反共・防共・勝共

1976年、田中角栄首相や丸紅の幹部が、航空機選定にあたり賄賂を渡したという贈賄の容疑で逮捕された「ロッキード事件」で、ロッキード社と日本の政治家の仲介役を果たしたのが、大物フィクサー(黒幕)といわれた児玉誉士夫(よしお)である。
フィクサ-として名前を知られた児玉誉士夫は戦争中、中国で日本海軍航空本部の物資調達にあたる「児玉機関」を上海に創設した。
「児玉機関」は、中国で流通していた古銭を溶かして電気銅に再製しアルミにつかうボ-キサイト、絶縁体に使う雲母、タングステン、ニッケルなどを航空本部に供給するなどした。
鳩山一郎の「新党結成」準備会(1945年9月)がもたれた後に、児玉は鳩山新党の政治資金として寄付することを申し出た。
児玉の資金提供にあたって、鳩山が「条件はないのか」と聞かれ、児玉は「何もない、ただ天皇制を死守してくれ」と答え、鳩山を感動させたという。
1955年、鳩山の日本民主党と緒方竹虎の自由党が合同して、「自由民主党」が結成されるが、児玉は自民党の創立資金を提供した人物として、隠然たる影響力を保ち続けた。
さて、戦争終結当時の日本の保守勢力にとって、「共産主義」の脅威は、我々が想像する以上のものがあった。
GHQによる民主化の一環として、戦時中に封じ込まれていた「共産主義」が合法化されたからだ。
何しろ日本共産党は、ソ連の「コミンテルン(国際共産主義)」指導のもとに1936年に設立されており、コミンテルンは「君主制打倒」を早くから打ち出していた。
日本の場合、「反共」とは、「天皇制(国対)を守る」ということに他ならなかった。
戦争中、「日独防共協定」とは、1936年に日本とドイツの間で締結された"反共産主義"の協定のことである。
当時、ヨーロッパではソ連共産党を中心としたコミンテルンの活動が活発化していた。
日独はこれに対抗するために、「日独防共協定」で情報交換と協力を行うことを定めた。
「防共」とは、自国内での共産主義革命を防ぐため、共産党の拡大を抑えこむことを意味している。
この協定には後にイタリアが加わり、「日独伊三国防共協定」となり、そしてさらに軍事同盟に発展し、「日独伊三国同盟」が誕生した。
これにより、日本・ドイツ・イタリアという「ファシズム陣営」が形成されたことになる。
一方で、日本には共産主義に魅せられた識者や文化人は多く、マスメディアや政府・軍人のなかに深く入り込んでいた。
たとえば当時の東京帝国大学は、マルクス主義者や隠れマルクス主義者を多く輩出していたことで知られている。
そうしたエリート層のなかには、ソ連の工作員として活動した者も多くいたが、今なおその実態は不明である。
日本ではコミンテルン本部の指令で 1933年に来日したリヒャルト・ゾルゲが謀略活動を行っおり、それが発覚して逮捕された「ゾルゲ事件」がおきている。
ゾルゲは日本に来る前に、ドイツの新聞社の特派員という肩書きで、当時列強の情報が飛び交っていた上海に居た。
そこで日本の朝日新聞の特派員であった尾崎秀実(ほつみ)と出会う。
尾崎もコミンテルンのメンバ-でゾルゲの諜報活動の日本における最大の協力者となる。
そしてこの尾崎は、当時の近衛首相のブレーン集団であった「昭和研究会」のメンバーなのであった。
近衛首相自身も京大で河上肇に学ぶなど、社会主義への志向をもっていた。
結局、ゾルゲは尾崎を通じて日本の最高機密にアクセスできたのである。
しかもソルゲは、市井に紛れるように石井花子という日本人女性と結婚している。
ソルゲがコミンテルンのスパイであることが発覚すると、ゾルゲは尾崎とともに巣鴨刑務所で1944年11月7日、ロシア革命記念日に処刑された。
ゾルゲは最後に「ソビエト・赤軍・共産党」と二回日本語で繰り返したという。
ところでコミンテルンはコミンテルンは1943年に解散となるが、30年代前半までは、まだ健全さを保っていた。
しかし1937年ごろ、スターリンの専制と弾圧がコミンテルンにもおよび、コミンテルンなどで活動していた外国の共産党の幹部、活動家への弾圧さえも行われた。
そして、スターリンの外交路線への追従と覇権主義的支配の舞台と化していく。
当時、日本共産党中央は、天皇制政府の弾圧で獄中にあり、「コミンテルンの変質」については知る由もなかった。
そうした悲劇のひとつが、日本の女優とその演出家の逃避行であった。
日本では、共産党シンパの演劇人などにも官憲の手が迫っていた。
日露戦争以来、サハリン(樺太)の北緯50度以南の南樺太を日本の領土として国境線を設けていた。
当時は「非武装地域」であったため、国境警備を担ったのは「警察守備隊」であった。
1938年1月3日午後、女優岡田嘉子と演出家杉本良吉の二人は、国境警備の警察官を慰問するという目的で、警察署のあるハンダスに到着した。
周辺一帯は雪原だったが、「国境地帯を見たい」という岡田のために、わざわざ警察署長が馬そりを仕立ててくれた。
国境はハンダスら約6キロで、警察につき添われて2人は雪の中を進んだ。そして国境付近で視察のふりをしつつソ連側の国境警備隊員にちょっとした贈り物をして、そのまま歩いて国境を越えた。
その日、ソビエトの国境警備員は脱送者を親切に扱った。彼らはストーブで暖まり、コーヒーを提供してもらった。
ところで、この男女はなにゆえに国境を破ったのか。
1936年、日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、彼らが出演したり、演出した映画や舞台にも表現活動の統制が行われていた。
、 岡田嘉子は、昭和の初期から中期にかけ活躍した映画・舞台の大女優である。
1902年広島に生まれ、父は新聞記者で各地を転々とする。父が芸術座の島村抱月らと知り合いだったことから芸術座に入団、頭角を現し舞台女優・映画女優として華々しい活躍をする。
しかし、日本の映画界に飽きたらず次第に当時流行のソ連のスタニスラフスキーの演劇理論に憧れて本場のソ連に渡りたいという気持ちを抱いていた。
杉本良平は東京生まれ。1924年4月 北海道帝国大学農学部予科に入学するも中退、翌年4月 早稲田大学文学部露文科に入学するも同じく中退。
というわけで「北の大地」には馴染みがあった。
杉本は、1927年から前衛座などの「プロレタリア演劇」の演出に当たる。
同年、知り合いのロシア人の家でダンスホ縁ールに勤める女性と知り合い結婚するが、彼女は病身であった。
その一方で、杉本は演出した舞台の女優・岡田と魅かれあう仲となる。
1937年、日中戦争開戦。過去にプロレタリア運動に関わった杉本は執行猶予中で、仮に召集令状を受ければ刑務所送りになる可能性が大であった。
杉本は妻を置いて、1937年暮れの12月27日、岡田嘉子と上野駅を出発。北海道を経て、2人は厳冬の地吹雪の中、樺太国境を超えてソ連に越境する。
岡田、杉本のソ連への「逃避行」は、連日新聞に報じられ日本中を驚かせた。
しかし不法入国した二人にソ連の現実は厳しく、入国後わずか3日目で岡田は杉本と離された。
時は大粛清の只中であり、杉本と岡田はスパイとして捕らえられ、GPU(後のKGB)の取調べを経て、別々の独房に入れられ、2人はその後二度と会う事はなかった。
日本を潜在的脅威と見ていた当時のソ連当局は、思想信条に関わらず彼らにスパイの疑いを着せた。
杉本は拷問の末に「メイエルホリドがスパイだ」とするニセ証言を強いられた末に”銃殺”された。
杉本は世界的演出家のメイエルホリドに師事したいと夢を描いていたようだが、結局、彼らの亡命は政権に反抗的なメイエルホリド粛清の口実の一つにされたのである。
そして岡田も脅迫により「スパイである」という嘘の自白を強要された。
それでも彼女は、各地の収容所生活を経て名誉回復がなされモスクワで暮らすが、収容所時代の生活については多くを語らなかった。
さて、女優の岡田嘉子がソ連に共に逃れたのは杉本であったが、1972年ロシアから帰国した際に持ち帰ったのは、同じ演劇人の滝新太郎の遺骨であった。
滝は1925年新派の子役としてデビュー。
松竹蒲田に所属し、松竹トーキー第2作の「若き日の感激」で人気を得る。
「忠臣蔵 後篇 江戸の巻」大石主税役にて出演をした際、おるい役の岡田嘉子と共演したことがある。
戦争悪化のため、兵役に服しソ連に派遣されるも、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された。
釈放後、ソ連側からの説得に応じ、社会主義の理想を信じてソ連に残ることを決めている。
1946年12月3日、ハバロフスクに開設されたモスクワ放送の支局の日本人職員となっていた。
モスクワ放送の日本語課に勤務し、そこで岡田嘉子と再会し共にモスクワからの日本向け放送を行った。
放送の中では、国の威信をかけた重大問題だけではなく、ソ連各国の文化や伝統を紹介し、日本の人々に親しんでもらう制作を行っていた。
そして1950年に岡田嘉子と結婚、その後も、モスクワ放送局にて活動するが、1971年肝硬変で死去。つまり日本の国土を踏むことはなかった。
岡田は滝の遺骨を持って34年ぶりに日本の土を踏むこととなり、羽田空港には報道陣が詰めかけた。
遺骨は岡田家の多磨霊園へ納められたが、その墓石には「悔いなき命をひとすじに」と刻まれている。
同じ霊園にはゾルゲの墓もあり、その墓標には「ソ連邦英雄 リヒャルト・ゾルゲ」、その下に「妻 石井花子」と刻まれている。
戦後、岡田はソ連を訪問した日本人議員によりその生存が確認され、東京都知事の美濃部亮吉ら国をあげての働きかけで、1972年亡くなった夫・滝口の遺骨を抱いて35年ぶりに日本に帰国した。
気丈に振る舞った岡田であったが、涙の帰国記者会見となった。
岡田はその後14年間は日本で暮らし、日本の芸能界にも復帰。映画や数本のテレビドラマにも出演した。
しかし、日本よりもソ連の方が落ち着いた生活ができると1986年ソ連に戻り、1992年2月89歳でモスクワで亡くなった。

戦後、日本は占領下に置かれ、共産党は日本では合法化され、荒廃と食糧危機の中、一機に勢力を伸ばし、「革命前夜」というような雰囲気さえあった。
日本を支配した占領軍も一枚岩ではなく、占領初期から二大勢力による根強い対立があった。
その一つは、日本を民主国家に再生させようとする、社会民主主義的な思想を持った「ニューディーラー」たちで、その中心人物は占領政策を担当した民政局(GS)次長のケーディス大佐で、民間人出身者が多く、日本の変革を求めた。
もう一つは職業軍人たちのグループで、日本の旧指導層を温存しようとした現実主義的な勢力。その中心は、諜報活動や検閲を担当した参謀第2部(G2)部長のウィロビー少将で、日本の安定を求めてパージの拡大に抵抗していた。
「パージ」とは、日本の戦争指導者を公職から追放しようという立場で、公職追放を担当したのは民政局内の人員20余名の小さな課だが、ケーディス局次長の強い指導力で、日本側を追い込んでいった。
しかし、米ソの潜在的対立を重視する「職業軍人グループ」は、民政局の徹底した非軍事化・民主化策が日本を弱体化させ、ソ連が介入してくると警鐘を鳴らし続けた。
拡大化された地方パージについても、民政局の強硬方針に反対し、対立を深めていった。
一方、連合国軍のトップのマッカーサーは、天皇との会見でその無私で誠実な姿に感銘を受け、天皇制を温存して日本を間接統治しようとした。
それに次期大統領選挙にも立候補しようという腹積もりがあり、日本占領を平和裏に効果をあげ、講和会議まで速やかにもっていくことを考え、「早期講和論」を唱えた。
しかしアメリカの国務省極東局で検討された結果、「早期講和論」とは違って、講和後25年間にわたって非軍事化の監視を続け、非軍事化政策の違反を摘発する監視委員会を置くといった厳罰主義の草案が出来上がっていた。
この草案に対し、「現実的ではなく、極めて危険である」と待ったをかけたのが、国務省の政策企画室長、ジョージ・ケナンである。
ケナンは当時の日本を、米ソ関係で地理的かつ戦略的の重要な地位を占め、軍事・工業の両面でも潜在的大国であり、アメリカにとって重要な国家だと見ていた。
このため、米政府はGHQへの指令を日本の経済的自立のためになるよう変更すべきで、パージ政策などは日本の安定に反するから即時中止すべきだと強調した。
ケナンは、日本の経済復興に対する強い関心から、日本の政財界の指導者の追放を心配したのだ。
また、戦前に親米的で反共的であった日本人までが、米国に悪意を抱くようになっては、経済回復に害を及ぼすと主張した。
アメリカは、経済界出身のドレイパー陸軍次官を日本に派遣し、インフレが猛威を振るい、パージで人材不足となった日本経済の崩壊しつつある状況を視察して報告、国務省と陸軍省の足並みがそろってきたことで、戦争指導者の「公職追放」の終結となった。
ちなみに1950年から、戦争指導者の「公職追放」とは正反対の「共産主義者の追放」(レッドパージ)が行われている。

1948年末 巣鴨拘置所に収監されていた一部の戦犯容疑者らが突然釈放された。その恣意的な扱いに日本人の多くが疑問を抱いた。
それは、「戦犯追放」の中断という単なる運命タイミングのせいなのか、それともGHQ側の何らかの意図があったのか。
釈放されたのは笹川良一・児玉誉士夫・岸信介・緒方竹虎・正力松太郎などで、1968年に児玉・笹川・岸などの支援で「国際勝共連合」が創立されている。
「国際勝共連合」とは、「共産主義に勝つ」ことを目的とした、旧統一教会系の日韓の政治家同盟である。
ところで、宗教団体が政治活動をすることに対して違和感をもつに違いない。
宗教が政治と関わることについて「政教分離」に反するという感覚のせいであろう。
ただ日本における「政教分離」とは、あくまで国、自治体など公的機関が、特定の宗教に肩入れしたり便宜をはかったりすることが禁じられているのである。
「国が」宗教活動をするのはダメだが、宗教団体の政治活動をすることは排除しない。
つまり「宗教が」理想実現のために政治に関わることは「自由」というわけである。
ただ、「政治家が」靖国神社に参拝するとなると、政教分離とも関わってくるので、「公人」としの参拝か、「私人」としての参拝なのか、など線引きが難しい面がある。
しかしながら1968年に日韓双方で創立された「国際勝共連合」は名前どうり「共産主義に勝つ」ことを意図したものであった。
一方、統一教会は安倍首相の祖父・岸首相の邸宅に隣接して教会施設を構えるなど、いち宗教団体としては不穏すぎることを行っていた。
実際、ココが「旧統一教会」と自民党とのもちつもたれつの関係の起点だったといえよう。