日系人二世「442連隊」

2018年8月、アメリカのペロシ下院議長が台湾を訪れた。彼女はもともと「中国強硬派」として知られ、下院議長というハイポストにある人物のこの時期の台湾訪問に、中国は激怒した。
それがペロシの「実績作り」というマスコミ報道が本当ならば、随分と余計なことをしてくれる。
かえって米中関係が悪化した感があるからだ。
ペロシは古参の下院議員だが、同じく民主党には長年上院議員をつとめた日系人の重鎮がいる。
それは、2012年に亡くなったアメリカ上院仮議長の「ダニエル・イノウエ」である。
上院議長は副大統領が兼任するが、副大統領が何らかの事情で欠けた場合に、それを上院仮議長が担当するという高い位置づけである。
イノウエの祖父母は、福岡県八女郡横山村(現広川町・八女市)にルーツをもつ。
一家の失火による借金を返済する為に、1889年9月にハワイに移民し、祖父母とともに渡米した父母のもと、1924年当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれた。
そのままホノルルの高校を経てハワイの名門大学であるハワイ大学マノア校に進学した。
ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、イノウエを含む日系人の運命は暗転する。
真珠湾攻撃当時、イノウエは医学の道を志し、ハワイ大学で医学部準備コースにて勉学に励んでいた。
しかし日系人は、アメリカ政府の官憲から財産を奪われ監視されるようになる。
日系人は10人以上集まってはいけない。家から15マイル(24キロ以上)遠くに行くな。 バスの中には英語で話せといった指令がでる。
主要人物は憲兵隊や警察により連行されオアフ島の収容所にいれられたが、主に二世はアメリカ星条旗への「忠誠」を表そうと、積極的に軍を志願した。
イノウエもアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である「第442連隊戦闘団」に配属され、ヨーロッパ前線で戦った。
イノウエはイタリアにおけるドイツ国防軍との激戦において、右腕を負傷して右腕を切断する。
1年8ヶ月にわたって陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から「英雄」として称えられた。
1947年に陸軍大尉として名誉除隊するものの、右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめ、ハワイ大学に復学して政治学を専攻し卒業している。
太平洋戦争後は 「G.I. Bill(復員兵援護法)」を利用し、大学などで勉強をする二世も増え、教養をつけ地位を上げることに成功したため、日系二世は政治家や教師、弁護士や医師などの職に就く者が多くいた。
イノウエも、ハワイ州選出の上院議員に選出され、1963年から50年近くにわたって在任して、2010年6月に、上院で最も古参の議員となり、慣例に沿うかたちで「上院仮議長」に選出されたのである。
オバマ元大統領はハワイ州ホノルル出身であるが、政治を志したのはダニエル・イノウエがウォーターゲートの事件の調査特別委員長を務めた時の姿に感銘を受けたからだという。
イノウエは2012年12月に88歳で死去したが、アメリカ合衆国議会議事堂中央にある大広間に遺体が安置されるのは、リンカーン、ケネディなど一部大統領や、ごく少数の議員に限られており、アジア系の人物としては初めてとなった。
2017年、ホノルル空港から「ダニエル・イノウエ空港」へと名前が変わっている。

1860年に、徳川政府が派遣した遣米使節団を乗せたアメリカ海軍軍艦ポウハタン号の護衛船としてアメリカに渡った咸臨丸(かんりんまる)がサンフランシスコからの帰路にハワイに立ち寄り、石炭と水の補給を行った。
その際にカメハメハ四世とエマ王妃にお目見えし、日本からの移民を正式に要請した。
そして1868年に「元年者」といわれる150名の労働移民がイギリス船籍サイオト号に乗り、ハワイへと到着した。
しかし農業未経験の職人や武士が多かったため、農園仕事が合わず帰国したり、より高い賃金を求めてアメリカにわたってりして、ハワイに残った人数は40名強ほどであった。
1881年にカラカウア王が東京に来日し、明治天皇に謁見した際に移民を要請した。カラカウア王は、ハワイの人と日本人はどこか似ていると、とても親日家だったという。
明治政府もそれに応えて「官約移民」を認め、1893年のハワイ王国が終焉するまでに約2万9千人もの日本人がハワイへ移住してきた。
ハワイ王国と日本政府の合意のもと、福島県、新潟県、広島県、山口県、福岡県、熊本県、沖縄県などの人々がハワイへ移住した。
これらの日系移民の多くはプランテーションで「契約移民」として雇われていたが、彼らは英語が流暢ではなく、自分の母国語と英語が混じった「ピジン英語」が生まれた。ビジンとは「ビジネス」が中国語風になまった言葉。
彼らの中で、プランテーションでの契約を終えると、より良い生活を求め、自身で小さなお店を開いたりする人も増えていった。
その後、「官約移民」は廃止されて、民間による移民斡旋業者が多数設立され、1920年には移住者の子どもたち(二世)も増え、ハワイ人口全体の約43%が日系人の占める割合となるまでになっていく。
このような歴史から、ハワイのあちらこちらには現在も日本文化が残っている。
ハワイには100箇所以上の現存している寺院があり、ホノルルのハワイ出雲大社は有名である。
ハワイ金刀比羅神社とハワイ太宰府天満宮は同じ敷地に隣同士に建っている神社で、有名な観光スポットとなっている。
戦時中においては、日系二世の代はアメリカで生まれ、普通に英語で授業を受けたり、アメリカ社会に馴染んでいたため、アメリカへの母国意識を強く持っていた。
パールハーバーのあるハワイの「日系二世」の若者達は、こぞってアメリカ軍隊の入隊を志願し信頼を取り戻そうとした。
ルーズベルト大統領により、日系二世部隊第「442歩連隊」が新たに編成されることになり、 ハワイ島から2700人が入隊している。
「422連隊」は、ドイツ軍に包囲され孤立した通称「テキサス大隊」を救出するために、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げて、「テキサス大隊」を救出することに成功した。
死をおそれぬ「442連隊」の活躍は、アメリカでもっとも多くの勲章を受けることになる。
また「422連隊」隷下の第522野戦砲兵大隊は、フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊の「ダッハウ強制収容所」の解放を行った。
しかしその事実は1992年まで公にされることはなかった。
こうした日系二世部隊の犠牲的な活躍は、真珠湾攻撃で失われた日系人の信頼を取り戻した。
ハワイの日系人は、様々な苦難を「アロハ精神」とよぶ助け合いの精神でたがいにささえあって 生き抜いた。
ところで「ダニエル・イノウエ国際空港」には、もう一人の「日系人の英雄」の名を刻んだ記念碑が立っている。
それは、スペースシャトルの搭乗員となったエリソン・オニズカの名前である。
実は、スペース・シャトル「チャレンジャー」の宇宙飛行士・エリソン・オニズカは福岡県南部筑後地方の浮羽町をルーツとしている。
久留米市浮羽町は、イノウエのルーツ八女市上陽町と同じ筑後地方にあり、近い場所に位置している。
オニズカの祖父は、移民としてハワイにわたりでコーヒー栽培などを行って、ハワイ島のコナの街で日用雑貨の店「オニズカ・ストア」を開く。
しかし1941年の真珠湾攻撃で彼らの運命が一機に暗転したのは、ダニエル・イノウエと同様である。
夫婦は、7人の子どもを育てその一人が正光でタクシー運転手の仕事をした。正光は、広島県出身でハワイ島のコナでコーヒー栽培 をしていた長田光江と結婚する。
1946年6月24日この日系2世である正光と光江との間にハワイ島コナ郊外のケオプ村に長男として生まれた子がエリソン・オニズカである。
エリソンは「日系三世」ということになるが、1964年にコロラド大学に入学し航空宇宙工学を学び予備将校訓練コースに入った。
この体験が後に宇宙飛行士への道を開かせることになる。
1969年大学を卒業し、アメリカ空軍の少尉となり、3歳年下のハワイ島出身の日系3世ローラ・レイコ・ヨシダとコロラド州デンバーの寺院で結婚式をあげた。
オニズカがスペースシャトルの搭乗員として選ばれた時のメンバーは、男5人女2人白人・黒人・日系人と多様な顔ぶれであった。
エリソン・オニズカとともにクリタ・マコーリフという名の教師がミッションに参加していた。
彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であった。アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。
これは世界ではじめてのスペースシャトルからアメリカにむけてさらには世界中にむけての授業となる予定であった。
当初打ち上げ予定であった1986年1月26日はとても風が強くミッションは1月28日まで延期された。 そして11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。
最初の1分30秒間は正常な飛行がなされたが、次には悲劇的な悪夢がチャレンジャーを襲った。
チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は全員死亡したのである。
彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走り「ハワイの英雄」の死を悼んだ。
なお、エリソン・オニズカのルーツである浮羽町の家近くに小川があるが、その川に架かる橋には宇宙飛行士姿のオニズカの写真が埋めこまれており、「エリソン・オニズカ・ブリッジ」と名づけられている。
エリソン・オニズカは、第二次世界大戦中イタリア戦線でのハワイ出身の日系人の働きがなければ、チャレンジャーの搭乗員になることはなかっただろうと自ら回顧している。
そのイタリア戦線で戦い右腕を失ったのがダニエル・イノウエだったのである。
オニズカが日系人初の宇宙飛行士に選ばれた背景に、同じハワイ出身の上院議員イノウエの存在があったのかもしれない。
同じハワイ出身で福岡県筑後をルーツとする日系人ダニエル・イノウエとエリソン・オニズカはこうした奇縁で結ばれていたのである。

「AI(アイ)」の名前で知られる日系アメリカ人のシンガーソングライターは、本名「植村愛」。
ラッパーとしても知られるが、彼女が歌った「Story」は、映画の主題歌になるほどの名曲として知られている。
「Story」は、AIが作詞、2SOULが作曲を手掛けた。AIの12枚目のシングルとして2005年5月18日に発売され、カラオケの定番となるほどの人気曲でもある。
AIは1981年11月1日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれた
4歳のときに父親の仕事(土木・建設業を営んでいる)の関係で鹿児島県鹿児島市に移り住み、この地で育った。
12歳の時、ロサンジェルスに行った際にキリスト教会に立ち寄り、初めてゴスペル・クワイアを体感して感動し、歌手を目指すことを決意 した。
1996年、中学を卒業後 ロサンジェルスの名門パフォーミング・アーツ・スクール(LACSA)に入学し、ダンス・クラスを専攻する。
そこでゴスペル・クワイアのメンバーとなり、唯一の東洋人ながら、実力と人柄でクワイアの人気シンガーへと登りつめた。
1999年、前年に全米から1000人近くのダンサーを集めて行われたオーディションに勝ち残り、ジャネット・ジャクソンのミュージック・ビデオ「Go Deep(ゴー・ディープ)」に出演を果たした。
この年、アジア系ガール・グループ“SX4”を結成し、アメリカデビューの準備をしていたが、同時期に日本のBMG Japanからもオファーを受け、日本でのソロ・デビューを選択する。
こうしたAIさんの意外なルーツをNHKの「ファミリー・ヒストリー」という番組で知った。
祖父は日系アメリカ人で、日系人部隊「442連隊」の一員だった。
AIの母親のジョバンナさんは、鹿児島ではかなりの有名人であるが、ジョバンナさんの父(AIの祖父)にあたる遠藤正美(96年没/享年80)は、米国生まれの日系2世である。
幼き日を静岡で育ち、その後米国に戻り、第二次世界大戦時、合衆国史上最も多くの勲章を受けた日系人部隊「442連隊」に所属していた。
イタリア駐屯中、ジョバンナさんの母親と恋に落ち、結婚する。
ソフィアローレン主演の映画「ひまわり」を思い出すが、そして生まれたのがバーバラさんであった。
バーバラさんは、日本人とイタリア人のハーフ、AIはクオーターということになる。
バーバラの父親が陸軍退官後は一家でロサンゼルスに移り、夫婦は「スキッド・ロウ」と呼ばれる地域の小さなホテルの管理人として、住み込みで働いた。
「スキッド・ロウ」に隣接するリトル・トーキョーの日系人学校には「ハーフだから」という理由で入学できなかった。
また、遊んでいても父親が日系人とわかった途端、手のひらを返したように冷たくなった。
なにしろ、友達のなかには日本との戦争で負傷したり、親戚の人が死んだ子もいて、みんな日本人が嫌いであった。
そんな悲しかった体験から、自分が絶対、差別しないと、そのことを子供たちにも伝えてきた。
実際、バーバラさんは、それでも、ジョバンナさんは、ホームレスも、黒人も、メキシコ移民も差別せず、いつもニコニコと挨拶する人だったという。
その後、ある不動産取引の会社で働いていた31歳のころ、ロスで現地法人を立ち上げた夫・植村久さんと出会った。
そしてプロポーズされた、その翌日には、久さんの鹿児島の実家で両親に会い、その2カ月後には、盛大な結婚式を挙げていた。
新婚生活は、ロスでスタートして、新居で生まれたのがAIであった。
AIが2歳になるころ、父の会社のゴルフ場建設を手伝うため、帰国することになった。
1年だけの約束だった鹿児島滞在も、どんどん延びていき、最終的に、久さんは社員3000人の会社の経営を引き継ぐことになる。
バーバラさんにとって、鹿児島での生活にはなかなか馴染めなかったが、もちまえの明るさで乗り切った。
自分の出来ることはなんだろうと、様々な活動をしているうちに、ダンス教室に、英会話とスポーツジムも併設した「アメリカン・スーパー・シェイプ」を創設した。
そして今や、鹿児島を明るくする地元の有名人である。
ところで、AIの夫は、「カイキゲッショク」という、様々なジャンルの音楽をするひとたちが集まっているグループのリーダーで、名前は HIRO。
2014年に結婚し、お子さんは女の子が一人で名前は「平和」ちゃんである。

なにしろAIの父親の植村久さんは、九州全土で建設業を主体に事業を展開する「植村グループ」の御曹司。 アメリカ合衆国副大統領は、憲法に基づきアメリカ合衆国上院議長の職を兼ねる。 しかし議長職が(死亡や辞職により)欠けている間は、上院仮議長が常任の上院議長として奉職 … アメリカはみずからの過ちの代償を支払わなければならない」 中国が、ペロシ下院議長の台湾訪問に激しく反発しています。 中国軍は4日から台湾周辺で実弾射撃なども伴う「重要軍事演習」を行うと発表。 なぜ中国はここまで強硬に反発するのか? そもそも中国と台湾の関係は? 詳しく解説します。 ペロシ議長台湾訪問で中国は? 中国 習近平国家主席 複数の機関が訪問を非難する声明を一斉に発表するなど、猛反発しています。 中国外務省はアメリカのバーンズ大使を夜中に呼びつけるという異例の対応。 「ペロシ議長は意図的に挑発を行い、台湾海峡の平和と安定を破壊した。その結果は極めて重大で決して見過ごすことはできない。アメリカはみずからの過ちの代償を支払わなければならない」と厳しく非難しました。 中国側は、ペロシ議長が台湾に到着した直後の2日深夜、台湾を取り囲むように、あわせて6か所の海域と空域で、実弾での射撃なども伴う「重要軍事演習」を行うと発表。にわかに、地域の緊張が高まっています。 中国はなぜ強硬に反発するの? 「小さい子どもが2人もいるのに、サイテーな母親、サイテーな人生。そう思いました。離婚したほうがいいかなと、真剣に悩みました」 2022年8月2日からアメリカのナンシー・ペロシ下院議長が台湾に訪問していることで、中国側が台湾の空港を爆撃するなどといった物騒な軍事的行動をしようとしていることで話題になっていますね。 台湾と中国は今とてもシビアな問題を抱えており、緊張状態が続いていますが、このタイミングでアメリカのペロシ下院議長が台湾に訪問した理由と、中国が激怒するのはなぜなのか?具体的な情報をまとめてまいりたいと思います。 MEMO 【この記事で分かること】 ・ペロシ下院議長が台湾に訪問する理由 ・中国が激怒して軍まで使っている理由 アメリカ合衆国憲法 によれば、 上院議長 は 副大統領 が兼務し、可否同数の場合にしか投票できない( 議長決裁 )ながらも上院で最上級の役職である。 仮議長は上院によって選出され、慣例的に多数党の最長老議員 が務めることとなっている。 そんなハワイ日系人の苦難をエリソン・オニズカの祖父母達も味わってきた。 「」 エリソン・オニズカは、コナの町のコナワエナ高校にすすみ学校の勉強以外にもボーイスカウトやコナの本願寺のYBA(仏教青年会)でも活躍した。 そして成績人柄すべてがすぐれた生徒でなければ選ばれない「ナショナルオーナーソサイエテイ」というクラブのメンバーに選ばれ成績も卒業時点で学年のトップになっていた。 その1ヶ月後、アポロ11号が月面着陸をした。 エリソンはカリフルニア州マクレラン基地で飛行機の試験飛行をテックするテストフライトエンジニアの資格をとった。 その後エドワード基地テストパイロット学校に移り、試験飛行センターのエンジニア主任となった。 この時「プロップウッシュ賞」をうけている。これは「冷静であること。ユーモアがあること。やる気があること」が条件となった賞である。 1978年1月スペースシャトル計画に選ばれた35人(78年組)の宇宙飛行士の一人に選ばれる。 そして1979年エリソンはスペースシャトルの10回目の飛行「STS-10」の乗組員に指名された。 この時エリソンは、真珠湾攻撃後の日系人2世の戦闘部隊の犠牲がハワイ日系人の信頼回復につながったと思った。 1985年1月24日 アメリカ東部時間 午後1時41分 ディスカバリー号発射(5人の宇宙飛行士)初飛行をする。 エリソンオニズカは、デイコバリー号に搭乗しアジア系の人間としてはじめて宇宙にとんだ。エリソンは帰還後、ハワイのそして日系人の英雄となった。 そして1986年1月26日に計画されていた第二のミッションを待った。今度のエリソン・オニズカのミッションは宇宙遊泳でこれもアジア人がやったことのないものであった。 このミッションのために学校に行って子供たちに教育を行なうはずのプログラムをあきらめた。しかし1月26日はとても風が強くミッションは1月27日まで延期された。 1月27日にはボルトのゆるみがみつかり、ミッションはさらに1月28日に延期された。 その日、乗組員は8時23分に搭乗した。つららと水道管の損傷のために室内温度は27度にまでさがりミッションは11時30分にまで延期された。 11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。 男5人女2人白人・黒人・日系人と多様な顔ぶれであった。 最初の1分30秒間は正常な飛行がなされた。次には悲劇的な瞬間が待っていた。 チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は死亡した。 エリソン・オニズカとともにクリタ・マコーリフという名の教師がミッションに参加していた。彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であった。 アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。これは世界ではじめてのスペースシャトルからアメリカにむけてさらには世界中にむけての授業となる予定であった。 1986年1月27日午前9時38分。スペースシャトル爆破により7人の飛行士がなくなった。 彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走りハワイの英雄の死を悼んだ。 エリソン・オニズカは最初の日系アメリカ人宇宙飛行士である。 エリソン・オニズカはかつてロサンゼルス旅行の折にリトル東京を訪ねたことがあったが、ロサンゼルスにある日系アメリカ人協会は、彼の死を深く悼み、1986年にエリソン・オニズカ記念財団を組織した。 その直後、オニズカ記念協会は日系人国立博物館にエリソン・オニズカの生涯を永久に展示することを決定した。 同時にオニズカ・ストリートに面した店の経営者達は国際的に有名な芸術家のつくったエリソン・オニズカの像を設立することに決定した。 現在、彼を記念してハワイのコナ国際空港にはエリソン・オニズカ宇宙センターがある。 ハワイ日系人を襲った苦難の「めぐり合わせ」と宇宙飛行士に選ばれたエリソン・オニズカの悲劇の「めぐり合わせ」とが、海を見晴らすハワイ耕地で時を知らせる鐘のように響きあっている。 ハワイには日系人がたくさんいます。そして、多くの日本人観光客がハワイを訪れています。日本とハワイの関係は深いものですが、その歴史をひもとくと、日系移民のたどった数々の困難な歴史が見えてきます。 AIさんの祖父は数戦直後、イタリアでAIさんの祖母と出会った。そのため、AIさんはイタリアに親戚がおり、これまで何度かイタリアを訪れている。
1865年から日本人の需要の声が高まる 日本人に海外旅行で人気の高いハワイですが、ハワイには多くの日系人が今もなお住んでいます。ハワイにはなぜ日系人が多いのでしょうか。 ハワイに初めて降り立った日本人の記録は、富山の運搬船・長者丸の次郎吉という人物の記録です。船が難破し、アメリカの捕鯨船に助けてもらったのが1839年になります。同じく遭難したところを捕鯨船に助けられ、その後アメリカへ渡り様々な学問を学んだジョン万次郎より、2年早くハワイの地を踏んでいます。 次郎吉は約1年間ハワイに滞在後、鎖国している日本にシベリア・アラスカを経由して帰国しています。その後は5年ほど幕府に監禁され、海外事情を聞かれたりしたそうです。 その頃ハワイでは、835年に西欧人によるさとうきび栽培が始まり、砂糖産業が盛んになっていきます。1848年にはハワイ王朝が外国人の土地私有を認めるようになり、ハワイの人の生活に必要な分だけ作られてきたさとうきび栽培が、西欧人による大規模なプランテーション化へと進化を遂げ、一大産業へと急成長していきます。 やがてハワイ王国内での現地人のみでは労働力の確保ができなくなり、移民を受け付けるようになりました。1850年に初の労働移民を中国から招き入れ、1852年には官約移民制度が導入され、ハワイ政府公認の移民制度が本格的に始まりました。しかし、中国人は農園仕事の定着率が悪く、商売を始めるものなどが増えていき、出稼ぎ人からハワイやアメリカ本土への移民へと変わっていきました。足りなくなった労働力は1865年頃から中国人から日本人にシフトしようという声がハワイ政府の中で起きていきました。ハワイにおける日本人の歴史はそこから始まろうとしていたのです。 1868年に150名の労働移民がハワイへ ピジン英語に関してはこちら>> これを知ればハワイ上級者!ハワイのピジン英語って何?ピジン英語とハワイで使われている日本語由来の言葉もご紹介! お役立ち情報&モデルプラン 2020-10-02 17:00:29 ハワイ プランテーション 日系th_ 写真一枚で日本からお嫁さんをハワイへ呼び寄せ結婚! 元年者としてハワイに渡ってきた約150名のうち、女性は数える程しかいませんでした。その後移民として渡ってきた人たちも多くは男性で、女性の移民もいましたがほとんどが夫と一緒に来た既婚者でした。 最初は数年の出稼ぎとして渡った日系移民ですが定住を決める者も多く、まだ国際結婚(移民間結婚)が一般的でない時代だった当時、日系人たちは家族を作るために日本から花嫁を呼び寄せました。 それがピクチャーブライド(写真花嫁)です。 今のように飛行機で簡単にハワイへ来ることができなかったので、たった1枚の写真だけを交換し結婚するために女性がハワイへ渡ってくるという、今では考えられないような結婚の方法でした。これが1908年〜1924年頃の出来事。 自分の写りのいい写真や実際よりも若い頃の写真を使う人も少なくなく、「写真で見ていた人と違う!」という人もいたんだとか。 写真:AsAm News その後、一世たちの子供が生まれ、ハワイ生まれの日系二世が増えていきました。 日系二世の生活 日系一世の子供にあたる日系二世たちは、日本人的な価値観も持ちつつ、アメリカ人として生きていくために言語も学び、アメリカナイズされ、家では日本語、外では英語を使うバイリンガルになる人も多くいました。 一世はハワイのプランテーションへいわゆる出稼ぎに来ていたので、社会的地位も低かったと言われています。二世の親たちは、自分の子にはアメリカで苦労をしないように、教養をつけて欲しいと常々思っていました。 親の苦労や努力を見て育った二世たちはとても努力家でした。たくさん勉強もし、高校以上に進学する人も多く、徐々にではありますがアメリカでの日系人の地位をあげつつありました。 そこで起こってしまったのが1941年の日本軍による、真珠湾攻撃です。 太平洋戦争と日系人 ハワイの日系人の歴史を語る上で、太平洋戦争は切っても切り離せない出来事の1つ、その理由をお話ししていきます。 月日は流れ、1941年にハワイの真珠湾が日本軍により攻撃され太平洋戦争が始まりました。これにより、アメリカに住む日系人はアメリカ生まれのアメリカ人でありながらも不利な立場に。 ハワイの日系人にも疑いの目を向けられ、一部の日系人はオアフ島のホノウリウリ収容所やサンドアイランドにあった収容所などへ収容されることになりました。 当時、ハワイの人口の40%ほどをしめていた日本人全員を収容所へ送るのは現実的ではありませんでした。 なので収容所へ収容された日本人は主に ”日本のスパイになりそうな人” と考えられていた人で、日本語学校の先生や、宗教関係の人、子供を教育のため日本の学校へ送っていた親など、日本語ができる人や日本との関係がある人が多かったと言われています。 <オアフ島のホノウリウリ収容所>日系アメリカ人 ハワイ写真引用:NIKKEI VETERAN LEGACY また、アメリカに住む18歳から35歳の健康な男性は、兵役が課せられることに。日系二世を中心に編成された第100歩兵大隊は、日本人の真面目さから、とても良い兵隊だと認められ、ヨーロッパでの戦いにまで駆り出されました。 また、その一年後に結成された第422連隊戦闘団もほぼ日系アメリカ人で構成されており、日系二世にとって国のために戦うこの戦争時代は、辛い経験でありながらも、自分たちのアメリカに対する忠誠心を見せることができる最大のチャンスだったのです。 そしてこの忠誠心を見せることができれば、戦争後彼らの社会的地位を上げることができるので、この戦争は彼らにとって賭けのようなものでした。 戦後の日系人の活躍 ハワイでは戦後から今もなお、さまざまなシーンで日系人が活躍しています。 2017年にハワイの空港の名前にもなった「ダニエル・K・イノウエ」。いったいこの人は何者?と思われている方も多いかもしれませんが、彼は日系二世。第二次世界大戦の時に、第422連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパで戦ったうちの1人でもあります。 彼は除隊後、ハワイ大学で政治学を学び、1954年にはまだ準州であったハワイの議員に選抜されました。ちなみに彼はアメリカ初の日系議員。 daniel K Inouye写真:https://history.house.gov/People/Detail/15647 その後1975年にはジョージ・アリヨシがハワイ州の初めての日系州知事となりました。また現在の知事デイビット・イゲも沖縄系にルーツのある方です。 Gov-Ige-Aloha-Shirt-HI-Res-200x300写真:https://governor.hawaii.gov/governors-bio/ このように、戦後どんどんと日系人のアメリカでの社会的地位が高くなっていきました。 今ではハワイには、純粋な日本の血を引いた日系人を始め、中国や韓国、またはアメリカ人とのミックスでありながら、日本人の苗字を持つ方もたくさんいます。 また、冒頭で少し紹介した日系一世や二世が始めた商店やお店以外にも、彼らが始めたお店はまだハワイにたくさん残っています。 ハワイの人気店でもあるマツモトシェイブアイスやABCストアも日系移民が始めたお店。 その他にも「タイムズスーパーマーケット」は、沖縄移民の息子2人(日系二世)のアルバートさんとウォレスさんという兄弟によって作られたハワイ生まれのスーパーです。 写真出典:Times Supermarket このような歴史を経て、今現在もなおハワイにはたくさんの日本人(日系人)が住んでいます。 たくさんの日系人が住んでいるからこそ、ハワイでは日本の文化がとても根付いていて、「ひな祭り(Girl’s Day)」「盆踊り(Bon Dance)」「灯籠流し(Lantern Floating)」などの行事も行われています。 また、ハワイに根付いている日本の文化を知っているハワイの人は日本人のこともウェルカム! いつハワイに来ても楽しめるのは、そんな理由や背景からかもしれませんね。 2021年4月現在は新型コロナウィルスの影響で、エキシビションは一時休業となっていますが、ハワイで日系日本人について知りたいと思ったら再開後、サウスベレタニア通りにあるジャパニーズカルチュアルセンターへも足を運んでみてくださいね。 映画監督で作家のステーシー・ハヤシ氏が手がける映画「ゴー・フォー・ブローク」が、2016年11月にオアフ島でクランクインしました。ハヤシ氏は、2013年にこの作品を製作するにあたりハワイ州から$560,000の奨学金を受領しました。ハヤシ氏は4年前に、「第442連隊戦闘団」と「第100歩兵大隊」を描いた「Journey of Heroes(ジャーニー・オブ・ヒーローズ」という実写漫画(グラフィック小説)を発表しました。しかし、彼女の最大の目標はこの映画「ゴー・フォー・ブローク」を撮る事だったそうです。 「ゴー・フォー・ブローク(当たって砕けろ、全力で立ち向かえ)」とは第2次世界大戦中に敵国となった日本人を先祖に持ちながら、命をかけてアメリカ合衆国への忠誠心を証明した日系アメリカ人兵士のスローガンとなった言葉です。ハヤシ氏は「当時のハワイのストーリーを人々は知る必要がある」と語ります。 予算不足に拘らず、多くのボランティアを含める協力を得てこの映画の撮影は行われています。出演者には、「人造人間キカイダー」の伴大輔氏や、オスカー賞受賞俳優のクリス・タシマ氏などもいます。ゴー・フォー・ブロークは、スコーフィールド米陸軍基地、ウィラーアーミーエアーフィールド、ワヒアワ、ワイマナロ、ワイパフ、ハワイ大学、イオラニ宮殿で撮影されます。ハヤシ氏は、2017年秋頃には公開を予定しているそうです。 ちなみにMyハワイの編集部員もこの映画の撮影に参加しました。「ゴー・フォー・ブローク」に関する情報はわかり次第アップデートしていきたいと思います。 (Honolulu Star Advertiserより) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 第442連隊戦闘団 442nd Regimental Combat Team 442-Infantry-Regiment-COA.png 創設 1942年6月15日 廃止 1946年8月15日 再編成 1947年7月31日 廃止 1969年12月12日 所属政体 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 所属組織 Emblem of the U.S. Department of the Army.svgアメリカ陸軍 部隊編制単位 連隊(連隊戦闘団) 兵科 歩兵 人員 3,800名 編成地 ウィスコンシン州 キャンプ・マッコイ 愛称 パープルハート大隊 Purple Heart Battalion 標語 当たって砕けろ! Go for broke![1] 最終上級単位 第36師団 最終位置 イタリア王国の旗 イタリア王国 主な戦歴 第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線(英語版)) テンプレートを表示 第442連隊戦闘団[2][3] [4][5](だい442れんたいせんとうだん、英: 442nd Regimental Combat Team)は、第二次世界大戦中のアメリカ陸軍が有した連隊規模の部隊である。士官などを除くほとんどの隊員が日系アメリカ人により構成されていた。ヨーロッパ戦線(英語版)に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘した。その激闘ぶりは連隊に従軍した約14,000人のうち、死傷率は314%[6][出典無効]であり、この数字は高い損耗率、死傷率を表している。不足した人員を随時補充し続けそれでも損耗し続けたが故の数値である。[要検証 – ノート]そして4,000人以上[要検証 – ノート]がパープルハート章(日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章などとも訳される)を獲得した。アメリカ合衆国史上もっとも多くの勲章を受けた部隊としても知られる[7]。 第二次世界大戦中、約33,000人の日系二世がアメリカ軍に従軍し、そのほとんどは本団、第100歩兵大隊、アメリカ陸軍情報部の3部隊のいずれかに配属された。 ロサンゼルス東南東、ボイル・ハイツ(英語版)にあるエバーグリーン墓地(英語版)には、442連隊を含め日系二世兵の墓石がならんでいる。墓地の後方正面に立つ大きな白い大理石の塔には大きく漢字で「殉国碑」、その右下には同連隊を指揮したマーク・W・クラークが、左下にはドワイト・D・アイゼンハワーによるメッセージが、それぞれ刻まれている[8]。 日系人部隊の編制 第442連隊戦闘団の編制図 強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士(1942年5月11日) アメリカ軍兵士の監視の下、強制収容所に連行される日系アメリカ人(1942年4月5日) 行進する第442連隊戦闘団の兵士(1944年、フランス) 1941年12月の真珠湾攻撃に伴い、アメリカ合衆国は日本に対して宣戦を布告した。その後アメリカ軍は緒戦で敗退を続けた上に、日本海軍の潜水艦によるアメリカ本土砲撃や、艦載機によるアメリカ本土空襲が行われたこともあり、アメリカ政府及び軍は日本軍のハワイ侵攻及び本土進攻が近い内に行われると予想し、その対策を進めていた。 その際にアメリカ政府は、アメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。 なお、ハワイ準州(Territory of Hawaii)居住の日系人については、全体の人口に対して、その率が島によっては人口の半分程度とあまりにも多く[9]、生活や経済が成り立たなくなると同時に膨大な経費と土地を必要とすることになるため、当局は日系人社会に対して影響力が高いとみられた日系人会幹部や僧侶ら数百人をホノルルのサンド・アイランドの収容所に収容、後に人数は数千人に増え、オアフ島のホノウリウリ抑留キャンプをはじめ、カウアイ島、マウイ島、ハワイ島(一部は本土)の数か所に強制収容したものの、全日系人が対象とはならなかった。なお、例外的な例ではあるが、本土にも強制収容に抵抗して日系人住人を守った自治体があった。 第二次世界大戦の戦争目的として、日本は「(その殆どが欧米諸国の植民地にされている)アジアの白人支配からの解放」を謳い、アメリカでの日系人の強制収容を「白人の横暴の実例」として宣伝していた。アメリカはそれに反駁する必要に迫られ、日系人の部隊を編制することになった。また、高い士気を持った第100歩兵大隊が、軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげたこともこれを後押しした。 1942年6月に、在ハワイの日系二世の陸軍将兵約1,400名は「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られた。同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、第100歩兵大隊(100th infantry battalion)と命名される[10]。大隊長以下3人の幹部は白人だったが、その他の士官と兵員は日系人で占められていた。ここで部隊は訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐する。これ以前にも、既に3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていた。 1943年1月28日、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた[10]。部隊名は第442連隊であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは以前から大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,686人、アメリカ本土の強制収容所からは1,500人の日系志願兵が入隊した。本土の強制収容所からの入隊者が少ないのは、各強制収容所内における親日派・親米派の対立や境遇が影響していたが、ハワイでは事情が異なり、募集定員1,500人の6倍以上が志願したため[10]、定員が1,000人増やされた。なお、徴兵年齢(18-39歳の男性)の日系人人口は、ハワイで23,000人強、本土では25,000人程度で大差はなかった。 編成当初、背景事情の違いから本土出身者とハワイ出身者の対立は深刻で、ハワイ出身者は本土出身者を「コトンク(空っぽ頭)」、本土出身者はハワイ出身者を「ブッダヘッド(釈迦の頭、つまり刈上げ髪を揶揄した言葉)」と呼んで互いに反目し合い、第100歩兵大隊の兵士も加わった暴力沙汰も発生した[11]。 そこで上層部は、双方の対立を解消すべくハワイ出身者に本土の強制収容所を見学させることとした。そして彼らは有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の現状を目の当たりにして、いかに本土出身者が辛い状況に置かれているかを知り、対立は解消されることとなった[12]。 なお、日系人部隊のモットー「Go for broke!」(「当たって砕けろ!」の他、「死力を尽くせ!」[1]、「撃ちてし止まん」[13]、「一か八かだ」といった意味合い)」は、元来はハワイ・クレオール英語でギャンブルで有り金すべてをつぎ込むことを意味する[14]。当時のハワイには日本以外にもフィリピンや中国などアジアからの移民が多く、仕事場となったサトウキビのプランテーションでは賭博が盛んに行われていたが、移民同士は現地のハワイ語や英語を組み合わせたピジン英語で会話していた。日系人部隊の活躍が知られるようになったこともあり、現代では元の『有り金をつぎ込む』の他にも『当たって砕けろ』という日系人部隊に由来する意味も辞書に載るようになった[15]。 ヨーロッパ戦線での活躍 日系人部隊は当初、白人部隊の「弾除け」にされる、または大きな損害を受けた場合にそのような非難を受けるのでは、という軍上層部の危惧により戦闘には投入されなかった。1943年8月に北アフリカのオランに到着した第100歩兵大隊の配備先は未定だったが、大隊側からの希望によって、9月22日に第34師団第133連隊に編入され、イタリアのサレルノに上陸した。29日にはドイツ国防軍と遭遇し、初の戦死者を出した。 ローマへの侵攻 1944年1月から2月にかけて、イタリア戦線におけるドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン(英語版)」の攻防において激戦を繰り広げた。5月には、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン(英語版)」の突破にも活躍している。ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、多大な犠牲を払った。部隊はベネヴェントで減少した兵力の補充を受け、ローマを目指したが、軍上層部の意向によりローマを目前にして停止命令が出され、後続の第1特殊任務部隊などの白人部隊が1944年7月4日に入城してローマ解放の栄誉を手にした。結局、部隊はローマに入ることを許可されず、ローマを迂回しての北方への進撃を命じられた(これはこれで、実力を認められて先鋒を任された名誉という解釈もある)。 イタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていたので、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入して[7]、第442連隊戦闘団をベルベデーレ(英語版)、ピサなどイタリア北部での戦闘に参加させた。 ブリュイエールの解放 1944年9月に部隊は西部戦線へ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた[7]。一帯は、山岳・森林地帯であるため戦車が使えず、歩兵の力のみが頼りであった[16]。20日には町を攻略したものの、第36師団長ジョン・アーネスト・ダールキスト(John E. Dahlquist)少将の命令により、引き続き町東方の攻略を継続した。 戦後のブリュイエールでは、部隊の活躍を記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられた。なお、ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。 テキサス大隊の救出 しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の56名(617高地:第2大隊12名、失われた大隊救出:連隊本部等3名、第100歩兵大隊11名及び第3大隊30名)が戦死し、約800名が負傷した。 この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。 救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊のタムラ少尉[18]が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話があるが、これは矢野徹氏による創作の可能性が高いとされている。 テキサス大隊救出作戦後も戦闘は続き更に被害は増加した。 ようやく後方へと下がった11月12日に師団長ダールキスト少将が師団を離れる戦闘団を閲兵した際、整列した兵士があまりに少ない(K中隊に18名、I中隊には8名しかいなかった)のを見とがめ、「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、目の前に居るのがその全員です。(This is all the men, sir)」と答えた。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえできなかったという。これは第36師団編入時には約2,943名いた兵員が800名ほどにまで減少していたからである。 Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年10月14日~25日) ※失われた大隊救出前での戦死者。 第100大隊:29名/第2大隊:42名/第3大隊:3名/第232工兵中隊:2名/計:76名 Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~31日)での戦死者。 連隊本部:1名/第100大隊:11名/第2大隊:12名/第3大隊:29名/派遣衛生小隊:1名/第232工兵中隊:1名/第522野砲大隊:1名/計:56名 Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~17日)※失われた大隊救出後での戦死者。 第100大隊:5名/第2大隊:20名/第3大隊:15名/第232工兵中隊:2名/対戦車中隊:3名/計:45名 Vosgesの一連の戦闘での戦死者合計:177名 シャンパン・キャンペーンでの戦死者。  第100大隊:1名/第2大隊:7名/第3大隊:6名/第232工兵中隊:2名/計:16名 フランス戦線全体での戦死者合計:193名 救出したダッハウ強制収容所の生存者と第522野戦砲兵大隊の兵士。 ダッハウ強制収容所の解放 再編成を行った第442連隊戦闘団はイタリアに移動し、「ゴシックライン」と呼ばれるドイツ軍の防衛線において、「バッファロー・ソルジャー」と呼ばれる黒人兵主体の第92師団に配備された。そして半年に渡って膠着していた戦線をわずか30分で攻略する戦果を上げ、そこで終戦を迎えている。 叙勲 欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ合衆国軍事史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残すことになった[1]。特にその負傷者の多さから、「パープルハート大隊」とまで呼ばれた。戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、その中には以下のようなものも含まれている。 議会名誉黄金勲章:1[19](アメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章。2010年10月5日、オバマ大統領により第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績に対し、授与された。) 名誉勲章(議会栄誉章):21(アメリカ軍における最高の栄誉。セラヴェッツァ近郊での戦いで数々の殊勲をあげ、1945年4月5日に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵が受章。第2次世界大戦における名誉勲章の授与数は464、そのうち1998年に授与されたジョー・M・ニシモト上等兵のものと、殊勲十字章から格上げされた19個をあわせた21の名誉勲章が442連隊に与えられている) 陸軍殊勲十字章:52(このうちの20に関しては、2000年6月に再調査の上で名誉勲章に格上げされた) シルバースター:560(複数回獲得を表す樫葉の追加が28) 勲功章:22 陸軍軍人章:15 ブロンズスターメダル:4000(+樫葉追加が1200) パープルハート章:4,000 以上(モンテ・カッシーノの戦いで続出した凍傷患者に対する授与が過半) 大統領部隊感状:7枚(トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に、第442連隊としては7枚目となる「大統領部隊感状」を括り付けた。これは合衆国陸軍では初めての出来事。7枚という数字は合衆国陸軍の最多受賞部隊でもある) 格上げが多いのは、当時日本と戦争中のアメリカで日系人部隊を評価することにためらいがあったが、戦後そのしがらみがなくなり再評価されたためと、1960年代に公民権法が施行され、それまでの人種差別政策が是正されたためである。 日系二世の軍人を称えた議会名誉黄金勲章(裏)。第442連隊、第100大隊、陸軍情報部の記章が描かれている。 日系二世の軍人を称えた議会名誉黄金勲章(裏)。第442連隊、第100大隊、陸軍情報部の記章が描かれている。 442連隊の戦後 第442連隊戦闘団を閲兵するトルーマン大統領(1946年7月15日) 元兵士らの前で議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名するオバマ大統領(2010年) 元兵士らと握手するハリー・B・ハリス・ジュニア司令官(2014年) 442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、「諸君は敵だけではなく、偏見とも戦い、そして勝ったのだ。(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」と讃えている[20]。 しかし勇戦もむなしく、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見はなかなか変わらなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、主に南部の白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され[21]、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれた。 やがて1960年代になると、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。 442連隊は1946年にいったん解体されたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入された。その後、1969年に解体されたが、連隊隷下部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として現存している。部隊は本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、アメリカ領サモア、サイパン、グアムなどに置いている。部隊は統合や再編制を繰り返しているが、現在も主力は日系人を含むアジア系アメリカ人が占めている。 2004年8月に、第100歩兵大隊は第29独立歩兵旅団(ハワイ州兵)の大隊機動部隊の一つとして、イラクにおける任務のために活動を再開した。部隊はハワイのスコーフィールド・バラックス(Schofield Barracks)にて動員され、テキサス州のフォート・ブリスで2004年に訓練を受けた。その後、ルイジアナ州フォート・ポークで練成度を確認され、2005年3月よりイラクで任務に就いている。これは2006年に帰還している。 2010年10月にオバマ大統領は、442連隊戦闘団と陸軍情報部に、アメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名した[22]。現在のアメリカ陸軍では、442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっている。 2021年6月3日にはアメリカ合衆国郵便公社(USPS)より442連隊を称える郵便切手が発行された[23]。 著名な出身者 名誉勲章受章者 バーニー・F・ハジロ ミキオ・ハセモト ジョー・ハヤシ シズヤ・ハヤシ ダニエル・イノウエ - ハワイ州選出上院議員、上院仮議長 エイキ・コバシガワ ロバート・T・クロダ カオル・モト