姿見橋・上人橋・塩屋橋

正月には欠かせないのが「鏡餅」だが、なぜ「鏡」なのだろう。
皇室に伝わる「三種の神器」のひとつ「鏡」を模して作ったものだからといわれている。
この鏡は、「古事記」の物語の中で、岩戸に隠れてしまったアマエラスを外に導き出すために作られた。
日本人は、「鏡自体」に特別な思いがあるようだ。
ただ、博物館で古代の「青銅鏡」を見ると、デザインのある裏面を見えるように展示してあり、本来モノを映すものであることを忘れてしまいがちである。
銅鏡が数多く出土することを考えれば、少なくとも己の姿を映すためだけに用いたわけではないということは確かだ。
鏡は太陽の光を反射して、明るく照らすことができる。
「太陽崇拝」の日本人は、本家・中国よりも「鏡」に特別な畏怖心をもったのではなかろうか。
鏡の不思議のもうひとつは、反射によって鏡自体から光が発せられるようにみえることだ。
鏡はモノを映す一方、ガラスは向こう側を見通せる不思議。我々はそうした現象に、「反射」という科学的な知識をもって理解できるが、それを知らない古代人からすれば、鏡にこそ「神が宿ったもの」と思うのに充分だったかもしれない。
だからこそ、鏡には神が宿るとされており、それを模った「鏡餅」などという縁起物が生まれたのかもしれない。
古代の裁判に盟神探湯(クカタチ)という熱湯に手をいれて火傷しなければ、正直に証言しているという裁判があったが、鏡は人の心を見透かし畏怖されるものではなかっただろうか。
神社に行くと、本殿の階段、あるいはほこらの前には「鏡」が置いてあるのを見い出すが、鏡の存在によって人々は自分の心を改めて正すという効果もあるからではなかろうか。
福岡市の西に位置する前原市には日本最大の銅鏡が出土する「平原遺跡」がある。なにしろ皇室に伝わる「三種の神器」よりも大きいものである。
この古墳の主は伊都国女王で、その四隅に埋められた鏡が意図的に破壊されて埋められているため、女王の死と銅鏡の破壊との間にどんな関係があるのか、とても謎めいている。
また日本の歴史書に「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」など、「鏡」という文字がついていることに気がつく。
古代の鏡のように、過去の史実を明らかに映し出す書物という意味だが、逆にいうと歴史書には虚偽が書かれることのなきようということか、、後世の人々にものを考える材料とせよという意図が込められているのだろうか。
旧約聖書の「歴史書」にも、しばしば「○を鑑とせよ」という言葉が登場する。
「鑑みる」という言葉の中には、何かと「比較」して考えてみよと意味が含まれる、つまり「何か」を鏡として今を見よということなのだ。
実際、「鏡」(かがみ)と「鑑(かんが)みよ」という言葉は、文字的にもに近い。
中国の歴史初によれば魏の皇帝から景初3年(239年)卑弥呼に贈られたという銅鏡100枚があり、日本各地の古墳でみつかる銅鏡はそれが配られたものではないかともいわれている。
しかし中には「景初4年」という実在しない年号が記されているものもあり、それらは少なくとも魏の「官製工房」で作られたものではないことは明らかである。
我が地元福岡には「鏡」と縁がある土地であり、その象徴が福岡市の繁華街・天神のド真中にあるのが「水鏡(すいきょう)天満宮」で、この神社から「天神」という地名が生まれている。
平安京から博多に流された菅原道真が自分の顔を水面に写して、自分のやつれ顔に哀しみ、清流に臨んで水鏡に姿を写し「私の魂は長くこの地に留まり、後世無実の罪に苦しむ人の守り神となろう」と語った。
この「水鏡の地」は本来、現在のアクロス前にあったのではなく、西鉄「薬院駅」西にかかる「姿見橋(すがたみばし)」という石橋がかかった場所から、移転したものである。

熊本城は、数年前の震災で大被害を受けたが、熊本城の実質上の建築担当者が、「飯田覚兵衛」という人物である。
驚いたことにその飯田覚兵衛の直系の子孫が、「大日本帝国憲法」「教育勅語」の起草者・井上毅(いのうえこわし)である。
そんな意外な事実を知ったのは、福岡市の繁華街・天神のバス通りから見ることができる「大銀杏(おおいちょう)の木」の存在によってである。
実は、この「大銀杏の木」が立つ場所は、飯田覚兵衛の屋敷跡なのだ。
ではなぜ、熊本に居るはずの飯田覚兵衛の家がこんな場所にあるのか。
飯田覚兵衛は、山城国山崎にて生まれた。
若い頃から加藤清正に仕え、森本一久、庄林一心と並んで「加藤家三傑」と呼ばれる重臣となった。
武勇に優れ、中でも槍術は特筆すべきものであった。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」においても清正の先鋒として活躍した。
そしてその息子・飯田覚兵衛は、朝鮮出兵において、森本一久と共に亀甲車なる装甲車を作り、晋州城攻撃の際に一番乗りを果たしたといわれる。
なお、この功績により豊臣秀吉から「覚」の字を与えられたとされるが、書状などでは「角」兵衛のままである。
飯田覚兵衛は、土木普請も得意とし、清正の居城となった熊本城の築城には才を発揮した。180mにもおよぶ三の丸の百間石垣などは彼の功績といわれ、「飯田丸」と郭にも名を残している。
加藤清正の死後、三男・忠広が跡を継ぎ、忠広に仕えたが、その無能を嘆いて没落は必定と予言した。
1632年に肥後熊本藩が改易(つまり熊本の殿様から降ろされた)されると、他家に仕えずに京都にて隠棲し、同じ年に亡くなっている。享年70。
そして覚兵衛の子・飯田直国も、加藤清正の重臣として、一番備えの侍大将として重用されたが、加藤家は「改易」となってしまう。
その理由は諸説あるが、主君を失った覚兵衛だが、加藤家と親密な間柄にあった福岡の黒田家に「客分」として迎えられることになった。
そして、覚兵衛は加藤清正を偲んで、熊本城から「一本の銀杏」の苗木を持ってきて屋敷に植えたのが、天神バス通りの「大銀杏の木」である。
さて、明治憲法、皇室典範起草者井上毅(いのうえこわし)の生家である飯田家は、覚兵衛の直系の子孫にあたる。
井上毅は、肥後国熊本藩家老・長岡是容の家臣・飯田家に生まれ井上茂三郎の養子になる。
時習館で学び、江戸や長崎へ遊学し、明治維新後は開成学校で学び明治政府の司法省に仕官する。
その後、1年かけた西欧視察におもむき、帰国後に大久保利通に登用され、大久保の死後は岩倉具視に重用された。
「明治十四年の政変」では岩倉具視、伊藤博文派に属し、伊藤と共に大日本帝国憲法や皇室典範、教育勅語、軍人勅諭などの起草に参加した。
さて熊本の大名・加藤清正は、もうひとつ福岡に「熊本遺産」を残している。
朝鮮出兵において、日本軍の先陣は1592年4月12日に名護屋城を出港した。
日本軍の先陣は、翌朝に壱岐にて風が収まるのを待つことにしたが、1番隊・小西行長は功名を独り占めするためか、密かに壱岐を出帆して朝鮮半島へと渡った。
2番隊の加藤清正と3番隊の黒田長政は、後を追ったが、激しい波風に阻まれ、小西行長に遅れること4日、ようやく朝鮮半島に上陸することになる。
文禄の役の際に、破竹の勢いで進撃した加藤清正の軍勢は、なんと国境を越え満州にまで攻め込む。
1592年の7月末から8月にかけてのことで、ここで清正は後に清朝を興す女真族と交戦している。
後世「オランカイ征伐」と呼ばれる一連の戦いだが、加藤清正は、帰朝の折、朝鮮の「高麗国」王子の子(姉と弟)を連れ大切に養育した。来日当時、弟は四歳、姉は六歳であった。
厚い日蓮宗の信仰心をもつ加藤清正は、朝鮮王子の血をひく「日延(にちえん)」が法華僧として大成することを願い、物心両面で援護した。
そして日延は清正の願いどうりに成長し30歳の頃、日蓮生誕の地である安房(千葉県)小湊「誕生寺代18代」の住職となり、関東一円に多くの寺を建立する。
日延上人は、花の栽培を好み、晩年、東京・白金村の土地を「お花畑」として幕府より下賜された。
白金の地は、吉良邸討ち入り後に赤穂浪士17人を預かった熊本・細川家の下屋敷があった所だが、日延上人は、清正に育てられた恩義を感じ清正の遺徳をしのんで、1631年に芝・白金に覚林寺を開いた。
そこには「清正公大尊儀」が祀られたことから、「清正公様」の名で江戸庶民に親しまれてきたのである。
さらに、日延上人は九州にて福岡藩2代藩主・黒田忠之と毛利・黒田家の姫の長光院の後ろ楯を得て、福岡市の警固の地に9千坪の寺地を授けられた。
しかし法度で、新しく寺を建立することが禁じられていたため、やむなく宗像の禅宗の廃寺「立国山香正寺」の名前を受けて、1632年、日蓮宗に改め、「長光山香正寺(こうしょうじ)」として開山する。
これが、現在福岡市の繁華街・警固にある「香正寺」であるが、このあたりにはかつて「上人橋(しょうにんばし)」という橋がかっていた。
日延上人は、福岡藩二代藩主黒田忠之と、親交が深く、特に囲碁の良き相手として過ごしていた。
ある時、囲碁のために、登城しようとしたところ大雨のために、お寺からお城へ向かう時に渡る小川が増水し渡ることができず、登城できなかったことがあった。
そこで、藩主・忠之は、上人がいつでも川を渡れるように、橋をかけて便宜を図ったという。
これから、この橋は「上人橋」と呼ばれた。
この小川は、今の国体道路に沿って流れていたが、国体道路が建設されたときに埋められてしまい、今その川はない。
そして「上人橋」の碑は、もともと橋の下にあったものを、香正寺の境内に移設している。
そして、香正寺前の通りは「上人橋通り」と呼ばれ、通りは瀟洒な飲食店が多く人々に親しまれている。

鎌倉時代にモンゴル軍が日本に攻めてきた元寇の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」という絵巻物がある。
教科書にも必ず出てくる、誰でも知っている有名な絵である。実は、教科書に出てくるのは、そのほんの一部で、とても長い絵巻物である。
実は、この長い絵巻物「蒙古襲来絵巻」が「生きの松原」海岸の元寇防塁に沿った石碑にレリーフとして埋め込まれているのである。
さて、「蒙古襲来絵詞」の数々の絵が、レリーフとして「生きの松原」の元寇防塁の石垣に埋め込まれてある理由は、この絵の主人公・竹崎季長がマサにこの場所を歩く絵が残っているからだ。
第1回目の蒙古軍襲来(文永の役)において、日本軍は蒙古軍に易々と上陸を許し、内陸を蹂躙された。
この苦い経験から幕府は九州各国の御家人らに対して石を積み上げて造る防壁の築造を命じた。
当時これを石築地と称した。高さ約1m~3mで、幅約1m~2mに石を積んだ防塁は蒙古軍上陸が予想される博多湾に沿い、総延長約20キロにまで及んだ。
鎌倉幕府は九州各国の御家人らに対して博多湾岸に防塁を築造するように命じたが、築造は国別に以下のように分担地区が割り当てられた。
「今津 3km 日向大隅/今宿 2.2km 豊前/生の松原 1.7km 肥後/姪浜 2km 肥前/西新(百道)2.3km 不明/博多 3km 筑前・筑後/箱崎3km 薩摩/香椎 2km 豊後」という分担であった。
各国の分担地区によって石材が異なったが、注目したいのは、生の松原が「肥後国」担当となっていることである。
つまり、竹崎季長は肥後の御家人であり、防塁の前を馬上で進む場面は、実はこの「生の松原の情景」そのものなのである。
しかしそれだけで、「生きの松原」の元寇防塁に「蒙古襲来絵詞」のレリーフが設置されることにはならない。他にも戦いの場面や武将の活躍は描かれているからだ。
何よりも重要なことは、この絵巻物を書かせたのは、子孫に己の奮戦を伝えようとした肥後の御家人・竹崎季長その人であったことだ。
絵巻物の展開は、戦果をあげたにも関わらず、竹崎のもとには幕府からの褒美の知らせが来ず、恩賞奉行の安達泰盛に直訴しに行く。
朝廷に至っては、武士の奮戦どころか神のご加護力と認識していたくらいだ。
安達泰盛という幕府の大物相手に直訴に行くこと自体が大変な勇気だが、それよりも、命をかけて戦果をあげたのに褒美という形で報われない、この理不尽さに対する怒りがあったと推測する。
竹崎の熱心さに折れた安達は、竹崎に対して褒美として竹崎の地元の地頭の地位、それから名馬一頭を与えている。
このニュースはたちまちのうちに広がり、鎌倉武士の志気を高めた。それが再度の蒙古襲来、弘安の役でも勝利につながる要素の一つとまで言われている。
つまり竹崎の戦果とは、戦場での戦果というよりも、戦果にふさわしい報酬をしっかりと求めたことである。
しかし、なんといっても竹崎の最大の貢献は絵巻物によって当時の戦いをリアルに後世に残したという文化的貢献であろう。
実際、福岡市民にとってありがたいことに現在でも残っている場所や神社が数多く描かれている。
1回目の襲来の「文永の役」に関して現在地と比較すると、元軍はまず、百道原(ももぢばる)から上陸してきたと言われている。
現在の「よかとぴあ通り」周辺がその場所で、その後、内陸部まで侵略を進め、赤坂山、現在の福岡城の場所に陣営を築いた。
「蒙古襲来絵詞」それ自体は、元軍の侵略を聞きつけた武士たちが博多に集結したところから始まっている。絵詞に描かれている鳥居は筥崎宮の鳥居である。
武士たちは息の浜(現在の奈良屋町付近)に作られていた日本軍の陣営に向かっていった。その陣営には日本軍の総大将・少弐景資が待機していた。
陣営までの道中を描いた様子には松が生い茂った場所を通っている姿がみられるが、現在の東公園あたりを描いたものではないかと推測される。
このあたりは秀吉が「茶会」を開いた場所としても有名であるから、近世までたくさん松が生い茂った「千代の松原」と呼ばれる場所であった。
さらに、少し離れた場所には住吉神社も描かれてあるので、もしかしたら合戦の成功を祈願しているかもしれない。
肥後の菊池武房が赤坂の元軍に攻撃を仕掛け、元軍は赤坂から祖原に向けて逃げて行く。
現在の別府で三井資長が元軍に追い打ちをかける様子も描かれている。祖原まで逃げていった元軍は小高くて見晴らしの良い「祖原山」に陣営を作った。
現代の戦闘は、ドローンを飛ばして相手方の位置を確認する。
したがって戦場ではドローンは使い捨てのように飛び交うことになる。
しかし、ドローンなき時代には小高い丘を確保した方がかなり有利である。
元軍がドラや太鼓を打ち鳴らして士気を高める様子が描かれている。
福岡市の西新に近い高さ33mの祖原山は、現在は祖原公園として整備されていて、登ってみると陣営を作るには最適な場所であることがわかる。
その後、再び攻めてきた元軍と日本軍は「鳥飼」あたりで合戦となる。
「蒙古襲来絵詞」の中で、日本史の教科書に載っている、蒙古軍による集団戦法、たくさんの弓矢や「てつはう」が飛び交うなか、竹崎季長が奮戦するあの有名な絵。
絵詞に「塩屋の松」の下で行われた戦いという記載があり、当時は鳥飼潟に位置していた。現在、中村学園すぐ前にかかる「塩屋橋」あたりが、その場所である。

福岡市内には、博多湾に沿っていくつかの元寇防塁が点在するが、特に西区の今津と「生の松原」にある元寇防塁はよく整備・保存がなされている。
その点、少々意外な事実を言うと、前者は、第一次世界大戦中に日本が中国・青島で捕えたドイツ人捕虜たちの労役により修築が行われ、後者の「生の松原」防塁の整備にはフランス元大統領が遠巻きながら関わっている。
最近、1996年、福岡の名店「鳥善」にシラク元仏国大統領が来店したという記事に出会った。
シラク元大統領が「親日家」であり公私あわせて40回以上も来日したとは驚きだが、福岡に来ることにつき、一般には知られざるエピソードが残っている。
ジャック・シラクは親日家(知日派)として知られており、日本文化に対する造詣も深い。
幼少期にパリの東洋美術館、リヨンのギメ美術館を観覧し東洋美術に目覚め日本文化へのも興味をもった。
学生時代には『万葉集』を読み、その後も遠藤周作など日本文学を愛読する。
来日時に首相官邸に展示していた土偶を埴輪と説明した通訳をたしなめ、以来「土偶と埴輪を区別できる親日家」と呼ばれるほどだ。
自身の「回想録」の中で「日本にいると、自宅にいるかのように完全にくつろぐ」と述べており、温泉も好きで、来日時にはしばしば入浴するという。
拙稿が当時住んでいた姪浜から国道202号線を20分も歩けば「生きの松原」海水浴場につく。
国道から50mも入ればいいのだが、どこが入口かわからないほど不親切なのに、実際に海岸に出てみると巨大な石の護岸が作られているのに目を見張る。
白砂青松の浜辺から防塁を砂を掘り出し、当時の姿に復元したばかりか、さらに海岸に巨大な石の護岸を作ったらしい。
実をいうと、この防塁の復元と立派な護岸壁は、サミット世界首脳会議の「副産物」だった。
2000年、日本ではじめて開かれたサミットの会場候補地に福岡が名乗りを上げた。
会議場は福岡市立博物館、ホテルは○○で、立派な国際会議が出来ますよとアピールした。
その出席予定者にフランスのシラク大統領の名があったのだが、シラク大統領は「福岡へ行ったら“元寇防塁”を見たい」と発言したために、福岡市は大騒ぎになった。
急ぎ、シラク大統領を満足させるべく「防塁」を整備しようと選ばれたのが、「生の松原」であった。
ここなら、会議場から近いし、景色もいい。砂の中から石垣を掘り出し、散らばっていた石を積み直した。
しかし、これではお金は少ししかかからない。せっかく国からもらった予算を何とか使わなくてはならないと、砂浜に巨大な護岸を作ろうという話に展開していったのかもしれない。
ところが、防塁復元工事は完成したものの、サミット会場は沖縄に変更されてしまった。その上、外相会議は福岡と宮崎で行われたのだが、元寇防塁を見たいという外相はいなかった。
そこで結局、駐車場を作る必要はないし、案内板も観光客のための道も不要になった。
こうして、周囲の人気のなさと不釣り合いなくらい立派に復元された防塁は、松林の中で静かに眠ることとなったのである。
実は、シラク大統領がそれ以前に来日の際、元寇防塁見学を望んだのだが、日本側が警備の問題で断ってしまったという。
ただし、好奇心あふれるシラク大統領のことだから、大統領退任後にプライベートに見に行かれたのではなかろうか。

シラク大統領は、なぜそれほどまでに元寇防塁見学にこだわったのだろうか。
1996年のサミット前に、シラク大統領は元寇防塁視察希望のの理由を次のように語っている。
「世界を制覇したあの蒙古軍を防ぎとめたという“日本の防塁”を是非、この目で見たい」。
この言葉の裏には、ユダヤ系フランス人のシラク氏の、ヨーロッパの共通体験としての「モンゴル襲来」に対する意識の高さがあるのではなかろうか。
なにしろシラク大統領は、エリゼ宮を訪問する日本の要人に「源義経とチンギス・ハーンの関係」などを話題にして驚嘆させたくらいなのだから、日本を襲撃した元寇に無関心であろうはずはない。