香港映画と福岡人

香港の映画界は、かつて「東洋のハリウッド」と呼ばれていた。それが今や政治的にも文化的にも中国に飲み込まれつつあり、香港映画そのものが存亡の危機にある。
香港映画に関わった日本人も多く、そのことを無念に思う人も少なくないであろう。
香港との関わった日本人といえば、「日活」の創業者・梅屋庄吉が思い浮かぶ。
梅谷は明治時代1868年に長崎の米屋に生まれた。
長崎という場所柄、大陸や南洋に憧れる冒険心あふれる人物であったようだ。借財を負ってしまったこともあり、南方や上海を歩き回り、24歳の時に香港の現在のクイーンズロードセントラルで写真館「梅屋照相館」を開業した。
そこで「中華革命」に挫折した中国人やそれらを支援する華僑と出会い、梅屋は彼らを匿ううちに血が滾るのを覚えた。
孫文の清朝打倒のための最初の広東武装蜂起が失敗し、逃れてきた彼らは香港に集まり次の機会を狙っていたのだ。
そして写真館の常連客であったイギリス人の宣教師で医学博士のジェームス・カントリーと知り合い、その教え子である孫文を紹介される。
その後、梅屋はシンガポールにて映画・興業師と出会う。フランスの映画会社のパテ社の支店もあったために、香港で買い込んでいた映写機を使って興業師とともに上映活動などをした。
梅屋は「革命亡命者」という立場で、孫文のいた興中会からの後押しで、テントや椅子・設備などを貸してくれ宣伝なども行ってくれ、それが成功した。
梅屋が帰国の際、彼のトランクには、日本人がまだ見たこともない色彩フィルム大作がつまれていた。
映画人としての成功をある程度おさめた梅屋は、新宿区大久保の地に撮影所を兼ねた自宅をたてた。
一方、孫文は日本に革命の拠点を置こうと、1905年8月東京で興中会を中心に「中国革命同盟会」を結成するが、その頃には梅屋の名前は「中国革命同盟会」にも良く知られる伝説上の人物になっていた。
そして1913年、第二革命に失敗した孫文を日本で出迎え、孫文が第三革命のため中国へ帰国するまでの2年8ヵ月の間、撮影所兼自宅に匿ったのである。
その期間、梅屋は孫文を日本の名士たちに紹介するため、日比谷「松本楼」で幾度も宴会を催している。
その後、松本楼の創業者である小坂梅吉の孫と梅屋庄吉の孫が結婚したため、梅屋庄吉の資材は小坂家に引き継がれた。
現在、「松本楼」のロビーには、宋慶齢が愛用の山葉製(ヤマハ)の国産ピアノ第1号のピアノや記念写真などが展示されている。
ちなみに、梅屋夫妻は孫文が宋慶齢と結婚した際にも媒酌をつとめている。

1960年代中盤、香港映画界において、全作カラー&シネマスコープでの製作方針を打ち出し、圧倒的な勢力を誇って栄華を極めたのが香港最大の映画会社「ショウ・ブラザース」だった。
「ショウ・ブラザーズ」は清水湾に巨大スタジオ“邵氏影城”を建設。日本の日活や東宝から井上梅次、中平康、村山三男といった監督や名カメラマン西本正ら優れた人材を招き、彼らの技術や知識を自社の人間に貪欲なまでに吸収させた。
実は、日本における映画技術は、「戦意高揚」のための映画づくりによって磨かれていた。
それは太平洋戦争の「負の遺産」ともいえるが、アメリカのウォルトディズニーでさえそうした戦争映画に関わっていた時代である。
アメリカの陸・海軍はそうした「戦意高揚」映画に全面協力し撮影のために本物の飛行機や戦車をいつでも動かしてくれたが、日本の映画づくりでは、実際の飛行機を飛ばしたり、戦車を動かすのに予算がたりず「特撮」技術を開発せざるを得なかったのである。
戦争が終わり日本で高度経済成長がはじまった1960年代に日本は世界トップクラスの特撮技術をもっていた。
特に新東宝の特撮技術・設備は世界一を誇っていた。そして円谷英二監督によって怪獣映画「ゴジラ」が制作され一世を風靡した。
こうした怪獣映画はそうした特撮技術をもって実現したのである。
ところで、サンフランシスコに生まれ香港で育ったブルース・リーの存在は今もって色褪せることはない。なかでもブルースリー主演の映画「ドラゴンへの道」のイタリア・コロッセウムにおける約15分にもおよぶ格闘シーンはブルースリーの映画の中でも圧巻であった。
このシーンをとった人物こそ、日本人カメラマン・西本正であった。
西本正は1921年、福岡県の現在の筑紫野市二日市に生れた。少年時代を満州ですごし、満州映画協会の技術者養成所に入った。
1946年、敗戦とともに日本に帰り、日本映画社の文化映画部をへて、翌年新東宝撮影部に入社した。
新東宝で西本は、中川信夫監督作品などの撮影監督をつとめ、「亡霊怪猫屋敷」(1958)や「東海道四谷怪談」(1959年)など、特撮技術を駆使したホラー傑作映画を生み出している。
その後、香港映画へスカウトされたのである。

日本を代表するアクションスターの千葉真一である。
1939年、福岡市南近郊の雑餉隈に生まれた。
父親は福岡県大刀洗町にあった陸軍飛行戦隊に所属する軍人で、母親は熊本県出身で学生時代に陸上競技をしていた。
テストパイロットの父親は、初めて建造された空母へ初着艦を成功させるなどしたが、危険な「重責業務」のため給料の半分が飲み代となり、家庭は裕福でなかったという。
千葉4歳の時、父親が千葉県木更津市へ異動となり、家族で君津市へ転居した。
終戦後、父親は漁業組合の役員に転職したが、家計は相変わらず苦しかった。
しかし千葉は、「自然に囲まれた土地では、米以外の食べ物に不自由しなかった」と述懐している。
君津中学校へ進学すると、千葉の進路に影響を与えることとなる体育教師と出会う。
その体育教師は千葉を陸上競技・バレーボール・野球など、複数の運動部の大会に出場させていた。
この頃ヘルシンキオリンピックが開催され、日本勢が体操競技でメダルを獲得したことにより、体操競技の一大ブームが発生する。
体育教師が「体操部を創るから部員になれ」と千葉を勧誘したことから、他の運動部と掛け持ちを続けながら、体操競技も始めた。
そしてやがてオリンピックで「日の丸」を掲げたいという夢を抱くようになった。
「体操するなら木更津一高へ行け」とアドバイスされ、転校後は体操競技に専念し、1年生で全国大会上位入賞、3年生で全国大会優勝を成し遂げた。
その一方で西部劇など、アメリカ映画を夢中で観ていたという。
そして1957年、日本体育大学体育学部体育学科へ進学した。
同級生には後の東京オリンピック金メダリストの山下治広などがいて、オリンピック出場を目指して練習に明け暮れた。
一方で、学費を稼ぐために時給が高い土方や引越しのアルバイトを合間にしていた。
大学2年生の夏の練習中に跳馬で着地に失敗して腰を痛めるが、身体を酷使していた状態でのケガであって、なかなか快方に向かわなかった。
医者からも「1年間運動禁止」と宣告され、もはや選手を続けることが困難となった。
千葉は将来を模索することになったが、たまたま代々木駅前で「東映第6期ニューフェイス募集!」のポスターを見かけた。
実はかつてミスタースポーツウエア・コンテストに入賞し、東映ニューフェイスを受験するよう勧められていたこともあった。
面接時には日本体育大学の経歴を珍しがられ、2万6千人の応募からトップの成績で合格したが、父親は芸能界入りを猛烈に反対して、千葉を勘当した。
1959年 東映ニューフェイスとして入社し、同期らと共に俳優座で6か月の研修を受けた。
翌年にテレビドラマ「新七色仮面」の二代目・蘭光太郎役で主演デビューを果たした。
父親もテレビに出演する息子を観てから考えを変え、ようやく勘当を解いていた。
そして千葉は、「アクションスターの元祖」ともいえる存在となっていく。
1968年から、テレビドラマ「キーハンター」に主演する。
これまで誰も見たことのないスーパーアクションで人気をさらい、テレビドラマ「キーハンター」で共演した野際陽子と1972年に結婚した(1994年離婚)。東映は常にアクションスターであることを千葉に求め続けて、吹き替えしてもらうことなく自ら危険なスタントを演じていく。
1990年代から「キル・ビル」などアメリカ、香港、メキシコ映画などに多数出演するようになった。
2019年亡くなった千葉真一は、世界では”Sonny Chiba”の名で知られている。
千葉の活躍に深い興味を示したブルース・リーは共演の申し入れをしてきた。
しかし、リーの突然の死によりそれは実現しなかった。
さらにジャッキー・チェンは、千葉のようなアクションスターになることを夢みて、そのワザを磨いていったのだという。

大事マンブラザーズ「それが大事」が日本でヒットしたのは1991年。
ちょうどその頃、「無問題」という言葉を口癖のように連発するうちに、アジアの大スターになってしまった人がいる。
ちなみに、「無問題」とは 広東語で「大丈夫」、英語では「ノープロブレム」にあたる。
「シンシア・ラスター」は、1963年福岡市西区生まれ、香港での芸名は「大島由香里」。
中学の時に器械体操、中学3年生の時に剛柔流空手を学ぶ。福岡の高校卒業後、体育教師を志して日本体育大学女子短期大学部体育学科に進学した。
友達に誘われて香港えいが『ヤングマスター 師弟出馬』を観て、ユン・ピョウのアクションに衝撃をうけ、「自分の仕事はこれだ」と思ってしまった。
しかし、体育の先生になるっていう約束のもと2年間東京に出てきて、アクションスターへの道を目指すなんて事はかなわない。まして「香港へ行く」などとはいえるはずもない。
ますは東京でアクションスターを目指すこととした。東京と福岡の距離なら親にはバレない。もらった役が「戦隊もの」の悪役、ちょい役だったので「無問題」、出演をオーケーした。
しかし当初「ちょい役」だったはずが、最終話まで生き残ってしまうことに。少しだけ名前を知られたオオシマにあるオーディションが舞い込んできた。
香港サモ・ハン・キンポー監督のお正月映画で、キャスティングが日本で行われたのだ。
そうそうたる日本の女優が名前を連ねていて、一番下に「新人 オオシマユカリ」とあるリストを見てしまった。勝てる見込みはないと、面接時に手紙3枚を用意して手渡した。
自分は器械体操をやってて宙返りをしながら蹴れるとかをアピール。確かに自分以外は、有名女優でもそれはできない。
そして無名のオオシマが大抜擢されることになり、ついにオオシマは念願の香港映画のデビューを飾ることになった。
しかし、アクションばかりに気をとられ、大事なことを忘れていた。映画に出演する以上はせりふがある。中国語(広東語)など話せるはずもない。
しかし、「無問題」の神様はオオシマを見捨てなかった。実は、香港映画には戦時中にアジアや上海から戦禍をのがれてきた人々など多様な人々がいた。
そのおかげで全員 口パクだったのだ。 「今日は何文字ですか」と聞いて、助監督にいわれた数を「575」などにして自分で適当に言葉をて作って発した。
言葉に合わせて雰囲気や表情をつくるだけでよかったのだ。
その点では無問題であったが、別に問題が浮上。
スタッフは皆アクションが好きだから、カメラマンや照明さんが「オオシマは、そこは違う」などと横やりをいれてくる。
監督も、誰かれが何の達人とか、経歴をよく知ってるので一目おいていて、少しのミスでもなかなかOKがでないこともあった。
しかしこれが、オオシマの技能をおおいに向上させたといえる。
ある映画の出演では日本で起きたのと同じことがおきた。
麻薬を扱う組織の「殺し屋」といちょい役で撮影期間は1週間だと伝えられていた。
しかし1週間を過ぎても撮影に呼ばれ、「無問題!」と答えていたら、なんと気付いたら3カ月間撮影していた。
結局、組織のボスを殺し敵の組織が全員死に、なんとオオシマがボスにのしあがっていた。
つまり、オオシマの素晴らしいアクションのおかげで、毎日もらう台本が変わっていく。
そしていつのまにかオオシマが主演というようになってしまうのである。
そうこうするうち大人気となって映画撮影をかけもちするまでになる。
香港は狭く現場が近く、車で移動できる。ABCの撮影が同時進行したとしても「無問題」。
Aの撮影所にいると、Bの撮影所で「そろそろ オオシマ迎えに行ってこい」、Bで撮影をしてる時にCのプロデューサーが同じことを言う。
Cのスタッフが迎えに来てほぼ 拉致状態で連れていかれるといった具合。
ほとんど失踪レベルの苛酷さだが、オオーシマは根性と「無問題精神」で乗り切っていく。
そうした日本人女性の噂は広がり、ジャッキー・チェンと 同じ事務所に入った、いわば「ジャッキー・チェンの弟子」となって、いつしかオオシマは「女ドラゴン」の異名でよばれるようになる。
オオシマが33歳の時、アメリカ人の男性が訪ねてきて写真をみせ、「これは あなたですか?」と尋ねてきた。自分の写真だったので 「ああ そうです」と言うと、「アクション映画を撮りたいので来てみないか」といわれた。
やっと広東語をおぼえてきたのに、アメリカでイチからやるのは ちょっと無理、 「アイム ソーリー」って言った。
すると男性は「僕のこと、知っているか」と、ようやく名をなのった。その名前はなんと「オリバー・ストーン」。
この時オオシマは巨匠相手に、「無問題」以外の言葉を発したのである。
オオシマは1997年に活動拠点をフィリピンに移す。香港では大島由加里の芸名で活動していたが、この頃から「シンシア・ラスター」の別名でクレジットされるようになる。
彼女はフィリピンにおいても国民的なスターとなっている。加えてマレーシア、タイ、ベトナム等、アジアで幅広く活動を続けていた。
出演した映画は約80本、主演作品は約70本を数えている。
1998年、撮影中の事故で負傷したのをきっかけに帰国し、故郷である福岡を活動拠点としている。
福岡発アジアをテーマにLAS(ラスター・アクションスクール)を設立し、プロを目指すアクション俳優を育成している。
総合学園ヒューマンアカデミー福岡校で特別顧問を務め、アクション俳優を養成する全日制のアクションスクール」を開講した。
2014年には主演作約70本という実績に加え、故郷福岡での映画誘致活動や後進の育成の実績を評価されて「福岡市文化賞」を受賞している。