「人新世」のツーリズム

「人新世」、人間が地球環境を変えるという時代が、新しい地質年代として提起されている。
普通、地球環境と生物の相互作用で形成される「地質年代」なのだが、生物の側から「地球環境」大幅に変えるというのは、人間が第一号となるであろう。
最近では、「人新世の資本論」(斎藤幸平著)という本がよく売れているらしいが、地球環境の変化は、未来の「ツーリズム」(観光旅行)にも影響を与えるのではなかろうか。
さて人類の始まりは、アフリカを縦断する大地溝帯あたりと言われているが、人類が世界中に散らばった人類最初の旅を、「グレートジャーニー」とよぶことが多い。
アフリカから出発して、エジプト・メソポタミアで文明を築きユーラシアからアジア、シベリアから当時陸続きのベーリング海峡あたりを通ってアメリカ大陸に渡ったのであろう。
最近、NHK・BS「ヒューマン」という番組で、人間の活動が脳内物質であるドーパミンに大きく左右されるということを知った。
アフリカにいる人々とそこから出た人々のドーパミンの放出量が違うという。
それが、遺伝子の一文字の違いというカタチでも現れている。
挑戦する気持ちとそのことを不安に思う気持ちは、ドーパミン放出量と関連するからだ。
新しい事に挑戦する為には、ドーパミンの放出が不可欠であるため、アフリカを飛び出した人達は、ドーパミンの放出量が、アフリカに残った人達よりも高かったに違いないという仮説が成り立つ。
その仮説を証明しようと、世界各国の人達の不安の感じやすさを調べた実験がある。
その調査によると、アフリカの人達は9割以上の人が不安を感じやすい傾向にあるということがわかった。
それと比較して、日本人は7割程度の人は不安を感じやすい傾向にあり、アメリカに至っては3割程度の人が不安を感じやすい傾向が出た。
この実験から、「グレートジャーニー」でアフリカから遠くへ旅立った人ほど、ドーパミンの放出量の多いということがわかった。
大変興味深いのは、「グレートジャーニー」の終点近くの南米の中でペルーあたりが一番ドーパミンが多いということだ。
古代ににおいて、インカ文明、マヤ文明、アステカ文明などの先進文明が南米に存在したことを思い浮かべる。
ドーパミンが多いと前にすすもうと新たな土地に進み、共感力をもたらすため、そこで新たなコミュニティをつくることもできる。
それは「グレートジャーニー」という挑戦に限らず、人類が報酬を得て行動し、長期的な計画を立てられるようになり、新しい事へ挑戦が出来るようになった。
ペルーといえば、ポリネシア人のイカダでの海の旅を実証しようとした「コンティキ号漂流記」を思い浮かべる。
その出発地となったのがぺルーだからだ。
1947年、ノルウェー人学者のトール・ヘイエルダールは、自作のイカダ「コンティキ号」で当時未解明だったポリネシア人のルーツをたどる旅に出た。
ヘイエルダールは、文化が相似していることから南米から太平洋を渡ってきた人々がかなりいたという仮説を抱いていた。
ヘイエルダールの特質は、その土地の民俗学、博物誌、植物学、地質学などを総合的に考慮していたことだ。そのひとつが太平洋をわたる筏は浮力があって腐食しにくいバルサでなければならないと確信したことだった。
そのためにアンデス山脈にわけ入って実際に深い山中に生えている。高山からペルーの漂流出発地まで大キャラバンを仕立て、自分が先頭に立って川なども利用してその巨大な材木を港近くまで運び、いままで誰も見たことがないような大筏を建造した。
ヘイエルダールは昔のポリネシア人がヒョウタンを水いれに活用していたことを知っていた。また筏の上に積んでいくべき植物に椰子の実が有用である 。
また、地元の人から聞いた耳寄りな情報のひとつに生タマゴを石灰の入った壺の中に入れておくと長持ちする、という古代の方法があった。
こうして出航する2、3日前に、糧食と水とあらゆる装備が筏の上に積み込まれた。
陸軍の糧食を入れた硬い小さなボール箱に、6人に対して4カ月分の糧食を確保した。
コンティキ号は太陽神の巨大なシルシを描いた帆に風をいっぱいにはらませながらずっと順調に進んでいった。
ある朝、厨房でその日の料理当番がフライパンに油をひいていざその日の炒め物を、と用意したときに海からいきなりトビウオがその手にぶち当たってきた。
コンティキ号の人々はその海域にいるあいだ朝方甲板からイカをひろってよく食べたようだ。
イカが体の中に吸い込んだ海水を吐き出す力で推進しているとは推測できるが、翼もないのにトビウオのようにそんなに遠くまで飛べるのかどうか、は不明のままだった。
後日判明したのは、イカは50~60メートルも飛べる、ということだった。羽根をひろげて風に乗って飛ぶトビウオよりもロケットと同じ原理で海水を噴射して飛び上がるイカのほうが長く遠くまで飛べる生き物らしい。
面白いのは、その味を「イセエビと消しゴムをまぜたような味」と表現し、コンティキ号のなかでは一番下等な献立だったようだ。
筏での漂流は船とちがって舷側というのがなく乗組員が動き回っている甲板のすぐ隣が大海原なので、通常の船での漂流と違って海の生物の居場所がすぐ近くで接触も多いというところがあり、それが恐怖であったり楽しさであるような気がする。
そして3か月と少しを過ぎた頃、海原のむこうに目的地が見えてきた。
それは当初の目的地を含む、その群島の一部に違いなかった。そして旅の終わりを次のように締めくくっている。
「ああ、航海は終わったのだ。我々はみんな生きていた。我々は人の住まぬ南海の小さな島にのりあげたのだ。なんと素晴らしい島だろう。(中略)あおむけに倒れて椰子の梢と、うぶ毛のように軽い白い鳥たちを見あげた。いつもじっとしていられないたちのヘルマンが小さな椰子の木によじのぼって、ひとかたまりの椰子の実をもぎ取ってきた。我々はまるで卵でも切るように、その柔らかいてっぺんをナイフで切って、世界で一番おいしい清涼飲料水、種子のない若い椰子の実から出る甘くて冷たいミルクをゴクリゴクリと喉を鳴らして飲み干した」。
さて日本人が関わった「グレートジャーニー」といえば、ユーラシア大陸や海上の道を通って日本列島にやってきた人々の旅ということになろう。
その旅を実証しようとしているのが国立科学博物館などのグループである。
およそ3万年前に、日本人はどのように今の台湾から沖縄に渡ったのか。
2010年に、そのことを検証しようと、当時を想像して「草の舟」を作った。目的地の西表島に到着したものの舟は潮に流され、全体の半分以上の区間で航海を見合わせ、伴走船に引かれることになった。
国立科学博物館のリーダー海部陽介は、「祖先の実像に迫りたいと思ったが、どうやって海を渡ったのか逆に謎が深まった」と語った。
「日の出るところ」を意味する言葉がオリエントで「東方」を意味する言葉となり、ものごとが始まるという意味で「オリエンテーション」という言葉が使われるようになる。
つまり物事のはじまりが「東方」と結びつくようになったのだが、太陽が昇る処に強い関心と興味をもつのは自然なことであろう。
ヨーロッパから見て、オリエントといえば「中近東」を指すが、それはあくまでヨーロッパ(イギリス)からの視点である。 実際、地中海に西岸が面したパレスティナの地は、ヨーロッパ文明の支柱「キリスト教」の揺籃の地であるから、ものごとが始まる場所という意識があった。
ところが、中東の人々にとって「日の昇るところ」はさらに東なのである。
太陽を神と拝する人々が、日の昇るところに「何があるのか」を確認したくて東へ向かったということはなかったであろうか。
日本は文字通り「極東」の国。日本という国名も「日の本(もと)」だし、国旗も「日の丸」。
日本では、「シュメール文明」との繋がりを示す「衝撃的」な発見が相次いでいる。
山口県下関市の西端、関門海峡を目の前にする彦島から、奇妙な模様=「ペトログラフ」を刻んだ石が次々に発見された。
解読進めるにつれ、なんと、それは、シュメールの古代文字だったのである。さらにこの後、ペトログラフは、九州北部と山口県西部の各地で相次いで発見された。
また、福岡県吉井町の珍塚古墳にエジプトのピラミッドの図とそっくりの「女官の船遊び」の絵が描かれている。
これはベトナムから来た人々が書いたといわれているが、本当にシュメール人が書いたのかもしれいない。
吉井町にあるこの古墳の名は「珍敷塚古墳」である。
古代バビロニアの日像鏡、月像の首かざり、武神のシンボルである剣は、日本の「三種の神器」に一致している。
さらには、古代バビロニアに多く見られる「菊花紋」は旭日を美術化したもので、皇室の「菊花紋章」に一致している。
シュメール人自身は自分たちの国を「キエンギ」と呼んでいた。「キエンギ」というのは、「葦(あし)の主の地」という意味となる。
一方、日本では古来より、「豊葦原中国(とよつあしはらのなかつくに)」と称しており、豊かな「葦の原の国」という意味であり、何とシュメール語表記の「キエンギ」の意味と日本の古来の国名は意味が同じになっている。
ヘブライ民族の「出エジプト」を導いたモーセは、生まれてまもなく「葦の船」でナイル川に流されたことが思い浮かぶが、旧約聖書「創世記」にその位置が示されている「エデンの園」の地こそは、後にシュメール文明が栄えた地である。
ペトログラフと呼ばれる「岩刻文字」は日本ばかりか環太平洋で見つかっており、日本での発見が一番多い古代シュメール・バビロニア起源の楔形文字だといわれる。
天に上ろうとしたシュメール人が、バベルの塔建設で神の怒りをかい、日の出る処を水平にめざしたという仮説は突飛すぎるだろうか。

近年、地球温暖化により北極圏の温度の上昇は、閉ざされてきた「北極圏」に交通路を開いているという。
北極圏は、空路としてはヨーロッパに向かう最短距離として使われてきたが、それが陸路でも可能になりつつあるという。
太田裕美の「さらばシベリア鉄道」(大瀧詠一作曲/1980年)の歌詞に「この線路の向こうに何があるの 雪に迷うトナカイの哀しい瞳」とあるが、北極圏近くのシベリアには鉄道が通っているものの、その先にどんな陸上交通手段があるのだろうかか。
実は、日本人が1920年に国際連盟の要請でシベリア出兵した頃に、様々な交通手段が構想され、そこに「陸軌車」というものが製作されたことがある。
「軌陸車」とは、トラックであり鉄道の線路上も走る「二刀流」の交通手段なのだ。鉄道を走る時は、タイヤの車輪が引っ込んで、車体がおりレール上を走る仕組みである。
現在も、トラックで採石を行いそのま鉄道を走り、砂利などをまくという利用がなされている。
さらに、2021年、四国の阿南鉄道で世界初の鉄道と自動車両用で「観光用」としても利用されることとなった。
DMV(デュアル・モード・ビークル)の運転区間はJR牟岐線の阿波海南駅から阿佐海岸鉄道阿佐東線の甲浦駅までの10km。
現在の阿佐東線は海部駅が起点だが、DMVの運行は隣駅の阿波海南駅からとなる。
阿波海南駅が起点となる理由は、DMVは片側運転台のため、始発・終着駅には車両回転設備が必要になるためである。
海部駅は高架駅のため、車両回転設備の設置には多額のコストがかかる。
それを削減するため、起点を1つ徳島寄りの阿波海南駅とし、車両が道路と線路を行き来できるような構造にすることで、車両回転を可能にする。
車両はマイクロバスをベースに改造したもので、座席数は20~30席程度。
開業にあたり3台新造し、営業運転がはじまった。
世界唯一のDMVは観光資源として、海外から人流を含め、徳島から室戸岬方面への新たな観光流動を生むものと期待されているが、新型コロナの影響で大きなニュースになってはいない。
この鉄道の線路上も普通の道路も両方走れる「軌陸車」が陸自朝霞駐屯地に実在している。
国内で唯一現存する旧陸軍の軌陸車「100式鉄道牽引車」はなぜ作られ、そしてなぜいまそこにあるのか。
なぜ旧陸軍は鉄路道路両用の軌陸車を作ったのか。
茨城県阿見町にある陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)に旧日本陸軍の八九式中戦車や三式中戦車が残されているのは有名だが、実は朝霞駐屯地(東京都練馬区)にも旧陸軍の車両が遺されていることはほとんど知られない。
朝霞駐屯地にある車両は「100式鉄道牽引車(けんいんしゃ)」といい、輸送学校という陸自輸送科職種の教育機関の敷地入口に展示されている。
鉄道牽引車という名称ながら、一見するとトラックのような佇まい、それはこの車が「軌陸車(軌道陸送車)」という鉄路と道路の両方を走行することが可能な特殊車両なのだ。
昭和に入って間もないころ、旧日本陸軍は大正時代に行われた「シべリア出兵」での経験から、大陸における鉄道輸送を円滑に行うため、多種多様な鉄道用車両の開発を決定、これにより国産の軌陸車開発がスタートした。
さて、SFの世界に出てくるような空飛ぶクルマの開発も各国で進んでいる。こうした水陸・空陸・水空といった二刀流の交通手段は、ツーリズムの可能性を拡げるだろう。
そしてその活躍の場として考えらるのが北極圏である。「世界の冷蔵庫」と呼ばれることも多い北極圏は地球の温度を調節し、気候変動に対抗する上で重要な役割を果たすが、気候危機の影響で他の地域の2~3倍の速度で温暖化が進む。
氷が融解することで地球上の環境はさらに不安定になるだけでなく、北極圏の貴重な生態系を脅かしているという。
これらの海氷の減少は環境にとってリスクである一方、貨物輸送という観点では、新たな「北極海航路」が開けて従来のルートに比べて航行時間が短縮されるというビジネス上のメリットをもたらす。
一部の海上輸送業者によって行われた試験航海と研究によれば、北極海ルートは2030年までにアジア-ヨーロッパ間のコンテナ貿易全体の約8%に利用されると考えられ、2050年までにその貿易の最大10%に利用が増加する可能性がある。
一方、「ゼロ・カーボン」「ゼロ・ウェイスト」を目指し「Move to Zero」を掲げるナイキは、利用の増加は脆弱な北極海の環境に大きな影響を与えると警鐘を鳴らし、「北極海航路企業宣言」を策定した。
これは、北極海を保護するために、ビジネスで利用することはないという宣言である。
ところで、最近では「宇宙時代」の到来を告げるような富豪の宇宙ツアーがみられる。それは彼らの道楽なのか宣伝なのか、宇宙移住まで視野にあるのか。
いずれにせよドーパミン放出量の過剰な人達であるにちがいない。
こうした宇宙旅行も、広くいえば「人新世」が誘発したツーリズムのひとつとみてよいであろう。