では野村の動きをフルCGで作成したゴジラに反映させているという。
本家・東宝が12年ぶりに制作した『シン・ゴジラ』は、『エヴァンゲリオン』シリーズの庵野秀明氏が脚本・総監督、監督・特技監督を『進撃の巨人』の樋口真嗣氏が担当。現代の日本に出現したゴジラが、戦車などからの攻撃をものともせずに暴れる姿を描く。
野村萬斎は樋口監督から電話でオファーを受けたことを明かし、「日本の映画界が誇るゴジラという生物のDNAを私が継承しております。650年以上の狂言のDNAが入ったということを大変うれしく思っております」と歓喜。
さらに、「わざわざ私に白羽の矢を立てていただいたのは、狂言や能の様式美というものを意識されたと思う。無機的な、人間臭いというより神、幽霊、怪物のような侵しがたい存在感を期待されたと思うので、チョロチョロ動くよりどっしり動いた」とこだわりを明かしている。

「実際にはゴジラの面もつけまして、顎を動かす面の使い方を意識した」と語っ しかしアメリカ人の観光業者がホテルを建設する、ということで村長たちは 「自分たちにもツキが回ってきた」と大喜び。 このことを全国紙に話し、 「過疎状態の島に観光ホテルができる」と記事になる。 これがキッカケとなり、外国人やギリシャ人の大勢のツーリストたちが一気に島に押し寄せてくる。 さらに観光業者を装ったアメリカ人軍人たちが雇った島民が、道路を整備しているとギリシャの古代遺跡が発見される。今度はこれがキッカケになり、各国の考古学者たちも島に押し寄せる。 この流れが面白おかしく、大笑いします。 核兵器回収に務めるアメリカ人の軍人たちについても、皮肉たっぷりに滑稽に描いており、吹き出すシーン満載。「オースティン・パワーズ」の10倍は笑いました。
そのことにとても興味があるんです」  現代劇に積極的であり、劇場の芸術監督まで務めるのはそのせいなのだろうか。 「なにになりたいかというと、もちろん、狂言師です。ただ、母の影響もあって、現代アーティストでありたいという思いも強いんです。でも、そういう場に出ていくと、“君は伝統芸能の人だから”と区別される。特殊な世界だから関係ないといったような」  彼の母・阪本若葉子は現代詩の詩人である。余談だが、その一族には永井荷風や高見順がいる。 「能狂言は特殊な技術を身につけなければできない芸能ですから、確かに特殊ではあります。でも、そこからでも現代アートに絡めると信じてきたし、開きを埋められると思っています。そのためにはどうしたらいいか。それを常に考えてきました」 …1966年生まれ。狂言師。70年初舞台。94年に野村萬斎を襲名。97年連続テレビ小説「あぐり」出演や主演映画に『陰陽師』シリーズ(01、03年)、『のぼうの城』(12年)などがあるが、2016年『シン・ゴジラ』では、モーションキャプチャーによるゴジラ役を演じた。祖父・六世野村万蔵、父・野村万作はともに重要無形文化財各個指定保持者(人間国宝)。 女性が理系の道を選ぶことも困難な時代に、地球化学の分野で世界的な業績をあげた猿橋勝子氏。東邦大学理学部の前身である帝国女子理学専門学校のご出身で、物理学科の第1回生であります。 略歴 大正 9年 3月22日 東京に生まれる 昭和16年 帝国女子理学専門学校創立 第一期生として物象学科に入学する 昭和18年 帝国女子理学専門学校物象学科卒業 中央気象台に就職 昭和32年 理学博士の学位取得(東京大学) 化学系で女性初の理学博士となる 昭和33年 「日本婦人科学者の会」(現:日本女性科学者の会)の設立に携わる 昭和42年 ~平成3年 学校法人東邦大学理事、客員教授 昭和55年 日本学術会議会員に女性として初めて選ばれる 「女性科学者に明るい未来をの会」を設立 「猿橋賞」創立 昭和56年 エイボン女性大賞を受賞 昭和60年 三宅賞(日本地球科学協会)を受賞 平成19年 9月29日、87歳で逝去 帝国女子理学専門学校 帝国女子理学専門学校