動物の「法人化」

2021年12月にサウジアラビアで始まった「アブドルアジズ国王ラクダ・フェスティバル」は、ラクダに関するさまざまなイベントが行われる祭りで、ラクダのレースやラクダの売買が行われる。
そんなフェスティバルの目玉イベントが、「ラクダのビューティ・コンテスト」である。
ラクダの顔、頭の形や首、こぶ、服装、姿勢を審査して最も美しいラクダを選出する。
美ラクダコンテストの勝者に与えられる賞金は約6600万ドル(約75億円)と非常に高額なことから、このコンテストを勝ち抜くために何年もかけて自分のラクダを磨きまくるブリーダーが多く参加する。
そんなブリーダーの中には、自分のラクダに美容整形手術を施す者が多くいる。
人間がするように二重瞼にしたり、鼻を高くしたり、小顔にしたりするのとは違い、ラクダの美容整形は、美しいとされる垂れ下がった唇やシャープなこぶをつくる。その際、ボトックス注射やフェイスリフトといったことが行われる。
美容整形手術を受けたラクダは失格となることがルールで定められているが、後をたたずこれまで400頭以上が失格している。
そのためX線などを使った検査が行われ対策が強化されている。
あるフェスティバル関係者は、ラクダに美容整形を施すのは「動物虐待」とみなされるとして、「違反者は重い罰金を科され、今後の大会への参加も禁じられる」とコメントしている。
さて最近、ペットを家族同様に思う人が増えている。「コンパニオンアニマル」という言葉も聞かれるようになった。
一方で、ペットに対する虐待や遺棄、ペット産業での粗雑な扱いなどが、ニュースなることが多い。
「動物の権利」への関心が高まる中、欧州では、動物を単なる物ではない存在として認める動きが民法上でも始まっている。
ドイツでは1990年改正民法が、「動物は物ではない。動物は特別の法律によって保護される」と規定しているのだ。
では、日本における民法上の扱いはどうか。
例えば、犬の飼い主が、仮に、毒物などで愛犬を殺害された場合犯人はどのような罪が問われるか。
よく話題になるのが「器物損壊罪」という罪で、犬は法的には「物」扱いであり、「器物損壊罪」の対象になる。
この法律は「損壊」又は「傷害」が構成要件的行為とされ、動物については、「傷害」行為であり、 法的に動物は物であるとはいえ、その用語例への抵抗からか動物への殺傷行為については、「動物傷害罪」と記載する文献もある。
「器物損壊罪」は、親告罪であり、飼い主に告訴権がある。法定刑は、3年以下の懲役または30万円以下の罰金もしくは科料である。
ただし、民法で動物をモノ扱いするのはどうか、ということから、1999年に「動物の愛護及び管理に関する法律」が制定されている。
すなわち動物は単なる物としては扱われてはいない。
商法の定める「動物殺傷罪」では、動物(愛護動物)を殺傷した場合、5年以下の懲役または5000万円以下の罰金に問われると規定されている。
これと同時に、動物愛護監理法にも問われる。こちらの法律は「非親告罪」であり、飼い主でなくても告訴できる。
愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は1年以下の懲役又は100万円以下の罰金という罰則規定がある。
ただどちらの罪が適用になるかについては、あまりわからない。
さて日本では、青木人志という法学者が、10年も前から「法学的思考実験」として「動物の法人化」という提言をしている。
青木教授は、フランスの法学者の法律論を参考に、研究材料として動物の「法」を研究しておられる。
教授によると日本では従来、動物愛護の問題は法律ではなく常識やモラルに委ねられるものという感覚があり、そのためか、日本では動物に関する法の研究者はほとんどいなかったそうである。
通常「法人化」とは、人(自然人)にたいして、団体を「人」と同じように擬制化して「権利義務」の主体とみなすというものである。
それでは、「動物法人化」とは何かというと動物に「法人格」(法律上の人格、権利)を与えるという考えである。
「株式会社」や「財団法人」などが、それ自体は「人」ではないが法律上の人格(権利能力)を持つのを、動物にもあてはめようという考えである。
ただし「権利」といっても、動物自身は裁判を起せないので、人間または団体が「代理人」となって、権利を行使できるようにするという考えである。
ただ「動物の法人化」は、表現の自由や居住の自由といった「人間と同じ権利」を与えるものではなく、その中心的内容は「不必要に殺されたり虐待されたりせず、天寿をまっとうする権利」であろうと考えられている。
本当に、そんなことは可能なのかと考える人が多いであろうが、青木教授によれば、日本の法律はローマ法学に由来しており、権利主体である「人」と、それ以外の「物」を分けて考える「人・物二元論」から成り立っているという。
つまり動物は「人」ではないから「物」に分類されるというのが従来の考え方である。
ところが、20世紀後半から、ヨーロッパを中心に法学の世界では、動物が「物」から「人」へ近づく「第三の位置づけ」とされる流れが生まれつつある。
そこで、日本の現行民法では何が問題となるのか。
例えば動物は権利の帰属主体とはなれないために、もし飼い主が自らのペットに財産を残したいとしても、ペット自身に財産を継承させることはできない。
また、ペットが事故にあって刺傷しても、物と同様に扱われるために、人が死傷した時のような高額の慰謝料は認められない。
自動車内に動物が長時間放置されて所有者の居所が分からない場合、動物愛護団体が窓を壊して救出したら、逆に法的責任をを問われる可能性もある。
もちろん動物に「法人格」を与えるためには壁や検討課題も多い。
動物の権利よりも、人権の問題にもっと取り組めという声が聞こえてきそうである。
しかし、数年前に日本の伝統的なイルカの追い込み漁が、動物愛護団体から批判され、「動物福祉」に反した業者を見逃すように賄賂がわたった政治家の汚職にまで発展したケースもある。
そこで、動物は生命や感覚をもつ存在である以上、「動物の法人化」を漫画のようなこととはいえない、そんな世界的な潮流さえ起きている。

人間と動物の「戯画(漫画)的風景」といえば、5代将軍・徳川綱吉の「生類あわれみの令」を思い浮かべる。それに負けず劣らぬ戯画的風景がある。
1728年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清(中国)の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。
国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを買えるのは、幕府や大名に限られていた。
そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って「御用伺い」をした。
幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、発注し取り寄せていたという。
メス・ゾウは上陸地の長崎で死亡したが、オス・ゾウは長崎から江戸に向かい、途中の京都では、中御門天皇(なかみかど)の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が「無位無官」であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。
この象の「発注」主は徳川吉宗で、とにかく新し物好きで海外の産物に溢れんばかりの好奇心を示した人物であった。
サトウキビの栽培を試みたり、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励するなどしている。
また酪農も推奨し、珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。
とはいっても「生きた象」が日本に渡来したのはこの時が初めてではなく、5回目であったという。
ただ、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたという点で、従来の場合とは異なるところである。
歴史にのこる最初は、1408年で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着した。孔雀2対などと共にインドゾウが献上されたとある。
吉宗が招いた象も1730年6月には早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、「浜御殿」で飼われたという。
もちろん、相当な飼育費がかかったと推測されるが、1741年4月、江戸中野村の源助に下げ渡され、見世物になった。
翌年暴れまわって騒ぎを起こすなどしたこともあり、この年の末には21歳の波乱の「ゾウ生」を閉じた。
「官位」までも頂き天皇謁見の栄誉に与った象ではあったが、末路は寂しいものだった。
ただ象がやって来たのが江戸の大衆文化の勃興期にあたり、歴史上これほど多くの人々の目にさらされた点で、この象の上に出るものはいなかった。
中国からやってきたこの象は、様々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野にも題材を提供し旋風を巻き起こし「レジェンド」ともなった。

15年ほど前、ドイツ・ロマンチッック街道にあるヨーロッパ中世の街ローテンブルクで「中世犯罪博物館」を訪れたことがある。
罪人への刑罰のひとつに動物のお面を被らせ見世物にするというのがあり、そのお面が牛・豚・狐など多彩であったのが印象的であった。
このような人間への刑罰は、13~17世紀前後の中世ヨーロッパでは、「動物裁判」というものが流行したことと無関係ではないかもしれない。
「動物裁判」とは、その名の通り罪を犯した動物を、人間と同じく裁判にかけて処罰するというもの。
罪状と判決は様々で殺人罪のブタや、破門宣告を受けたバッタ。弁護士の力量で無罪になったネズミなどが存在した。
もちろん記録に残っていない動物の処罰も数多く存在するから、島流しにされたヘビなんかもいたかもしれない。
これらの「動物裁判」は頻繁にあったわけではないが、残存資料に残されている動物裁判の履歴は、有罪となったものだけでも9世紀から19世紀にかけて合計142件記録されている。
特に動物裁判が活発だったのは15~17世紀にかけてで、裁判の合計件数は122件となっている。
特に裁かれる多かった動物はブタ。
中世のブタは、現在のブタと違いキバが生えイノシシに近い獰猛で、その上農村ではブタを放し飼いにしていた。そのため、ブタが暴れまわり人間を殺傷するのは珍しくなかったという。
動物裁判の流れは、当時の人間に対する裁判とほぼ同等で、犯罪が確認された動物は憲兵隊によって逮捕され、裁判所の監獄「ブタ箱」に投獄される。
多分、2、3年に一度のケースのために動物専用の監獄を作るのも面倒だし費用もかかるので、人間と同じ牢にいられれた可能性もある。
罪を犯して服役したらブタと同室になり、騒音と臭気に悩ませられる可能性もある。
現代の刑務所では、罪が重い奴のほうが偉いとかいう不文律のある監獄もある。
仮に窃盗程度で捕まったら、隣のブタは殺人罪なのだから、シャバでもダメ人間なのに監獄でも"ブタ以下"ということになる。
監獄にいれられたあとは、検察官が被告を起訴し、それが受理されると弁護人が任命され、被告は出頭を命ぜられる。
その後の裁判の流れも通常と同様に、罪状が読まれ求刑を求められ、無罪か有罪かの判決を受けた。
有罪の場合、大抵は絞首刑となる。
ただ、必ずしも一方的に裁かれるとは限らず、昆虫裁判でもちゃんと弁護人がいて、弁護人の主張によって情状酌量で無罪になったり減刑になる場合もあった。
当時では、殺人が行なわれるとそれが動物によるものであっても人間によるものであっても無生物であっても、正式に裁かれなければ神の怒りに触れると考えた。そのため、このような「動物裁判」が発足したと考えられている。
現代人は、昆虫に破門宣告をしたり強制退去を命じても、それにどんな意味があるかと思うが、当時の人々は大真面目であり、中世のコスモロジーの中では破門宣告にも何らかの意味を感じたのだろう。
ただ、動物と人間を対等に扱うこうした「意識」は、中世の古い話とばかりに看過してはいけない。
現代においても「自然の権利裁判」といのがあった。
アメリカのクリストファー・ストーン博士が山地のリゾート開発を止めるための訴訟に際し、「樹木の当事者適格――自然の法的権利」という論文を書いて支援したことが発端と言われている。
我々は、社会契約思想の関連で「自然権」つまり人間が生まれながらもつ権利というものを学ぶ。
しかし今や、自然それ自体を自立した存在としてみなす「自然の権利」の提起である。
そういえば、間に変えられた環境がかえっれる時代を、地質年代に「人新世」を加えるという提起があったことを思い出す。
よくよく考えれば、人間社会は新型コロナでここ3年苦しんできたが、人間が活動を停滞することによって、どれほど自然は、その活力を回復することができたであろうか。

西洋圏で「動物福祉」、さらには「動物権」の思想が急速に浸透している。背景には、大きな文明の転換ともいえる流れがある。
近年、人間中心主義の「啓蒙思想」(現代文明)に代わり、脱人間中心主義、自然中心主義を基軸とする「ネオ啓蒙思想」(新文明)が台頭している。
21年10月には、カバの処遇を巡る訴訟で、米オハイオ州の地方裁判所がカバを原告とすること(実際には弁護士が代弁するが)を認めた画期的な判断を出したというニュースが世界中を駆け巡った。
このカバは、コロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルが1980年代に自宅の動物園で飼育するため密輸したカバの子孫で、エスコバルが93年に警察に殺害された後は広い敷地内で放置されて繁殖し、地域住民の安全を脅かす存在になっていた。
審理の中で米動物保護法律基金(ALDF)が、オハイオ州の野生動物専門家2人をカバの代理人としてオハイオ地裁で証言させるための法的な申請を行い、証言が認められたのだ。
カバが原告になることは、動物に「人格」や「法人格」を認めたことを意味する。
ちなみに、麻薬王エスコバルは、コロンビア警察に逮捕されたが、自分が入るレジャーランドのような刑務所を寄付し、そこで優雅な刑務所暮らしをしたが、刑務所内で殺人をおかし脱走。その後、エスコバルの私兵と警察との銃撃戦の末に、壮絶な最期をとげた。
さて動物権を認めたのはオハイオが初めてではない。
アルゼンチンでは16年にチンパンジー、19年にオランウータンを動物園から「釈放」し、それぞれブラジル、フロリダの保護区に移すよう命じている。
17年にはコロンビアの最高裁判所が、メガネグマを動物園から釈放して自然保護区への移送を命じており、人権を保護する「人身保護令」の動物への適用はすでに始まっている。
こうした動きは、西洋文明圏で大きな文明的な転換が始まっているという背景に着目すべきだろう。
西洋圏では、これまで主流だった「人間中心主義」を基軸とした「啓蒙思想」の文明観から、自然(地球、環境、動物など)へのやさしさを重視する「ネオ啓蒙思想」の文明観への転換が始まりつつあるのだ。