「逃走論」再浮上

ミスター・チルドレンの歌「名もなき詩(うた)」に、「自分らしさの檻」という歌詞がある。
「自分らしさ」を意識した自分が、結局は自分を見失っていたという歌詞である。
1960~70年代の学生は「自分らしさ」なんて求めてはいなかった気がする。
いわば「政治の季節」で、権力(保守)側か反権力(革新)側か、その立ち位置がかなりの部分を規定していたからだ。
いわば「座標軸」が備わっていたといえる。
ただ、よそからの「借り物」にアイデンティティを嵌めこむと、それこそが「檻」となって、もがき苦しむ若者が多くいた。
そんな中、上手に「借り物」の解毒ができた人もいれば、ノンポリを決めこむ人、とにかく「逃げる」人もいた。
そして、逃げ切れず「死」を選んだ人もいる。
1969年6月24日未明、一人の女子大生が、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み自殺した。彼女は、立命館大学の三回生の高野悦子。
彼女の死後、下宿先で、十数冊の大学ノートに書かれた日記が発見される。
そこには、20歳の誕生日である日から、自殺二日前までの半年間に及ぶ彼女の内面が赤裸々につづられていた。
彼女の父親、高野三郎が、この日記を同人誌「那須文学」に掲載して大反響を呼び、1971年には『二十歳の原点』と題して発行され、瞬く間にベストセラーとなる。
冒頭に「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」と書いていた。
そして、この二つの命題を克服するため、彼女が身を投じて闘いを挑んだのが、全共闘運動であり、恋愛だった。
しかし、やがてこの闘いは挫折してゆく事になる。
ところで、全共闘とは、「全学共闘会議」の略で、1948年に結成された「全日本学生連盟」(全学連)が民青系(日共系)、中核派、革マル派などに分裂。
そんな中、大学のマスプロ教育の進行や学生管理の強化、学費の慢性的値上げなどに不満を持つ学生が結集して作られた大学内の連合組織。当時大学生であった多くの団塊世代が、運動に参加していった。
彼女は全共闘運動に参加するが、自分の思いとの違和感が強まり、「セクトの引き回しとしか感じられぬ全共闘運動」と書いている。
運動に失望する中で自らの未熟さを思い知らされ、苛立ちと自虐性を一層強めていく。
「1時から○月○日闘争報告集会がある。私はいかない。なぜ?すべてに失望しているから。アッハハハハ」。
また、「訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい」とある。
ノートには、主体性を確立できない自分へのあせり、いらだち、虚無感、混沌といった言葉がめにつくようになる。
同時に、「弱い人間。女なんかに生まれなければよかったと悔む」といった姿もあった。
「私が生物学的に女であることは確かなのだが、化粧もせず、身なりもかまわず、言葉使いもあらいということで一般の女のイメージからかけ離れているがゆえに、他者は私を女とは見ない。私自身女なのかしらと自分でいぶかしがる。また、前のように髪を肩のへんまで伸ばし、洋服も靴もパリッとかため、化粧に身をついやせば私は女になるかもしれない。しかし、何に対してそうするのか」とも書いている。
結局、未熟さの克服も、孤独からの脱却もできぬまま、彼女は次第に絶望感を深め、ついには、自分の生存そのものへの懐疑を抱き始める。
そして、恋人との別れが決定的となり、生きることの意味も、幸せの意味も分からなくなっていく。
それでも、そんな彼女が死を意識しつつ書いた詩は、いまもみずみずしい。
「旅に出よう。テントとシュラフの入ったザックをしょい ポケットには一箱の煙草と笛をもち 旅に出よう。
出発の日は雨がよい  霧のようにやわらかい春の雨の日がよい。
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら そして富士の山にあるという 原始林の中にゆこう ゆっくりとあせることなく 大きな杉の古木にきたら 一層暗いその根本に腰をおろして休もう。そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して 暗い古樹のしたで一本の煙草を喫おう。
近代社会の臭いのするその煙を 古木よ おまえは何と感じるのか
原始林の中にあるという湖をさがそう そしてその岸辺にたたずんで 一本の煙草を喫おう。煙をすべて吐き出してザックのかたわらで静かに休もう。
原始林を暗やみが包みこむ頃になったら 湖に小舟をうかべよう。
衣服を脱ぎすて すべらかな肌をやみにつつみ 左手に笛をもって湖の水面を暗やみの中に漂いながら 笛をふこう。
小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中  中天より涼風を肌に流しながら 静かに眠ろう。
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう」。

我が記憶を辿ると、1970年代半ば「連合赤軍事件」を機に学生運動が終息に向かおうとしていた。
とはいえ、学生セクト間の狂い咲きのような内ゲバによる流血や、「人違い」で暴行され死亡した学生の悲惨なニュースなどが、いまだに伝えられていた。
この時代の雰囲気は、井上陽水の「傘がない」という歌によく表されていた気がする。反面、ABBAの「ダンシング・クイーン」に心が躍った。
また、松任谷由美作詞の「いちご白書をもう一度」のなかの「就職が決まって髪を切ってきた時、もう若くないさと言い訳したね」とい歌詞は心に刺さる。
いわば「敗北宣言」なのだが、多くの若者は挫折感を抱きながらも、その「猶予の時」を卒業して、体制に順応していく。
そんな彼ら(団塊世代)こが、「ジャパン アズ ナンバー ワン」を強力に支える戦士へと変わっていく。
それを早くも見抜いていたのが、田中角栄。
総理になったばかりの田中角栄に、秘書がデモをしたりゲバ棒で暴れる学生たちをどう思うかと訊ねた。
すると田中は、「日本の将来を背負う若者たちだ。経験が浅くて、視野はせまいが、真面目に祖国の先行きを考え、心配している。彼ら彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生がひと筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」と語っている。
実はこの秘書とは、田中をオヤジと慕う元新聞記者の早坂茂三であった。
早川は学生時代に共産党に入って暴れたことがあり、鬱々としていた。そんな早坂に田中が声をかけた。
「お前が学生時代、共産党だったことは知っている。公安調査庁から書類を取り寄せて目を通した。よくもまあ、アホなことばかりやった。若かったからね。あの頃の若い連中は腹も減っていたし、血の気が多いのは、あらかたあっちへ走った。それは構わない。そのぐらい元気があったほうがいい。ただ、馬鹿とハサミは使いようだ。俺はお前を使いこなすことができるよ、どうだい、一緒にやらないか」と笑った。
当時の団塊世代は、学生運動に参加したり、機動隊と対峙したことをそれほど語りたがらない気がする。
それは、学生運動の挫折感より「恥じらい」なのかもしれないが、その一方でまだ心に深い傷として残っている人々もいる。
機動隊から袋叩きになって運動から離れた畑正憲は、動物の世界へ、目を負傷したテリー伊藤は、TVの世界にのめりこむ。
1970年代東映のヤクザ映画がヒットしたのは、若者が機動隊と戦った経験と重なったのだろうか。
映画館では、ヤクザの殴り込みの場面に「異議な~し!」の声があがったという。
また作家の五木寛之は学生運動の挫折感の中、当時の藤圭子(宇多田ひかるの母)の演歌が心に沁みたらしく、それを「怨歌」と表現した。
1966年に芥川賞を授賞した庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」は、日比谷高校から東大法学部に進んだ「かおる君」が、学生運動に明け暮れた学生達をどう見ていたかを示している。
戦後の学園闘争で、1969年の東大安田講堂の攻防が記憶に刻まれている。庄司はこの年東大入試をうける予定だったのが中止となる。
1年延期された入試で東大にはいった庄司は政治学者・丸山真男のゼミに属していた。
「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、左翼思想にかぶれた若者(赤頭巾ちゃん)が「若さ」という狼に食い尽くされないようにというメッセージをタイトルにこめた。
彼らより、世代が一回り上の読売新聞社主の渡辺恒雄は1934年生まれで、戦時下で「反軍青年」であった。
日中戦争が深まる1939年、渡辺は開成中学に入学し、哲学書を読みふける日々を過ごす。
1945年4月、渡辺は東京帝国大学文学部哲学科に入学する。太平洋戦争で徴兵され、この時代の軍隊生活の例に漏れず、上官から厳しい暴行を受けたこともある。そんな暴行も、天皇の名の下に行われていた。
その年の8月、日本が敗戦すると渡辺は復学、東大のキャンパスに戻ってみると、保守政党から社会党まで「天皇制護持」だったが、共産党だけが「天皇制打倒」を宣言していた。
渡辺は天皇制と軍隊の二つを叩き潰すために、日本共産党に入党を申し込み、下部組織である日本青年共産同盟のメンバーとして活動を始める。
街のビラ貼り、他の学校へのオルグなどから始まり、教員の解雇問題のあった女子校を実力占拠するなど、活躍した。
母校である東京高等学校に行き、インターハイを目指す野球部員に「野球なんてくだらないものをする時ではない」と活動に誘ったこともある。
そして、東大の学生党員約200名のトップに立つまでに至った。
だが渡辺はある日、「党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ」と書かれたビラを目にして、それまで自分が感じていた違和感にはっきり気づくことになる。
共産党は上意下達のタテ社会であり、軍隊とそっくりだったのだ。天皇制を否定していた渡辺だが、「報いられることなき献身」を求めるマルクス主義は、神なき宗教だ、と確信する。
また党内の抗争に敗れ、共産党本部から「警察のスパイ」とレッテルを貼られ、除名されることになる。
1950年、渡辺は東大を卒業すると、読売新聞社に入社した。
一方、日本共産党は1951年、第4回全国協議会(四全協)で武装闘争路線を明確にしていた。
農村に“解放区”を作ることを目指す「山村工作隊」や、「中核自衛隊」などの非公然組織が作られ、各地で火焔瓶を用いた交番の焼き討ちなどが行われた。
1952年4月、奥多摩の小河内(おごうち)村に作られた、山村工作隊のアジトのひとつに渡辺は単身で赴く。
その3日前には、小河内工作隊の23名が警察隊に包囲されて逮捕されるなど、緊迫した雰囲気が漂っていた最中である。
そして、渡辺が訪れたアジトのリーダーは、後に作家となる高史明であった。
高は、その時のことを次のように書いている。
「昼前だった。向かいの尾根に出ていた見張りから、異常を告げる合図があった。何者かが、樵小屋に近づいてきたのである。その知らせは、即座に全員に伝えられた。私たちは、それぞれに身を潜めて事態に備えた。遙かな一本路を見下ろしていると、やがて一人の男が姿を現した。一人だけである」。
渡辺は工作隊のメンバーたちに捕えられられ、渡辺は新聞記者だと名乗るが、メンバーは訝った。
「このまま帰せば、明日にでも、どっと警官隊が押し寄せてくるだろう」「どうだい、殺った方が安全じゃないのか」「ここで片付けてしまうんだ! 簡単じゃないか!」。
高は、そんな殺気立ったメンバー達を制して、渡辺のインタビューに応じた。
「我々は危害を加えるつもりはない。新聞記者であろうと、なかろうとだ。俺たちは、ただみんなに俺たちの願いを知ってもらいたいだけだ。俺たちがここにきているのは、自分たちの楽を求めての事じゃない。それを知ってほしいと思う」と語った。
きっと髙史明は、渡辺の中に戦争の不条理を生きた者として”同族”を嗅ぎ取ったにちがいないが、熱心にメモを取る男が、自分の思いを聞き取ってくれるとは思えなかったとも書いている。
渡辺の取材は、同年4月3日の読売新聞で「山村工作隊のアジトに乗り込む」というスクープ記事となり、渡辺は本紙政治部に抜擢され、後年、政界への影響力を持つまでの存在になる。

浅田彰の「逃走論」が再び脚光をあびている。
浅田は1957年生まれで、現在は京都芸術大学教授。
1983年「構造と力」がベストセラーに。翌年「逃走論」が話題となり、「スキゾ」「パラノ」という流行語を生んだ。
浅田彰の「逃走論」は、一体何から逃れようとしたのか。インタビューで次のように書いている。
「70年代の思想課題をどうすれば清算できるか、を意識していました。具体的にはそれは全共闘世代の問題です。70年代は初めに連合赤軍事件が起きて、その後の左翼的な運動や思想は袋小路に入っていました。どうすれば革新的な思想をポジティブな方向に展開できるのか、を考えようとしたのです」。
「連合赤軍の関係者は、革命を目指しながらも仲間内での悲惨な殺し合いに陥っていきました。そこには気になる傾向があった。自らの逃げ道をあえて断つことで、『革命家としての自分のアイデンティティ』を確固たるものにしようとしていたのです」。
さらに逃げ道を断つとは、「『革命家をやめて就職することも選択肢に残しておこう』と考える学生はダメなやつとされ、逃げずに『革命家としてのアイデンティティ』を純化させることが大事にされたのです。しかし僕には、それは戦略的に間違っていると思えました。陣地を捨てて逃げた方がいいのに」と。
さらに浅田は、「陣地を捨てること」の意義につき次のように語っている。
「異なる人々と接触し、自分も変わっていくような生き方のほうがいい。好き勝手な方向に逃げて、性的マイノリティーの人々など様々な他者と関わり、新しい自分と出会おうと提唱した。旧来のアイデンティティのくびきから逃れ、別の何ものかになる可能性に賭ける行為を、逃走とよんだ」。
「逃走論」から10年もたたずに世界では冷戦が終わり、グローバルIT資本主義の時代が来た。
国境や職種を超えて逃走する1%の人と、望まぬ逃走者としての難民が増えている。
浅田は「アイデンティティへの固執をやめよう」という提唱自体の大事さは、むしろ当時より強まっている語っている。
今や世界は「アイデンティティ政治」による分断をもたらしているからだ。
代表例はトランプ米大統領の支持者で、「自分たちは米国の主役だ」と思ってきた白人男性たちがグローバルIT資本主義下で落ちこぼれ、アフリカ系の人々や女性などが活躍する状況に敵意さえ抱いた。
そんな、古いアイデンティティへの執着は、解毒が必要である。
例えば、白人男性というアイデンティティに執着するより、新しい仕事にむけた教育を受けたり、趣味を生かして別のつながりをつくった方がいい。
日本でも、アジア諸国の台頭や女性の社会進出に負の感情を抱き、日本人や男性といったアイデンティティに閉じこもろうとする人々が、古い家族観などを掲げ「右派」の台頭を支えている。
そんなアイデンティティへの固執からの「逃走」は、今だからこそ必要という。
社会や思想の枠組みが揺らぐ時代、人々は理不尽さから「前向き」に逃げたり、自身の立ち位置をずらすしなやかさこそ、「適応」よりも求められている「資質」ではなかろうか。