福岡「道場ものがたり」

福岡・黒田藩には、「東学問所」(修猷館/平和台あたり)と「西学問所」(甘棠(かんとう)館/唐人町あたり)という二つの藩校が存在したのは、全国的に珍しいといわれている。
一方、福岡には明治以来の伝統を有する青年道場が四館あり、うち三館が現在も運営されていることも、かなり珍しいことではなかろうか。
「明道館」(玄洋社付属/中央区赤坂一丁目)、「隻流館」(福岡藩柔術指南創設/博多区上呉服町)、「天真館」(内田良平創設/中央区天神三丁目)は現存し、「振武館」は、現在は存在しないが、かつて早良区の鳥飼八幡宮内にあった。
この「振武館」にて剣道を学んだのが中野正剛である。
中野は太平洋戦争来、福岡選出の衆議院議員で、政府お墨付きのいわゆる「翼賛議員」ではなく、自ら「東方会」を組織し東条内閣を批判するなどしたため、政府により圧力が強まる中、謎の自刃をしている。
「明道館」(柔道場)は、1896年玄洋社の付属道場として西職人町(西新)に創設するも、1961年赤坂に移転新築し、現在に至っている。
ここから広田弘毅(内閣総理大臣)、安川第五郎(日本原子力開発会長)、緒方竹虎(第四次吉田内閣副総理)、山座圓次郎(中国特命大使)など錚々たる人材を輩出している。
さて福岡には、絵画の世界の青木繁と坂本繁二郎のように、互いに切磋琢磨した「永遠の隣」といえる関係が、もう一組ある。
政治の世界の中野正剛と緒方竹虎である。
中野と緒方は小学校から高校(修猷館)まで同期で、大学は早稲田と一橋と異なるものの緒方は中野と同じ早稲田に移り、さらに同じ朝日新聞に入社する。
ふたりは、中野正剛が「振武館」で剣道を学び、緒方竹虎が「明道館」で柔道を学び、共に武道でも修練に励んだ。
二人は規を一にして歩むものの、政治の世界に入ってからは、それぞれが異なる政治意識をもち袂を分かった。時に会うことがあっても政治の話をすることは避けたという。
二人の性格は対照的で「修猷山脈」(西日本新聞社刊)の中に次のように書いてある。
「天才的な中野の感性は一時も休まることなく、常に新しいものを求め続け、あらゆるものにキバをむき、そして果てる。その一生は自刃という悲劇的な最後を完結するための傷だらけのドラマだった。人の意を受け入れ、時を知り立場をはかった緒方の一生は、中野とは逆に平穏であった。肉親、知己の愛に恵まれ、後世に名を残し、眠るように大往生をとげた」。
福岡市早良区の鳥飼八幡宮の近くには、中野正剛の銅像がある。
この銅像横の「中野正剛先生碑」の文字は、親友・緒方竹虎の書による。
緒方は中野の葬儀委員長を務めるが、東条内閣に睨まれていた中野の葬儀委員長を務めることは勇気ある行動であった。政治に対する考え方は異なったが、二人の友情が失われていなかったことを物語っている。
なお緒方竹虎の三男・緒方四十郎は元・日銀理事、その夫人が元国連難民高等弁務官事務所の緒方貞子である。
緒方の生家は、中央区・赤坂郵便局に接して石碑が立っている。

宮本武蔵といえば江戸時代初期に実在した剣豪だが、生涯で60回以上戦い一度も負けなかった。
つまり「生涯無敗」ということだが、逆にいうと、武蔵に敗れた者達がそれだけ多くいたということである。
それでは、その敗れたライバル達は、その後どんな人生を歩んだのだろうか。
柳生一家は他流派と戦うことを禁じ徳川家の剣術指南役となり、吉岡一門は剣とは異なる道「染色」で天下に名をあげた。
福岡にも、「柳生家」の流れをくんだ剣術の指導者がいる。その人は、歴史上の有名なエピソードの主人公の子孫でもある。
福岡市舞鶴の少年文化会館近くに、かつて「長屋門」という居酒屋があった。
たまたまその店に入ると、店内には、なぜか槍や鎧の置物がたくさんあった。
話を聞くと、店主は「黒田節」の主人公である母里太兵衛(ぼりたへい)の子孫「母里忠一」だという。
ご先祖である母里太兵衛は、黒田長政より使いにだされ、豊臣秀吉配下の実力者・福島正則に面会した。
太兵衛は、あらかじめ酒豪・福島正則の話を聞いており、本来の役割を果たすためにも酒を控えるつもりでいた。
しかし太兵衛は福島正則に「この大杯で酒を飲みほすならば望みのものは何でもあたえよう」という挑戦をうけ、黒田家臣の威信をかけて見事大杯を呑み干した。 そして苦る福島正則から歴史的な名槍「日本号」をうけとった豪傑・母里太兵衛の話は、福岡城内で人々の話題となった。
さらに、明治時代の謡曲「黒田節」によって、「日本号」をめぐるエピソードはあまりにも有名になった。
「酒は飲め飲め飲むならば、日の本一のこの槍を、呑みとるほどに飲むならば、これぞまことの黒田武士」。 実は、「長屋門」の店主・母里忠一は、黒田藩に伝わる「柳生新陰流師範」として、子供達に剣道の指導をしておられた。
また黒田藩に伝わった名槍「日本号」は、代々家宝として伝わり秘蔵されてきたが、様々な経緯を経た後に、現在は福岡市博物館に保管されている。
もうひとり、宮本武蔵に負けたことで新たな剣術を目指したのが、「夢想権之助(むそうごんのすけ)」である。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120センチの長い木刀で挑んだのに対して、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。
夢想権之介は数多くの剣客と試合をして一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と試合をして、二天一流の極意「十字留」にかかり押すことも引くこともできず完敗する。 権之介は、この武蔵の剣術に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参拝し、「丸木をもって水月を知れ」との御信託を授かった。
そして、宝満山を拠点にして修練を重ねた夢想権之助は、福岡藩に抱えられ「神道夢想流杖術」という武術一派を確立したのである。
その特徴は剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツクものである。

日本の映画界に「特撮の名手」といわれる人物が二人いる。その一人は古賀市出身で円谷英二とともに、ゴジラの制作にあたった井上泰治。
もう一人が筑紫野市出身で、「ブルースリーを撮った男」西本正。彼がどうして「特撮の名手」なのか。
ブルースリー主演の「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ「格闘シーン」はブルースリーの映画の中でも圧巻であった。
このシーンを撮ったのが、日本人カメラマン・西本正である。
西本正は1921年、福岡県筑紫野市に生れた。少年時代を満州ですごし、満州映画協会の技術者養成所に入った。
1946年、敗戦とともに日本に帰り、日本映画社の文化映画部を経て、1947年新東宝撮影部に入社。
西本が新東宝にいたとき、当時の社長が香港ショウ・ブラザースの社長と知り合いで、カラー映画の製作が始まったばかりの香港で本格的なカラー大作を作るのでカメラマンを貸してくれという話が起こった。
そこで、西本が香港に招待され、独立してCMの製作をしていた時、ショウ・ブラザースから独立した会社の社長から、ブルース・リーの第一回監督作品のカメラマンを依頼されたのがきっかけである。
最初はローマ・ロケだけを頼まれたが、ローマの現像所でラッシュを見たらカラーの出かたが素晴らしいので、ブルース・リーがその技術にすっかり惚れ込んで、その後の撮影も、直々に依頼されたという。
実は、ブルースリーの遺作となった「死亡遊戯」のクライマックスシーンも西本正の撮影である。
西本正は、日本の高度な映画技術を伝達し、いつしか「香港カラー映画の父」とも呼ばれる。
「ブルースリーを撮った男」西本正は、香港映画ばかりではなく日本のホラー映画の撮影でも「新境地」を開いている。
新東宝の中川信夫監督の下で撮影したホラー映画の傑作「亡霊怪猫屋敷」(1958年)や「東海道四谷怪談」(1959年)には「特撮技術」が駆使され、その技術は後の香港ホラーの「キョンシー」映画の人気にも影響しているのではなかろうか。
西本正は1997年に亡くなるが、「ブルースリーを撮った男」西本正が生まれた筑紫野市には、宝満山が聳え立っている。
この宝満山こそは、前述の「神道夢想流杖術」の発祥の地である。

個人的な話だが、あるテレビ番組で「神道夢想流杖術」の「杖使い」を見た時、どこかで見た「杖使い」だと思った。
しばらく記憶を呼び起こすと、それはかつてテレビで見たことのある新人警察官の訓練における「棍棒使い」とよく似ていた。両者は、繋がっているのではないか。
九州最大の繁華街である天神・渡辺通り3丁目の住宅街の中にひっそりと「天真館」がある。
その道場のすぐ前に「九州初の道場」という石碑が立っている。この道場の創設者が内田良平である。
内田良平は、旧福岡藩士であり、武芸の達人として知られた内田良五郎の三男として唐人町に生まれた。
18歳の時、頭山満の玄洋社の三傑といわれた叔父(父・良五郎の実弟)の平岡浩太郎に従い上京して講道館に入門し柔道を学んでいる。
その後「東洋語学校」に入学しロシア語を学び1897年シベリア横断旅行を試みる。
平岡浩太郎の影響を受けて、日本の朝鮮、中国への勢力拡大に強い関心をもった。
そして内田良平は、玄洋社の海外工作部というべき「黒龍会」を設立する。その名は、ロシアと朝鮮の国境を流れる黒龍江(アムール川)に由来している。
1903には「対露同志会」を結成し、日露開戦を強く主張するなどした。
1905年には、宮崎・末永節らとともに孫文・黄興の提携による「中国革命同盟会」の成立に関係し、フィリピン独立運動指導者のエミリオ・アギナルド、インド独立運動指導者のラス・ビハリ・ボース(中村屋のボース)の活動も支援した。
1906年に韓国統監府嘱託となり、初代朝鮮統監の伊藤博文に随行して渡韓した。
翌年、「一進会」会長の李容九と日韓の合邦運動を盟約し、その顧問とな った。
のちに内田と李容九の合邦論は、合邦反対派から日本政府の「日韓併合」をカムフラージュしたとされ、李容九は「売国奴」と呼ばれた。
内田は日韓併合後の政府の対韓政策には批判的で、後に「同光会」を結成して韓国内政の独立を主張している。
1911年の中華民国成立後は「満蒙独立」を唱え、川島浪速らと華北地域での工作活動を政府に進言している。
「シベリア出兵」(1918年)には積極的に賛成するなど右派色を強めていくが、一方で1921年のロシア飢饉の際には救済運動も行っている。
内田良平は、大本教の総裁にも就任するなど一言では表わせない「怪人物」である。
内田良平は、1937年7月に死去するが、この内田良平の父・良五郎こそは、宝満山で開眼した夢想権之介を開祖とする「神道夢想流杖術」というローカルな武術を東京に伝えた人物である。
内田良五郎の門下には、中山博道がいる。
中山博道は、杖道、剣道、居合道の範士となり「昭和の剣聖」と謳われた人物で、「内田良五郎師範より神道夢想流を学んだことにより剣道の裏が解り、杖の技が剣道に大いに役立った」と述懐している。
さて夢想権之助を開祖とする「神道夢想流杖術」は当初「真道夢想流」と称していたが、第五代原田兵蔵が自身の工夫を加え「新當夢想流」と改称した。
第七代永富幸四郎のころよりおおいに隆盛し、「伝書」の整理が行われ、徐々に「神道夢想流」と称されるようになった。
第二十四代師範の白石範次郎により育成された優れた門人が杖術を広め、その一人が第二十五代師範の清水隆次である。
清水は昭和の初めに上京し、頭山満、末永節両翁の指導を仰ぎ、渋谷の頭山道場を中心に講道館、警察講習所、警視庁、海洋少年団他の全国組織から、旧満州国の協和会青少年部まで、振興に尽力した。
明治維新後の廃藩置県で、保護者を失い衰退した時期もあったが、白石範次郎なる人物が道場を開き流派の継承に尽力した。
1927年、警視庁の弥生祭奉納武術大会において福岡県から参加した白石の弟子である清水隆次の「神道夢想流杖術演武」が好評を博した。
1940年には「大日本杖道会」が創設、これを契機に杖術が「杖道」と称されるようになった。
清水はこれをきっかけとして警視庁の「杖術教師」となり、特別警備隊(後の機動隊)の警杖術訓練を指導した。
清水が教えたの警杖術は群衆整理を主目的とするものであったが、場合によっては武器としても活用できるように訓練された。
「逮捕術」の基本構想が生まれたのは戦後まもなくの1947年で、この「逮捕術」のひとつと数えられるのが、「神道夢想流杖術」を源流とする「警杖術」だが、「警杖」とは警棒より長く、全長は90cm・120cm・180cmの3種類が存在する。
今の警察庁にあたる内務省警保局が「逮捕術範」「逮捕術実施要領」を定め、その後、各都道府県で導入されていった。

福岡市東公園には、福岡県庁と並んで福岡県警察本部が置かれている。
実は、この東公園にシンボルとなる「亀山上皇像」を作ったのが、湯地丈雄という警察関係者である。
「亀山上天皇」建立のきっかけとなったのが、「長崎事件」である。
日清戦争の10年ほど前に、清国の定遠、鎮遠という大型戦艦が長崎港に入港し、その大きさに長崎市民が圧倒された。
というのも、定遠は7700トンの大型艦で、かたや日本海軍の当時の一番大きな船でも2000トンクラスしかなかったからである。
長崎市民がその大きさに度肝を抜かれていた頃、清国兵が長崎の町で乱暴狼藉をはたらき現地の警官と衝突した事件があった。これを「長崎事件」という。
福岡の警察署長であった湯地はその事件の応援に行き、この事件は日本人の「平和ぼけ」からきていると思い始めた。
そして、いつ外国が攻めてきてもおかしくないと危機感を持つべきだと思うようになった。
そして、この福岡の地に元寇の記念館がないことに着目し、一念発起して元寇の記念碑を建てることを決意したのである。
元寇は当時唯一日本本土が外国から攻められて火に焼かれた場所で、現在の東公園こそが元との戦いの舞台となったところで、その時のて朝廷方のトップが「亀山上皇」であった。
亀山上皇の「敵国降伏」の文字のある篇額が筥崎八幡宮の門に掲げてある。
湯地は、警察署長の職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めていったが、なかなか集まらず生活も極貧の中で妻や子供に苦労をかけながらも20年の歳月をかけて福岡市の東区に亀山上皇の立派な銅像を建立したのである。
亀山上皇像の台座には、「明道館」で柔道を学んだ元首相・広田弘毅の父親などを含む数名の制作者(石工)の名が刻んであるが、湯地の名はない。
ただ、妻と子の名前を書いた石を下に埋めたのだという。

男装の女医・高場乱(らん)が、創設した塾は「興隆塾」、通称「人参畑塾」とよばれ、博多駅の近く住吉近くにあった。
玄洋社の中心メンバーをはじめとして、多くの志士達がその塾から巣立っていった。