ロシアの「モンゴル体験」

ロシアの起源のひとつが、9世紀頃、ノルマン人のルーシ族がたてた「キエフ大公国」で、モスクワもその領内にあった。
キエフ(キーフ)は、ウクライナの首都で、現在ゼレンスキー大統領が死守している都市である。
ただルーシ族がそのままロシア人となったわけではなく、ルーシ族が支配したチェルノブイリ辺りを起源とする「スラブ人」と同化したのである。
ちなみに、「ロシア」の名は「ルーシ」に由来する。
10世紀にウラジミール1世が、東ローマ皇帝の妹と結婚してキリスト教(ギリシア正教)に改宗するも、13世紀にはチンギス・ハンの孫バトゥのキプチャクハン国がこの地域を支配し、キエフの住人の多くは中央アジアに移された。
その後、キエフに残されたスラブ人などもモスクワに集められ、「モスクワ公国」が形成される。
やがて「モスクワ公国」が、キプチャクハン国から独立し、ロシアの中心となっていく。
キエフ公国からすれば自分達の分身が、モスクワを中心に拡大してロシアに成長していったようなものだ。
ところで、ロシアの作家ゴーゴリが書いた「鼻」という小説がある。
朝、一人の理髪屋が焼き立てのパンを食べようとしたら、その中から「鼻」が出てきた。
男は「鼻」を捨てるために町中を歩き、ようやく河へ捨てることができた。そこへ巡査がかけつける。
今度は、その「鼻」の持ち主が自分の「鼻」を求めて旅する話に展開するのだが、とうとう「鼻」を見つけたと思ったら、「鼻」はなぜか自分よりも位が上の「お偉方」になっていた。
その「鼻」は会話もし、立派な馬車にも乗る。
現実の世界なら卒倒しまいそうな奇怪な小説であるが、それだけにこの「鼻」がなんなのかを考えさせられる。
作家のゴーゴリが現在ウクライナで最も戦闘が激化しているハリキウに隣接したポルタヴァ州の出身であることに注目したい。
ロシアが自分達から離れて肥大化して逆に自分達を襲ってくるかもしれないようなると、今度はウクライナの方がロシアから独立した歩みをする「鼻」のような存在となる。
17世紀半ばロシアにおいて、ウクライナのコサックによる大規模な革命が起きたり、1848年の2月革命の影響を受けて、当時オーストリアに属していたウクライナの西部(ガリツイア)が、自由化を求める運動を激化させた。
ロシア革命の起きた1917年から20年にかけて、ウクライナ全土で民族革命と農民革命が起き、1930年スターリンの集産化政策に反対する農民による大規模な蜂起が起きている。
1945年以降ウクライナはおとなしく見えたが、反共産主義抵抗運動が民族主義者によるゲリラ的軍事行動として起きて、1968年のチェコスロバキアの「プラハの春」では、ウクライナでもソ連の支配が失われると恐れ圧力を強めた。
以上のように、ウクライナの革命はすべてヨーロッパの危機に端を発して起きたものである。
実際、ウクライナの領土のほとんどはヨーロッパのカトリックの国々と繋がっていて、ヨーロッパの社会的・文化的動きと連動して起きている。

ゴーゴリが生きたのは、ニコライ一世統治下のロシア。ニコライ一世といえば、日本史の教科書に登場する「大津事件」の当事者で、皇太子時代に滋賀県大津を訪問し、警備中の巡査が切りかかられる事件が起きている。
ニコライ一世は、国内を管理するため、強固な「官僚機構」を整備したものの、近代化政策ははかばかしい成果を得ることはできず、ロシアは発展からとり残されていく。
その一方で、そうした強権的な体制下では、自然に不正や腐敗が横行する。
小説「検察官」はロシアの田舎町に、検察官がサンクトペテルブルクから行政視察にやってくるといううわさが広がるところから始まる。
そんな折、旅館で料金を払えずに四苦八苦しているフレスタコーフと名乗る一人の男がいた。
検察官の到着を待ちうける各界の名士達は、フレスタコーフが「検察官」であると誤解し、それぞれが賄賂をフレスタコーフに差し出す。
町長や判事、慈恵院主事、校長、郵便局長等「お偉方」は賄賂や横領などでさんざん甘い汁を吸っていたやからばかりだから、追求の矛先がむけられる前に、あの手この手で彼にとり入ろうとする。
そして互いに悪口を言いあって、自分を正当化しようとする。
はじめは何のことやら状況がのみこめなかったフレスタコーフも、どうやら彼らが自分を「検察官」と誤解しているのに気づき、いっそ「検察官」になりすまして「賄賂」をまきようとはかる。
そして、たっぷり「賄賂」を受け取ったフレスタコーフは足早にこの市を立ち去っていく。
フレスタコーフは旅立つ直前にペテルスブルグの友人あてに手紙を出していたが、好奇心と用心から郵便局長があソノ手紙を違法に開封してみた。
手紙の内容は、町の「名士」連中を散々こきおろしてていたばかりではなく、検察官だと思っていた男がただのプータローであることが判明した。しかし、時すでに遅しである。
事実を知って青ざめていた町の人々に、本物の「検察官」の到着が告げられるのであった。
この作品、出版時に印刷工や校正係が笑いで作業が進まなかったというエピソードが残っている。
ゴーゴリの作品の中で、名作の誉れが最も高いのが「外套」である。
実際にゴーゴリの「外套」が1842年に発表されたころ、ドストエフスキーは「貧しき人々」を書いていたが、「私たちはみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」と書いているほどである。
貧しい小官吏のアカーキー・アカーキエヴィッチは、五十の坂を越した役所に勤める万年「九等官」である。
ボロボロの外套を着て、口さがない若者たちから、いつもからかわれている存在である。
しかし、本人は一向に気にかける風でもない。
何十年もの間、与えられた仕事である「書類の写し」を完璧にこなすだけの人生である。
一度、男を「優遇」したいと思った上司が別の仕事を与えてみた。
それは、報告文書の表題を書き改めて、何カ所かの動詞を一人称から三人称に変える仕事であった。
しかし男は、はらはらしてしまい、とても自分には無理だと、元の単純な仕事に戻してもらう。
ペテルブルグに冬が来て、男は外套を着ていても背中に寒さを感じた。
つぎはぎだらけの外套を、仕立て屋に持ち込むと、直しようがないと断られた。
そこでついに貯めていた金と大めに出た賞与で、外套を新調する一大決心をする。
書類写しが人生のスベテであった男の中で、「外套の新調」という言葉が、えもいわれぬ響きを持ちはじめる。
男は食費をけずり、空腹さえも心地よい楽しみになっていった。毎月仕立て屋を訪れ、生地はどうするか、色合いはどうするかと相談を重ねる。
一度たりとも尊敬を受けたことがなくて、誰からも顧みられたことがなかった男に、充実をもたらした。
他人からみればとるにたりない「外套の新調」が、男にとっては、かけがえのない生活のハリとなった。
そして、外套が出来上がる。ところが、その外套を最初に着た夜に、男はペテルブルクの暗い街角で、何者かによって外套を剥ぎとられしまう。
男は上司につてを頼って警察に、真剣な捜査を頼もうとする。
しかし上司はそれを聞くことなく、逆に男をしかりつけ、男の要求を言下にしりぞける。
男は絶望して、悲嘆のあまり死んでしまう。
その後、ペテルブルクには夜な夜な街区をうろつく幽霊が出るといううわさが広まる。
この「外套」が意味するのは、男が仕事について初めて生まれたささやかな「変化」であった。その「希望」でさえもなにものかによって奪われてしまう。
そして街中「幽霊」が彷徨っているという噂がひろがっていく。その幽霊は、その男の上司の「外套」を剥ぎとっていった。

フランスの知性といわれるエマニュエル・ドットは、随分と早い時期から、ソ連崩壊やアメリカの没落などを預言して世界を驚かせた。
ドットは「家族人類学」を専門とするが、その予測の方法は、緻密な「人口動態」の分析である。
例えば、45~54歳の白人層の死亡率の上昇から、アメリカの没落を予測している。
しかしドットの本領は、社会の「家族形態」が政治体制をきめるという斬新な視点による分析である。
「亀は甲羅に合わせて穴を掘る」というように、我々が家族の中で体験する力関係、例えば父権や母権や兄弟の関係は、しらずしらずに人をしてある政治体制を「受入れる/受け入れざる」精神を形創っていく。
またドットは無神論とフロイトのいう「父親殺し」の関係を以下のように論じている。
「仮に神が父の無意識的なイメージであるとすれば、無神論による神の処刑は、非常に平凡な父殺しの単なる知的な具象化であり、その犯人は何人もいて、それは兄弟達にほかならない」。
ドットは、神と父の殺戮が大幅に行われるのは、例えばロシアや中国のようにある特殊な「家族構造」が支配的である社会に限られているとしている。
ロシアや中国では「外婚制共同体」家族が支配的な社会であり、家父長の権威が強力であることから、耐え難い強制力をもつ反面、脆弱さを抱えた社会なのである。
なぜなら、家父長の権威が平等な兄弟たちに対して行使されるため、彼らが父の力に対抗して「同盟」をくむことを促すものだからだ。
それは一種の犯罪的な連帯となり、兄弟達に解放への勇気を与えてくれるのである。
実際に、ロシアや中国が専制的国家である一方で、社会主義革命が実現した国であることが、それを示している。
ドットの分類により「共同体家族」、父親の権威は直系家族同様に存在するものの、財産の相続権は兄弟姉妹に「平等」に存在する。
こうした共同体家族に属するエリアとしては中国やロシア、東欧などに多く、旧共産圏に多く見られる。
こういう側面は、社会主義的平等を受け入れやすい素地となったのかもしれない。
また、「無神論」や「父親殺し」をテーマにしたロシアの文豪ドストエフスキーの小説「カラマゾフの兄弟」が思い浮かばないだろうか。
また共産主義はときには「党」という形で存在している地域があり、選挙における「少数派」であっても定着している地域では、嫁を一族とは別のところから探し出す「外婚制共同体」家族のエリアに多くみられるという。
具体的には、ベリー地方、アローカニア地方、トスカーナ地方、ケララ、フィンランド、そしてベンガル地方の共産主義への支持率はそれだけで、この現象に人類学的な共通点が構造的な特徴として存在することを意味するものであるとしている。
そしてマルクス・レーニン主義の支持率は、特定の地域に限定された現象であること、そして時間が経過しても非常に安定しているということであることも示している。

西欧文明崩壊の危機といえば、15Cオスマントルコの「ウィーン包囲」が思い浮かぶが、もうひとつヨーロッパを危機に陥れた出来事がある。
それは、その2世紀前のモンゴルとの戦い「ワールシュタットの戦い」である。
実は、モンゴル軍による侵略はその恐るべき残忍さと機動性で西方世界の奥深くヨーロッパにまで達していた。
なかでも1240年、モンゴル帝国が現在のウクライナに攻め込んでいった「キエフの戦い」があった。
国内を統一し、南下して中国を支配下に収めたモンゴルは、その次に中央アジア方面を狙ねった。アフガニスタンあたりである。
そのままシルクロードを西方へ向かうような形で、後にロシアに発展する「キエフ大公国」に向かった。
各公国の首都は焼き払われ、ある国では大公一家が惨殺され、ついに大公国全体の首都・キエフ(現在はウクライナ領)を包囲し、陥落させている。
チンギス・ハンは1227年に没したが、恐怖と殺戮の嵐は彼の子供たちに受け継がれることになった。
巨大な帝国は遺言によって5分割にされたが、一番西方に位置するキプチャクハン国のバトゥは、類いまれな大殺戮者であった。
キエフ陥落後はモンゴル帝国の中のキプチャクハン国によって支配される時代が続き、支配された側から「タタールのくびき」とよばれることになる。
モンゴルの勢いはこれにとどまらず、さらに西へ向かい東欧地域へと侵入する。
現在のブルガリアあたりで地元の人々により頑強に抵抗され一度撤退を余儀なくされるが、チンギス・ハンの死後再び西方遠征を始めた。
再度キエフをはじめとしたルーシ諸国は蹂躙され、生き残りはポーランドやハンガリーなどの東欧諸国へ逃げ込んだ。
これを追ってモンゴル軍も西方へ向かったのである。
そして1241年春、ついにバトゥの先遣隊はポーランドの一角に姿を見せた。
恐ろしい殺戮の嵐を巻き起こしながら、怒濤のごとく向かってくるモンゴル軍に辺境の国の住民は大恐慌に落ち入った。
そしてモンゴル軍が現在のポーランド領内に入ると、さすがのヨーロッパ諸国も団結して対抗し、現地のポーランド王国と神聖ローマ帝国、カトリック各騎士団などが連合して戦ったが、モンゴル軍により徹底的に粉砕されてしまう。
これを「ワールシュタットの戦い」と呼んでいたが、最近では「リーグニッツの戦い」と呼ぶほうが多い。ドイツ語でワールシュタットとは「死体の山」を意味するからである。
ヨーロッパでは、主力は甲冑をつけた騎兵で、馬、人間ともに30キロにもおよぶ重い鋼鉄製の甲冑で武装されていた。
一方、モンゴル軍は、馬と一体化した生活をし、馬上で眠り、食事さえした。
機動力で上回り、一騎打ちなどのスタイルなどおかまいなく縦横無尽に攻撃してくる「集団戦法」は、非常に機能的で鈍重な甲冑姿の騎士では対抗できなかった。
ワールシュタットでポーランドのヘンリクの軍団の殺戮を終えたモンゴル軍は、その翌年、ドナウ河を渡ってハンガリーに侵攻し、シャヨー河畔でハンガリー王の率いる軍団を全滅させた。
こうしてあわやヨーロッパ全土がモンゴルの支配に落ちるかと思われたその年、大ハーン・オゴタイが死去するという知らせがもたらされ、バトゥは本国に引き返すことにした。
ユーラシア大陸の約3/4を占めようとしていたモンゴル帝国、次は一体誰のものになるのか。
一刻も早く本国に戻って自身の正当化を計ると同時に、他の候補者を追い落とさなくてはならない。
そして、その最終的勝利者がフビライである。
フビライは首都をカラコルムから中国・大都(北京)に移し、元の初代皇帝に即位する。
そしてモンゴルの矛先は、やがて極東の国日本に向けられる。
ところで最近のロシアのウクライナ侵攻の暴挙に、キプチャクハン国のバトゥの蛮行が重なる。
現在のロシア大統領プーチンは、「ユーラシア主義者」であることを明言している。
「ユーラシア」は、ユーロとアジアを結びつけた言葉であるが、プーチンはそのどちらでもない体制を創ろうとしてきたということである。
プーチンは、ゴーゴリ「外套」の舞台ぺテルブルクの生まれ。日本の柔道を学び「黒帯」となったが、「柔らの道」をすっかり忘れてしまったようだ。