劇とリアルが交叉する

東京・池袋の文芸座で佐木隆三原作の映画「復讐は我にあり」を見ていた。
すると、スクリーン中の主人公(緒方拳)が同じく文芸座に入ってスクリーンを見ている場面がでてきた。
客からしのび笑いが漏れたが、スクリーンの中の緒方拳が座った席の位置と、リアルな自分が座った位置はいくぶん離れていたが、「劇とリアルが交叉する」不思議な感覚だった。
「劇とリアルが交叉する」といえば、役者本人と役柄とが同化する錯覚が思い当たる。例えば「男はつらいよ」、渥美清はきっと、私生活でも「寅さん」とよばれているのではなかろうか。
実は、葛飾柴又の土地と「寅さん」の間には、不思議な縁(えにし)がある。
常々、寅さんの故郷がなぜ柴又になったのだろうという疑問を抱いていたが、最近その答えが新聞に出ていた。
1962年、山田洋次監督が作家の早乙女勝元の葛飾の自宅を訪ねたことが、すべての始まりである。
早乙女の自宅近くの柴又帝釈天の門前町を案内され、その雰囲気が記憶に残っていた。
後に渥美清と出会い、人情喜劇のテキヤと腹違いの妹という骨子ができた時、その背景にかつて訪れた「葛飾柴又」が思い浮かんだという。
1969年に第一作が公開された「男はつらいよ」の人気は誰もが知るところ。
しかし、その後に判明した符号の一致が面白い。
2001年、渥美清の命の日のこと、帝釈天近くの古墳からシルクハットに似た帽子を被った人物埴輪(6世紀末)が見つかった。帽子の形や細い目などが寅さんにそっくりだった。
また奈良時代、柴又は「嶋俣(シママタ)と呼ばれ、「刀良(トラ)」と言う男性と、別世帯ながら同姓の「佐久良め(サクラメ)という女性が住んでいた、と正倉院に残る戸籍に記されている。
葛飾柴又の方が、寅さんを呼び寄せたのかもしれない。
「劇とリアルが交叉する」もうひとつのエピソードは、映画監督大島渚の結婚式である。
大島渚は、1959年27歳の時に『愛と希望の街』でデビューする。当時の松竹は「大船調」という、ホームドラマで日常生活や家族愛、人情などが描かれる映画スタイルの作品を監督に撮らせていた。
しかし1958年をピークに、映画館の入場者数は急落していく。
会社としても新時代のスターを輩出しなければならないという状況下、チャンスを与えられたのが大島渚。
そこで彼はデビュー作『愛と希望の街』を作った。
大島にとって飛躍の年となったのは翌1960年、『青春残酷物語』『太陽の墓場』『日本の夜と霧』の3本もの作品を立て続けに撮る。
1960年といえば、安保闘争があった年でもある。
大島は、権力や権威、抑圧する側に対し、映像ならではの手法で、可能な限りの「抵抗」を試みた。
なかでも『日本の夜と霧』は、より直接的に政治的な内容が表現されていた。
しかし、公開からわずか4日後、松竹が大島に無断で上映を打ち切ったため大島は猛抗議し、翌年松竹に違約金を払ってまでも、退社した。
そして、封切り予定日だった3週間後の10月30日に大島と小山明子との結婚式が行われた。
出席者から上映中止に対する抗議が相次ぎ、結婚式場は、さながら「総決起集会」と化した。
結婚式は「怒り」の場となり、大島が松竹と断固戦うという宣言をもって、めでたく締めくくった。
映画『日本の夜と霧』では、60年安保闘争における国会前行動の中で知り合った新聞記者の野沢晴明と、女子学生の原田玲子の「結婚式の場面」がある。
ところがその結婚式が、学生運動の在り方や安保闘争の在り方、共産党の路線変更を問う、政治討論の場と化していく。
大島渚と女優小山明子の結婚式は、『日本の夜と霧』のリアル・バージョンだった。

「帰ってきたヨッパライ」で一世を風靡したフォーク・クルセイダース、1968年発売日直前に「イムジン河」が発売中止に追い込まれた。
イムジン河は、朝鮮半島北緯38度線を挟んで南北に流れる川だが、「朝鮮総連」からレコード会社に抗議があり、政治問題化することを懸念した政府により、発売禁止となった。
る加藤和彦は、その怒りをわずか3時間で書き上げ、その曲は25万枚の大ヒットとなる。
曲のタイトルは「悲しくて悲しくてやりきれない」。
その加藤和彦が2009年突然命を絶った。死の理由を詮索しないで欲しいというメモを残していた。
かつてフォーク・クルセイダースのメンバーだった現在、九州大学教授の北山修は、精神科医だけに「どうしてヘルプと叫ばなかったんだろう」と無念のコメントをよせた。
さて、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』が、米アカデミー賞の国際長編映画賞に選ばれた。
『おくりびと』(滝田洋二郎監督)以来13年ぶりの快挙となる。
原作は村上春樹で、いかにもムラカミワールドだが、今日という時代を意識した作品に思えた。
新型コロナウイルスでここ3年で我々が経験したのは、日常が、絆が、命が突然のように断ち切られる不条理。
映画「ドライブマイカー」では、舞台俳優で演出家の家福悠介は、脚本家の妻・音と幸せに暮らしていた。しかし、妻はある秘密を残したままこの世を去る。
2年後、広島の演劇祭の演出を担当することになり、愛車のサーブで広島に向かった。
喪失感と妻の「ある秘密」に苛まれながら生きていた家福であったが、そこで出会った寡黙な専属ドライバー・みさきと過ごす中で、それまで目を背けていたとに気づかされていく。
映画「ドライブ・マイカー」は3時間に及ぶ長編だが、ほとんど見る者を飽きさせない。
そのひとつの要素が、ドキュメンタリータッチで描かれていて、リアル感があることだ。
その一方で、「劇中劇」として、ロシアの劇作家チェーホフの『ワーニャ伯父さん』と交叉させていた。
「多言語劇」での読み合わせを含む稽古中のシーンなどは、「多様性」を主題とした映画独自のもので、家福が自家用車内で舞台の台詞を覚えることを通じて、劇中の言葉が巧みに挿入される。
「ワーニャ伯父さん」において、ワーニャがソーニャの言葉に力をえて、人生の絶望や苦悩を受容し生きていったように、家福とみさきも、そのようなことを学び再生の道を歩こうとしている。
家福は、ちゃんと傷つき、時には泣くこと、誤魔化さずに苦しみを真正面から受け入れること、それが大事であることを学ぶ。
作家の小池真理子が、亡くなった夫である作家藤田宜永につき、時に罵り合っても大切な人だったと「喪失感」を書いていたのを思い出す。
きっと、傷つけあっても深まる絆というものがあるのだろう。
映画の終盤に繰り返された「不条理でも生きていかなくちゃ」「生きていきましょう」の言葉が、今日の様々な不条理に向けたメッセージとして伝わった。

今日、新型コロナという非日常が、日常を上書きして3度目の春を迎えている。
引いては寄せる感染の波が、見慣れた街の風景を変えている。
ウクライナとは比べようもないけれど、日本人の「日常」も、目には見えにくいかたちで、かつてのそれとは異なっている。
スクリーン上や舞台上の劇を見る時に、たとえそれが悲劇的であっても、観客はその劇を自分とは距離がある第三者的出来事であると認識してしまう。
それならば、いっそ舞台を取り外したらどうなのか。
そこに起きている出来事は、見る側をも劇を構成する一つの要素とする、つまり見せる側に取り込む。
そこに見る観客と見せる役者という二極分化とは違う何か新しい関係が生まれる。
1970年前後、新宿の街中に設けられた唐十郎の紅テントは200名の機動隊に包囲されながら公演を続け、寺山修司の「天井桟敷」は、街中に「劇」をしかけて、我々の日常を揺すぶっていた。
「劇」は劇場でなくても見れる。そこに「見せる」ことを意図した人々と、潜在的に「見る」ことを欲する人々が存在し、「○○の一幕」というように、どこであってもそこは「劇場化」する。
実際、歴史上の出来事において、見られることを想定したようなリアルな劇が存在する。
その代表例が、「赤穂浪士の討ち入り」である。
この討ち入りが江戸町民に霧が晴れるような爽快さをもたらしたのには当時の時代情勢があった。
江戸の絶頂期・元禄時代、町人文化がさかえ、大衆社会というものが日本にも勃興しつつあった時代。
将軍の異常な動物愛護政策や柳沢吉保らの独裁的側用人政治にすっかり嫌気がさしていた。
そして幕府の処断に対する反抗を勇壮に行った「四十七士」の討ち入りに溜飲を下げたのである。
1701年3月14日の江戸城松之大廊下で浅野内匠頭長矩が、吉良上野介義央に対して刃傷におよんだ。殿中での刃傷に征夷大将軍徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。
それに対して、吉良義央には何のお咎めもなかった。
浅野は、吉良により勅旨接待をめぐる応対のあり方をめぐり、衆人の面前で叱責をうけ、恥辱をうけたことが原因であったと考えられる。
家老大石良雄(内蔵助)以下、赤穂藩士の多くは、喧嘩両成敗の武家の定法に反するこの幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持った。
吉良義央の処断と赤穂浅野家再興を幕府に求めたが聞き入れられず、吉良義央へのあだ討ちを決定した。
あだ討ちの噂はたえずあったのあるが、大石は、茶屋遊びなどであだ討ちを忘れたかのごときカムフラ-ジュをおこなった末に、時をみはからい吉良邸討ち入りを決行したのである。
赤穂浪士の討ち入りは、江戸の町人はいまか、いまか、とその時が来るのを待ちわびていたという、かなり異常な状態でおきた「見世物的」出来事なのだ。
なにしろ2年近くも待ちわびていたのですから江戸町民は「待ってました」とばかりに拍手喝采の思いでこの出来事を見ていたのである。
ということは、四十七士の討ち入りの目的は、主君のあだ討ちに加えて、そうした江戸市民(観客)の期待にもこたえる、という側面もあった。
つまり実行後の「切腹」までも含めて、完結するものであった。
見る江戸庶民と見られる「四十七士」という劇的関係の中、「討ち入り」という非日常性をおびたことがおきたのであるから、その時江戸は劇場と化したといってもよい。
もうひとつ「街が劇場化」する歴史的な場面として思い浮かぶのが、江戸時代におきた長崎の「二十六聖人殉教」の出来事である。
この殉教の26人は、長崎で捕らえられたキリシタン達ではない。京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて市中引き回しとなり、長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を出発、歩いて長崎へ向かうことになった。
この辺、赤穂浪士と重なるのが街中を歩く場面である。
幕府側の意図としては、多くの者のあつまるところで処刑を行い、「みせしめ」の効果を高めようとした。
ところが意外なことに、ひと目につく長崎・西坂での処刑を希望したのは、殉教者の側であった。
西坂は、JR長崎駅に近いところにあるが、それはちょうどイエス・キリストが十字架で刑死したゴルゴタの丘に似ている、というのがその理由であった。
信者達は、幕府の意図とは裏腹に殉教の姿こそは、信仰の偉大さを人々に証する絶好の機会であると考えたからである。
そして殉教者達のねらいは当たったといえる。
この殉教については以下のようなエピソ-ドがある。
厳冬期の旅を終えて長崎に到着した一行を見た責任者は、一行の中に12歳の少年ルドビコがいるのを見て気の毒に思い、信仰を捨てることを条件に助けようとしたが、ルドビコはこの申し出を丁重に断った。
また信者の一人は、死を目前にして群集に堂々と自分の信仰を語った。
また長崎市内は混乱を避けるため外出禁止令が出されていたが、4000人を超える群集がそこへ集まってきていた。
一行が槍に両脇を刺しぬかれて殉教した。この時、長崎は壮大な「劇場」と化していた。
この事件の話は長崎に滞在していたルイス・フロイス神父によりヨーロッパに伝えられた。
この報告を受けたローマ教皇は涙を流し悲しまれた。
そして盛大な祭典をローマで行い、26名の殉教者を聖人に列し「日本二十六聖人」と称せられたのである。

昭和天皇が狙撃されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)という。
狙撃犯の難波大介は、その場で取り押さえらえれたのだが、当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職し、この事件は数多くの人々の運命をも巻き込んだ。
そんな経験をもつ昭和天皇が、1946年から54年にかけ8年間にわたり国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされた。
天皇としても相当の覚悟ができなければ全国巡幸などできなかったことではなかろうか。
この天皇の「全国地方巡幸」は天皇自身の発案であったようである。
GHQはそれをあっさりと認めた。GHQの観点からすれば、天皇が「現人神(あらひとがみ)」から「人間天皇」を国民に植え付けるためのよい機会ととらえたであろう。
一方で、天皇が実際の姿を国民に見せれば、ある部分国民の「崇拝心」が薄れることを期待したのだ。
しかし、その思惑は見事はずれた。
1946年2月、クリスチャンの賀川豊彦が巡幸の案内役を勤めた時のこと、賀川が一番驚いたのは、上野駅から流れるようにして近づいてきた浮浪者の群れに、天皇が一人一人に挨拶をした時であった。
左翼も解放せられている時代に、天皇は、親友に話すように近づき、「あなたは何処で戦災に逢われましたか、ここで不自由していませんか」と一人一人に聞いていったのである。
そして1947年歓迎側の余りのフィーバーぶりに外国人特派員を中心に批判が起こり、「日の丸」を掲げる者がでてきたことともあいまって、天皇の政治権力の復活を危惧したGHQは、巡幸を1年間中止することにした。
このあと1949年に再開され、足かけ8年、1954年8月に残っていた北海道を巡幸して、1946年2月19日からの総日数165日、46都道府県、約3万3千キロの旅が終わる。
天皇の「地方巡幸」は、日本人と天皇が「神話」ではないリアルな結びつきを確証する、時宜にかなった「劇」であったように思える。
また、ウクライナのゼレンスキー大統領をみると、人が強くなるのは「演劇性」といくぶん関係があるのではないのかと思う。
それは、全体の中に自分を位置づける想像力とか、他者に自分をどうみせると効果的かとかいうこと。
人は、無辺際の荒野を生きることを望まないし、即物的な死を望まない。生も死も物語に彩られていて欲しいと思う、いきものなのだろう。
人間からそうした「物語性」(または「演劇性」)を剥ぎ取ることはできない。
しかし、戦争や災害は、それを無残に断ち切る。
問題なのは、そうした「物語性」が内面から湧き上がったものなのか、誰かが意図的に生み出し「外づけ」したものなのか、ということだ。
気づかぬうちに「国民総演劇集団」になってしまうこともあるし、実際に過去にもあったことだ。

1947年だけでも、大巡幸が5回、小巡幸が1回で、21県を行脚され、合計67日間は文字通りの南船北馬であり、櫛風木雨の旅であった。