聖書の言葉(主に栄光を帰す)

安倍首相の狙撃事件で、政治と宗教団体との関係が取り沙汰されている。
高額な物品などを購入させる宗教法人の実態とか、政治家がそうした宗教団体との関わることの問題点などである。
ちなみに、旧統一教会にも正式名称に「基督教」という文字がついていた。
まともなキリスト教ならば、「聖書にどう書いてあるか」とか、「聖書の言葉を実践した場合に、その結果はどうか」とか、「その結果は”福音”に反しないか」など、自ずから吟味されようというもの。
聖書を大事にするのは、聖書こそ信仰の逸脱を防ぐバイブルでもあるからである。
イエスは「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともない」。(マタイ福音書7章17-18)とのべている。
またパウロは「聖霊の実」について、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテア人への手紙5章16-26)と書いている。
聖書は同時に、信仰が本来のものから離れ易いことを教えている。
パウロは信徒に、「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである」(ガラテヤ人への手紙1章6-8)と、書いている。
ちなみに「福音」とは、イエス・キリストの十字架の死によって人類の罪が贖われ、人々は洗礼と受霊を通して、イエスの「復活」の様と等しく、「永遠の命」にあずかるという「良き知らせ」のことである。
また、「ヨハネ黙示録2章」には、7つの教会が登場するが、ヨハネは「御霊が諸教会に言うことを聞きなさい」と、まるで後世への警告ように「責むべきこと」を指摘している。
それは異教の教えをとりこんだ教会(ペルガモ)、偶像を入れた教会(テアテラ)、眠りに落ちこんで、ぬるま湯につかっている教会(ラオデキア)など、ヨハネは聖霊に感じて、具体例をあげている。
実際に、キリスト教は十字軍遠征のように「神の言葉」ではなく、権力者の思惑で動いていたり、また「魔女狩り」などに見られるように「異教的要素」を取り入れ、逸脱を繰り返している。
また、キリスト教会は様々な教派にわかれているが、立ち返るべきは原点はイエスの言葉とイエスの直接の弟子たちがどのように行っていたかである。
それは「福音書」のみならず「使徒行伝」の中にあり、例えば使徒達は「洗礼」をどのように行っていたかなどをみれば、そこからの「逸脱」がわかろうというものである。
使徒達は洗礼を「イエスの名」で全身洗礼を行っていたが、現代の多くの教会は「父と子と聖霊の名によって」と神の名不詳のまま、(身体の)部分的洗礼で済ましている。
イエスはペテロに「身体を洗った者は全身が聖い」(ヨハネの福音書13章10)と語っている。
しかし、そんな原点たる「使徒の働き」においても「分裂」があったことが記されている。
「あなたがたがそれぞれ、"わたしはパウロにつく""わたしはアポロに""わたしはケパに""わたしはキリストに"などと言い合っているとのことである」。(コリント人への第一手の紙1章12)。
ここで、キリストがパウロやアポロなどと同列にされており、パウロは「福音」の原点に立って次のように諭している。
「キリストはいくつにも分けられたか。パウロはあなたがたのために十字架につけられたことがあるか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテストマ(洗礼)を受けたことがあるか」と。
そして「アポロは一体何者か、また、パウロは何者か。あなた方を信仰に導いたひとにすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて、仕えているのである。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは神である」(コリント人への第一手の紙3章6-7)と述べている。

我が幼き日に「ジェリコ」というアメリカのドラマがあった。
それは、第二次世界大戦中にドイツに侵入して様々な工作を行う連合軍の特殊技能者の部隊を描いたもので、そのスリリングさは今でも忘れがたい。
この「ジェリコ」が、旧約聖書に登場する難攻不落の要塞「エリコ」であることを知ったのは、かなり後になってのことであった。
さて、「出エジプト」を率いたモーセが亡くなり、その後継者ヨシュアによってめざす処カナーンの地に入ろうとした時に、ヨシュアはその状況をさぐろうと二人の斥候(せっこう/スパイ)を送ってエリコの町の様子を探らせた。
二人の斥候はエリコの町に忍び込み、様子を探っているとき、彼らはラハブという遊女の家に入り、ラハブは彼らを匿った。
ここで「遊女」とは微妙な表現だが、聖書で「遊女」というのは、神殿娼婦をさす。
神殿娼婦は病気を治癒する者として崇められ、魔術師、預言者、占い師でもあったが、聖書では、偶像崇拝と関わる好ましくない存在である。
さて、イスラエルの斥候が来たという噂がエリコの王に届くと、さっそく探索が始まる。
探索隊がくると、ラハブは二人を家の屋上の"亜麻の束"の中に隠して、「二人の人が確かに来たが、夕方になって出て行った」といって誤魔化した。
探索隊が帰った後、彼女は二人を城壁の窓から綱でつり降ろして脱出させた。
不思議なことは、エリコの住人であるラハブが何故彼らをかくまったのか、ということである。
聖書は、ラハブの思いを次のように伝えている。
「あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。それを聞いた時、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたち神、主こそ上は天、下は地に至るまで神であられるからです」。
これはカナーン人でありながら、イスラエルの神に対する「信仰表明」といってよい。
さらにラハブはイスラエルの斥候二人に、次のように願った。
「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示すと、今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください」。
つまりラハブは、このエリコは早晩イスラエルの民によって攻め滅ぼされる、その時に、自分と自分の一族を救ってほしいと願ったのである。
このラハブの願いに対して二人の斥候はひとつの約束をする。
それは、イスラエルがエリコに攻め込む時、ラハブの家に一族を皆集め、その窓に彼らが与える”真っ赤なヒモ”を結びつけて目印とするなら、その家の中にいる者は皆助けると約束したのである。
出エジプトの際に、鴨居に塗った羊の血が、イスラエルを疫病から守ったことを思いおこす。
二人の斥候がエリコの町を去った後、ラハブは彼らから与えられた”真っ赤なヒモ”を窓に結び付けた。
そしてヨシュアは、二人の斥候に「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。
そして二人の斥候は、ラハブとその家族を連れ出し、イスラエルの宿営のそばに避難させたのである。
その後、イスラエルの軍勢は神の言葉に従って、「契約の箱」を担ぎ、角笛を吹き鳴らしながらその回りを1周し、二日目には同じように2周した。
そのことを7日間続け、7日目には町の回りを7周し終ると、一斉に鬨(かちどき)の声を上げると、難攻不落といわれたエリコの城壁は崩れた。
こうしてイスラエルはヨルダン川を渡ってカナーンの地へと第一歩をしるし、最初の都市エリコを攻め滅ぼしたのである。(ヨシュア記6章)
そしてラハブとその一族は、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住むこととなった。
ところでラハブとその一家の話はここで完結しない。それどころか信じがたい展開を生む。
ヨシュアの決断でイスラエルの中に棲むことを許されたラハブの子孫から、ダビデ王が生まれイエス・キリストが生まれるのである。
そんな驚くべき展開が、「イエス・キリストの系図」(マタイによる福音書1章)に、"こともなげ"に書いてある。
この「こともなげさ」こそが聖書の特徴なのである。
さて「エリコ」をめぐる戦いで注目したいのは、TVドラマ「ジェリコ」と違って、誰ひとりとして「英雄」が存在していない。あるのは、イスラエルが「神に従った」ということのみである。
人間のドラマとして描くのなら、これほど面白くないストーリーはない。
ただ「主の栄光が顕われる」という観点からみると、異邦人であり遊女であったラハブの信仰が「イエスキリストの系図」に名を連ねたことを合わせて、これほど荘厳な出来事はない。
「神の御名のみが崇められる」という点で、旧約聖書にはもうひとつの戦いが記されている。
時代が下ってイスラエルの王政に先立つ「士師時代」は、「士師」とよばれる指導者が民衆を導く時代であった。
つまりイスラエルには王がいなかった時代に、ギデオンとよばれる士師がいた。
敵であるミデヤン人や、アマレク人などが「いなごのような大群」で谷に伏していた。
それらの敵と戦うギデオンに対して神は、なんとイスラエルの戦士の数を減らすように命じた。
その理由は、後々イスラエルが自らの力によって勝利したと誇らないためだという。
そこで恐れを抱くものは即帰るようにいうと、2万2千人が帰っていき、残ったの者は1万人だけになった。
しかし神はそれでもまだ人数が多いと、彼らを湖の水際に下らせるよう命じる。
その中で、手ですくって水を飲むものを選び、ひざをついて飲む者を帰らせた。
つまり武器をいつでもとれる臨戦状態で水を飲んでいる者だけを選んだのである。
ひざをついて水を飲むものは武器を手離し、敵の不意の攻撃に対して警戒を怠っているからである。
そして、条件にかなう戦士を集めたところ、かろうじて300人。
イスラエル人は、いかに精鋭とはいえ、わずか300人だけでどうやって「いなごのような大群」と戦うのか、と思ったに違いない。
そして神がギデオンに命じた戦いたるや、実に風変わりなものであった。
ギデオンは300人を3隊に分け、全員の手に角笛とからツボとを持たせ、そのつぼの中にタイマツを入れさせた。
そして、真夜中の番兵の交代したばかりの時間、陣営の端に着いたギデオンが角笛を吹きならす。
すると全陣営、回りの百人ずつの三隊が一斉に角笛を吹きならし、つぼを打ち砕きながら「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫ぶというものだった。
そして各自が持ち場を守り、敵陣を包囲したのである。
そして300人が角笛を吹き鳴らしているうちに、陣営の全面にわたって同士打ちが始まったのである。
結局、ギデオンの勝利は神の働きと人の動きが一つになってもたらされたものである。
、 注目すべきことは、「ギデオンの300人」のエピソードの中には1人の英雄もいない。
一般に、戦(いくさ)では大概手柄をたてたり英雄が現れるのに、エリコの戦いには一切それがなく、「神の御名のみが崇められる」という戦いであった。
しかし、人間は神よりもヒーローを求める存在のようである。イエスの十字架の際に、ピラトの「イエスとバラバのどちらを解放するか」の問に対して民衆はく「バラバを解放せよ」と叫んだことを想起させる。
結局、「ギデオンの300」の戦いは「神の御名が崇められる」という点では「ベストの戦い」であった。
ところがイスラエルは、いつしか王を求めるようになる。
BC11C頃の預言者サムエルが現れた時代、イスラエルの民衆は「王が裁きを行い、王が陣頭に立って戦う」という行き方を求めた。
それは民衆はサムエルに王を立てることを求める。「われわれを治める王がなければならない。われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」(サムエル記上8章)」と。
サムエルは民の意思を確かめ、「民の声」をとりなして神に伝えた。
すると神は、「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい」と答えている。
こうしてイスラエルの「王制」は民衆の願いによって始まるのだが、神はサムエルを通して、彼らが退けたのはサムエルではなく、”神”が彼らの上に君臨することを退けたのだと、警告した。
つまるところ、イスラエルの民が他のすべての国々のように王を望んだのは、自分たちの上に君臨し守り導く主なる神への信仰ではなく、自分たちの”武力”により頼もうとする「不信仰」を表すものであった。
サムエルは、民衆がもしも王を立てることを求めるならば、息子や娘を兵役や使役にとられたり、税金をとられたち、奴隷となることもあり得るとそのデメリットを語ったが、民衆は聞き入れなかった。
サムエルの警告を軽んじた民衆は、「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかう」と語っている。
ギデオンの時代には、神が先頭に立ってあえて300人の精鋭に絞らせて戦いを行って勝利を得た。それは「主の戦い」というべき戦いであった。
イスラエルは、「主の戦い」を求めるのではなく、他国と同じように人の力をもって戦う「普通の国」に転じていく。
そんなイスラエルに対してサムエルは、次のように預言している。「その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない」。
実際、イスラエルの「王権」によって、人々は様々な辛酸をなめることにもなる。
時代が下ってイエスは次のように述べている。
「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものではない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ出す」(ヨハネ福音書10章10-13)。
現在、宗教団体の教えの健全さや政治との関わりにつき話題となっている。
ひとつの判断基準は、「神に栄光が帰されているか」(詩篇96篇など)ではなかろうか。
いずれの宗教団体かを問わず、個人崇拝(教祖崇拝など)が起きている場合には大概、教団の信者に対する「貪り」が生じているようだ。
人ではなく「神に栄光が帰される」ことに付随して、パウロは次のように書いている。
「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者とするため、この世で身分の低い者や軽んじられている者を選ばれたのである。それはどんな人間でもだれ一人、神のみ前で誇ることがないためである」(コリント人第一の手紙2章)。

「神のことばは生きていて、力があり、諸刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、こころと思いと志を見分けることができる」(ヘブル人への手紙4章12)とある。