さとうきび畑とひまわり畑

寺島尚彦は「さとうきび畑の唄」の作詞・作曲家として巷間に知られる音楽家である。
寺島は1930年栃木県生まれ、東京育ち。NHK「みんなのうた」や「全国学校音楽コンクール」の課題曲、全国の学校の校歌など作品を多数提供した。
2004年に74歳で亡くなるが、葬儀があった東京麹町のイグナチオ教会では、次女でソプラノ歌手の寺島夕紗子(てらしまゆさこ)の「さとうきび畑」の唄」が歌われた。
寺島は、東京藝術大学在学中に毎日音楽コンクールに入賞するなど、音楽家としての活動をしていたが、卒業後、コンボバンド「寺島尚彦とリズムシャンソネット」を結成しピアニストとしても活躍している。
「さとうきび畑の唄」は、1967年に作られた曲で、第2次大戦沖縄戦の悼みを込めた11コーラスの歌詞を持ち、完奏すると10分を優に超える。
♪ざわわ ざわわ ざわわ 広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ 風が通り抜けるだけ♪
この曲に、戦争を思わせる言葉を探せば、「鉄の雨」や「父は死んでいった」ぐらいである。
最初に聞いた時、なにゆえに「ざわわ」が60回以上も繰り返されるのか、よくわからない。そもそもこの曲をフルバージョンで聞いた人はほとんどいない。
寺島は、東京で育ち15歳で終戦を迎えた。
家庭は音楽の環境には恵まれていた。母が琴や三味線をやっており、9歳年上の姉が東京音楽学校師範科に通っていて、家にピアノがあった。
小学校5年生の時、初めて五線紙に曲を書き、詩もつけた最初の作品となった。
太平洋戦争当時、家は現在の新宿区で、農村の雰囲気が残る新興住宅地のはしりのような地域だった。
父親は既になく、ほかの家族は群馬に疎開し、兄と二人で東京の家を守っていた。
軍需工場での勤労奉仕、度重なる爆撃や東京大空襲による祖父母、友人たちの死など、多感な思春期に経験した理不尽な怒りと悲しみは心の奥深くに刻まれることになった。
中学生の頃、警戒警報が発令されると、暗やみでひたすらピアノを弾いた。警防団から「非国民だぞ」と怒鳴られたが「ピアノの音は敵機までは届かない」と反論し、弾き続けた。
戦争が終わり、親の要望で建築家を目指して受験勉強に励むが、夜中でもメロディーが湧き出てくるので五線紙を隠して作曲していたという。
ある時、受験勉強はむなしいと思い始め、楽譜を持って音楽の先生に相談に行ったら、東京芸大の作曲の先生を紹介してくれてた。楽譜だけ持って訪ねたのが池内友次郎(俳人高浜虚子の次男)教授だった。
教授は楽譜を見て『芸大を受けなさい。君は入ります』と言ってくれた。それが受験の前年の暮れのことで、ぎりぎりの進路変更であった。
大学卒業後は、テレビやラジオのドラマ音楽の写譜をしたり、シャンソンの伴奏をしながら作曲を続けていく。
あいつはポピュラーに成り下がったと言われたこともあった。しかし音楽にジャンルはない。あるのは、いい音楽と悪い音楽だけと思ったという。
大学卒業後しばらくして、フランス帰りの芥川賞作家の由起しげ子の紹介で、当時フランスから帰国したばかりで「伴奏者」を探していたシャンソン歌手石井好子と知り合った。
石井好子といえば福岡県久留米出身で、日本におけるシャンソンの「草分け」といってよい。父親は佐藤栄作内閣時代の石井光次郎自民党幹事長である。
石井は東京藝大学卒業後クラシック歌手をめざしていたが、そのうち人気が高まったジャズバンド「ニュー・パシフィック・バンド」に入り、ボーカルを担当した。
そして、このバンドにいたのがテーブ釜萢(かまやつひろしの父)や森山久(森山良子の父)であった。
そしてアメリカ軍の将校クラブやキャンプ等で演奏活動をするうちバンド仲間の一人と結婚をするも、アメリカ育ちの夫と価値観があわず結婚生活は4年で破綻した。
石井は、すすむべき音楽の道を模索するなか、手探りでシャンソンを歌い始めたが、目標も定まらない中、アメリカに渡ることを決心した。
サンフランシスコの音楽学校に通ううち、石井は当時「黒真珠」と呼ばれたジョセフィン・ベーカーの歌う「シャンソン」の虜になっていった。
ベーカー出演の劇場に入り浸りするうち、劇場の支配人が石井を楽屋へ連れて行ってくれた。
その時ベーカーより、シャンソンをやりたいならパリへ行くのがいいとアドバイスをうけた。
石井はテストを受けて、「パスドックの家」という店で歌うことになり、自分が進む道がシャンソンであることを確信した。
このままパリの虜になり居ついてしまいそうな気分の一方、日本ですべきことがあるように思い帰国した。この時、伴奏者として知り合ったのが寺島尚彦である。
その後ニューヨークへ向かい、そこで読売新聞の特派員と出会い、運命を感じ再婚する。
しかし石井が歌手生活35周年を迎えたようとした年、最愛の夫が亡くなり、その9ヵ月後父・光次郎も逝ってしまう。
そして石井が傷心の帰国した1957年頃、日本では「シャンソン・ブーム」がおこっていた。
越路吹雪、淡谷のり子、そして大学を卒業したてのペギー葉山が登場していた。
1962年、石井は銀座に音楽事務所を設立し、そこに田代美代子、岸洋子も加わった。
岸洋子は「夜明けの歌」で日本レコード大賞歌唱賞を受賞している。
石井好子を会長に「シャンソン友の会」が設立され、シャンソン友の会設立と並行して、日本におけるシャンソンの普及をめざしてコンクールも行った。
その第2回コンク-ルで優勝したのは、東大の3年生の加藤登紀子であった。
石井好子は多くの日本人シャンソン歌手を育て、2010年7月87歳で亡くなった。
ちなみに、父石井光次郎の胸像を久留米陸上競技場にみることができる。
こうした石井の伴奏をつとめた寺島尚彦は、「寺島尚彦とリズムシャンソネット」を結成して、日本全国を回る演奏旅行に明け暮れた。
ひと月30回に及ぶこともあったコンサートをこなしながらも、作曲家として作品も次々に生み出し、それらはテレビやラジオで流れるようになっていた。
1964年6月、沖縄音楽協会主催・石井好子リサイタルに伴奏者として、初めて沖縄を訪れた。
当時の沖縄はまだアメリカの統治下にあり、「入国」にはパスポートが必要な時代だった。
寺島は旅好きで、沖縄で目にする南国の風景に心弾む思いであったであろう。
コンサートを終えた翌日、梅雨明け直後の南国晴れの空の下、寺島は案内を申し出てくれた地元の人に喜んで同行した。
しかし、ひめゆりの塔や戦跡を巡っているうちに寺島の胸は次第に重苦しくふさがれ、やがて摩文仁(まぶに)の丘一帯に広がる、見渡すかぎりのサトウキビ畑に着いたときには言葉少なになっていた。
その当時の記憶を寺島は書き残している。
「車から降りて土の道をどのくらい歩いただろうか、気がつくと私の背丈よりずっと高く伸びたサトウキビ畑の中に埋もれているのだ。熱い南国の陽ざしとぬけるように青い空。その時だった。『あなたの歩いている土の下に、まだたくさんの戦没者が埋まったままになっています』天の声のように言葉が私に降りかかり、一瞬にして美しく広がっていた青空、太陽、緑の波うつサトウキビすべてがモノクロームと化し、私は立ちすくんだ。轟然と吹き抜ける風の音だけが耳を圧倒し、その中に戦没者たちの怒号と嗚咽を私は確かに聴いた。それから摩文仁の丘の頂上に立つまで、どこをどう歩いたのか、私の記憶は途絶えたままである」。
寺島は当時34歳の時だった。その日から73歳の生涯を終えるまで、寺島の心の中には一生忘れられない記憶となった。
その時の風の音が寺島の心にすみついてしまった。
寺島は沖縄の旅から戻って、作曲家として自分のこの思いをなんとか作品にして残したい、本土に伝えたいとの思いに駆られた。
一気に詩を書き上げたものの、唯一あの時の「風の音」を表す言葉が見つからない。
「ざわざわ」ではうるさすぎ、「さわさわ」では優しすぎる。
そこから1年半の歳月を経たある日、「ざわわ」というフレーズでようやくおさまった。
自分が感じた思いを表すために、あえて変調もせず、何度もこの「風の音」を繰り返す手法をとり、変わらぬ悲しみの中に平和への祈りを込めた。
寺島はこうして出来上がった歌は10分を超えたため、テレビやラジオで取り上げられる機会も少ないだろうと、自ら「流行ることを拒否した歌」といっていたという。
寺島夕紗子によれば、父親の口癖は「あといくつ、戦争を悲しむ歌を書けばよいのだろう」だったという。

寺島尚彦が「さときび畑」で、案内人に聞いた言葉、
「この土の下には数多くの死体が眠っている」。
この言葉とほぼ同じ言葉を、「ある映画」の中で聞いたことを覚えている。
マルチェロ・マストロヤンニ、ソフィアローレン主演のイタリア映画「ひまわり」(1970年)。
今、世界各地でリバイバル上映の動きが広がっている。
なにしろ、ロケ地となった「ひまわり畑」は、ウクライナ南部の黒海に面したヘルソンで、今まさにロシア侵攻の危機にある処だからだ。
映画「ひまわり」は、冷戦期にソビエト連邦で撮影された西側の映画の最初のものであった。
音楽をヘンリー・マンシーニが担当し、哀感に満ちた主題曲は世界中でヒットした。
ところで第二次世界大戦は1939年9月から1945年8月にかけ、枢軸国(イタリア・ドイツ・日本など)と連合国(アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など)との間で行なわれた。
ナチスドイツによるポーランド侵攻と、それを受けた英仏の対独宣戦から始まり、独ソ戦、太平洋戦争と戦線が一挙に拡大していった。
大戦勃発時イタリアは、枢軸国陣営としてドイツの味方という立場であったが、国の指導層はこの戦争に関わることに消極的であった。
当時、第一次大戦による不況の煽りはまだ続いており軍備が不十分なほか、重要な貿易相手国の米英と対立することはデメリットが大きすぎたからである。
しかしドイツのフランスに対する快進撃を目の当たりにし、軍部や王党派は次々と参戦派に鞍替えする。
そしてフランスの敗北が決定的なものとなり、米ソが中立を保つ様子を見ると、イギリス降伏による早期終戦という想定で、イタリアは1940年6月10日英仏に宣戦布告を行なう。
そしてイタリアは、いわばドイツの傀儡として戦うことになる。
戦時中、洋裁で生計を立てる陽気なイタリアのナポリ娘ジョバンナ、そしてアフリカ戦線行きを控えた兵士アントニオ。
そんな二人が海岸で出会い、間もなくに恋に落ちる。
結婚休暇を目当てに結婚式を挙げた2人は、12日間の幸せな新婚の日々を過ごすが、その幸せの時間もつかのま。
アントニオは、兵役を逃れようと精神疾患を装って首尾よく精神病院に入院する。
しかし、医者から見抜かれあえなく詐病が露見してしまう。そしてその懲罰のために、ソ連戦線へと送られる羽目となる。
アントニオら大勢の兵士を乗せた汽車は、ミラノ中央駅を出発する。その時、見送るジョバンナに、「毛皮がお土産だ」と笑顔を見せる。
しかし、アントニオとの連絡も消息も途絶えてしまい、ジョバンナは、戦争の終結後にアントニオを探しにソ連に旅だつ。
しかし、ジョバンナが降り立ったモスクワは別の世界だった。当時のソ連は社会主義国家であり、葉も通じない異国で、夫を見出すことの困難が思いやられた。
それでもジョバンナは、かつてイタリア軍が戦闘していたという南部ウクライナの街に向かう。
ジョバンナの前に、地平線の彼方まで続くひまわり畑が広がる。
そこで役人の案内人は、「多くの兵士たちがこのひまわりの下に眠っている」と語ったのである。
無数の墓標が並ぶ丘まで案内した案内人に、彼女はきっぱりと「夫はここにいない」と言いきる。
その後、ジョバンナは、アントニオの写真を見せて回るが、夫の消息は一向に掴めない。
やがて、ある駅の雑踏の中で、戦後も祖国に戻らずにロシア人として生活しているイタリア人男性と出会う。
男はアントニオのことを知らないと言うものの、微かな希望がうまれた。
ジョバンナは、ある村で中年女性に写真を見せたところ、身振りを交えてついて来るように言われ、一軒のつつましい家に案内される。
そこには、若妻風のロシア人女性マーシャと幼い女の子が暮らしていた。
ジョバンナとマーシャは、言葉は通じずとも互いに事情を察する。
マーシャはジョバンナを家に招き入れ、ントニオと出会った過去を片言のイタリア語で話し始める。
雪原で凍死しかけていた彼をマーシャが救ったのだが、その時アントニオは、自分の名さえ思い出せないほど記憶を無くしていたという。
やがて汽笛が聴こえ、マーシャはジョバンナを駅に連れて行く。
汽車から次々と降り立つ労働者たちの中に、アントニオの姿があった。
駆け寄ったマーシャをアントニオは抱き寄せようとするが、マーシャは彼をとどめてジョバンナの方を指さす。驚くアントニオ、やつれ果てたジョバンナ。
かつての夫と妻は距離をおいたまま、身じろぎもせず互いを見つめ合う。
ジョバンナは、アントニオが何か言おうと一歩踏み出した途端、背を向けて既に動き出していた汽車に飛び乗る。
そして、座席に倒れ込むように座ると、声を上げてむせび泣く。このシーンがこの映画のハイライトで、名女優ソフィアローレンの演技が光った。
ミラノに帰ったジョバンナは、壁に飾ってあったアントニオの写真を外し、男たちと遊ぶ荒れた生活を始める。
月日が経ち、マーシャの許しを得たアントニオは、約束していた毛皮をモスクワで買い求め、ミラノへと向かう。
嵐で停電したアパートの暗闇の中、再会した2人だったが、感情がすれ違う。
アントニオは毛皮を渡し、もう一度2人でやり直そうと訴えるが、その時、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
赤ん坊を見て名前を訊く彼に、ジョバンナは「アントニオ」だという。
アントニオはジョバンナもまた別の人生を歩んでいることを悟り、ソ連に帰ることを決心する。
翌日のミラノ中央駅。モスクワ行きの汽車に乗るアントニオをジョバンナが見送りに来る。
アントニオは、動き始めた汽車の窓辺に立ったまま、ジョバンナを見つめつづける。
遠ざかり消えてゆく彼の姿に、ジョバンナは抑えきれず涙を流し、ホームにひとり立ち尽くす。
彼を乗せた汽車が去っていったこのホームは、以前戦場へ行く若き夫を見送ったミラノ駅、その同じホームであった。
戦争が引き裂いた男女の悲劇ならば、同じ頃みたフランス映画「シェルブールの雨傘」(1964年/カトリーヌ・ドヌーブ主演)があった。
シェルブールはフランスのノルマンディーにある。この街は、その後「原発の街」として知られていく。
映画「ひまわり」の方がはるかに記憶に残っているのは、ストーリーというより、ウクライナの風景である。
ウクライナの国旗は青い空と小麦色を示すが、この映画では、青空とひまわりの風景が圧巻であった。

個人的な話だが、現在のソラリアには、1980年代半ばごろまで「センターシネマ」という映画館があり、映画「ひまわり」を見たことを覚えている。