「ひとつの中国」への固執

中国はなぜ「ひとつの中国」をとなえ、香港に続いて台湾にまで侵攻しようとするのだろうか。
中国が、そんなリスクを冒してまで「ひとつになる」理由はどこにあるだろうか。
古代からある「中華思想」による冊封体制を基に説明する向きもあるが、それでは現在の中国の「躍起さ」というものが説明できない。
思うところを先にいうと、旧香港とか現在の台湾をそのまま放置すると、中国をばらばらにしてしまう要素を多分にもっている存在だからではなかろうか。
それはロシアにとってのウクライナを幾分思わせる、存在自体を丸のみする他はないような存在。
というのも、香港は1997年7月代までイギリスの管轄下にあったし、南京政府時代の蒋介石は、英米資本主義と深く関わっていて、台湾に移ってからも西側寄りの国作りを行った。
実際に、香港と台湾は「本土反攻」の起点となった経緯がある。
清は満州女真族が中国を支配した王朝であるが、それに対抗した明の遺臣・鄭成功は台湾を拠点にしたし、 また、蒋介石の南京国民党政府は台湾に移り、蒋介石は最後まで「大陸反攻」を夢見て、1975年に亡くなっている。
また清を倒し漢王朝を回復しようとした孫文は香港を拠点とした。ちなみに孫文は当初、共和国樹立よりも「満州王朝排除」を目的として辛亥革命を起こしたのである。
中国からすれば、香港・台湾に「一国二制度」を許容したものの、香港や台湾(さらには沖縄)が、福建省および広東省と繋がりが強い地域であることは、中国を不安にさせる要素ではあるまいか。
ところで儒教思想では「古き」をよいものと考えるが、中国の歴代王朝は古代の「周」を理想の王朝とみなし、中国の封建制度の特徴は「宗族」をベースにするものであった。
中国が、香港に続いて台湾をも統合しようとするのは、中国の広東省や福建省は「宗族の絆」によって台湾や香港と結ばれており、本土からすれば西側のネットワークが本土深くまで及んでいるという危機意識があるからではなかろうか。
中国の「宗族の絆」を考える時、世界的に有名な「客家」(はっか)という存在がある。
「客家」は、黄河中流周辺地域をルーツとした漢民族のひとつで、戦禍に翻弄されながら南方(広東、福建、江西省など)、そして現代では香港や台湾などに移ったと伝えられる。
「客」には、お客さんという意味のほか、「よそ者」という意味もある。
客家は外見上他の「漢民族」と変わらないが、「客家語」という中国語方言を操り、食生活や習俗もかなり独特である。
例えば、客家の男性が爪を伸ばすのは裕福さを示すためにする風習である。
世界で活躍した人物も、客家の血を引く者は枚挙にいとまがない。
中国の孫文、鄧小平、シンガポールのリー・クワンユー、台湾の李登輝らがその代表格である。
これらの指導者はそれぞれ異なるキャラクターではあるが、逆境に耐える粘り強さと、目的の達成を諦めない強い意志の持ち主だったことなどが共通している。
NHK「ファミリー・ストーリー」で、台湾出身の女優・余喜美子(よきみこ)が紹介されたが、日本人のわかりにくい「宗族」のイメージをかなり掴むことができた。
何しろ、喜美子は中国から台湾へ、台湾から日本へ渡った「客家」の血を引く者であることを明らかにした。
祖父の名は「余家麟(ユージアリン)」、戦前の神戸に移民し、東京に流れてきた。
紅茶やバナナの輸入、炭鉱、金融機関、新聞社など多くの事業を手掛けながら、1945年10月に日本で初めての客家団体「客家公会」を東京で立ち上げてトップに就くなど、戦後初期の日本華僑界の名士だった。
一族は皆何らかの商売をやっていて、色んな人が入れ替わり立ち代り出入りしていたという。
この中には、貴美子の従姉妹にあたる女優・范文雀(はんぶんじゃく)も入っていた。
范文雀は、TBSの人気ドラマ「サインはV」でジュン・サンダースを演じて大人気だった女優である。
俳優の寺尾聰と結婚したが、その後に離婚。心不全のため、54歳で亡くなっている。
彼女は、余貴美子の父・鴻彰の姉にあたる鴻鸞の娘で、余貴美子の従姉妹にあたる。
喜美子の両親は池袋にライブハウス形式の店を開き、店にはハナ肇が通いつめ、ミッキー・カーチスや水原弘など、昭和の名歌手たちもアルバイトで歌いにきた。
その後一家は横浜に移って飲食業に携わったが、食生活は完全に中華料理が中心で、学校に持参するお弁当も日本人の子供とは違っていた。
そんな「芸能」と近い世界で育った環境が、喜美子が英語が得意で一流商社に就職が決まりながら、劇団員の道を選ばせた遠因なのかもしれない。
ところで、客家の人々を知るうえで、「硬頸(インゲン)」という中国語がある。意味は、読んで字のごとく「硬い頸(首)」。
そこから「首を縦に振らない」「こうべを垂れない」、そして「頑固」という意味に転じた。
客家はユダヤ人に比肩されることが多いが、ヤハウェの神は繰り返しイスラエルの民を「うなじの強い民」(申命記9章など)と呼んでいるのである。
余貴美子は「おくりびと」「ディア・ドクター」「あなたへ」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞に3度も輝いたが、近年では「シン・ゴジラ」では女性防衛大臣を演じた。
喜美子がかもす全体的な印象として、何か「芯」のようなものが入っているのは「硬頸」を旨とする客家の血のなせる業なのかもしれない。
喜美子によれば、演技も外見もそれほどでもないのに女優としてやってこれたのも、自分の中にある「客家の血」に気づくためではなかったかと語っている。
番組で彼女の最も印象的な言葉が、「日本や台湾、中国というより、私は客家」と語ったことである。
とはいっても日本で生まれ育った余貴美子が、「客家意識」を深く持ち始めたのは、この10年ほどで、2012年のNHKの「ファミリーヒストリー」という番組がきっかけだったという。
余が子供のころから抱いていた疑問に興味を持ったNHKが、番組として取り上げることになった。
余貴美子は日本に帰化していない。父親の死後、母親からは何度も勧められたが、なぜかそういう気持ちにならなかったという。
ちなみに王貞治も帰化しておらず、「国民栄誉賞」授賞の際に、それが問題となったこともあった。
余貴美子の外国人登録証明書には「本籍」の記載欄があり、「広東省鎮平村」と書かれていた。
貴美子の先祖の系譜によれば、清朝の乾隆帝のころ、第11代の余家の先祖が広東省から台湾に渡ってきていた。
中国の命名には「輩行」という概念があり、同世代の兄弟の名前に同じ文字を入れる。
客家は特にその傾向が強く、それを手がかりにして、台湾にそれらしき一族が見つかった。
台北から車でおよそ1時間、桃園の郊外にあるチョンリーという場所に向かった。そこは台湾でも最も客家が多く暮らす地域だ。
チョンリーの住宅街にある「桃園市余姓宗親会」のビルに行き、同会名誉顧問の余遠新と面会する。
彼は1990年代に余姓の家系図を作るとき、余貴美子の祖父「余家麟」の兄に連絡を取ったことがある。
そして「女優として活躍するお孫さんがいるのは大きな驚きで、余一族の誇りです」と語った。
台湾に余姓の一族は桃園だけで500人、台湾全体では9万人がいるという。
番組では、スタッフが「官平村」と名前を変えた鎮平村を訪ね、余貴美子の遠い親戚にあたる人々が、彼女の成功を祝って祈祷するシーンがあった。
喜美子は特にこのシーンに涙を流した。
そして、会ったこともない人たちが自分のために祈っている。客家の血を引く喜びを感じて、その誇りを持って生きていこうと思った。
言い換えると喜美子の中で、「客家人」という感覚が、突然にやってきたという。
そのうち、日台で開かれる客家関係のイベントにも呼ばれるようになった。
余喜美子は、それ以来台湾のふるさとを何度も訪ね、清明節の墓参りにも出席している。その際に祖父や父の遺骨も台湾の余一族の墓に納めた。
大きな墓の内部に入ると、暗闇の中で、先祖の遺骨が並べて置いてあった。
、 それでは、喜美子自身のお墓は台湾に置くつもりなのかと聞かれると、「客家は流浪の民なので、お墓はどこでも、魂さえ繋がっていれば、それでいいかなとも思う」と語っている。
余貴美子に見られるような、日本人でもなく、台湾人でもなく、「客家人」としてアイデンティティ。
中国の人々が「国民意識」をもつというのは、日本人が想像する以上に難しいことなのかもしれない。

中国は、人口の9割を占める漢民族と、55の少数民族からなる多民族国家である。
チベットやシンチャンウイグルなど5つの民族自治区をもつほか自治州や自治県という下位の行政地域の民族自治が実施されている。
中国に元々あった宗教とは祖先崇拝で、父親が偉い、お祖父さんはもっと偉かった、というふうに子孫が上の世代の人々を記憶する。
そして、そういう祖先をもつから自分たちも偉くて正しいと考える。
ある血縁関係の範囲の人々が、共通の祖先を持つことで団結し、共通の利害をもつ。
祖先崇拝を行なう数百~数万人規模の集団まであり、数万人単位となったのが「客家」といえよう。
父系の氏族で、同じ姓(王、周、張、劉・・)を名乗り、生まれてからいままで会ったことがなくても、親戚と分かるところっと仲良くなったりするのが、中国の宗族である。
日本人も祖先崇拝があるが、中国の祖先崇拝は、はるかに厳格で強固で、儒教だけでなく、道教やその他の中国の思想も、やはり祖先崇拝前提にしていることがその繋がりのベースにある。
中国は平原が多く異民族が侵入すれば、さえぎるものがない。
洪水になれば、土地の境界も曖昧になる。所有権も、不動産も、頼れない。とすれば、土地を離れて命からがら、逃げ出して生き延びるのに役に立つには、とりあえずは貴金属であるが、なんといっても人間関係、つまり親戚である。
中国で科挙がはじまるのは、おおよそ隋の時代であるが、皇帝からずればそうした宗族の関係(門閥貴族)を打破し、 自分の手足となってくれる官人を確保することが、科挙の本当の狙いであった。
宋の時代には、科挙に合格したものを「士大夫」といい、一族の中で「士大夫」をだせば、その恩恵あずかることが出来るため、コミュニティの中で才能のある者を科挙に合格させるために皆でバックアップした。
しかし、もしも科挙に通らなければ、そのコミュニティはアウトロー化することもあった。
実は、孫文の革命運動に呼応したのは、当初はこういうアウトロー集団であった。
明の時代には、「士大夫」にかわって「郷紳」とよばれた人々がとってかわるようになる。
「郷紳」も基本的には科挙とに合格した点で「士大夫」と変わらないが、彼らは宋代と違って政府の官僚になる道を選ばず、郷里に留まり、地元の名士として力を行使することを選んだ人々であった。
清王朝は満州王朝であったため、民間経済にふみこむことはせず、民間レベルでは一種の共同体をつくって、その範囲で私法の制定・執行を行い、さらには経済活動に対する保護や統制を加えるようになった。
これが「宗族」や「行会(同郷の同業団体)」とよばれるもの結束を強めたのである。
要するに、中国人はコミュニティの紐帯が強すぎて一つにはなりえない。もし一つにしたいのならば専制国家にならざるをえないということだ。

現在の中国政府の「ひとつの中国」へのこだわりを考える時、「宗族の絆」がキーワードだが、もうひとつ南北の違いも合わせて考えておく必要がある。
中国は、おおよそ黄河を境に華北と華中・華南に分かれていて、明代に華中・華南は「蘇湖熟すれば天下足る」、「湖広熟すれば天下足る」という言葉があるとおり、消費地たる首都北京に食糧を供給してきた。
そして、中国東南部(福建省、広東省など)では、ひとつの村、ひとつの町の住人のほとんどが同姓の子孫から構成されていることも珍しくないが、華北・華中では一族がまとまって村を形成したり、祖先の墓や祠堂(しどう/共通祖先の位牌をまつった建物)をもつのはよぽどの名門だけである。
華南の福建・広東は、土地生産性が高かったので、その余剰生産部分が宗族の経済基盤になった。
その理由は、フロンティアの開墾事業のための「宗族」が形成され、そうした自助努力ばかりではなく、地域社会の中で競争が激しくなったため、防衛のための団結として宗族の形成を促したという面もある。
また、広東と福建は、移民・海外出稼ぎのために、東南アジアへの「華僑」を輩出してきた地域で、移民の送金、錦を飾っての帰郷が、「宗族強化」の要因になった。
さて日本の沖縄はかつて「琉球王国」といい、中国の冊封体制の中に組み込まれていた。
室町時代の半ば頃まで、琉球王国は「北山・中山・南山」の三つに分かれていた。
1372年、明の初代皇帝・朱元璋が当時琉球最大の中山王府に使者を派遣。これを受け中山王府が明に対し「朝貢」を始めたことで、琉球は中国文化の影響を受け始める。
首里城にある「守禮門(守礼門)」は、明朝第13代の皇帝・万暦帝が琉球に贈った詔書の中の文字から名付けられた。
そして、首里城正殿は正面が南向きではなく、宗主国たる中国が位置する方向(西向き)に建てられている。
また、沖縄でもいたるところにさまざまな種類の「シーサー」と呼ばれる狛犬の姿を見かける。
シーサーを置くという風習は14世紀に中国から伝わったとされる。中国と同様、沖縄の人もシーサーが魔除けの効果を持つ「守り神」だと信じていた。
15世紀、中山が琉球を統一し、独立した琉球王国を建設し、これ以来、中国と琉球は朝貢関係を結び続け、明朝が「尚」という名を与え皇族とする慣わしも踏襲され、「第一尚氏王統」と称された。
1392年、朱元璋は福建省の造船・船舶関係の特殊技能を持った「福建人三十六姓」を琉球に下賜した。
これらの人々は琉球に着いた後、一つの集落を作り当初「唐営」と呼ばれたこの集落が、現在の「久米村」にあたる。
仲井眞弘多(なかいまひろかず)県知事、翁長雄志(おながたけし)元県知事・稲嶺恵一元県知事も「久米三十六姓」の末裔といわれている。
中国は1842年にアヘン戦争に敗れて以来、列強によって植民地化された。
そこで、孫文も蒋介石も毛沢東も、方向性こそ違え、「国民国家」形成をめざした。
しかし、以上みたように中国は多民族国家であるばかりか、漢民族ひとつをとってもばらばら。
中国は専制国家だけに、そこから分裂がはじまることへの恐怖がいよいよ統一に駆り立てる。
最近では、「ひとつの中国」という観念は香港・台湾のみならず、宗族ネットワークが広がる東南アジアにまで及んでいきそうな勢いである。
中国はなぜ「ひとつの中国」に固執するのか。
中国からみて旧香港や台湾の存在をそのまま許すことは、経済が減速している中国にとっては、ますます大きなリスクになっているからではないであろうか。
中国は矛盾に満ちた国家で、政治的には共産党独裁・経済的にはほぼ資本主義という体制をとっている。
中国は依然「国民国家」形成の途上にあり、孫文の最後の言葉「革命いまだならず」はそのような文脈でとらえることもできよう。