踊る人、舞う人

月の引力とスッポンの成育が関係していることが最近わかってきた。「月とスッポン」という言葉は、必ずしも「真逆」という意味ばかりではないようだ。
人間も、月夜の晩に活躍する野球選手もいるし、盆の踊りに覚醒するサッカー選手もいる。
現在ヨーロッパで活躍する香川真司は、17歳のときその柿谷がいるセレッソ大阪に加入した。
その香川でさえ、ひとつ年下の天才・柿谷の存在は一目おかざるをえない存在だった。
しかし両者は「対照的」な歩みをしていく。
コツコツと弛まぬ努力を続けて実績を残す香川と、俗にいうところの「天狗」になったのか、練習に遅刻するし態度も悪い柿谷は、ほとんど結果を出せずチームからも孤立していく。
柿谷は当時の監督だったクルピの怒りを買い、J2の徳島ヴォルティスに「レンタル移籍」させらた。
そして柿谷が徳島で出会ったのは、香川をいちいち引き合いに出して柿谷を挑発する監督であった。
つまり監督は柿谷が一番嫌がる言葉をなげつけて、柿谷が目覚めさせよとしたのである。
そして柿谷が徳島で出会ったもうひとつが「阿波踊り」であった。
チームの慣例で最前列でこの踊りをするうちに、柿谷は皆でやる踊りの「高揚感」を味わった。
それがキカッケになって、柿谷は個人プレーに走っていた自分に気がつき、チームプレーに徹するようになったという。
そして柿谷の人間的な成長につれ、徳島ヴォルティスも変わり、チームの「躍進」にもつながった。
日本の、伝統芸能「能」とゴジラの結びついたケースもある。
映画『シン・ゴジラ』(2016年)において、主人公を演じているのは、野村萬斎、狂言師。実は野村萬斎。ゴジラの正体は、なんと狂言師だったのだ。
とはいっても、ぬいぐるみの中に入っているわけではない。
現実の人物や物体の動きを、デジタル的に記録する「モーションキャプチャー」が使用され、本作では野村の動きをフルCGで作成したゴジラに反映させているという。
本家・東宝が12年ぶりに制作した『シン・ゴジラ』は、『エヴァンゲリオン』シリーズの庵野秀明氏が脚本・総監督をつとめ、『進撃の巨人』の樋口真嗣氏が監督・特技監督を担当した。
現代の日本に出現したゴジラが、戦車などからの攻撃をものともせずに暴れる姿を描く。
野村萬斎は樋口監督から電話でオファーを受けたことを明かし、「日本の映画界が誇るゴジラという生物のDNAを私が継承しております。650年以上の狂言のDNAが入ったということを大変うれしく思っております」と歓喜。
さらに、「わざわざ私に白羽の矢を立てていただいたのは、狂言や能の様式美というものを意識されたと思う。無機的な、人間臭いというより神、幽霊、怪物のような侵しがたい存在感を期待されたと思うので、チョロチョロ動くよりどっしり動いた」とこだわりを明かしている。

映画「シャル・ウイ・ダンス」(1990年)は、一人のサラリーマンが、「社交ダンスの世界」に入っていく姿が描かれていた。
それは「ペア」というものに不慣れな中年男の恍惚と不安が描かれたものといってもいい。
ところで「ペア」というのは「対」(つい)のことだが、「同族でありつつも異なる機能・作用をもつ」がゆえに「対」となる。
日本でそうした「ペア」の思考が長年生まれなかったのは、儒教の影響で「男尊女卑」の傾向を生んだためで、夫婦で「横関係」のペアであることはなかったといえる。
外国では偉い人はペアで社交するが、日本ではたとえ社長夫人であろうと、おもてに出る必要はなく、逆に出過ぎると嫌われる。つまり社長夫人は背後にあって「奥さん」であるべきという意識がある。
日本人がペアのダンスと接したのは、明治時代の井上馨外務卿の「鹿鳴館外交」が脳裏にうかぶ。
そういう伝統文化で育ってきた日本の女性が、明治のはじめに突然「鹿鳴館」でペアで踊る羽目になった時、その様子はどんなものであったろうか。
そんな中で、西洋風の良家の子女の「鹿鳴館の華」とよばれたのが、山川捨松である。
山川捨松は、津田梅子と同じ日本最初の女子留学生の一人である。
女の子に「捨松」とはひどい名前だと思われるかもしれない。幼名は咲子だが12歳で留学させる時、「あんな小さい娘を海外に追い出すなんて、母親は鬼だ」と噂された母が、「一度は捨てるが将来を期待してマツ」という意味で改名させた。まった甲斐が十分あったわけだ。
会津藩出身と言えば、捨松は戊辰戦争を8歳で体験し、辛苦を嘗めることとなる。この戦争体験は生涯を通して忘れられない記憶であった。
彼女は、名門バァッサー大学に進学。卒業後は、ニューヘブンの市民病院で看護学の勉強をし、「甲種看護婦」の資格を日本人で初めて取得した。
帰国後、留学生仲間の結婚パーティで「ベニスの商人」を演じたが、この時に捨松を見初めたのが、薩摩出身の陸軍中将の大臣・大山巌、当時42歳であった。
大山は前年3人の娘を遺して妻に病死されていた。そして大山より24歳下の捨松を後妻にとの結婚申込みがあった。
しかし、大山は会津の旧敵薩摩人で、戊辰戦争では会津若松城を砲撃した隊長であった。
さらに捨松の兄嫁はこの砲撃で死亡していた。当然、山川家はじめ会津側は「大反対」だった。
ところが、この結婚を決意したのは捨松自身であった。大山を女性を大切にする素晴らしい人だと思ったらしい(実際、そのとおりだった)。
かくして、陸軍大臣夫人で3人の娘の母となった大山捨松は「鹿鳴館の華」と呼ばれるようになる。

西洋のバレエはどのように発展したか、その起源を紐解くと、イタリア・ルネサンス期までさかのぼる。
音楽に合わせてゆっくりとステップを踏むダンス「バロ(Ballo)」が、現在の「クラシック・バレエ」の原型とされ、貴族たちが舞踏会で踊ったのが始まり。
文化・芸術の再生、大航海時代、宗教改革など、時代の大きなうねりの中で生まれたバレエは、イタリアのフィレンツェやヴェネチアから西ヨーロッパへと広がっていく。
そのバレエ文化は、16世紀後半にフランスで大きく花ひらき、「バレエ(Ballet)」の名称は、フランスにおいて呼ばれるようになった言葉である。
フランスでバレエ文化が発展した背景に、一人の王妃の存在がある。
イタリア・フィレンツェのメディチ家に生まれたカトリーヌは、幼い頃からバレエが大好きであった。そんな彼女の嫁ぎ先が、フランス王アンリ2世。
カトリーヌ王妃は、宮廷内で舞踏会を何度も開催し、フランス国内にバレエの魅力を広めた。
その後、フランスでバレエの地位を確立したのは、“太陽王”と称されたルイ14世である。
妙に細い脚を露わにしたルイ14世の絵画が高校の教科書にあるのは、そのせいだろうか。
ルイ14世は自ら踊るほどバレエを愛し、専属の舞踏教師を雇う熱の入れようであった。
1669年、パリに「オペラ座」を建設。1713年には、プロのバレエダンサーを養成する「オペラ座バレエ学校」を開校し、バレエは舞台芸術として体系化されていった。
18世紀の後半に起こったフランス革命は、バレエ文化にも大きな影響を与えた。
それまで王侯貴族を中心に発展してきたバレエであったが、庶民が主役となる「ロマンティック・バレエ」が登場。しかし1873年のオペラ座の火災によって勢いを失う。
オペラ座が焼失した後、バレエがめざましく発展したのはロシアであった。
エカチェリーナは、ドイツの中級貴族の出身で、ロシアのピョートル3世に嫁ぎ、ロシアを軍事大国として育てるばかりではなく文化においても負けない国作りをした。
フランスの宮廷からもたらされたバレエを積極的に庇護した皇帝エカチェリーナ2世で、バレエ学校を創設するなどバレエ文化の発展に情熱を注いだ。
特に19世紀中頃、フランスから招いた振付師のマリウス・プティパは、作曲家のチャイコフスキーとコンビを組み、「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」などの大作を発表する。
ボリショイ劇場と並んで、クラッシックバレエの世界的殿堂マリンスキー劇場の名は、二人の名をあわせたものである。
ところで、化粧品会社の創業者・マックスファクターは、ポーランド系で、バレリーナのメイクアップの仕事をしていた人物である。
しばしば「もっといい表情をつくれ」という意味で「メイクアップ」と言っていたが、それがいつのまにか「化粧する」ことになっていった。
結局、クラシックバレエは、イタリア生まれのフランス育ち、ロシアで成熟した踊りである。

アメリカのサンフランシスコ生まれのイサドラ・ダンカンは、「型」を破るためにこの世界に生まれてきたような女性であった。
イサドラは、芸術の世界で最も魅力的で革命的な性格を持ったばかりではなく、彼女の人生と死も、型破りなものであった。
イサドラはクラシックバレエダンスの硬直さに反発し、波が彼女の体を揺らすかのように大きな感情表現を行った。
その動きは自由で常に流れるようであり、感情に満ち満ちていた。
彼女の父のジョセフ・チャールズは融資担当であるローン・オフィサーで、母親のメアリー・イサドラ・グレイは音楽教師。
幼い頃に父が家族の元を去り、経済的に苦境にあったが、イサドラの母親はピアノレッスンを始め、後にはダンススクールを設立した。
その後、家族はシカゴに移り、イサドラはクラシックダンスを学ぶも、火災が起きて家を失い、今度はニューヨークに引っ越した。
ヨーロッパのクラシック音楽に憧れていたイサドラは、ヨーロッパへと旅たった。
家族も一緒にロンドン、そしてパリへと引っ越して、芸術の都パリに定住した。
イサドラ・ダンカン「モダンダンス」の始祖と言われる存在だが、モダンダンス誕生にはもうひとりのダンサーが関わっている。
アメリカの農家で生まれたマリー=ルイーズ・フラーの夢は女優になることであった。
オーディションを受けても、セリフのない役しか来なかったが、あるとき偶然踊った舞台で、はじめて喝采を浴びることがあった。
その日から、ルイーズは衣装から照明、舞台装置に至るまで、全くオリジナルのダンスのアイディアが湧くようになった。
その後、ダンサーネームを“ロイ・フラー”と名乗り、彼女の踊りの才能を見抜いたドルセー伯爵の力を借り、ロイはパリ・オペラ座で踊る夢を叶えるため、単身アメリカからパリに渡ってきた。
ロイのダンスを見たパリの観客は初めての体験に驚き、瞬く間にスターへと駆け上がり、遂にオペラ座から出演オファーが舞い込むまでになる。
そして彼女が共演者に抜擢したのが、無名だが輝くばかりの才能を放つイサドラ・ダンカンであった。
ロイ・フラーは、ふんわりとした白い衣装をまとい、まるで催眠術にかかったかのような女性を、即興的に激しい身体的パフォーマンスによって演じた。
これが後に「サーペンタインダンス」と呼ばれ、ロイ・フラーのトレードマークとなっていく。
1900年にパリで開催された世界万国博覧会では「ロイフラー劇場」を設けてパフォーマンスを披露し、彼女の名はパリから世界に広まっていった。
また、この劇場に日本から川上音二郎一座、貞奴を招いて公演の後押しをした。
またイサドラ・ダンカンを支援するなど新たな才能の発見と育成に努めた。
一方イサドラは、ヨーロッパの数々の博物館を頻繁に訪れ、特にギリシャの芸術を鑑賞することに多くの時間を費やした。
彼女は、博物館で見た彫刻の姿勢のいくつかを自分のダンスに取り入れ、自分独自のスタイルを作り出した。
また、パリはジャポニズムという「日本ブーム」が起きていて、パリ万国博覧会で日本の俳優の川上貞(貞奴)の芝居と踊りを何度も見にいっている。
イサドラはギリシャ風のガウンを着て裸足で舞台に上がり始め、髪はおろし、ダンス用に作られていない曲のリズムに合わせて踊った。
しかし悲劇がおそう。2人の息子が自動車事故でなくなり、この悲劇をなかなか克服きなかったようだ。
またイサドラは、アルゼンチンのバーで国歌を踊るという無謀な行動をとったり、ある時などは、着ていた毛皮と宝石でホテル代を払うなど奇行が目につくようになる。
イサドラ・ダンカンは、ロシア革命をとても賞賛して、レーニンは彼女をロシアに住まわせ、彼女の追い求める芸術を続けるように誘った。
そこで詩人のセルゲイ・イェセニンと出会い結婚するも、エセニンがアルコール依存症だったため、結婚生活は長く続かなかった。エセニンはその後精神病院へと送られ、そこで自殺した。
そして1927年9月、巻き付けたスカーフが自動車にはさまって転倒、あっけなく亡くなった。
さて、ロイ・フラーやイサドラ・ダンカンがモダンダンスを生んだパリで育ったひとりのダンサーが日本に痕跡を残している。
ところで、日本の各地に「天の羽衣」(あまのはごろも)伝説が残っているが、特に有名なのは、静岡県の三保の松原に残る「羽衣伝説」である。
ある時、ひとりの漁師が松に掛かっていた美しい羽衣を見つけ、持ち帰って家の宝にしようと思った。
その時、木の陰から天女が、私の羽衣ですから返して下さいと声をかけた。
漁師はちゃんと羽衣を返すので、天女の舞を見せて欲しいと少々厚かましい願をする。
うると、羽衣を身にまとった天女は舞い踊り、その躍動に羽衣も翻っていくうち、天女は徐々に天へと上がり、霞の彼方へと消えていった。
そして、この昔話の舞台「三保の松原」にいくと、思わぬ石碑と出会う。それが「エレーヌ・ジュグラリスの碑」である。
フランスの舞踏家エレーヌ・ジュグラリスは、1916年にフランス北部・ブルターニュ地方カンペール生まれのフランス人女性ダンサーである。
彼女が日本の「能」の中で「羽衣」に興味を持をもったのは、西洋に数多く伝わる「白鳥伝説」に通じるものがあったからだ。
彼女は、ヨーロッパの人々にも分かりやすい能楽作品の一つ「羽衣」を研究し、手探りで「羽衣」の謡をフランス語に訳した。
衣装も厚手の生地を買って自ら刺繍し、独自の創作舞踊「HAGOROMO」を作り上げた。
1949年3月、ギメ美術館ホールでの初演は成功裏に終わったが、わずか3カ月後に公演中に舞台で倒れ、「天女の衣装」をまとったまま病院に。
その後、白血病と診断され、2年後に35歳の若さでこの世を去る。
夫のマルセル・ジュグラリスは、「三保の松原」に憧れを抱いていた彼女の遺志を果たすために、エレーヌの遺髪を携え三保を訪れた。
これを機に、1952年にエレーヌ・ジュグラリスの遺徳を忍んで記念碑が建立され、記念碑には夫・マルセルが妻・エレーヌに捧げた言葉がフランス語で刻まれ、和訳が併記されている。
“美保の浦 波渡る風 語るなり パリにて「羽衣」に いのちささげし わが妻のこと 風きけば わが日々の すぎさりゆくも 心安けし”。

長崎ハウステンボスに行った時、「ひとつの石碑」が目についた。長崎でフォークダンス(厳密には米国発祥のスクウェアダンス)を指導したウインフィールド・P・ニブロというアメリカ人の「記念碑」だった。 ニブロは、コロラド州デンバー出身で高校教師を経て、第二次世界大戦後に連合国最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育官として来日した。 1946年6月~1948年10月、長崎軍政府教育官として、それまで「男女別学」であった旧制中学校・高等女学校の「男女共学化」を強く推進した人物である。 1946年秋に長崎の県幹部との会食中に、日本側が披露した踊りの返礼としてアメリカのフォークダンスである「オクラホマミクサー」を自ら踊ってみせ、これに興味を示した出席者たちに手ほどきをしたのが始まりと言われている。 このダンスが長崎から全国へと人気の広がりを見せ、学校の授業や職場のリクリエーションとして活用されていった。 終戦直後、人々が娯楽に飢えていただけに、こうした歌や踊りはまたたく間に各地に伝播していったのである。 この「ミクサー」とは、欧米の社交ダンスやフォークダンスにおいて複数の男女ペアがパートナーを順に換えながら踊るダンスのジャンルである。 使われる音楽は、日本においては「藁の中の七面鳥("Turkey in the Straw")」の楽曲に固定されているが、でアメリカ民謡のメドレーの形で使われる中の一曲である。振り付けと同様に日本での独自のアレンジが施されている。 なによりも、男女が手をつないで踊ることで、「男女7歳にして席を同じゅうせず」という意識から、「男女ペア」でそれも相手をいれ替えて踊るために、当初は目も眩まんばかりの体験だったに違いない。 日本に「男女同権」という意識を植え付ける意味でも大きな意識改革となったことは間違いない。 日本にフォークダンスを伝えたニブロ氏は2007年3月8日、コロラド州デンバーの自宅で、95際の長寿をもって亡くなった。 ちなみに、「オクラホマ」とは、当初は全米のインディアン部族のほとんどを不毛の地に強制移住させる目的で作られた州であった。チョクトー族インディアンの言葉「okla」と「humma」を合わせたもので「赤い人々」を意味する。 つまりインディアン達の居留地となっていたが、1889年、白人達にも解放されることになった。 ここを「ヒストリック・ルート66」を南西のテキサス州との州境から北東のカンザス州の州境まで,昔と同じ経路で走破することで、「古きアメリカ」を体験できるのが魅力だという。 実は、このダンスがなぜ「オクラホマ」なのかはよくわかっていない。 ハウステンボスでは、毎年4月にニブロの名を冠した「ウインフィールド・P・ニブロ記念 佐世保・ハウステンボス フォークダンスフェスティバル」が開かれている。 GHQ以外にもアメリカの在日団体であるYMCAやYWCAなども「野外レクリエーション」普及の一環として、日本でのフォークダンスの普及に力を入れていた。 1963年に来日したイスラエル人女性グーリット・カドマンが、現地の踊り方をそのままに日本で指導し定着させたのが「マイム マイム」である。 意外なことだが、「マイム マイム」は、「戦場」で生まれたメロディの1つといっていい。 1940年代後半、世界に散ったユダヤ人が「シオニズム運動」によって現在のイスラエルの地に戻ってきた。 これからパレスチナの住民との激しい戦いが予想される中、ユダヤ人開拓者が「水源」の乏しい乾燥地に入植し、水を「掘り当てた」時の喜びを歌にしたものである。 ちなみに"mayim"はヘブライ語で「水」を、また"be-sasson"は「喜びのうちに」を意味している。 マイム・マイムの原題は"U’sh’avtem Mayim"。 直訳すると「あなた方は水を汲む」という意味である。 歌詞は旧約聖書のイザヤ書第12章「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水をくむ」をそっくり歌詞として用いた。 そして、このフレーズの「リフレイン」が、人々の喜びを盛り上げていく。 ところで「マイム・マイム」の振り付けは、誰かが本来の「意味合い」から離れて「独自」に考案したものではない。 掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、”Mayimmayim be-sasson”と歌いながら井戸に向かって駆け寄っていく。 とはいえ、「マイム マイム」に登場する「水」が、パレスチナでの激しい戦闘の末、つまり血で獲得した土地の「井戸水」だったとしたら、この歌の音色も全く違った響きで聞こえてくる。