「法の支配」及ばず

「法の支配」は、国王の権力の暴走を抑えるよう、国王の権力行使を法で制限することから生まれた。
その結果、人々の「基本的人権」が守られるということに意義がある。
現代民主国家にあって「王」にあたるのが「多数派」といえよう。なにしろ、民主主義(デモクラッシー)は、「デモス(多数)の支配」を意味するからだ。
憲法は、一般の法律よりも改正が困難なので、多数派といえども変えることは容易ではない。それによって少数派の人権を守ろうとする仕組みである。
ところで「少数派の人権」とわざわざ断ったのは、多数派の中にあって埋没したり、見落とされがちな「生きにづらさ」に気が付くことにはじまる。
最近では、LGBTの権利がそれにあたる。
一方で、ハンセン病の隔離政策やアイヌの人々の同化政策などの、日本政府が行った行政上の「過ち」がようやく公式に認められるようになった。
しかし現代日本で「法の支配」が、いまだに実現していないのが、「在留外国人」の扱いである。
すなわち、憲法の「最高法規性」が行き届いていない領域といえよう。
それは2021年3月、スリランカ人女性が収容されていた「名古屋入管」で死亡したことで、ようやく世の注目をあびることとなった。
「基本的人権」は、自然法を土台としたものであり、人間が生まれながらもつ権利なのであるから、それがたとえ違法に滞在している外国人に対しても同様に保障されるべきものである。
その多くは望んで違法滞在しているわけではなく、致し方なく滞在せざるをえなくなった人々である。
日本は1981年に国連の「難民条約」を採択しているにも関わらず、その基準は出入国管理局の裁量に委ねられており、「難民」の範囲があまりにせまく解釈されいるようだ。
海外では千人、万人単位で「難民認定」がなされているのに、日本ではここ10年間40人程度の「難民認定」で推移している。
申請者に対する認定率は、なんと04%なのである。
1970年代、ベトナム戦争終結に前後してインドシナ3国(ベトナム・ラオス・カンボジア)では社会主義体制に移行したため、そうした体制になじめない多くの人々が「インドシナ難民」となって国外へ脱出。
彼らは、いわゆる「ボートピープル」として海上を行くあてもなく彷徨った。
1975年5月その一部がボートピープルとして、日本にも船が漂着し、この年を「難民元年」とよんだ。
その年には9隻126人、翌年には11隻247人だったが、以後急増し、中には中国人などの「偽装難民」がいることも判明した。
ともあれ、東シナ海の荒波を、時に出没する海賊の餌食になりながら、命からがら日本に漂着した人々であった。
しかしそこに、日本人の歴史上の「避難民」コミュニティとの出会いがあった。

現在の長崎県では、大村藩の藩主・大村純忠が16世紀に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名、ドン・バルトロメウとなった。
5万人ともいわれる領民もキリスト教徒に改宗したが、その後は一転、大村藩は江戸時代を通してキリスト教を弾圧する側に回った。
長崎県の五島列島は、大小140あまりの島々が連なり、江戸時代のキリシタン禁制下でも信仰を守った「潜伏キリシタン」を先祖にもつ人々も多い。
多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、九州の外海(そとめ)地方(現・長崎市の北西部に位置)を離れ、たくさんの小舟で海を渡り、五島の島々に新天地を求めたのだ。
2018年に世界遺産となった潜伏キリシタン関連資産が、九州本土だけでなく五島の島々の集落を含むのにはこうした歴史的背景があってのこと。
とはいえ、五島が安全地帯だったわけではなく、「五島崩れ」と呼ばれる苛烈なキリシタン迫害が行われた。
その結果、島の多くが仏教徒に戻っているが、潜伏キリシタンをルーツとするカトリックのコミュニティも数多く存在した。
ちなみに、1990年1月、「天皇の戦争責任」に言及して右翼により撃たれて亡くなった長崎市の本島市長は、五島列島の江袋出身のカトリックである。
現在、日本で難民収容センターは五か所あるが、かつてベトナム難民を多く迎いいれた大村に出入国在留管理庁の「大村入国管理センター」がある。
迫害などを逃れて日本に助けを求めた結果、上限もなく何年も収容されている人々がいる。
1950年に大村に「収容所」が設置されたのは、もともとは在日の朝鮮人の収容・送還の為だった。
北朝鮮出身で、日本人のヒーローとなった力道山は本当の出自は隠され、長崎県大村出身ということになっている。
関脇にまでなりながら、力道山が相撲界を去った理由は、親方に日本では朝鮮人は横綱になれないということを言われたことがきっかけとなったという。
日本の「入管行政」の根底に、取り締まる側に外国人を敵視する感覚が、いまだに染みついているように思われる。
戦前戦中は、特別高等警察が、日本の植民地だった朝鮮の人たちを厳しく監視し、独立の動きを摘発した。
戦後になっても、入管行政の最大のターゲットは朝鮮人であった。
指紋を採ることまでして、徹底した管理をしていた。現在の在留資格を失った外国人に対する処遇は、その時代のものの考え方から一歩も脱していない。
ところでNHKの「ファミリーヒストリー」で、歌手・前川清の祖先の話が放映されたが、前川家は長崎県西彼杵郡外海地区にあり、遠藤周作が 江戸時代初期のキリシタン弾を描いた小説 「沈黙」は、この外海地区が舞台になっている。
キリスト教の禁止令が出てから明治6年までの250年以上ひそかに信仰を続ける潜伏キリシタンが暮らしていた地で、そのシンボルが 出津(しつ)教会。
国の重要文化財に指定され世界遺産として登録されているカトリック教会である。
前川家の記録に残る前川七平は 外海地区から80キロの場所にある田平(たびら)天主堂の建設に大工の一人として携わっていた。
七平の甥にあたるのが1982年生まれの 前川代作で、前川清の祖父にあたる。代作は七平から大工仕事を仕込まれ、代作が一家で移住したのは長崎市水の浦町。近くに 現在の三菱重工業長崎造船所がある場所であった。
前川代作は大工としての腕を存分に生かし、その長男・海蔵は 学校を出たあと父代作と共に造船所で働いた。
前川清の父海蔵の名が出津教会の洗礼台帳にあり、洗礼名は 「ヨゼフ」とあった。
海蔵はよく人前で浪曲を披露して人々をうならせていた。前川代作や海蔵が通っていたのが、長崎の「飽(あく)の浦」教会であり、教会には海蔵が結婚式を挙げた時の記録が残っている。
1938年3月に結婚した相手は 今村ハツ。長崎市内の病院で看護師をしている女性で、前川 清の母となる女性である。
ハツは夫の前川海蔵と同じ、現在の長崎市外海地区の出身である。今村家は この山の中腹で農業を営み、彼女もまた出津教会に属した。
10代のハツが 住み込みで働いていた長崎市の外科病院の井出病院。
看護師のリーダーとして献身的に患者に向き合いあていた。
そして1948年に授かったのが前川清で、「セバスチャン」という洗礼名をうけている。
8月9日長崎には 原爆が投下されるが、ハツや子供たちは外海地区の実家に疎開していたために、被災することはなかった。
その後前川家は、佐世保市内に移り、清も幼い頃から母ハツに連れられ、俵町教会に通った。
前川清は母親が亡くなり教会のお葬式の時に、人々が多く来ていることに驚き、母親がいかに多くの困った人々を助けたかを知っ知った。
今村ハツは、教会での活動の中で、ボートピープルの人々との接点をもち、その支援の為の活動もしていたという。
ところで、「難民」とは迫害から逃れるために国境を越え、外国へ逃げた人々のことを言う。
しかし国境を越えられず、国内に留まる「避難民」も大勢いて、彼らには「難民条約」が適用されず、その国の法律に従わざるを得ない。
つまり難民と認定されていない「国内避難民」も、置かれている困難な状況は難民と同様である。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、紛争や迫害によって故郷を追われた難民を国際的に保護し、難民条約に従って支援を行っている。
緒方貞子は、1991年から2000年まで国連難民高等弁務官として活躍された。
その緒方貞子の大きな功績のひとつは、国外ばかりではなく「国内避難民」の人権を「難民」と同じように保障すべきとした点にある。
江戸の禁教時代の五島のキリシタンた達こそは、そうした「国内避難民」にあたるといえよう。

現代の世界は「難民の時代」といってもよい。世界情勢からみても時代にそぐわなくなった日本の「難民認定制度」の抜本的な見直しが必要な時機である。
ただ、一国が定住外国人を受け入れるということは、単に入国を許可すれば済むというものではない。
当該外国人の入国後の生活に最低限度の見通しがたっていなければならない。
例えば、今の医療保険制度は多くの外国人を対象にすることを想定していない。扶養家族が増えれば財政負担につながることもあるが、「受入れの体制」そのものを整備してこそ「難民政策」なのである。
日本の外国人労働者の受け入れの実態をみるかぎり、経済界が望むのは「安い労働力」であって、社会保障負担が伴う「国民」の増加ではないようにみえる。
政府は国際貢献の名のもと、技能実習制度を設けた。それは、発展途上国の人々が技術をマスターして自国の発展に活かすという趣旨で生まれたものであったが、日本では「人手不足」を補う安価な働き手を確保する手段に成り下がっている。
非営利の事業協同組合や商工会が「監理団体」として受け入れ、傘下の中小・零細企業や農家で実習させるのが一般的。
監理契約を結んだ送りだし国の会社が現地で実習生を募集する。
日本の管理団体や受け入れ企業の関係者がベトナムを訪れた際、宿泊費や夜のカラオケ接待の費用など送り出し機関に要求することも少なくない。 さらに機関設立の認可や年一回の監査の際、当局者に賄賂を支払っているのも半ば公然の事実である。
こうした「コスト」が積み上げられ、実習生に転嫁されるため、手数料は上限額をはるかに超える額にふくれあがる。
ベトナム人の技術実習生一人に100万円もの負担を強いられている。
この制度の下、去年までの3年間になんと69人の技能実習生が死亡している。
その際、公文書改竄、残業は月100時間以上に上るなど「過労死ライン」を超える劣悪な労働環境が報告されている。
また安倍政権下、それとは別に単に「人手不足」解消のために最長5年間は滞在できるたな「在留資格」をもうけた。
それが、「特別技能」という在留資格で、単純労働は受け入れないという一貫した政策の下、日本語試験に合格した者や労働者にも、製造・建設・介護など12業種に最長5年間の在留期間をもうけた。
家族帯同は原則禁止なので、移民を認めているわけではない。
技能実習制度の5年を経て「特定技能」の資格を得て最長10年間、日本で働くことができる。

定住難民の受け入れは、難民政策の根幹というべき事項であり、定住受入れの部分を含まない難民政策は、その名に値しない。
日本の難民認定制度は1982年に開始、難民認定を求める外国人の数は増えており、昨年度は初めて3千人を突破した。
しかし、認定者の数は極めて少なく、申請者3260人に対して、認められたのは6人だった。
宗教弾圧やカースト制などの人権侵害に対する理解の違いがあり、日本では難民の定義が国際的な標準より極めて「狭い」と指摘されている。
在留外国人の人権については、日本がいまだ「難民条約」を批准しなかった時代の判例がいまだに生きている。
それは1978年の最高裁による「マクリーン判決」で、これが根拠となって「在留外国人」の権利を認めない判断が繰り返された。
この判決は、ベトナム戦争の反対デモに参加するなど政治活動のデモに参加するなど政治活動の自由を訴えたアメリカ国籍のマクリーンさんに対して、最高裁が「外国人に対する憲法の基本的人権の保障は在留制度の枠内で保障される」という判決を下し、在留期間の更新を認められなかった。
同庁によると、強制退去に関する裁判は2019年に約150件あった。個人の尊厳を根拠に在留許可を求めても、「マクリーン判決」を根拠に拒否された。
「マクリーン判決」は、出入国管理法を「憲法の上」に位置づけるともいえる内容で、結局「在留資格のない外国人には人権がない」ということを意味する。
このことが、在留資格を失った外国人が恣意的に収容されたり、仮放免で社会にでても就労して生計をたてることが許されなかったりする状況にお墨付きを与えてきた感がある。
まず憲法があって条約があって国内法がある。行政は条約を含む法に従い、適正手続にしたがって判断するのが「法治国家」である。
入管施設は本来、在留資格がない外国人が出国するまでの短期間、待機するするためのものである。
しかし実際には、強制送還を望まない人たちを長期間、閉じ込めて精神的、肉体的に追い詰め、「意思を変えさせようとする手段」として収容が行われてきた。
しかも、入管当局は裁判所の審査を受けることなく、自由な裁量で外国人を無期限に収容できる。
こうした在り方は、明らかに「法の支配」が届いていないということがいえよう。
入国管理事務所の管轄が、法務省(ミニストリー オブ ジャスティス)にあることにも留意したい。
さて個人的記憶として、ボートピープルとの出会いは、福岡市博多区のベトナム料理の店「南十字星」。
今から30年以上前のことだが、それまでベトナム料理を食べたことのなかった自分には衝撃的であった。
そのレストランの一角に、オーナーが日本に漂着した際の新聞記事に掲載された写真が貼ってあったのだ。 博多の繁華街からは少し離れているが、その店は今も続いている。
「九州ベトナム友好協会」(2008年設立)の下、2013年には福岡県立の4高校が修学旅行を実施し、相互の友情も生まれたことであろう。
アップルの創業者スティーブ・ジョブズもシリア難民の子で、そんな逆境を跳ね返すパワーに閉塞感ある日本の刺激となることも多々あるのではなかろうか。