聖書の場面より(「隔ての幕」が裂ける)

新約聖書の「福音書」の中で、イエスは自らの復活をはやくも預言する場面がある(「ヨハネの福音書」2章)。
イエスは律法学者との会話で、「自分はエルサレムの神殿を三日で建てる」と語った。
それに対して律法学者は、「神殿を建てるのに46年かかっているのに3日で建てる」とはどういうことか、それどころか「神殿をいったん壊すつもりか」などと思ったかもしれない。
ともあれ、律法学者たちは、「これ以上に神を冒涜している言葉はない」と憤っている。
聖書は、イエスが3日で建てるといったのは、「イエスの体を指して言った」とコメントしている。
だが普通に考えて、イエスが自らの身体を「神殿」に譬えるなど、常軌を逸していると思わても仕方ない。
ところで当時のイスラエルの人々にとって神殿(移動中は「幕屋」)とはどのようなものであろうか。
民衆が祈りのために入る「大庭」、祭司が日々罪の許しのために燔祭の子羊をささげる「聖所」、大祭司が年に一度はいることを許された「至聖所」に分かれていて、それぞれの部屋にはいる「清め」は極めて厳格に定められている。
そして「福音書」の中で、イエスが十字架上の死の直後に、聖所と至聖所を隔てた「幕が裂けた」とある。このことは何を意味するのであろうか。
パウロは信徒に次のように語っている。
「大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」。
ところでイエスが十字架に架けられた時、イエスはローマの兵卒に「神殿を3日で建て直す者よ、十字架から降りてみずからを救え」(「ルカの福音書」20章)と嘲られている。
その同じ兵卒たちが、「隔ての幕」が裂けるのを見て、「この人は誠に神の子であった」と語っていることにも注目したい。
十字架の死によって、イエス自身が完全な「いけにへ」として捧げられた以上、罪の赦しのための「いけにへ」は必要がなくなった。
そこで、「新しい葡萄酒は、新しい皮袋にいれよ」(「マタイ福音書」9章)というたとえにあるとおり、キリスト教徒にとっては、神殿に代わる「新しい皮袋」が用意される。
イエス自身、弟子たちに「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」。さらに「その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです」と語っている(「ヨハネの福音書」10章)。
神と人との「新しい契約」においては、イエスの血によって贖われしものの共同体(教会)が、神殿に代わるものであり、イエスがかつて律法学者に「この神殿を三日で建て直す」と語ったのは、キリストの体である「教会」をさすのである。
「隔ての幕」がなくなり、誰もが至聖所に入ることができ、マルティン・ルターの「万人司祭説」を思い起こさせるが、エルサレムの神殿は役割を終えたということを意味する。
ただし、イエスをキリストと認めないユダヤ教徒にとっては、神殿が信仰の拠点であり続けている。
また、「彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」とは、イエスの復活を意味し、「キリストの身体なる教会」(「エペソ人への手紙」1章)が出現する。
ここでいう「教会」は神殿のような建物ではなく、イエスをキリストと信じる「信徒の共同体」であることに注意したい。

新約聖書の「福音書」には、イエスが早くも自らの向かう「十字架」を預言する話は他にもいくつかある。
そのひとつが聖書の4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)のすべてに記載されたイエスの頭に香油を注いだ女性のエピソードである。
イエスは彼女の行為は、必ず「記念せられ」世界中で語り継がれると預言しているが、この女性の行為は何を意味するのであろうか。
「イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
その場にいた人々は、”なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに”と言って彼女を厳しくとがめた。
するとイエスは、”この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた”と応えている(「マルコの福音書」14章)。
この箇所で驚くのは、貧しい女性が高価な香油を注いだことではなく、イエスが彼女の行為を自身の「葬りの準備」をしたと語った点である。
周囲の人々は、このイエスの言葉をスルーしたに違いないが、イエスははやくも「十字架」への道をしめしている。
さらに注目したいのは、香油のはいった器をたたきわったという少々乱暴な行為である。
器を叩き割れば、その香りは部屋中に充満し、そこにいた人々全員に拡散したということだ。
このことと重なるのが、十字架の死によって「隔ての幕」が裂けたという点である。
一般に「メシヤ」という言葉はヘブライ語で、「メシャー」(=油を注ぐ)という動詞から派生した言葉で、メシアのギリシア読みが「キリスト」である。
この女性の行為は、イエスの十字架の死を預言するばかりか、その「福音」の広がりをも暗示している。
「神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、キリストを知る知識のかをりを、至るところに放って下さるのである」(「コリント人第二の手紙」2章)。
さて、イスラエルでは、死者がなくなると「体に油を塗る」。しかし、イエスは大工のせがれとして生まれたばかりか、罪人として十字架の死をとげたため、「油を塗る」という施しは許されるはずもなかった。
しかし、「アリマタヤのヨセフ」という人物が、みずからその役をかってでるのである。
聖書には同じ名前が何人も登場するのでまず出身地を頭につける。よく知られた例は「マグダラのマリア」だが、「アリマタヤ」というのはどのような場所であったであろうか。
そこはユダヤに属するもののサマリアに隣接した町で、旧約聖書の「ラマタイム」とい名前ででてくる町であるという。
そして、ハ・ラマタイムはサウル王やダビデ王に油をを注いで王とした預言者サムエルの生まれ故郷である。
このヨセフがローマ総督ピラトに、イエスの体を下ろさせてほしいと頼んだのである(「ヨハネの福音書」19章)。
イスラエルでは律法では、「十字架の刑」について次のように定められていた。
「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない」(「申命記」21章)。
この戒律にしたがって、十字架刑の遺体は、城壁の外にあるヒノムの谷に投げ捨てられたという。
イエスをローマに売り、首を吊って死んだイスカリオテ・ユダの遺体について「谷に捨てられはらわたが出た」(「マタイ福音書」24章)と書いてあるのは、ヒノムの谷に投げ捨てられた後の状況だと推測される。
ところで、罪人として谷に投げ捨てられるべきイエスの遺体の引き取り手が現れたのだから、関係者の中には驚きもあっただろう。
そればかりかアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体に香料をにぬり亜麻布に包み、岩で掘って造った自分の新しい墓に葬ったのである(「ヨハネ福音書」19章)。
「アリマタヤのヨセフ」は、比較的お金持ちであったが、まるで「善きサマリア人」を連想させる。
これは当時のユダヤの社会情勢からして、並大抵のことではない。そして占領軍たるローマ総督ピラトは、この申し出を認めた。
実は、イエスの埋葬を行った勇気あるもう一人の人物がユダヤ人指導者のニコデモである。
ニコデモは、夜人目を忍んで「どうしれば神の国に入れるか」をイエスにあって直接に訊ねた人物である。
イエスがニコデモに「水と霊によって生まれ変わらなければ神の国にいれない」(「ヨハネ福音書」3章)と答えると、「人はどうして母の胎内にもどれますか」と答えた為、「あなたはユダヤ人指導者でありながら、それくらいのことがわからないのか」とたしなめられたことがある。
そのニコデモが、イエスの埋葬の現場に現われイエスの遺体に塗る、乳香・没薬を用意したのである。
実は、ヨセフとニコデモの二人は共にユダヤ議会(サンヘドリン議会)のメンバーで、自らがイエスの信奉者であることを公けにすることは、自らの身を危険にさらしかねないという覚悟があったはずだ。
​イエスには次のように語っている。「人の前でわたしとの結びつきを告白する者はみな、わたしも天におられるわたしの父の前でその者との結びつきを告白します。しかし、誰でも人の前でわたしのことを否認する者は、わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」(「マタイの福音書」10章)。
ヨセフはイエスに対して信仰はあったものの、それを口にする勇気はなかったのに違いない。
それは、「彼は勇気を出してピラトの前に行き、イエスの体を頂きたいと願いでた」(「マルコの福音書」15​章)という言葉でもわかる。
その一方で、イエがスを裁いた総督ピラトがヨセフの死体引き取りの申し出を認めたことは、ピラトが自ら「イエスにはいかなる罪も見いだせない」と内心思っていっていたことを鑑みれば、自然な態度だったといえるだろう。

新約聖書の福音書において「十字架のシーン」をこまかく読むと、細部にいたるまで整合性をたもっていることに気づかされる。
それは、「カナの結婚式」と「十字架の場面」におけるイエスの母マリアに対する対応をみてもわかる。
さてイエスが大人になって自らを「神の子」としての姿を顕わし始めた頃、イエスはカナの街であった知り合いの結婚式に出席した。
そこでイエスは最初の「奇蹟」を行う。
「ガリラヤのカナに婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、"ぶどう酒がなくなってしまいました"。イエスは母に言われた、"婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません"。母は僕たちに言った、"このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい"。
そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。イエスは彼らに"かめに水をいっぱい入れなさい"と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。そこで彼らに言われた、"さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい"。すると、彼らは持って行った。
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで言った、どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました”。 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行い、その栄光を現された。そして弟子たちはイエスを信じた」(「ヨハネの福音書」2章)。
このエピソードは「水をぶどう酒に変える」という、キリスト教における「洗礼」の本質を示してくれるエピソードである。
人が洗礼で水で洗われるのは、ブドウ酒に譬えられた「イエスの血」に変って洗われ、「罪が浄められる」ことを意味するからだ。
しかし問題は、このエピソードの前半、イエスが母マリアに語った「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」という言葉は、とてもイエスの言葉とは思えない。
イエスが接した他の女性でも、このような突き放したような表現はない。
上述のように「母マリアは聖霊によって身ごもった」ということなので、イエスが人間の血肉の思いとはかけ離れた存在であることを差し引いたとしても、受け入れがたいものがある。
それに、「私の時はまだきていません」とは一体どういう意味なのだろう。
聖書の謎は、大概、聖書の別の箇所で解ける。
まず、「婦人よ」という呼びかけでについては、「福音書」の別の箇所に次のようにある。
「さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 ときに、群衆はイエスを囲んですわっていたが、"ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます"と言った。 すると、イエスは彼らに答えて言われた、"わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか"。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、"ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(「マルコの福音書」3章)とある。
また、イエスがいう「わたしの時はまだ来ていません」という言葉の意味を示す箇所がある。
「過越しの祭りの前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき”自分の時”がきたことを知り、世にいる自分たちを愛して、彼らを最後まで愛しとおされた」(「ヨハネの福音書」13章)とある箇所で、これは「最後の晩餐」の直前のことである。
そして「十字架」に架けられたイエスについて、聖書は次のように語っている。
「さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアがたたずんでいた。イエスはその母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、”婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です”。それからこの弟子にいわれた、”ごらんなさい。これはあなたの母です”。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」(「ヨハネの福音書」19章)。
これは、かつてイエスが「カナの結婚式」で母マリアへ語った、つきはなしたような言葉とは、かなり対照的なことに気がつく。
その理由は前述のごとく、イエスのいう「わたしの時が来た」からである。
ところで、イエスが母に語った「婦人よ」という言葉、実は原語では「女よ」で、日本語訳とはニュアンスが随分違う。
この「女よ」という言葉は、エデンの園で神がエバをよぶ時に使う呼びかけの言葉と全く同じなのである。
「エデンの園」で、エバはへびに騙され、神が禁じた木の実を食べ、それをすすめられたアダムも食べる。
これが人間の「原罪」で、人間はエデンの園から追放され、「死ぬ存在」になってしまう。
また、神は女にたいして「生みの苦しみを増す」という呪(のろい)をおく。
イエスの十字架と復活は、人間に「永遠の命」を与えるという「救い」の道を開くことになるが、それは神と人間の「隔ての幕」が裂けたこととも重なる。
またイエスの贖いによって「原罪」という神と人との「隔て」がなくなったということだ。