献花の列は絶えず

『マイボニー 』は、1962年にリリースされ、世界的に有名になったスコットランド民謡である。
♪My Bonnie is over the ocean  My Bonnie is over the sea  My Bonnie is over the ocean O bring back my Bonnie to me.♪。
この曲が世界的に知られたのは、トニー・シェリダンの現代風にアレンジされたアルバムで、バックバンドを務めたのが、無名時代のビートルズであった。
ただ当時は「ビートブラザーズ」として参加していた。
1961年、ドイツに渡りハンブルグのスター・クラブに出演していたビートルズは、そこでイギリス人歌手トニー・シェリダンと出会う。
トニー・シェリダンはイギリスのテレビ番組『Oh Boy!』に出演したことで有名になっていた。
やがてザ・ビートルズは、トニー・シェリダンと一緒にハンブルグの別のナイトクラブに出演する。
このクラブでの演奏に、ドイツ人バンド・リーダーで、当時ポリドール・レーベルのプロデューサーとしても活動していた人物が目をとめる。
そして1961年6月、トニー・シェリダンはビートルズをバックに「My Bonnie」を録音した。
ただこの時、レコード会社は「ビート・ブラザーズ」の方がドイツ人にはわかりやすいと要望をだした。
そしてドイツのシングル・チャート5位にまで昇った。
イギリスでは、1962年1月に「トニー・シェリダン&ザ・ビートルズ」名義で発売され、ブライアン・エプスタインの目に留まる。
リヴァプールにあったエプスタインのレコード店を地元の音楽ファンが訪れ、「My Bonnie」のドイツ盤シングルはないかと尋ねたことが発端。
それがきっかけで、ブライアン・エプスタインは1961年11月にキャヴァーン・クラブでビートルズのライヴを観ることになった。
それ以後の展開は、すでに語りつくされている。
かくして「My Bonnie」はビートルズにとって運命的な出会いとなったが、「マイ・ボニー」のモデルといわれるのが、歴史上の「チャールズ・エドワード・ステュアート」。
スコットランドの勇敢な娘に助けられ、女装して島を脱出するなどのエピソードを残した「美しいチャーリー王子」である。
そんな歴史的出来事を背景に生まれた「My Bonnie」というスコットランド民謡が、ビートルズの”陰のデビュー曲”となったのである。
リバプール出身のビートルズが王室に関わる曲で初音源がドイツであったことと重なるようにように、現在のイギリス王朝も、実は「ドイツ系」なのである。
イギリスは1685年に名誉革命を経て、新国王に「権利の章典」を認めさせるなどして、議会が大きな権限を持つようになった。
しかし新国王となったウィリアム3世とメアリ2世の間には跡継ぎがいなかったため、2人が亡くなった後、メアリ2世の妹の「アン女王」が即位する。
このアン女王の時代1707年に、イングランドがスコットラドを併合し、「グレートブリテン王国」が出来上がる。
1801年には、北アイルランドが併合されるので現在のイギリスの正式名称は、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」である。
さて、メアリ2世の妹アン女王にも跡継ぎが生まれず、1714年に女王が亡くなると「ステュアート朝」が断絶してしまう。
そこで、イギリスが1603年にスコットランドから迎えた「スチュアート朝」のジェームズ1世の曾孫にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯・ゲオルグ1世を王として迎え、「ハノーヴァー朝」がはじまる。
「選帝侯」というのはドイツ皇帝の選出権をもつ有力な諸侯のことである。
ちなみにゲオルグ1世は、映画「英国王のスピーチ」で吃音に悩む国王として描かれたエリザベス女王の父である。
ゲオルグ1世は、40歳を過ぎ「ジョージ6世」としてイギリス国王に即位するも、英語が苦手で、ドイツ滞在が多かったため、内閣が国王にではなく議会に責任を負うという「責任内閣制」が確立している。
そして「ハノーヴァー朝」は第一次世界大戦でドイツが敵国となった関係でドイツ系の名称を嫌い、1917年以降、宮殿の地名に由来する「ウィンザー朝」という王朝名に変わったのである。
2022年9月、エリザベス女王の国葬は、ウエストミンスター寺院にて行われた。
本来、エリザベスは女王になるような立場にはなかった。エリザベスから遡ること二代エドワード8世が、突然辞意を表明した。
イギリス国教会では、国王は離婚した女性との結婚を認められていなかったが、エドワード3世は離婚歴2回のアメリカ人女性と恋におちたのだ。
そこで弟がイギリス国王ジョージ6世となり、第二次世界大戦をドイツと戦うという皮肉な重責を担った。
そして1952年ジョージ6世の急死により、その長女であるエリザベスに王位に就いたのである。
エリザベス女王は、96歳の死去に至るまで在位期間は70年を超え、亡くなる直前まで公務を続けた。
エリザベス女王の崩御にともない、フランスのオランド前大統領は、2014年6月に第二次大戦時の連合国によるノルマンディー上陸70周年を記念してエリザベス女王が国賓として訪仏した際のエピソードを明らかにした。
女王を歓迎する夕食会で、近衛兵がクラシック音楽を演奏していた時に、オランドが女王にどんな音楽が好きなのかと訊ねると、「ビートルズは演奏できないの?」という返事が返ってきた。
そこで急遽、ビートルズ・ナンバーが数曲演奏されたという。
エリザベス女王の死去を受けて、存命であるポールマッカートニー、リンゴスターなど、ビートルズ・ファミリーの多くからも弔意が表明された。
そのビートルズの曲の中に、エリザベス女王を歌った曲がある。
それはビートルズの実質的ラストアルバム『アビーロード』(1969年)の中の「ハー・マジェスティ」。
名曲ぞろいの最後にいたずらのように収録された、わずか26秒の曲は、「女王陛下はとてもかわいい娘」ではじまる。
不敬とも感じられるこの曲を作ったポールは、基本的には君主制主義の歌で、女王に捧げるラブ・ソングだと語っている。
なにしろビートルズは、1965年にエリザベス女王から大英帝国勲章(MBE)を叙勲されている。
ところで、日本のビートルズ公演は1966年6月30日のこと、イギリスの不良の4人組に「聖地」日本武道館を使わせてはならぬと、右翼を中心に反対運動まで起きていた。
しかしエリザベス女王によるビートルズ叙勲の効果は大きく、日本武道館公演が実現することとなった。
1997年11月、エリザベス女王は自身の金婚式の祝賀式典で「この50年は世界にとって実に驚くべき50年でしたが、もしもビートルズを聞くことがなかったら、私たちはどんなにつまらなかったことでしょう」と語っている。

17世紀初頭、イギリスを最強国にしたのがエリザベス1世であるが、現代のエリザベス2世の関係とはどうであろうか。
エリザベス女王は処女王(バージン女王)とよばれ、兄弟も子が無いまま死去していた為に、彼女の死と共にエリザベス1世の「テューダー朝」は断絶しており、直接の血筋上の関係はない。
ただ共通の先祖をはるか昔に遡るとヘンリー7世(1485~1509在位)がいて、エリザベス1世の祖父に当たる。
エリザベス2世は、ヘンリー7世の長女マーガレット・テューダーの直系の子孫である。
要するに、「エリザベス」という名の代々国王の一人目、二人目なので1世、2世と呼ばれていると理解しておけばよい。
1558年即位のエリザベス1世の時代にイギリスは絶対王権の全盛期に至り、奇妙なことにイギリスの海賊達が最も勢いを得た時代だった。
つまりエリザベス1世は海賊を取り締まるどころか、それを手なずけて戦いの主力としたのである。
イギリスは、この「海賊の機動力」をもって、スペインの「無敵艦隊」を破って世界の覇権を握るきっかけを作ったといってよい。
16世紀から17世紀にかけてのイギリスは、二流国であって、王室は借金財政であった。
そこでエリザベス1世がとった方法は、第一に海賊に盗ませた略奪品を転売する事。
第二に、大物の海賊とタイアップした黒人奴隷の密輸。そして第三に貿易会社(東インド会社等)の設立と海外貿易であった。
東インド会社の執行役員7人を調べたところ全員が海賊であり、その海賊達が女王陛下のお墨付きをもらって貿易商といて活躍したのである。
元海賊ドレークによって、イギリスにもたらされた資金は、文献より算出すると約60万ポンドで、その内エリザベス女王が少なく半分を懐に入れた事になる。
これは当時の国家予算の3年分に相当する額だそうだ。
そしてドレークが略奪した金銀財宝は、テムズ川北側の「ザ・シティ」で換金されていた。
ドレークはエリザベス1世により勲章をうけ「ナイトの称号」を得ている。
ナイト(Knight)は、イギリス(連合王国)の叙勲制度において、叙勲者に与えられる、中世の騎士階級に由来した称号である。
ただし、ナイトは貴族の身分ではなく、あくまでも勲位である。1代限りの称号となり、男性は「サー (Sir)」、女性は「デイム (Dame)」と呼ばれる。
「ナイト」の称号を授与された日本人は、豊田章一郎(トヨタ自動車会長)、松下正治(松下電器産業会長)や内田光子(ピアニスト)、三宅一生(ファッションデザイナー)などで、イギリスに貢献した人物が授与されている。
また、ジェームズ・ボンド役のショーンコネリーや、ロジャー・ムーアが授与されているのが面白い。
ところで、映画「007」シリーズの第6作目『女王陛下の007』の原題は「On Her Majesty’s Secret Service」である。
His (Her) Majestyとは国王を意味する尊称のようなもので、On Serviceは「仕えている」であり、これにSecretがつくと「秘密の任務に従事している」となる。
イアン・フレミングの長編10作めのやや長いこのタイトルを、日本の翻訳家・井上一夫は「女王陛下の007号」と訳した。
のちに「号」の文字は映画や原作小説のタイトルから欠落したが、“Majesty”というやや難解な英語が“女王陛下”という意味であることを、前述のビートルズの曲「Her Majesty」で知ったという人は、少なくないにちがいない。
“Her Majesty”を直訳すると「彼女の陛下・権威・威厳」。これが女王でなくて国王あるいは皇帝だと“His Majesty”という言い方になる。
いずれも本人が目の前にいないときの呼び名で、直接女王に呼びかけるときは“Your Majesty”という、さらにわけの分からない言い方になる。
ちょうど閣下とか殿下とか陛下とかを使い分けたりに、高貴な方のことを直接口にすることを避けるなど、遠回しに言うことで尊敬の念を表す。
とくに国王や女王に直接話しかけるような場面では、あえて本人ではなく、侍従や大臣に向けて「あなたのMajesty(威厳・尊厳)にあたる方にお伝えください」といった形式をとったのが、このややこしい呼び方の始まりなのだという。
さて「007の映画音楽」の中で、個人的に最もインパクトがあったものは、「ゴールドフィンガー」(1964年)と「ダイヤモンドは永遠に」(1971年)である。
歌手シャーリー・バッシーの声量にはド迫力があり、歌詞がよく聞き取れるもいい。
♪♪あなたが恐れるものは黄金の女が知っていること/ 彼が女にキスをした時はそれは死の口づけ/ ミスター・ゴールドフィンガー 可愛い娘よ、気をつけて/ この黄金のハートにそのハートは冷たいのだから/ 彼は黄金のみを愛する 黄金のみを。♪♪
♪♪ダイヤモンドは 嘘をつかない/ 愛が去ってしまった時の為に 彼等は 光り輝く/ダイヤモンドは 永遠のもの 永遠のもの。♪♪
2019年9月、ラグビー日本代表が、スコットらインド、アイルランドを破る快挙をなしとげた。
まさにその頃、鹿児島県の薩摩半島の秋目海岸を旅した。鑑真の上陸地点であった坊津(ぼうのつ)を目指す旅であったが、高台の「鑑真博物館」と道を挟んで、すぐ真向いに「007撮影記念碑」が立っていた。
そこには、ショーンコネリーと丹波哲郎の直筆のサインが記銘され、海岸に面した駐車場に降りると、ジェームズボンドと浜三枝が潜水したシーンを撮った「天神島」の説明版があった。
この映画「007は二度死ぬ」の悪役であるスペクターの拠点は、海上の孤島にあって、撮影には桜島が使われていた。
「007」に登場するスペクターのほとんどに、「海賊の残滓」を感じるのは自分だけであろうか。
エリザベス2世が即位したのは1952年2月6日。イアン・フレミングの処女作「カジノ・ロワイヤル」がイギリスで出版されたのは1953年。
女王陛下とジェームズ・ボンドは、激動の時代を共に生きてきたということになる。
2012年ロンドン五輪の開会式で六代目ボンドのダニエル・クレイグがバッキンガム宮殿のエリザベス2世ご本人を迎えにゆき、ヘリコプターでオリンピック・スタジアム上空に駆けつけた。
そして唐突に女王がスカイダイビングでロンドンの夜空に飛び出した。
ボンドも後に続き、二人が地上に降り立つタイミングで会場の主賓席にエリザベス2世が全く同じドレス姿でヒョッコリ現れる。
世界中の視聴者が拍手喝采したこの洒落た演出をしたのが、有名監督でありロンドンオリンピックの芸術監督を務めたダニー・ボイルであった。
ダニーが女王の出演を提示した時、エリザベス女王は快諾したという。
その裏話を女王の専属デザイナーが著書に書いている。
デザイナーが「開会式で何かお言葉がおありですか」と訊ねると、「私はなにかを言わなければならないでしょう。だってジェームズ・ボンドは私を救いに来るのですから」と。
そこでデザイナーがダニー監督に、女王が出演する際のたった1つの条件がある。
それは『こんばんは、ミスター・ボンド』というキメ台詞を言うことだと伝えた。
すると監督は椅子から転げ落ちそうになるほど驚いたという。そして、本番ではそれがちゃんと実現した。
、 さて、イギリスの国王は国家元首としての役割と国民元首の役割があるととらえられている。
「国家元首」としての役割は、外国の国賓を迎えたり、法律に署名したりする法的なもの。
その一方で「国民元首」としての役割は、明確な定義はないが、国民が自国民に対して抱くイメージを形成することで、これは結果としてイギリスの国際的な売り込みにも繋がる。
サッチャーの時代、黒人中心の政権を歓迎していないと険悪になりつつあった旧植民地との関係も、エリザベス女王の外交力によて融和したといわれる。
世界が驚いたその手腕とは、旧植民地との「コモンウエルス会議」で、各国の首脳とサッチャーの間にはいって紹介し、首脳たちと交流を深めた。
旧敵国の昭和天皇の英国訪問では、昭和天皇をあたたかく迎え、晩餐会では「われわれは、いつも平和で友好的な関係であったかのようなふりはできません。しかし、この過去の経験こそが、不幸なことが二度とあってはならないと決意させるのです」と述べた。
そして英国王としては100年ぶりに、大反対が起きた真ただ中、あえてアイルランド訪問も実現した。
エリザベス女王は、自分に正直で裏表のない、おちゃめで楽しい、そんな希有な存在であった。
それが、国葬においても長蛇の列が絶えないばかりか、世界に愛される所以だといえよう。