鎌倉・三浦・伊豆「悲話」

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と北条政子の子である二代将軍・頼家の一家の運命は、悲話といってよい。
鎌倉幕府は、頼朝亡き後、頼家の専横を抑えるために13人の御家人による「合議制」によって運営される。
頼家は、父頼朝と苦楽を共にした北条氏はじめ御家人たちからみて、器量不足だったのであろう。
その源頼家の長男は一幡(いちまん)であるが、次男の公暁(くぎょう)と比べ知名度が低い。
一幡は、その母親が13人のひとり比企氏の娘であり、有力な三代将軍の有力候補であったが、北条氏との権力闘争に破れ、幼くして殺されている。
比企能員(ひきのりかず)は源頼家の乳母父であり、娘の若狭局(わかさのつぼね)が頼家の側室となって嫡子「一幡(いちまん)」を産み、この「一幡」は三代将軍になることが約束されていたことから、二代将軍・頼家の外戚として権勢を強めた。
これに対し北条氏は、頼家の弟・「千幡(せんまん)」(後の源実朝)を擁立しようとする北条時政が、比企氏の台頭を恐れ、仏事と称して比企能員を私邸に招き謀殺する。
これに怒った比企氏は「一幡」を擁して北条勢と戦いましたが、戦いに敗れ一族800余人は滅ぼされた。
一幡は母が抱いて逃げ延びたが、 北条義時の郎党に捕らえられて殺された。 時に6歳であった。
若狭局は、蛇苦止(じゃくし)の池に身を投げて自害。比企能員の末子・比企能本(ひきよしもと/2歳)は、和田義盛に預けられ、のち安房国へ配流となっている。
公暁は一幡の異母弟であるが、若くして出家したのも北条氏をはばかってのことであろう。
一幡・公暁兄弟の父親の頼家は、伊豆・修善寺に滞在中に、北条義時の意をくんだ母親・政子のはなった下手人によって非情にも殺されている。
そして3代将軍は、頼朝・政子のもう一人の子・実朝(千幡)が就任するが、鶴岡八幡宮境内で公暁によって暗殺されている。
その際、公暁は「父(頼家)のかたき」と叫んだそうだが、公暁もその後捕まって殺されている。
以上のように鎌倉幕府三代は、悲劇的な展開をたどるが、今でも「比企一族」の悲話は、鎌倉の街中にその名残をとどめている。
鎌倉駅東口を出て、数分で妙本寺の総門に着くが、この「妙本寺」辺りは「比企ガ谷(ひきがやつ)」と呼ばれ、比企能員の館があった処で、「比企一族供養塔」がたっている。
この悲惨な戦いから半世紀、奇跡的に生き残った比企氏の遺児である比企能本は、京都で儒学者となり鎌倉の「比企ガ谷」の旧地に戻ってきたが、この鎌倉で、当時布教活動をしていた日蓮に出会い帰依した。
そして、この「比企ガ谷」に法華堂を創建し、それが後の妙本寺となるのである。
「比企の乱」の乱で、一幡も焼け死んたが、一幡が着ていた小袖が焼け残り、その小袖を葬ったとされる「一幡の袖塚」があり、源頼家と若狭局(比企能員の娘)との間に生まれたとされる竹御所の墓もある。
竹御所は一幡の同母妹で、比企の乱で生き延び、ひっそりと暮らしていたが、第四大将軍・藤原頼経に嫁いだ後、難産の末死去した。
これにより源頼朝の直径子孫は完全に断絶する。
なお若狭局が入水した「蛇苦止堂」の名は、7代執権・北条政村の娘が若狭局の霊に祟られまるで蛇のような狂態をみせたが、加持祈祷によって快復した。
そこで、北条政村がこの若狭局の霊を慰めるため「蛇苦止堂」を建てたことによる。

源実朝を暗殺した直後に公暁が駆け込んだのは、三浦氏の館であったため、父親の源頼家なり兄の一幡の死について、実朝に対し恨みを抱くように公暁に吹き込んだのは、三浦氏ではなかったかという説がある。
その三浦氏も、同じく頼家一家を保護した和田氏同様に滅ぼされている。そして三浦氏の領地こそが「三浦半島」という地名の由来となっている。
江戸幕府初期、徳川家康に仕えたイギリス人航海士ウイリアム・アダムスは三浦半島に大きな痕跡を残し、この半島名にちなんで「三浦按針」という日本名をつけられた。
というわけで三浦半島は、航海士たち集う古い歴史が残る料亭が少なからず残っている。
ぺリーが来航した浦賀は現在、横須賀市に属するが、横須賀は言わずと知れた軍港だが、ごく最近まで「小松」とよばれた海軍料亭が存在していた。
「小松」は1885年の開業当初、白砂青松の海岸で海水浴を楽しんだ後に、入浴と食事を楽しむ「割烹旅館」にすぎなかった。
しかし、日本が海軍力の増強に努め、日清・日露戦争に勝利し、横須賀鎮守府の機能が拡大していく過程で、海軍軍人相手の「海軍料亭」となっていった。
1945年、「小松」はいったん閉店され、横須賀に進駐した連合軍の指定料理店となり、横須賀に進駐した主に米兵相手の飲食業を営むことなった。
日本の独立後の1952年、「小松」は横須賀海軍施設の米海軍軍人、そして海上自衛隊、旧海軍関係者らに広く利用されるようになった。
この料亭の創業者は東京・小石川関口水道町に生まれた山本悦という女性である。
山本悦は友人に誘われ浦賀へ向かい、そこで「吉川屋」という旅籠料理店に住み込みで働くようになった。
天然の良港である浦賀は江戸時代から港町として栄えており、創建間もない日本海軍の根拠地の一つとなっていた。
海軍関係の宴席の多くは吉川屋で行なわれ、山本悦は海軍関係者との人脈を築いていくことになる。
そんななか1875年、山田顕義、山縣有朋、西郷従道らとともに、小松宮、北白川宮、伏見宮、山階宮の4人の皇族が、浦賀沖で行なわれた「水雷発射試験」の視察のために浦賀を訪れた。
その際、海軍関係者からこれから横須賀は日本一の軍港になる、ぜひ横須賀で開業してはどうかと勧められたため、山本悦は独立を決意し、1885年20年近く働いてきた吉川屋から独立し、横須賀の田戸海岸に割烹旅館「小松」を開業した。
そして、山本が経営する料亭に「小松」の名を与えたのは、なんと皇族の小松宮彰仁親王であった。
というわけで「小松」が、海軍関係者によって繁盛するようになるのは自然の成り行きであった。
そして「小松」の増築時に鳶(トビ)の親方として活躍したのが、後に衆議院議員、逓信大臣となる「いれずみ大臣」の異名をもつ小泉又次郎であった。
この人物の孫こそ総理大臣となる小泉純一郎、租孫は小泉進次郎である。
純一郎は若い頃、ある記者から「おじいさんから政治の薫陶は受けましたか」と尋ねられ、「いや花札しか教わらなかった」と答えている。
そして、日露戦争中の1905年、「小松」は開業20周年を迎えるが、日露戦争に勝利すると、次々と横須賀に凱旋入港する艦船の乗組員による祝勝会が連日のように開かれ大繁盛した。
そして1906年には百畳敷の大広間が完成し、「小松」は文字通り全盛期を迎えたのである。
その後、田戸海岸の埋め立てや、第一次世界大戦後の恐慌の影響から1918年に一時期休業に追い込まれるが、場所を変えて再興する。
そして山本悦の後を継いだのが養女とした姪の直枝である。
直枝は期待に応え、平成に至るまで長きに渡って料亭「小松」を支えることになる。
戦況の悪化した1943年4月、「小松」の創始者である山本悦は94歳の天寿を全うした。
横須賀は戦後、米海軍ばかりではなく海上自衛隊の重要な根拠地となる。
その横須賀にあって「小松」は、大正、昭和初期の近代和風建築を今に伝えるとともに、東郷平八郎、山本五十六、米内光政らの書など、多くの日本海軍関係の資料を保有し、料亭「小松」は近代日本海軍の歴史を伝える貴重な存在であった。
実は、司馬遼太郎や阿川弘之といった作家たちが日本海軍の提督たちを描くときは、この料亭「小松」から取材したもの多いという。
「小松」は、旧日本軍の海軍料亭であるばかりか、日本近代史の舞台の一つである。
しかし、2016年5月16日火災により全焼し、この国のひとつの「遺産」が失われた。

東京・品川発の京浜急行は三浦半島の「浦賀」を終点とするが、蒲田駅で空港線(羽田線)に分岐し3つめの「大森町駅」あたりの線路沿いに、「大森貝塚跡」の石碑立っているのが目につく。
そこで大森町駅から「大森貝塚縄文庭園」に向かうと、盛土が壁のように囲む廃墟のような場所があり、その中に発見者モースの胸像が建っていた。
TVのバラエティー番組によれば、女子サッカーの丸山桂里奈選手の憩いの場だったらしいが、本人は公園の歴史的意義については無頓着のようであった。
モースは、日本考古学の先駆けとなる「この場所」を、実際に列車の窓から見つけたのだという。
また次の「大森海岸駅」に停車した際、列車の窓から「大経寺」という寺がみえ、ソコに「鈴が森刑場跡大経寺」とある。こんなものを見ると、予定にもなく降車したくなる。
江戸時代に刑場といえば、北の浅草・南の芝の二か所にもうけられていた。
しかし、幕府成立から半世紀がたち人口も増え、刑場付近まで人家が建ち並ぶようになり、より人目のつかないところに移されることになった。
この時、浅草から千住に移されたのが北の「小塚原」で、芝から移されたのが南の「鈴が森」だった。
そして、大森という地名から見て、その森とは「鈴が森」もそれに含まれているのだろう。
その刑場跡地は、大森海岸駅で降りてすぐ第一京浜道路を渡ったところにあった。
1683年3月29日、江戸・鈴ヶ森刑場にて「お七」という女性が火あぶりの刑に処せられた。
江戸の駒込の八百屋の娘お七は、天和の大火(1682年12月の)で焼け出され、一家で菩提寺の円乗寺へ避難したが、そこでイケメンの小姓と出会う。
その小姓の指に刺さった棘を抜いてやったのが縁になり、相思相愛の仲になってゆく。
翌年正月新しい自宅にお七一家は戻るが、お七はその小姓のことが忘れられずに悶々とし、火事になればまた会えると思い込み、自宅に放火をする。
ただし、火をつけたものの怖くなり、自ら火の見櫓に登って半鐘を叩きその結果、実害のないボヤで消し止められた。
しかし、お七の生まれる10年前には明暦の大火(振袖火事)がおきたため、放火は「大罪」であった。
そんな時、お七は放火の罪で捕らえられ、取り調べの奉行がその若さを憐れんで、年少者は罪一等を減じるという気持ちで、お七に「その方は十五であろう」と何度も念をおすが、お七は「十六」と正直に答えるばかりで、ついには鈴が森刑場で火あぶりに処される。
この物語をもとにつくられた曲が坂本冬実の「夜桜お七」(1994年)である。
作詞家の林あまりは、究極の孤独にあっても、自己の意志で貫いて夜桜のように潔く散ろうという女性の姿を描いたのだという。
「鈴が森刑場跡地」には、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されていた。
さて、「夜桜お七」から幕末に時代をくだると、伊豆に「唐人お吉」の悲話が伝えられている。
斎藤きちは、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸者。「唐人お吉」の名で知られる。
ハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、誤解されてしまう。
そこで候補に挙がったのがお吉だった。ハリス帰国後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。
ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉は年中酒の匂いを漂わせるようになり、1890年3月、下田街道沿いの稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自ら命を絶った。満48歳没。
この「唐人お吉」を鬼気迫る演技で演じたのは往年の大女優である大地喜和子である。
1992年10月13日、静岡県伊東市での「唐人お吉」公演期間中の午前2時過ぎ、大地が乗る乗用車が桟橋から海に転落。同乗者の二人は泳いで脱出したものの、太地は泳げなかった上、乗車前に深酒をしていたことから生還できず。
特別な思い入れで「お吉」を演じた大地喜和子は、奇しくもお吉と同じ48歳、場所も下田に近い伊東の海にて水死している。
「役者」が、「役柄」と似た運命を辿るというのは、案外あることかもしれない。

NHKの「ファミリーストリー」によれば、テリー伊藤の母方の実家は、千葉県館山(たてやま)の鳥海(ちょうかい)家という「禰宜(ねぎ)」だったという。つまり神職である。
館山といえば「里見八犬伝」で有名だが、安房神社、洲崎神社、下立松原神社など「忌部氏」の神々が祀られている。
忌部氏は天皇に仕える陰陽家で、祭祀職として「御弊」をつくるために、麻の生産に携わり、阿波徳島や房総の地を拠点にした。
下総や上総の「総」は、もともと麻の「房」(ふさ)を意味するもので、青木繁が「海の幸」という名画を描いた館山市の「布良(めら)海岸」である。
神道では「清浄」を重視しており、大麻は穢れを拭い去る力を持つ繊維とされ、聖域を囲む結界のための麻紐であったり、注連縄として現在も使用されている。
「忌部」氏の祖先をさらに遡ると、北方ユーラシアあたりのシャーマン文化との関わりが推測され、シャーマン文化は「鳥」と関わりが深い。「鳥海家」も、そうした忌部氏のひとつだったと推測される。
さて、日本には「鳥」をめぐる昔話が少なくなく、そのひとつが「ツルの恩返し」である。
また、日本の各地に「天の羽衣」(あまのはごろも)伝説が残っているが、特に有名なのは、静岡県の三保の松原に残る「羽衣伝説」である。
ある時、ひとりの漁師が松に掛かっていた美しい羽衣を見つけ、持ち帰って家の宝にしようと思った。
その時、木の陰から天女が、私の羽衣ですから返して下さいと声をかけた。
漁師はちゃんと羽衣を返すので、天女の舞を見せて欲しいと少々厚かましい願をする。
うると、羽衣を身にまとった天女は舞い踊り、その躍動に羽衣も翻っていくうち、天女は徐々に天へと上がり、霞の彼方へと消えていった。
そして、この昔話の舞台「三保の松原」にいくと、思わぬ石碑と出会う。それが「エレーヌ・ジュグラリスの碑」である。
フランスの舞踏家エレーヌ・ジュグラリスは、1916年にフランス北部・ブルターニュ地方カンペール生まれのフランス人女性ダンサーである。
彼女が日本の「能」の中で「羽衣」に興味を持をもったのは、西洋に数多く伝わる「白鳥伝説」に通じるものがあったからだ。
彼女は、ヨーロッパの人々にも分かりやすい能楽作品の一つ「羽衣」を研究し、手探りで「羽衣」の謡をフランス語に訳した。
衣装も厚手の生地を買って自ら刺繍し、独自の創作舞踊「HAGOROMO」を作り上げた。
1949年3月、ギメ美術館ホールでの初演は成功裏に終わったが、わずか3カ月後に公演中に舞台で倒れ、「天女の衣装」をまとったまま病院に。
その後、白血病と診断され、2年後に35歳の若さでこの世を去る。
夫のマルセル・ジュグラリスは、「三保の松原」に憧れを抱いていた彼女の遺志を果たすために、エレーヌの遺髪を携え三保を訪れた。
これを機に、1952年にエレーヌ・ジュグラリスの遺徳を忍んで記念碑が建立され、記念碑には夫・マルセルが妻・エレーヌに捧げた言葉がフランス語で刻まれ、和訳が併記されている。
“美保の浦 波渡る風 語るなり パリにて「羽衣」に いのちささげし わが妻のこと 風きけば わが日々の すぎさりゆくも 心安けし”。

源頼家は寿永元(一一八二)年、源頼朝の長子として母北条政子との間に生まれた。正治元(一一九九)年の父の死により、十八歳で家督を相続。建仁二(一二〇二)年、二代将軍となった。  頼家は妻で比企能員(よしかず)の娘の若狭局(つぼね)が一幡(いちまん)を産んだことから、比企氏が外戚として権勢を振るい、北条氏と対立するようになった。これに対して北条氏は翌年、有力御家人と鎌倉殿の十三人といわれる老臣合議制を敷いた。  頼家は才能に恵まれていたが、北条氏や政子と対立。権力に制約を加えられ、病にかかると、早くも後継将軍が議せられるなど、頼家無視の動きが見られた。頼家が重篤状態になると、没後について話し合われ、一幡と頼家の弟千幡(後の三代将軍実朝)に諸国の地頭職を分割することに決まった。  能員はこれを不満とし、建仁三(一二〇三)年九月北条氏を討とうとしたが、逆に一幡と能員は謀殺された。一方、頼家は和田義盛と仁田忠常に命じて北条時政を討とうとしたが、失敗した。  この事件により、同年九月二十九日、頼家は伊豆国修禅寺に下向した。先に能員と組み、北条氏の排除に失敗して出家させられた。「吾妻鏡」には、先陣の随兵百騎、女騎(めき)十五騎、御輿(みこし)三、小舎人童(こどねりわらわ)一人、後陣の随兵は二百余騎だったと記されている。現伊豆市にある益山寺蔵の「益山寺縁起」によると、「この時初めて伊豆で武士を見た」と書かれている。  翌年七月十八日、頼家は北条義時によって修禅寺で謀殺されたことが、「吾妻鏡」や「鎌倉年代記」「愚管抄」に記されている。将軍在位二年で修禅寺に幽閉され、鎌倉の刺客に入浴中襲われ、二十三(満二十一)歳で非業の死を遂げた。 北条政子が建てた指月殿=伊豆市で 北条政子が建てた指月殿=伊豆市で  伊豆市修善寺遊覧町に墓がある。法名法華院殿金吾大禅閣、正面の大きな供養塔は元禄十六(一七〇三)年、五百回忌の際、江戸の人が寄進した。その後ろの小さな五輪塔が頼家の墓である。頼家が暗殺された後、御家人十三人が謀反を企てたがたちまち発覚し、十三士の墓のある場所で殺されたとも殉死したともいわれる。この付近は御庵洞(ごあんぼら)といわれており、頼家の庵室のあった場所と伝えられる。  母政子は頼家の墓のそばに経蔵を建て、宋版大蔵経を納めたと伝えられる。遊覧町にある指月(しげつ)殿だ。指月の月は仏教の神髄で、指月とはそこに指し導くもの、つまり経典のことであり、指月殿は経蔵のことである。現在は中央に昭和五十四(一九七九)年、静岡県指定文化財となった木造釈迦(しゃか)如来坐像があり、その両脇に同市修善寺の横瀬八幡神社から持って来た木彫金剛力士像二体が安置されている。  伊豆市修善寺横瀬は修禅寺大門があった場所で、大門がなくなった後は八幡神社に安置されていた。正面の扁額(へんがく)は、宋の名僧一山一寧(いっさんいちねい)が元の国書を持って来日したことにより正安元(一二九九)年、修禅寺に幽閉されていた時に書いたものである。  母政子は、頼家の冥福を祈るために現在の松崎町に吉田寺と平福寺を建立したとも伝えられる。頼家の最期は「愚管抄」に記され、この悲話を大正期、小説家で劇作家の岡本綺堂が戯曲「修禅寺物語」として仕上げ、東京・明治座で上演し、人気を博した。特にその中の面作(おもてつくり)師夜叉(やしゃ)王の話は有名で、歌舞伎の二代目市川左団次の当たり役となった。(橋本敬之=伊豆学研究会理事長) 関連キーワード ある老夫婦が傷ついたツルを助けたところ、そのツルが人間の姿となって老夫婦の元を訪れる。
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ツルはその姿をみられてしまったが故に、夫婦のもとを立ち去る。