外貨が割り当てられた時代

松下幸之助の語録に「水道哲学」なるものがあった。水道の水のように低価格で良質なものを大量供給することにより、物価を低廉にして容易に消費者の手に行きわたるようにしようという哲学である。
幼少から赤貧あらうがごとき生活をした松下ならではの思いがこもった哲学なのだろう。
我々は自由市場経済にあって、必要なものは必ず手に入るという「日常」を手に入れた。
特に、アマゾンで探せば、いままで探すことが困難なものでも、どこに足を運ぶことなく、短期間で手に入れることができる。
したがって必需品が手に入らなくなるという体験はあまりない。つまり「断水の記憶」がほとんどない。
あえて探せば、石油ショックの時代に、トイレットペーパーや洗剤が手に入らないこと、最近ではマスクが入手できないということがあった。
最近、KDDIの3日間障害でモノが手にはいらなくなったということがあった。
現在、自分がいつも午前中に呑む「午後の紅茶」は、キリンがスリランカの茶葉にこだわってきた商品だが、一番の懸念材料はスリランカの政情不安であろう。
サプライチェーンが海外までのびると、タイの洪水で車の部品不足が起きたことが記憶に新しい。
さて「半導体」とは、電気的性質を備えた物質で、金や銀や銅といった金属など電気を通す「導体」と、ゴムやガラスなど電気を通さない「絶縁体」の中間の性質を持つ。
半導体は温度によって抵抗率に違いが生じるため、電気制御に用いられている。
新型コロナウイルスが起きると、半導体メーカーはすぐに需要が回復するとは見込めず、「増産」に踏み切れなかった。
一方で、現実には「巣ごもり需要」により大型テレビやスマートフォンの需要が拡大し、テレワークに必要とされるノートパソコンも急激に需要が高まった。
また、公共交通機関の利用による人との接触を避ける心理が働いたことから、自動車の需要も拡大した。
半導体が不足すると、スマートフォンや冷蔵庫、ノートパソコンなど半導体を使った製品を製造メーカーが、生産計画通りに製品を製造できない事態に陥った。
しかし、半導体不足は、新型コロナ以前から起きていた。 米中間の「貿易摩擦」によって、米国は中国企業への制裁を行うため規制を強化し、対象企業からの輸入は事前許可制となった。
減少分の代替先として台湾の企業に発注したものの、リスク分散機能が低下していたなかで、台湾の半導体メーカーは受注に対応しきれなくなった。

1980年代まで、日本は製造業の多くが原材料を輸入し、国内で製品を製造して海外に販売する典型的な加工貿易の国であった。
日本は輸出製品の代金をドルで受けとっていたため、ドルを容易に確保できた。
しかし、2000年代にはいって、自動車以外に日本は製造業分野での競争力を失っているので、貿易面での外貨獲得のパワーが鈍った。
近年は、生産コストの削減を理由に海外へ工場や製造設備を移す企業が増加した。
海外の日本企業は円安によるコスト高を影響を受けないうえ、ドルで利益があがるので円で送金すれば利益は増加するといえる。
しかし現地法人に支払われた代金は、必ずしも日本に送金されるわけではないため、日本国内へのドルの流入が著しく減少した。
現在、世界的な物価高騰と円安の同時進行で、自国の通貨の価値が下がる(円安)と、輸入面でより多くの外貨が必要になる。
財務省の2021年データによると、日本から世界への輸出の決済にドルが占める割合は47%であるのに対し、輸入に占める割合は67%と、輸入が輸出の決済を大きく上回っている。
現在の日本は流入するより流出するドルの量の方が多いため、外貨不足のリスクが高まる。
あまり知られていいないが、日本がアメリカに対して貿易黒字になると、日本はその分をアメリカの国債を買わなければならいことになっている。
アメリカの政府は日本の国民に借金を負っていることになるが、これはアメリカの資本収支面の黒字を意味するもので、世界の基軸通貨たるドルはちゃんとアメリカの国内に還流することになっている。
ローカルの円にそうしたことは保障されておらず、日本でこのままドル不足が深刻化した場合、輸入面での影響が甚大である。
原油や天然ガスはもちろん、鉱物資源、原材料、食料品・農産物、衣料品、半導体、医療機器に至るまで、これらの商品代金を払うためのドルが不足すれば、十分な商品を輸入することができなくなる。
特に「産業の米」といわれる半導体が入手できなければ製造業者は、多く業界で減産や生産停止を余儀なくされる。
つまり、「外貨不足」はとおからず「モノ不足」となって表れる。

日本に外貨が不足し「外貨割当」や「輸入規制」(輸入品量の上限)をもうけていた時代があったことを思い浮かべた。
高度経済成長が始まる前の1950年代~60年代初頭である。
自分が幼少の頃、入院でもしなければ食べられなかったバナナが、今や入院してバナナを届けると迷惑がられるほど、ありふれている。
北九州の門司に「バナナのたたき売り」の碑がたっている。
しかし、バナナだけがなぜたたき売りされたのだろうか。メロンのたたき売りとは聞いたことがないのに。そんな疑問が沸き起こった。
、 バナナが日本に輸入されたのは1902年頃で、当時、基隆(キールン)[台湾]の商人が神戸に持ち込んだのが始まりである。
それが大量輸入されるようになったのは、1908年以降で、台湾は日本の領土であったことと、門司港が産地台湾と最も地理的に近い関係もあって、大量荷揚げされ、市場が設けられたのである。
明治時代、バナナは希少な果物ではなかったということだ。
このバナナ入荷は、青いままのバナナで、仲買人によりセリ売りが行われた。
そして、引き取られた青いバナナは、地下室で蒸されて、黄色のバナナとなって、市場に売り出された。
ところが、輸送中に蒸れたものや、加工中に生じた一部不良品等で輸送困難なものは、出来るだけ早く換金する手段として、露天商等の口上よろしく客を集め売りさばかれたのである。
現在、JR門司港駅前に「バナナの叩き売り発祥の地」の記念碑が建ってる。
しかしバナナは、明治期とは正反対に戦後は厳しい「輸入制限」をうけた。
戦後、 日本に進駐していたアメリカ軍用に台湾バナナの輸入が再開され、1950年には民間貿易が正式に許されるようになったが、「外貨不足」による輸入規制があったために、1960年ごろまでの輸入量は、 年間2~4万トンと非常に少なかった。
とはいっても、大人気のバナナは輸入するそばから飛ぶように売れていった。そこで、限られた「バナナの輸入権利(外貨割当制)」を得ようと、多くの業者がバナナ・ビジネスに参加したのである。
太平洋戦後は、石油はじめあらゆる物資が不足し、中央の担当省庁が割り当てし、大企業優遇策が取られた。しかし「官の介入」は、様々な問題を含んでいた。
例えば、設備投資を許可制にすると、業績が伸びている優良企業A社に許可を出し、落ち目のB社には出さない、という「不公平」 が正当化しにくい。
平たく言えば、役人はそこで文句を言うb社長に 「それはあなたよりもA社長の方が経営の才覚があるからですよ」とはなかなか言えない。
よって役所がこの種の「枠」 配分をするときは、たいてい現在の設備や生産量に応じた 「比例按分」をやることになる。
その結果、「官の介入」は、不断に不効率を経済に埋め込むことになる。
また役所は「権限」「権益」 の権化と化し、手段だったはずの「介入」 それ自体が目的となるという本末転倒を引き起こす。
具体的には、「輸入割当て」をはじめとする管理された貿易では、割当て自体が、非常に利権化してしまった。
例えば「砂糖」を輸入すると、その輸入価格の2倍か3倍に売れて、ほろもうけになる。
そこに「輸入割当権」なるものが価値を生じ、ものを輸入しないで、輸入割当権の転売がどんどん行われる。
そうした弊害が起こってきたのが、「糖、綿花、羊毛、油」などの業界で、いろいろなものの輪入権自体が利権化して価値を生じて、モノを輪入しないでも、「権利の転売」だけで利益が出るようなったのである。
作家の松本清張は、そうした「輸入割当」をめぐる汚職を題材に短編を書いている。
松本清張初期の短編「濁った陽」は、1953年に実際に起きた「ドミニカ輸入原糖割り当て」をめぐる汚職事件を下敷きに書かれたものである。
世界各国で作られた原料糖をいっぱいに積んだ原糖船は海を渡って精製糖工場に近い港へやってくる。
原料糖はある程度精製されているが、まだまだ色素などの不純物が入っている。
この不純物をきれいに取り除き、ショ糖を再結晶化させることによって砂糖(精製糖)は作られる。
当時、砂糖も「割り当て」があり、自社に多く分配してほしい企業が袖の下を政治家に流し、政治家が官僚に指示するという構図があった。
また松本清張は汚職の内容が異なるものの、「濁った陽」を同じモチーフで長編化した作品が「中央流沙」を書いている。
松本は、貿易港のある門司で育っただけに、こうした汚職に興味をいだいたのかもしれない。
松本清張原作「中央流沙」は、何度かテレビドラマ化された名作だが、自分が見た1976年の最初のドラマが印象的であった。
)ドラマの舞台は農林水産省で、エリート局長を演じたのが佐藤慶、影の実力者・西を演じたのが加藤嘉、そしてマイホーム購入を夢見る役人が川崎敬三。
農林水産省の課長補佐・倉橋豊(内藤武敏)は収賄の疑いで警視庁から事情聴取を受けていた。
上司の岡村局長(佐藤慶)は、農水省の幹部に顔の利く実力者・西秀太郎の示唆を受け、倉橋に北海道への出張を命じた。
札幌で不安に怯える倉橋に、西からの連絡が来て、今度は作並温泉に行くようにとの指示が出る。
西は作並温泉に着くや倉橋とさし向かいになり、人払いをして「私は君にどうしろこうしろと言える立場じゃないよ」と笑いながら、「つまり、善処して欲しいんだ」と言う。
「善処しろ」とは、一体どういう意味か。
倉橋が自殺すれば皆が助かる、組織は守られるから自殺してくれということの婉曲表現なのだ。
しかし課長補佐が「どうして私だけが犠牲にならなくちゃいけないんです」と反抗のそぶりを見せるや、「そんな意味で言ったわけじゃないよ」とすかさずとぼける。
挙句、「失礼ながら見直した」「私は骨のある男が好きだ」「惚れたらとことん惚れるたちだ」などと倉橋をおだてあげる。
つまり西はこの時、倉橋の殺害をきめるのだが、現実にありそうな鬼気迫る場面である。
その翌日、濃霧に埋まった早朝の作並温泉、旅館近くの断崖下に、倉橋が墜落しているのが発見され、まもなく死亡した。
また、「外貨割当」の時代、一つの団体で使える枠というものがあった。
朝日新聞で年間数十万ドルで、NHKもその程度の枠をもっていた。つまり、それをもつ組織は、文化界の中では特権階級にあたる。
その枠を一つ一つ定めている大蔵省であり、その時の大蔵大臣が田中角栄である。
日生劇場に所属する浅利慶太らが中心になり、「ウエストサイド物語」の日本公演を実現しようという動きがおこった。
ところが日生劇場は後発の劇場であり、そんな外貨枠などあるはずもなかった。
しかしこのハードルを越えなければ、せっかくまとまりかけた「ウエストサイド物語」招致の話も、スタッフや役者への支払いが出来ないということになる。
困り果てた浅利は、朝日新聞の政治部次長だった人物に相談すると、その人物は自民党の担当デスクであったがために、田中に電話でかけあってくれることになった。
浅利は、定例記者会見が終わスタスタと大臣室に戻った田中をネラッて訪ねると、田中は「座りたまえ 用件はなんだっけ」と聞いてきた。
浅利は手短に「ウエストサイド物語」の紹介をして、これを招きたいので日生劇場に外貨の特別枠を認めていただけないか、と頼んだ。
それに対して田中は、そんな「不良の話」をやったら、逆に日米関係を悪くしないのかと尋ねた。
浅利が、戦後アメリカの文化はこういう形ではいってきたことはない、日本人もアメリカ人の芸術的感性に打たれるはずだと説明すると、田中は、わかったなんとかしようと答えた。
そして田中は浅利に、お前さんたちの道楽のために外貨が減ったんではしょうがない、ほどほどにしてくれたまえ、とクギをさした。
そして田中はすぐに電話をとり、当時の大蔵省為替局資金局長を呼んだ。
局長が1分後に現れるや、「ここにいらっしゃるのは、日生劇場の浅利慶太さんだ。今度アメリカから”ウエストサイド物語”を招かれるという。この作品は傑作で、日本人が見るとアメリカ文化への理解が深まるだろう。新しい文化交流のあり方として重要なケースだから、10万ドル外貨の特別枠をつくってあげてくれたまえ」と語った。
浅利から見て田中は、なんだすべて知っていたのか、と思わせるほど明快な指示であったという。
とにかく、これで話はついた。
浅利が深々と頭を下げると、田中は「よっしゃ じゃあな!」といって右手をあげて別れた。
この間、わずか5分間であった。
浅利が、先述の朝日新聞政治次長に聞くところによると、田中は陳情があっても即刻物事を決したりはしないそうだ。
かならず事前に何がしかの情報をえているはずだという。となると、「ウェストサイド物語」の情報源は一体どこにあったのだろうか。
当時、田中角栄には20歳の可愛がっている娘がいた。演劇好きで1968年から1年間、福田恆存の劇団「現代演劇協会・雲」の研究所に入って女優修業をしていた。
そして、最近映画「ドライブマイカー」で話題になったチェーホフの「櫻の園」に出演したことがあった。
田中の情報源はこの女優の娘(田中真紀子)の存在があったのかもしれない。
1964年OECDの勧告に従って外為規制の緩和措置なされ、東京五輪を半年後に控えた4月1日、政府関係や業務、留学などに限られていた日本人の海外渡航が「年1回、外貨持ち出し500ドルまで」の制限付きで自由化された。滞在費を含んだ500ドルではほとんど買い物ができない。
それでも、この年に発券されたパスポートは、前年比34・8%増の12万4000冊に達した。
日本旅行業協会によると、自由化1週間後にツアー第1陣が羽田を出発。1ドル360円(今から3倍円安)の時代、ハワイ7泊9日間の旅で料金は36万4000円だった。
大卒の国家公務員の初任給が1万9000円の時代、現在の物価では約400万円になる。
「寅さんの映画」に、馬券をあてて叔父さん夫婦に「ハワイ旅行」をプレゼントする第四作「新男はつらいよ」が作られたのは1970年であった。
庶民には、質素な海外旅行でも、いかに「高根の花」だったかがよく描かれていた。