臼杵「深田心の小径」より

大分駅から日豊本線を40分ほど宮崎方面へ南下すれば臼杵(うすき)駅につく。臼杵駅の次の駅は、伊勢正三作詞「なごり雪」の舞台「津久見」である。
臼杵には、戦国武将 大友宗麟が築いた「臼杵城址」があり、臼杵城跡に昇ると城下町の町並みを上から一望できる。
キリシタン大名であったことから、ポルトガル伝統的装飾絵タイル“アズレージョ”が施された大蔵や、女流作家の野上弥生子の生家を改築した記念館など、見どころが点在している。
なお野上弥生子は、東京巣鴨にあった明治女学校で福岡市今宿出身の大杉栄夫人の伊藤野枝と同期であったと知った。
ここから臼杵川沿いにバス15分、歩いても1時間で「臼杵磨崖仏」(うすきまがいぶつ)に到着する。
臼杵磨崖仏は全4群61躯で構成される。仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。
このあたりは、平安時代の九条家の荘園であったことから、優れた仏師が送り込まれたという。
1995年、磨崖仏として日本初、彫刻として九州初の国宝に指定された。
これ以外にも、もうひとつの見どころがあった。それは磨崖仏の向かい側に広がる「石仏公園」。
ここに立つと「桃源郷」という言葉が浮かんだ。
やや大袈裟かと思って観光案内をみれば、四季おりおりの花が咲いて、大輪のハスの花が咲き誇りその様子はさながら「極楽浄土」のよう、とあった。
この石仏公園の「いいね」は、風景ばかりではない。
臼杵市の友好都市である中国の敦煌(とんこう)市から、日中両国の偉人の言葉を刻んだ石碑50基が寄贈され、市はこれらの石碑を石仏公園に設置している。
日中両国の歴史上の人物の言葉それぞれ25基並べ、人生を見つめなおす場として「深田心の小径」とよぶ。
日本側の石碑は、世阿弥、夏目漱石、勝海舟、高村光太郎、坂本龍馬、徳川家康、宮本武蔵、松下幸之助、土光敏夫などが並び、中国側からは岳飛、王安石、老子、孟子、李白、孔子、杜甫、魯迅、孫文など、日中ペアになるように並んでいる。
そんな嗜好をこらした小径を歩きながら思い浮かんだのは、人生の思索ではなく、日中文化の違い。
中華文化圏に属すると思われる日中両国に、どうしてこれほどの違いがあるのだろう。
広大な大陸の中国と、一衣帯水とはいえ、弓状に南北に延びる島国という違いは大きな要素であろう。
中国人は、古代の聖王堯・舜たちが崇拝の対象であるが、彼等は人間であり、おもに「治水」に成功した人たち。
中国の風土はちょうど自然と人間の力が拮抗しており、人間の力をもってすれば、どんなことでもできる。偉大な人間ならば荒れ狂う大河との格闘にも勝利しうるという意識から、この世中心主義の思考を生んだのではないかと思う。
中国には「天」を重んじ、北京の「天壇公園」は天子たる皇帝が天命をうける場所であるが、天の代行者たる「皇帝」こそが信奉の対象で、そんな存在だからこそ「人海」を動かすことができるのだ。
人々の意識はパレスチナの「啓典の民」のように天上に垂直にむかうのではなく、あくまでもこの世に水平的に伸びている感じがする。
それは、死者に対する観念に最もよく表れている。
中国人は死んだ者の再生は考えない。死後の生活はこの世の延長であり、生と死は絶対の断絶ではない。
それは、始皇帝の墳墓近くで発見された兵馬俑(へいばよう)をみれば、誰しもがそう思うだろう。
兵馬俑では、何百体もの兵隊や馬車が泥の人形として再現されそのまま埋め込まれている。
なにより驚くのは、兵士は等身大に近く、ひとり一人の顔や表情が違うことである。
彼らは死者も人と意識するから、死後に不正が発覚したり、憎しみが増せば、墓をあばいても死者を鞭打つことさえする。
数年前、日本の首相の靖国神社参拝に対し抗議がおこり、北京でのサッカーの試合で日本選手は身の危険を感じながらも必死にプレイしたことがあった。
あわや反日暴動にもまで至らんとする中国人は、「靖国」をどう理解しているのだろうか。
確かに、一般の英霊ばかりかA級戦犯まで祀っている靖国神社に日本の首相が公的に(私的にせよ)参拝することは、外から見る限り日本人が過去の戦争を反省せず、なお軍国主義的傾向を払拭しきれていないと見られても仕方がない。
様々な視点から「靖国」の問題は語られるが、明確にいえることは「鎮魂」の意識は中国人には存在しないということである。あったとしても、日本人のように死者を畏れその魂を鎮めようという信仰は中国人にはない、ということである。
中国人が、日本人のもつ「鎮魂」の意識と大きく違うことを思わせるのは、映画「西太后」にみるような政敵に対する血も凍るような残虐さだ。
死者を恐れる気持ちがあるならば、あそこまで徹底的な暴虐と屈辱を与える事はしないだろうと思う。
それとも「西太后」を異常性格者としてかたずけるべきだろうか。
現世で魂祭りをすることで死者の霊も安んずるのは、日本人独自の信仰の表われである。
日本人は死後の霊魂がこの世の人々を加護する働きをもつことも信じていた。
御霊神社のような社寺が全国にも多く存在するように日本人は死者の霊に対して畏れを抱き崇め、非業の死を遂げた者は死後「鬼神」となり人々に禍をもたらすことなきように慰める。
こうした死者の霊魂に対する意識は、縄文期の長い森の生活で養われきた日本人の基層文化といえる。
靖国問題はそうした文化の「基層」、もっといえば日本人のアイイデンティティにかかわるだけにその問題の根は深いものがある。
日本の古墳時代後期の世界一の広さを誇る「前方後円墳」の中から馬具が多く見つかったことなどから、「騎馬民族征服説」が唱えられたことがあった。
確かに日本語は満州族と同じくウラル・アルタイ系に属し、江戸時代のサムライの頭なども満州族の髪を思わせるものがある。
さらには将軍の近衛兵団を「旗本」といった言い方に「満州八旗」とよばれた軍団を思わせるものがあり、満州族との関わりを感じさせる要素がある。
とはいえ、前方後円墳は日本独自の形状をしていて中国にはない。
仏教哲学者・梅原猛の本に、前方後円墳は祭壇であると書いていたのを覚えている。
漢族には本籍というものがある。江蘇省某県出身だとかいう。しかし、遊牧の満州人には籍とする定着地がない。彼等はそのかわりに「旗」というものを自分達の籍にした。
「旗」とは軍団のことで、すべての人々がどこかの「旗」に所属した。無所属では荒野に取り残されたり、死を待つしかない。所属することは、生きることなのだ。 はじめは、黄・紅・白・藍の四旗で、あとでそれに縁取りした四旗を加えて八旗とした。
そして藍旗が狩猟のさいは獲物を、戦争の際には敵を駆り出し、紅旗と白旗がそれを包囲して、黄旗ひるがえる本陣に追い込むという方法をとった。普段の狩猟が、そのまま軍事訓練となった。
日本の体育祭におけるブロック対抗を思い浮かべたりするのは、自分だけだろうか。
「旗」といえば中国の現代史で張学良が「青天白日旗を掲げ国民政府への服属を表明した出来事「易幟(えきし)」を思い出す。
ところで中国人の世界観の一つとして「桃源郷」というものはどうであったであろう。
4世紀の詩人・陶淵明(とうえんめい)は、山に迷い込んだ漁師が桃の林に囲まれた美しい農村を発見する物語を作った。
外界から隔絶された環境でつつましやかな暮らしを営むその村は「桃源郷」と呼ばれ、中国の人々にとっての理想郷となった。
「天地人」という言葉であるが、中国の琴の音は「地の音」、「人の音」、「天の音」を調和させながら表現するらしい。
とするならば、桃源卿とはそうした琴の音の響きに最も合致する土地であったと想像する。
「啓典の民」は、延々とうねる砂漠や荒野を移動する、地上ではなく天に「神の国」にを求めた人々であったが、中国人の環境にはそうした峻厳さまではないように思われる。
たとえば、中国人にとって原風景ともいうべきところが蘆山(ろざん)がある。蘆山は李白が愛した五老峰があり、五老峰は山水画の風景の原型となっている。
この風景は確かに人間を幽玄へと誘う、生者と死者の境界を超えさせるような仙人の存在を思わせる雰囲気がある。
森林の民が精霊崇拝にもとづく神々の信仰をもっていたことや、砂漠の民が天に唯一の神を求めたのとは異なり、中国にはこの世の中に「理想郷」ものを求めるのも、こうした幽玄な山野の風景を目にしたからなのだろうか。
また、長江近くの「蘇州庭園」は商人達が私財を投じて造り桃源郷を表現したものである。
マルコポーロは蘇州を「東洋のベネチア」とよんだが、それは市街いたるところに水路と白壁び家が甍を重ねている。
「蘇州庭園」の丸い円から景色をみるように彫られた壁は庄宇宙を表現しているし、窓枠の作りに趣向が凝らされ風景が絵の中の風景のようにみえる。さらには、遠い塔の風景を借景としたものがある。
岩山の洞窟を降りるとそこに庭園がある。商人達は騙し合いや駆け引きやらトラブルから一歩身を退けた場所を必要としたのかもしれない。
蘇州庭園の中の留園には美しい丸みをおびた自然だけではなく、犬が吠えるような形をした奇岩もあるし、厳めしい山がにらみつけるようにな造形もある。自然の恵みばかりではなく世界の厳しさをも表現している。
ともあれ、そこには現世という俗世と異なる空間が作り上げられていた。
ところで、「隠者」といえば俗世間を離れて隠遁生活をする「世捨人」と思い勝ちだが、中国ではこうした優れた「隠者」を抱えるのは、皇帝にとってある種の「ステータス」というべきものだった。
少なくとも中国5世紀に登場する隠者は、そううものではなく社会の「彩り」のような役割を果たす詩人なのである。
例えば、10世紀に屈原のように意見が取り入れられずに入水自殺した隠者がいたが、その激しさは「世捨て人」らしくない。
「桃源郷」の作者たる陶淵明は隠者というイメージがあるが、世捨て人といのはあたらない。
陶淵明は、門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門」と呼ばれる下級士族の出身であった。
陶淵明はようやく仕官に成功するが、与えられた官(江州祭酒)は意に反したものであった。
399年江州刺史・桓玄に仕えるも、翌々年には桓玄がクーデターを起こし成功したのも束の間滅亡してした痛手は大きかった。
その後、断続的にではあるが13年間、とにかく官途にアクセクするが、いずれも「下級役人」としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。
中央での出世をあきらめて、彭沢県の県令となるが、郷里の若造が「査察官」としてやってくる屈辱感に堪えきれず、わずか80日間で辞任して帰郷する。
有名な「帰去来辞」はこの時書いたもので、世間からの「引退宣言」ともいうべきものであった。
以後、陶淵明は「隠遁」の生活に入るが、詩のうまい風変わりの隠者がいるといううわさは、次第に高くなった。
そして幸運にも、都から顔延之(がんえんし)という後に詩壇のボスとなる少壮官僚が赴任してきた。
そしてこの顔延之と陶淵明はたちまちのうちに意気投合していく。
そして朝廷から隠者として聞こえる者に授けられる役職「著作佐郎」(ちょさくさろう)をいただく。
「王朝公認」のお墨付きをもらい、地方クラスの隠者から、中央クラスの隠者へと昇格したのだ。
もちろん「隠者」であるからには、官途の外にあり世俗を低く見る存在であるからして、「清貧」がタテマエである。
しかし、陶淵明クラスの隠者がさまざまな宴席、送別の席などに招かれて「詩」を歌うことにより、ある種のパトロンの存在をえたり、贈り物をうけたことは自然のなりゆきであり、けして霞をくって生きてきたわけではない。
その陶淵明は427年に、当時としては長寿といってよい63歳で死去している。
以上のように、官には出仕しないものの社会の中で一定の役割をもつものとして隠者は捉えるべきで、中央官界での立身はあきらめたものの、歴史の編纂や試作によって官にある人々に華を添えるという役割を果たしたのである。
それは、この世から距離をおいた風情の庭園が設けられたように、人間もこの世から距離をおいた「隠者」が賢者として受け入れられたということもいえる。
日本で隠者といえば、まず鴨長明(かものちょうめい)が思い浮かぶ。
「方丈記」の出だし、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」は格調たかく心に響く。
下鴨神社の神官を務めていた鴨長継の子であった鴨長明は、恵まれた幼少期を過ごすが、有力な後ろ盾となるはずであった父が早くに亡くなり、長明自身は神官の職を得ることができなかった。
和歌の名人としても名高かった長明は、その後、歌人として何とか生計を立てていく。
一時は、『新古今和歌集』編纂のために再興された和歌所の寄人(職人)に任命され、その熱心な仕事ぶりを目にした後鳥羽院に、河合社(下鴨神社の付属社)の神官に推挙される。
ところが、同族の鴨祐兼の反対で河合社の神官に就くことはかなわず、失意のまま長明は50歳頃に出家することになる。
その後、各地を転々とした後、京都の日野という場所に小さな庵を建てる。
庵の広さが方丈(1丈・約3m)四方であったことから、自ら『方丈記』と名付けた。
その中で、住居論などを展開していて、当時の「ミナマリスト」というべき存在である。
長明はそんな庵に居をかまえつつ、火災や地震、飢饉などの大きな災厄に見舞われ、このときの状況や自身のさまざまな苦難の経験から、「無常」という境地に至る。
歌人や、琴や琵琶の名手としても有名であった長明は、自らの芸術的感性によって、無常の思想を『方丈記』として表したのである。
一方、方丈の小さな庵での生活の中で、一旦は安らぎを得られたものの、俗世間と離れた現在の生活をしだいに楽しく感じている自分がいる。
自分の心を苦しめている無常からの解放を願って、隠居する道を選んだのに、草庵での暮らしに執着に近い愛着を抱いている今の自分は、仏教的な往生からは程遠いものではないだろうかと、自問自答をくり返して終わる。
つまり、自分の人生に対して仏教者としての観点から揺らいでいるのである。
長明が生まれた時代は、平安時代の公家による政治から、平氏政権を経て、武士が台頭して政権を握る鎌倉時代へと世の中が大きく転換していった時期。
この時代で、釈迦の入滅後にその教えが忘れ去られ、世は衰退して災いや戦乱が相次いでくると信じられた末法思想が広まった。
さらに京の都では、天災がたて続けに起こり、人々の不安が増大。このような時代にあって、都の中心部を離れ山里にこもる隠者による「無常観」を主題とする作品が生まれ、その作品は、今の時代にも問いかけているようだ。
臼杵の「深田心の小径」にならって日中「隠者」の代表二人を並べてみたが、同じ隠者でもその存在の意味合いは違っている。