ジャマイカの魂

ジャマイカといえば、世界最速の男ウサイン・ボルトの故郷、ブルーマウンテンコーヒー、そしてレゲエの聖地としても有名な、カリブ海に浮かぶ島国。
日本との関わりでいえば「下町ボブスレー」が記憶にある。雪も氷もないジャマイカで日本の下町の工場と組んでオリンピック出場をめざす話である。
さてジャマイカには11C頃までに現在のオリノコ川流域からカヌーで移住してきた先住民タイノ族が定住し、漁労、採集を営みながら生活していた。
1494年5月にスペインの探検家がハマイカ(スペイン語でJamaica)に上陸して、1509年にスペイン人のコンキスタドール(征服者)フアン・デ・エスキベルによって征服され、島をハマイカからサンティアゴに改名した。
しかし10万人いた先住民は疫病、奴隷制度、および戦争によって絶滅してしまい、1517年スペインはジャマイカに最初の黒人奴隷を連行した。
16C半ばから約100年は、いわゆる「パイレーツ オブ カリビアン」の時代で、ジャマイカは多くの海賊による攻撃を受けることがあった。
1642年にイングランドでピューリタン革命が勃発し、クロムウェルが護国卿に就任して、オランダとの海上覇権を巡る争いで勝利した後に「西方計画」を発令し、イギリス海軍提督ペン(ペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ将軍が侵攻、この島を実効支配した。
クロムウェルは征服したアイルランド人年季奉公人をジャマイカやバルバドスに送り込んだため、現在もジャマイカの地名や人名には「アイルランド」の影響が見られる。
ジャマイカには、マルーン(逃亡奴隷)による反乱がたびたび起き、1807年英国議会はアフリカとジャマイカ間の奴隷貿易を廃止した。
その後、黒人のキリスト教牧師が反乱を指導するなどしたため、1833年英国議会で奴隷制度廃止法案が可決され、その5年後に徒弟制度も廃止され、黒人は貧しいながらも完全なる自由を獲得した。
ただ、黒人のほとんどが丘陵地帯に定住して、所有する狭い土地を開墾する道を選んだため、大農園の所有者たちは安価な労働力を新たに他から得なければならなくなった。
このため1840年代から1910年代にかけてインド、アフリカ、中国(清)から年季奉公の契約労働者がジャマイカにやってくるようになり、ジャマイカには約4万人のインド人と約1万人のアフリカ人が流入した。
その後、黒人や有色人種の政治参加を排除するために植民地議会制度が廃止され、ジャマイカは王領直轄植民地となった。
1872年には首都を港湾都市として発展したキングストンに移した。
この頃からバナナ・プランテーションがアメリカ合衆国資本によって開発され、バナナが砂糖(サトウキビ)に代わって重要な輸出商品となった。
しかしこの転換のために多数のジャマイカ人労働者が失業し、アメリカ合衆国やキューバ東部、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、パナマ地峡などのカブ海沿岸に移住した。
現在も中央アメリカのカリブ海側に英語を話す黒人が多いのはこのためである。

平和と解放を込めた歌といえば、ボブディランや喜納昌吉を思い浮かべるが、ボブ・マーリーもまた「レゲエ」を通じて、平和と愛のメッセージを世界に伝え「レゲエの神様」とも称される。
音楽が救いをもたらすといえば「アメリジング・グレイス」がよく知られるが、その作者はイギリス奴隷商人であり、ボブ・マーリーは奴隷の子孫であり、自らの曲によって解放され、自由の身になってもなお、奴隷としての精神的呪縛は簡単には解かれないということもよく理解していた。
ボブマーリーは 1945年2月6日、ジャマイカの北の海岸に位置するセント・アン教区、ナイン・マイルズで、白人のイギリス海軍大尉の父とジャマイカ人の母との間に生まれた。
父親はボブが生まれた後、すぐに行方をくらまし、ボブは母親とナインマイルズで幼少期を過ごした。
混血児であったボブは白人社会からも黒人社会からもヨソ者扱いされ、少年期に深い孤独感を味わった。
だがこのことは、後年彼が世界中の人々に肌の色の違いを超え、同じ人類として生きようと訴え続ける強い動機となった。
10歳の時に父が死去し、経済的援助が途絶え、キングストン郊外のトレンチタウンに移り住む。
トレンチタウンはいわゆるスラム街で当時は「ルード・ボーイ」と呼ばれるギャングが横行していた危険な地帯であった。
しかしボブはこの街でバニー・ウェイラーと出会い、共に音楽活動を始めていく。そして音楽に専念する為に14歳で学校を中退し、17歳でオーディションに合格、その後「ウェイラーズ」を結成した。
「No Woman, No Cry」の歌詞から、この頃の生活の一端を知ることができる。
♪5人の若者が集まって、焚火を囲んで暖をとっている。朝晩は結構冷え込み、煤けた鍋を焚き火にかけてお粥を作る。取り分ける皿など無いので、そのまま鍋ごと回して皆で分け合った。
こんな路上生活の中で何人もの仲間が倒れていった。何とか今日も生き延びたが、明日もまた同じ繰り返しなの?夢も希望もないこの生活が♪、といった内容である。
そんな彼らにとっての唯一の慰めは「壊れかけのラジオ」だったといえよう。
第二次世界大戦後から、ジャマイカではラジオの購入者数が増加し、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ局から、R&Bを聴くことができたし、アメリカ軍の駐留は、軍事放送を通じてアメリカ音楽を聞くことができた。
そして1960年代初め、「スカ」が急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめた。そのアップテンポの裏打ちは、1962年の「ジャマイカ独立」を祝う気持ちと一致していた。
「スカ (Ska)」 は1950年代にジャマイカで発祥したポピュラー音楽のジャンルで、2、4拍目を強調したリズムが特徴である。
「スカ」の発祥については諸説あるが、感度の悪いラジオであったため、アメリカ・ニューオーリンズなどのラジオ放送局からのジャズの2・4拍目が強調されて聞こえたため、誤ってコピーされたという説もある。
1964年ニューヨークで開催された国際見本市において、「スカ」は「ジャマイカン・ジャズ」と説明された。
「スカ」は聞きなれないが、「東京スカパラダイスオーケストラ」の名に、それが表わされている。
日本の柔道がブラジルに伝わって「ブラジリアン柔術」となったようなものか。
さてボブマリーら「ウェイラーズ」は、1962年、デビュー・シングル「Judge Not」をリリースした。
そして翌年「Simmer Down (シマー・ダウン)」という曲を発売するや、地元ラジオで1位を獲得、売り上げも8万枚を突破し大ヒットとなる。
これは「スカ」の曲調で、暴走するルード・ボーイ達に「カッカするなよ。落ち着けよ」と呼び掛ける、今までにない異例のメッセージ曲であった。
しかしボブたちは全国的に著名でありながら経済的には常に困窮しており、仕事がなく犯罪へと走る都市部の若者達と社会への不満を共有していた。実際に、ボブは相変わらず路上生活をしていたのだから。
ところで、アフリカのエチオピアは世界最古のキリスト教国。旧約聖書でソロモン王の叡智を聞きに訪れた「シバの女王」は、エチオピア出身で、二人の間に生まれた子が初代エチオピア国王となったとされる。
1930年、最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が即位したが、その即位前の名「ラス・タファリ・マコンネン」から「ラスタファリアニズム」という独自の生き方が生まれる。
アフリカ回帰をうたう宗教「ラスタファリズム」で、ラスタ教の信者(ラスタマン)はいつの日か人類発祥の地である、母なる大地アフリカに帰ることを夢見ている。
ところでジャマイカには、1870年頃からアメリカ南部のバプテスト教会から宣教師がきて、聖書の教えの影響を受けている。
「ラフタリズム」は、世界に離散したユダヤ人が聖書の預言に応じて故郷に帰還する「シオニズム」を思わせるものがある。
19歳になった頃、ボブもまた「ラスタファリズム」に目覚める。そして21才の頃、ボブは音楽活動をしつつ溶接工の仕事につき、恋人のリタと結婚する。
リタは後に「夫(ボブ)は少年時代から二つの世界に引き裂かれて悩んでいた。だから自分のルーツを人類の起源の地と言えるアフリカに求めて、宗教や人種を超えたメッセージを歌に込めたの」と、述懐している。
「ラフタ教」においては、髪を切らずに「ドレッド・ヘア」という縄のれんのような髪型をしているのは、自分の肉体に刃物を当ててはならないという戒律があるからだ。
これは、旧約聖書の怪力男サムソンの「ナジル人の誓い」(民数記6章)を思わせる。
またボブマリーの歌の中では、私とあなたの事を“ I & I ”と表現している。ラスタマンの表現には、”You”というものがないからだ。自分と他者を分けず、人類は皆“ I ”というわけだ。
このように「ラスタファリア二ズム」とは、聖書を聖典としているが特定の教祖、教義も成文化されてはいない。
特徴的な信仰は、先述の「アフリカ回帰主義」。生活様式としては、体に刃物を入れる事を嫌うため髪を切らない「ドレッドロックス(ドレッドヘアー)」という、あの独特なヘアースタイルのことである。
「アイタルフード」と呼ばれる食事が主の菜食主義。肉を食す事は禁じられている。
そしてガンジャ(大麻)を吸引することで、大麻を神聖なものと捉えていた。当時も非合法であったが、社会への抗議、反抗の手段として使用され、日本でのイメージとは異なる。
そして信仰や生活に「レゲエ」という音楽がクロスする。彼らがロレードマークとする「トレッド・ヘア」に、鮮やかな「ラスタ・カラー」といわれる赤、黄、緑の色が施されているが、この「トリコロール」にもそれぞれ意味がある。
赤は燃える血を、黄は輝く太陽を、緑は豊かな大地を表し、ここでもアフリカ回帰が強くイメージされている。
ただレゲエ・ミュージシャンの誰もが頭をドレッドにするわけではなく、彼らの中のラスタ教徒だけが、ドレッドにするのだ。
その、物質主義は否定した生き方は、聖書に登場する洗礼者ヨハネが属したといわれる「クムラン教団(エッセネ派)」を想起せる。
洗礼者ヨハネは、「らくだの皮衣を着、腰に革の帯をしめ、いなごと野蜜を食べ物とする人物」と記述されている」(マタイ福音書3章2節)。
さて、ボブマーリーが結婚して安定した時期(1960年代後半)、ジャマイカは政情がひどく不安定な状況に陥っていく。
右派と左派の政治抗争はそれぞれの党の支持者同士の武力抗争に発展し、この争いではマシンガンどころか戦車まで登場した。
憎しみの連鎖が次々と暴動を産み出し、多くの人が殺され、首都は世界で最も危険な区域となった。
キングストンは悲惨な暴力と無秩序の町へと変貌してしまった。
ボブは、若者を生活苦に追い込んでいるのは政治家なのに、若者がその政治家の為に殺しあう構図に、やりきれない思いにかられる。
そんな焦燥の中にあったボブが30歳の頃、「レゲエ」サウンドが世界を席巻する。
エリック・クラプトンがカバーしたボブの曲「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を獲得したからだ。 同年、アルバム「ナッティ・ドレッド」を発表。英国や米国のロック雑誌でも絶賛される。
翌年にシングル発表した「ノー・ウーマン・ノー・クライ」も世界的大ヒットを記録。
ボブは、第三世界を代表する「スーパースター」と呼ばれるようになる。
そして1976年、ジャマイカのャマイカでは与党「人民国家党(PNP)」と野党「ジャマイカ労働党(JLP)」 の対立で、政治的緊張が頂点に達していた。
ボブは、平和を取り戻すきっかけを作ろうと無料の「スマイル・ジャマイカ・コンサート」を計画するが、二大政党の対立抗争に巻き込まれ、狙撃されて重傷を負う。
翌日のコンサートは不可能と思われたが、鬼気迫るライヴ5日の無料コンサートに出演し、翌朝バハマへ亡命した。
その後、ボブは、身の危険からロンドンへ移住する。
そして事件から2年後の1978年、ボブ・マーリーは胸中に「ある計画」を持ってジャマイカに戻ってくる。
そして伝説となった「One Love Peaceコンサート」が開催される。
コンサートは非常に大規模で、一日中キングストンは人であふれた。外国の取材班も多数集まり、客席の前列一帯には、首相、国会議員、判事らが招待された。ボブの計画とはこのステージ上で、ずっと血みどろの抗争を続けていた与党と野党の両党首を握手させることだった。
々のボブの登場に、聴衆は熱狂の渦に陥った。歌のクライマックスでボブは両党首に「どうかステージに上がり皆の前で握手して欲しい」とマイクを通して呼びかけた。
当初面食らっていた両党首だが、大勢の観客が注視していることもあり、側近たちにうながされてしぶしぶとステージに上がっていった。
2人の党首がボブの横に立ち握手をすると、ボブは2人の手を取り、観衆全員に見えるように高々と持ち上げたのだった。
ボブは祈るように目を閉じていた。そして、コンサートは名曲「ワン・ラブ」で幕を閉じた。
古今東西、多くのミュージシャンが世界を変革しようと社会に働きかけてきたが、これは目に見えて音楽が具体的に政治を動かした決定的な事件となった。
この出来事の2ヵ月後、彼は生涯の素晴らしい思い出となる体験をする。
ボブ・マーリーはアフリカ諸国の国連代表派遣団から、「第三世界平和勲章」を授与された。
そしてその2年後の1980年、アルバム「Uprising」発表するも、セントラルパークでジョギング中に倒れ癌性の脳腫瘍と診断される。その時点で余命1ヶ月前後の宣告を受ける。
ドイツの病院で治療に専念するが、ドレッドロックスは抜け落ち体力は奪われていった。
1981年5月11日、そのドイツからジャマイカへの帰路の途中に容態が悪化し、アメリカ・フロリダ州の病院で死去、36歳であった。
その10日後、ジャマイカ・キングストンで「国葬」され、自身のアコーステイック・ギターとともに大聖堂に埋葬され、多くの国民がボブの死を悼んだ。
ボブマーリーと同じく路上生活を送ったタンゴ歌手エビータを思い浮かべる。
本名エバペロンは、その後アルゼンチン副大統領に推されるほどの人気をえたが、癌を患い33歳で亡くなった。夫ペロンが拒否したため副大統領にはならず。
エビータは「聖女」とも称され、多くの国民がその死を悼んだが「国葬」になったという話はきかない。
ボブマーリーの国葬に際し、ジャマイカの大統領エドワード・シアガは、次のような弔辞を述べた。
「彼の声は、この電子社会において偏在し続ける叫びでした。彼のシャープな顔立ち、威厳ある外見、意気揚々としたスタイルは鮮やかにわれわれの心象風景に刻まれることでしょう。ボブ・マーリーはかつてない存在です。彼はあらゆる出会いで忘れられない印象を残してきました。このような人物をわれわれの心から消し去ることは不可能でしょう。彼はこの国の意識の集合体の一部でもあったのです」。