How tall he is !

「赤と黒のエクスタシー」といえば、1990年、海音寺潮五郎の歴史小説「天と地と」が映画化された時のキャッチコピー。
上杉謙信の生涯を、川中島の戦い直後まで描く物語で、上杉軍を「黒一色」、武田軍を「赤一色」に統一して合戦を描く映像美が、公開前から注目されていた。
上杉謙信役には1987年のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」でブレイクした若手男優渡辺謙を抜擢。
しかし、カルガリー・ロケ中に渡辺が「急性骨髄性白血病」に倒れ降板し「緊急オーディション」で榎木孝明を代役に立てなんとか制作・公開にこぎつけた。
長野県の川中島とカルガリー・ロケとは結びつきにくいが、実はこの映画の合戦シーンの撮影はカナダ・カルガリーで行われた。
そのため、戦場で戦う兵士のエキストラもカナダ人であった。鎧を身にまとって顔がみえないが、兵士達がみな猫背であったことが気になった。
この映画を見ながら妙なことに思い至った。
戦国時代から江戸時代、日本にやってきた外国人の身長の高さは、かなり目立ったにちがいない。
特にキリスト教禁教の時期、宣教師が潜伏するのに「高身長」は決定的なハンディだったにちがいない。
なにしろ当時の日本人の平均身長は150センチそこそこだったのだから。
2014年7月、「キリシタン屋敷跡」とされる東京都文京区小日向一丁目東遺跡で3体の人骨が出土し、調査が進められた。
「キリシタン屋敷」は、鎖国禁教政策のもとで、キリスト教の宣教師や信者を収容していた屋敷である。
島原の乱(1637~38年)の5年後、玄界灘・筑前大島に漂着したイタリア人宣教師ジュゼッペ・キアラ(~1685年)ら10人がすぐに江戸送りとなり、伝馬町の牢に入れられたことをきっかけに、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建てて収容所としたのが「キリシタン屋敷」の起こりである。
1792年の宗門改役の廃止まで使用され、20人のキリシタンが収容されたと記録に残っている。
キリシタン屋敷跡のある場所で、発見された人骨3体のうち1体は、国立科学博物館によるDNA鑑定で、西洋系男性、現在のトスカーナ地方のイタリア人のDNAグループに入ることが判明した。
さらに人類学的分析で、中年男性、身長170センチ以上であることが判明した。
キリシタン屋敷に収容されたイタリア人は、キアラとシドッチの二人しかいない。
キアラはキリシタン屋敷に禁獄中に転向し、「岡本三右衛門」と名を改めて、幕府の禁教政策に協力、比較的優遇された生活を送った。
このキアラこそが、遠藤周作の『沈黙』のロドリゴ神父のモデルになった人物で、亡くなった時は「仏教徒」として火葬されている。
遠藤周作は、「沈黙」のあとがきに実在の「岡本三右衛門」について次のように紹介している。
「本文の岡田右衛門ことロドリゴとちがって彼はシシリア生まれ、フェレイラ神父を求めて1643年6月27日、筑前大島に上陸し、潜伏布教をこころみたが、ただちに捕縛され、長崎奉行所から江戸小石川牢獄に送られた。ここで井上筑後守の尋問と穴吊りの刑を受けて棄教、日本婦人を妻として切支丹屋敷に住み、1685年84歳にて死んだ」。
一方、3体のうちのもう1体が、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(1667~1714年)である可能性が高いことが判明した。
文献史料にある「47歳で死去、身長5尺8寸9分(175・5~178・5センチ)」というシドッチに関する記述が、一体の人骨の条件にピタリと当てはまったからだ。
シッドチは、徳川6代将軍に仕えた新井白石が尋問し、『西洋紀聞』などにまとめたことで知られている。
1706年に屋久島に上陸したシドッチは「伝道の目的を重んじ、伝道用祭式用の物品をたくさんに携帯し、食料品よりもその方を多く持って上陸した」と記録に残るほどに、日本での伝道を強く願っていた人物だった。
しかし、念願の日本にたどり着いた直後に捕らえられ、死ぬまで江戸のキリシタン屋敷で獄中生活を送ることになる。
屋久島は、杉の産地として薩摩の配下にあり、役人の目が光っていた。屋久島において、シドッチが潜伏するなど不可能に近かったのである。
幸い、白石との出会いを通して、キリスト教をはじめ、地理学、欧州情勢など自らの持てる知識を伝える機会を得、白石の取りはからいによって、それなりの待遇を受けていた。
ところが白石が引退した後、「伝道をしない」という条件下である程度の自由が認められたが、シドッチはその本来の目的を忘れてはおらず、身の回りの世話をしていた役人夫妻を入信させたことで「地下牢」に閉じ込められ、そこで亡くなっている。
しかし、ふたつのイタリア人の人骨がキアラかシドッチであるかを決定的にしたのが、その「埋葬法」であった。
文献史料によれば、84歳で死去したキアラは、小石川無量院で「火葬」されたという記録が残っている。
一方、シドッチはキリシタン屋敷の裏門の近くに葬られたとされている。
今回発見されたイタリア人人骨の出土状況は、シドッチ埋葬についての記述とも一致し、棺に体を伸ばしておさめる「キリスト教の葬法」に近い形で土葬されていた。
「土葬」か「火葬」かという埋葬法の違いは決定的な意味を含んでいた。
シドッチが体を伸ばして土葬されたのは、彼が「キリシタンとして」死んだことを物語っている。
ただ二人の共通点は、キアラは筑前大島、シドッチは屋久島、それぞれ潜入直後に捕縛されていること。
二人の存在はどうにも、目立ってしまったのであろう。

外交交渉において小男が大男をやり込めた印象的な場面がある。
その第一は、1961年、中国とソビエトの関係が急速に冷えた頃、中国の周恩来とソビエトのフルシチョフが交わしたヤリトリである。
モスクワを訪問した周恩来首相の歓迎レセプションで、フルシチョフ第一書記がこう挨拶した。
「彼も私も現在はコミュニストだが、根本的な違いが一つだけある。私は労働者の息子でプロレタリアートだが、彼は大地主の家に育った貴族である」。
周首相は顔色ひとつ変えず、やおら壇上に立ってこう述べた。
「確かに私は大地主の出身で、かつては貴族でした。彼のように労働者階級の出身ではありません。しかし、彼と私には一つだけ共通点があります。それは二人とも自分の出身階級を裏切ったということであります」。
このやりとり、明らかに周恩来に軍配があがった。
もう一つの場面は、小村寿太郎が、北京の代理公使であった頃、清国の李鴻章と対面した場面。
巨漢の李は小村に対して「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか」と背の低さを揶揄された。
小村はそれに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国では”大男 総身に智恵が回りかね”などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返した。
余談になるが、中国人には外交交渉など重要な宴席でみせる面白い仕草がある。
食事の場で、お酒を相手から注がれている最中、グラスの横で数回「トン トン トン トン トン」と、片手全部の指でテーブルを叩く習慣である。
ドリーム・カム・トゥルーの名曲「未来予想図Ⅱ」の歌詞には、バイクで自分を送った後、彼が曲がり角で五回ライトを点滅させてくれるサインがあった。
それは、ア・イ・シ・テ・ルのサイン、だとか。
まさか、中国人の「トン トン トン トン トン」はア・イ・シ・テ・ルのサインではなかろうが、これは中国のひとつの故事に基づくものなのだそうだ。
古来中国の皇帝が一般国民の生活を視察する為、市民の格好に変装し街に出てレストランを覗きに行った時のことである。
食事の場で、皇帝は一般人を装っているため、隣のお付きの者に気軽にお酒を注ぐ。
通常ではあり得ない行為に、お付きの者は大そう驚き恐縮した。
皇帝が一般人を装っいる手前、お付きの者は、その場で感謝の意を大袈裟には表現できない。
その時、付き人は片手全指でテーブルの上を上下に叩いた。
指を自分の全家族と例え、皇帝に最敬礼をしている仕草をテーブル上で表現したとされる。
そして中国で、この仕草を簡素化したのが、乾杯の際に軽くグラスを円卓テーブル上を叩きコツんと音を鳴らす仕草になったのである。
そういえば、ロシアでも皇帝が扮装して外国に行ったケースがある。より正確にいうと、自らが派遣した使節団に変装してまぎれこんで参加したのである。
ロマノフ朝ロシア発展の基礎を築いたのがピョートル1世(位1682~1725)で、彼の時代から「ロシア帝国」とよばれる。
ピョートル1世は、真摯にロシアを近代化し、ヨーロッパ風の国に仕立てあげたいと考えた。
そこで世界の趨勢にしたがい、ロシアのとるべき進路は重商主義と考え、そのためには海外貿易を活発化しなければならない。
大帝はその手始めに、ヨーロッパ風の国造りのためにはヨーロッパ諸国の研究をしなければいけないと考えて、1697年、総勢250名の「大使節団」をヨーロッパ諸国に派遣した。
この時、生来じっとしていられないピョートルは、随行員ピョートル=ミハイロフという変名を使い、「身分を隠して」使節団に加わっている。
各国を視察する中、ピョートル1世はオランダで「造船所」がすっかり気に入ってしまう。
そして、大帝自身が「造船マニア」となってしまい、なんと「一職工」として就職してしまったのである。
身分を隠して働きはじめるが、2メートルを超える長身の男はロシアの皇帝にちがいないと噂が広まり、見物人が増えてだんだん仕事にならなくなって辞めざるをえなくなった。
大帝は「船造り」が大好きで、毎日が夢のように楽しく、毎晩のどんちゃん騒ぎの宴会を繰り広げ、宿屋から損害賠償を請求されることもあったという。

フランスの大統領の中でも、ドゴール大統領(1958年~64年在位)は、元反ナチス・レジスタンスの英雄であり、身長195センチの大男であった。
そしてドゴール大統領は、本人がすべて自覚しているかは定かではないが、しばしば暗殺の標的になったという。
イギリス人作家フレデリック・フォーサイスは、1960年代初頭にフランスに特派員として駐在しており、多くの情報源に接する中で小説の構想をえて「ジャッカルの日」(1971年)を書き、映画化された。
当時のフランスは、アフリカのアルジェリアを植民地としており、独立を果たそうとするアルジェリアと戦争になって泥沼状態に陥った。
フランス本国はインドシナ戦争に敗退し、相次ぐ爆弾テロや残虐になる一方の戦争に「厭戦気運」が広がり世論は分裂していた。
1958年、本国政府の弱腰に業を煮やした現地駐留軍の決起によって「第四共和政」は崩壊し、フランスの栄光を体現するシャルル・ド・ゴールが大統領に就任した(第五共和制)。
しかし、政治家としてのドゴールは戦費拡大による破綻寸前の財政状況から、アルジェリアの「民族自決」の支持を発表したのである。
1961年の国民投票の過半数もそれを支持し、翌年、戦争は終結した。
しかしアルジェリアの現地軍人やフランス人入植者の末裔(コロン)たちはフランスに引き揚げたものの、アルジェリアでOAS(秘密軍事組織)という組織を作ってテロ活動を続け、フランス本国でも政府転覆を狙って、ド・ゴール大統領へのテロ活動を行った。
それに対抗して、OASにはフランス官憲のスパイが入り込み、メンバーや活動の実態が判明して官憲の容赦ない実行部隊により壊滅させられるに至った。
1963年、内部情報が察知され仲間がつぎつぎと処刑される状況下、OSA幹部はオーストリアの潜伏先で、「組織外」のプロ暗殺者を雇うことを決める。
そして、超一流のスナイパー(狙撃手)、要人暗殺の実績も豊富なイギリス人男性「ジャッカル」が暗殺を請け負うこととなる。
OASが組織をあげてフランス各地で銀行などを襲い資金を集める間、ジャッカルは図書館でド・ゴールの資料を徹底的に調査し、1年のうちに1度だけ、ド・ゴールが確実に「群衆の前」に姿を見せる日を見つけそれを「決行日」(ジャッカルの日)と決めた。
ジャッカルは、全ヨーロッパを移動しながら必要な特注の狙撃銃、偽造の身分、パスポート、衣装、入出国経路などをぬかりなく用意する。
一方、フランス官憲は、ローマに移動して籠城したように動く様子を見せないOAS幹部に不気味な気配を感じていた。
そして1人のOAS幹部を拉致・拷問し、OASが外部の「ジャッカル」とよばれる暗殺者を雇ったことを突き止める。
そして捜査は実績の豊富なルベル警視という老刑事に一任された。
ルベル警視は、その個人的な伝手も用いて、ジャッカルの正体を洗うべく各国の警察に情報提供を依頼して、イギリス人であることを突き止める。
また、イギリス警察も「偽造戸籍」を発見し、「ジャッカル」とよばれる男の容貌や暮らしぶりなどが判明していく。
その情報を元に、ルベル警視はフランス全土の警察・憲兵らを指揮し「不審者の入国」を阻止しようとする。
しかしそれは、ジャッカルが車の内に銃を隠し、偽造パスポートを使って南仏から侵入した後のことだった。
映画化された「ジャッカルの日」(1973年)では、このあたりから、物語は一気に緊迫感を増し息詰まる展開になっていく。
そして変装したジャッカルはパリにまんまと潜入することに成功し、その日が来るのを待つ。
パリでは全国の警察を動員し、裏町の隅から隅まで徹底した大ローラー作戦を行うが、ジャッカルは見つからない。
ド・ゴール大統領は、暗殺の危険を訴える側近の声に耳を貸さず、例年通りパリ市内で行われるあるパリ解放記念式典に出発する。
つまり、ジャッカルとルベル警視の対決は、ド・ゴールが姿を現す「その瞬間」にまでもつれこむ。
ジャッカルは「傷痍軍人」を装いアパートの一室で、松葉杖に偽装した狙撃銃を組み立てる。
そしてレンズの中の壇上の大統領の動きを追いつつ、大統領が静止した瞬間に弾丸を発射する。しかし銃弾は外れてしまう。
射撃の名手が「大きな標的」をはずした点につき、映画では説明がない。しかしそこにはラテン文化とゲルマン文化の違いが隠されていた。
ジャッカルは、フランス政府やドゴールの行動などあらゆる情報を1年間調べ上げたにもかかわらず、その文化の違いを学んでいなかった。
ドゴール大統領は、勲章の授与と軽いキスのために屈んだ。イギリス人であるジャッカルには、こういうラテン系の習慣を知らなかったのである。
想定外の事態にジャッカルは弾丸を詰めなおすが、このとき、傷痍軍人が非常線を破ってアパートに入った情報を得たルベル警視は彼こそジャッカルとにらむ。
そして、部屋に突入しジャッカルを撃ち果たした。
ジャッカルがイギリス人であることは政治的判断から伏され、パリ市内の墓地に埋葬された。
この物語はフィクションであるものの、この物語に近いことが実際にあったのではと思わせるほどの迫真性があった。
また、フランス・オーストリア・イギリスが絡んだ情報のやりとりなど、どこかフランス革命の一面を思い起こさせる点も、面白い。